―ヴァナキュラー建築のレガシー
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近代建築のグローバルヒストリー 02
2-1 アフリカの近代建築-サブサハラ
布野修司
「未開の地」
人類(ヒト科,ヒト亜科,ヒト族,ヒト亜族,ヒト属)は,長い進化の過程で様々な能力を獲得する。ヒト上科からホモ・サピエンス(現生人類)が生まれる過程はホミニゼーション(ヒト化)と呼ばれるが,ヒトは,まず「二足歩行」によって物を「手」で持って長い距離を移動することができるようになる。そして,「脳の大型化」「道具の使用」「体毛の喪失」「言語の獲得」といった適応形質を身につけていく。建築する能力すなわち人工的に空間を創り出す能力は,ヒト科の進化の過程で,ホモ・サピエンスのみが獲得した能力である。建築する能力とは,意志を共有するための言語能力すなわちコミュニケーション能力,抽象化・概念化の能力,文字・図像による表現能力,すなわち,予め空間をイメージし,2次元の図面(絵,表象)として表現する設計能力,そして3次元の空間を創り出す建設能力である。
ヒト(ホモ)属は,およそ200万年前にアウストラロピテクス属から分化し,ホモ・サピエンス(現生人類)は30万~20万年前に出現したとされる。その進化の舞台となったのがアフリカである。ホモ・サピエンスの起源については,アフリカ単一起源説と多地域進化説が唱えられてきたが,アラン・ウィルソン(1934~1991)が,1980年代末に,ほとんどの生物に含まれ,その変異パターンを追跡することで,母系統の祖先を辿ることが出来るミトコンドリアDNA(ミトコンドリア・ゲノムmtDNA)に着目したジェノグラフィック(遺伝子系統樹)分析によって,すべての人類は母方の家系をたどると,アフリカに約12~20万年前に生きていた一人の女性にたどりつくという「イブ」(ミトコンドリア・イブ)仮説を提出して以降,雄のみが遺伝によって組み換えられず世代から世代へ伝えられるというY染色体に着目して,ほぼ同時代の「人類共通の男系祖先」を仮定する「Y染色体アダム」仮説も加わり,アフリカ単一起源説がほぼ揺らがない仮説になっている。その誕生の地については,考古学的遺構から東アフリカ,エチオピア周辺と考えられてきたが,その後,北アフリカまた南部アフリカからホモ・サピエンスの化石が出土したことから,アフリカ全域に分散した複数集団が遺伝的・文化的に交流しながら徐々にホモ・サピエンスに進化したというパン・アフリカ説すなわちネットワーク的進化説が有力である。アフリカに誕生したホモ・サピエンスは誕生すると,7万年前頃アフリカを出立し(出アフリカ),グレート・ジャーニーと呼ばれる移住を開始する。採集狩猟によって食糧を獲得できるエクメーネ(居住可能地域)をたどりながら1.5~2万年前には南アメリカの南端に達していたとされる。
しかし,その後のアフリカについては,といっても以上の知見はごく最近の知見にすぎないが,その歴史が全体として書かれることはつい近年までほとんどなかった。「アフリカには歴史はない」「アフリカは世界史の一部ではない」と書いたのはドイツの哲学者ゲオルグ・ヘーゲル(1770~1831)である。「ヘーゲル・テーゼ」(『歴史哲学講義』1837)と言われるが,アフリカ社会は「文字を持っていなかった」すなわち「理性を欠如」してきたと断言する。ヘーゲルにとって歴史は「世界に対する理性の介入によって引き起こされる変化の過程」であり,アフリカにはそもそも歴史は存在しないというのである。ホモ・サピエンスの基本的な能力として,文字を持つかどうかは関係がない。コミュニケーション能力として口承によって伝えられる歴史も確認される。予め建築をイメージする能力も文字とは関係ない。図像による表現もある。アフリカ歴史学は,『無文字社会の歴史』(川田順造1976)を解明する一方,さまざまな文字が使われてきたことを明らかにしつつある。
アフリカとはそもそも何か。アフリカの語源については定かではないが,古代ローマがカルタゴ(チュニジア)周辺につけた地名でアフリAfri族(ベルベル語)の地Africaに由来するという。フェニキア語のafar(土・塵),ラテン語のaprika(陽光の地)に由来するという説もある。いずれにしろ,北アフリカの特定の地域を呼んだ地名であった。アラビア語 إفريقية(ʾifrīqīyah)に由来するというが,イスラーム世界でチュニジア周辺の行政地をそう呼んだもので,アラビア語の方が後である。
アフリカが,ひとつの大陸であることが認識されるのははるか後世であり,15世紀末から16世紀にかけてヨーロッパ諸国の海外進出によって,アフリカが回り込める陸塊であることが発見されて以降である。しかし,中世ヨーロッパの世界図TOマップには, Afrikaの名前が書かれ,ハム族の領域とされる。すなわち,ヨーロッパのキリスト教の世界観では,世界はアジア,ヨーロッパ,そしてアフリカの3つに分割されていると考えられた。ただ,サブサハラ(サハラ以南)はほぼ未知であった。アル・イドリースィー(12世紀),イブン・ハルドゥーン(14世紀)などのイスラーム地理学者も,地中海沿海を文明圏として,サブサハラは別世界としている。TO図は,象徴体系であり,アジア=楽園(エデン),ヨーロッパ=キリスト教世界,アフリカ=周縁・異界という位置づけである。実際に知られていない広大な土地にアフリカという名前が先に与えられ,地理上の発見とともに大陸全体がそう呼ばれるようになるのである。
こうして,アフリカ大陸は,「歴史以前の地」「未開の地」「暗黒大陸」などと呼ばれ,人類が生まれた地であるにも関わらず,人類史から最も遅れた大陸と見なされてきた。アフリカは国家形成以前,都市形成以前の段階にあると長い間思われてきたのである。,今では,サヘル地域には8世紀頃のガーナ以降,19世紀のソコトに至るまで諸王国・帝国が継起したこと,また中部アフリカのコンゴ王国やクバ王国,さらに東南アフリカのジンバブエ王国などの存在が知られている。ヨーロッパ列強の植民地支配からアフリカ諸国が独立を果たした1960年代以降,アフリカの歴史を植民地化以前に遡って掘り下げる試みが続けられている。ホモ・サピンスの起源に遡って人類史のオールタナティブを突きつけるのがアフリカである。
プリミティブ・アーキテクチャー
世界史の通常の時代区分によれば,アフリカの歴史は「植民地化以前」「植民地期」「植民地期以後」あるいは「古代・中世・近代」に区分されることになる。近代建築の歴史を問う本書では「植民地期」以降,すなわち19世紀以降を扱うことになる。先進諸国では,既に産業革命が既に進行中であった。しかし,アフリカにはごく少なくなったとは言え,今日でも採集狩猟民が存在しており,産業革命以前の住居に住み続けている。アフリカだけではない,アフリカ諸国が植民地支配を脱して独立した1960年代にも、地域で産する建築材料によって建て続けられてきた建築は世界中に存在してきた。
バーナード・ルドフスキー(1905~1988)が,ニューヨーク近代美術館MoMAで「建築家なしの建築」と題する展覧会をキュレートしたのは1964~65年である。解説のない200枚の白黒写真で構成されたその展覧会は,近代建築のプロモーションを担ってきたMoMAで開催されることにおいて大反響を呼んだ。ルドフスキーは,『建築家なしの建築』(1964, 1976)の冒頭に,世界中に建てられた建築のうち建築家が関与した建築は1割に満たないと書く。世界中の素晴らしい建築のうち建築家が関与したものはほんのわずかにすぎないというのがその強烈なメッセージであった。彼には別に『驚異の工匠たち』(1977, 1981)があるが,ほとんど全ては工匠たちによって建てられてきたのである。「建築家なしの建築」は「ヴァナキュラー建築」と呼ばれるようになるが,ヴァナキュラーとは,根づいていること,自家製,家で育てたという意味である。「土着建築」「風土建築」「伝統建築」として建築界では一般的に用いられるようになる。この「ヴァナキュラー建築」の世界が,建築家によって鉄とガラスとコンクリートの近代建築に置き換えられてきたのがこの150年程の歴史である。
アフリカ中央部の赤道の南北は巨木の林立する熱帯雨林であり,その南方また東方にはウッドランド(乾燥疎開林)そして樹木の少ないサバンナが続いている。約2万年前の最終氷期最盛期には北半球には大規模な氷河が発達したが,アフリカでは激しい乾燥化が進み,サハラ砂漠は現在よりも数百km南下し,熱帯雨林の大部分がウッドランドやサバンナになった。そして完新世になると,温暖湿潤な気候になり,熱帯雨林は急速に回復し,サハラ砂漠は縮小し,1万年前から8000年頃には,その南限は北回帰線まで北上する。「緑のサハラ」の時代があったのである。しかし,4500年前頃になるとサハラは再び乾燥化する。すなわち,アフリカは激しい気候変動に翻弄されてきたのである。
建築の起源は,外敵から身を守るための,また,日々変化する自然,風雨,寒暖などを制御するための構築物(シェルター)である。ホモ・サピエンスすなわちわれわれ人類は,身近に利用可能な自然材料(土・粘土,石・岩,木・草・竹・アシ,骨・糞・毛・皮・貝)を用いて,珠玉のような住居そして集落を(図3-2①)、またそれぞれの地域にユニークな都市を建設してきた。建築や都市は基本的に「地」のものである。「地」とは,地域の自然生態系に拘束された「特定」の「場所」のことである。「建築家なしの建築」「ヴァナキュラー建築」を「プリミティブ・アーキテクチャー」と呼んできた。すなわち原始的であり,素朴であり,幼稚であるというニュアンスがある。しかし,「プリミティブ」とは「原初的」であり,根源的であり,基本的という意味合いもある。

図3-2① ソンガイ村 ニジェール川 マリ Colin Duly 1979
「プリミティブ・ハット(原始小屋)」という概念がマルク・アントワーヌ・ロージェによって提起されたのは18世紀半ばである(『建築試論』1753)。過剰な装飾と宗教的図像で溢れるバロック建築に対して,建築はその起源である「素朴な小屋」に帰り,建築創造の根本的基盤として人間と自然環境との人類学的関係を見直すべきだというのである。
アフリカ分割
15世紀に入って,海外進出に先鞭をつけたポルトガルは,アフリカ沿海部に次々に植民拠点を建設していった。アゾレス(1427),ボジャドール岬(1432),ヴェルデ岬(1444),ギニア(1460),ミナ(1471),サン・トメ(1475),コンゴ川(1483),アンゴラ(1483),喜望峰(1488),ナタール(1497),ケリマネ川(1498),メリンデ(1498),マダガスカル(1500),オルムズ(1507)などである。その後,オランダ,イギリスなどが後を追うが,19世紀末まではアフリカ内部へ侵攻することはなかった。ヨーロッパ諸国の関心は,専ら奴隷交易であり,象牙などの珍品,また若干の補給物産も内陸部の王国との取引で賄え,内部に侵攻する必要はなかったのである。
しかし,18世紀末以降,アフリカ内部へ眼がむけられるようになる。ひとつには,イギリスで奴隷貿易を禁止する奴隷貿易法(1807),そして奴隷制度廃止法(1833)が成立したように,奴隷制度反対の流れが大きくなったということがある。そしてもうひとつには,産業革命の進展により,アフリカ大陸は原料の供給地,また,工業産品の消費地とみなされるようになったということがある。沿海部の交易拠点から内陸部への侵攻は18世紀後半から徐々に行われたが、ヨーロッパ人として初めてニジェール川を探索し、トンブクツーの存在を確認したのはイギリス人のマンゴ・パークである(1795)。19世紀半ばには,デイヴィッド・リヴィングストン(1813~73)、ヘンリー・スタンリー(1841~1904)らイギリスの探検家が内陸部の探検を行ってきた。
そして,1880年代から第一次世界大戦前の1912年にかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化は「アフリカ分割」と呼ばれる。1912年にイタリアがリビアを獲得したことによって、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国(イギリス,フランス,ドイツ,ベルギー,イタリア,スペイン,ポルトガル)によって分割支配されることになるのである。リベリアはアメリカ合衆国の保護国であり、エチオピアも1936年にイタリア領東アフリカとして実質的な植民地となった。主だった植民地は,フランス領アルジェリア,イギリス領南アフリカ,南ローデシア(ジンバブエ),東アフリカ(ケニア),ドイツ領南西アフリカ(ナミビア)である。
「アフリカ分割」でその先陣を争ったのは二大植民地帝国イギリスとフランスである。両国はナポレオン戦争(1799~1815)以降エジプトの支配権をめぐって争ってきたが,フランスの協力で完成したスエズ運河(1869)の株を購入したイギリスがエジプトを保護国化し(1882),さらに南のスーダンへ侵攻していった。イギリスは,それに先駆けて,フランス革命軍の侵攻を受けたオランダのケープ植民地を奪取しており(1815),南アフリカの内陸部に侵攻しつつあった。イギリスは,エジプトとケープ植民地の南北二つの拠点をつなぐように植民地を拡大していったのでアフリカ縦断政策といわれる。
文明化の使命とセグリゲーション

異質な文化が接触する場合,受容―排斥/同化―異化/融合・結合・複合―併存・共存・両立など様々な相互反応が行われ,時間の経過とともに文化変容が生起する。徹底的に対立し戦争が起こる場合もあれば,お互いの文化を受け入れながら共生社会が生み出される場合もある。しかし,圧倒的に優位に立つ西欧列強による植民地化の場合,西欧的な価値観を絶対的なものとしながら,現地の住民を安価な労働者として扱い,未知で未開発の資源を搾取する体制を作り上げていくことになる。当然,激しい抵抗が行われるが,植民地化された諸地域が独立するのは,第二次世界短戦後,1960年以後を待たなければならなかった。
アフリカは,植民地初期において,建築・都市のあり方については近代建築・都市計画のまさに実験場となった。各地域の現地社会との関係また気候風土・自然生態環境への対応は近代建築の基本的問題であり続けている。
イタリアは,スエズ運河が開通すると(1869)、エチオピアに介入し占領する(1885)。エチオピアはエリトリアをイタリアの支配に委ね,アスマラはイタリア人移民が人口の60%を占めることになる。イタリア首相ムッソリーニは「第2のローマ(ピッコラ・ローマ)」を目指し、1920〜1930年代にイタリアの新進気鋭の建築家達によってアール・デコ建築や未来派建築が多く建設された(「アスマラ :アフリカのモダニスト都市」(図3-2②)として世界文化遺産登録 2017)。しかし,アスマラは例外的な事例と言っていい。
アフリカ植民地のなかでも経済的重要性でも白人入植者の数においても突出したのは南アフリカである。1840年代からのサトウキビ・プランテーション,1860年代からのダイヤモンド採掘、1880年代からの金の採掘が開始され,大量のインドや中国からの契約労働者や内陸部からの移民労働者が導入され,大きく発展するのである。この南アフリカを拠点に活躍した建築家がハーバート・ベイカー(1862~1946)である。ベイカーはAAスクールそしてロイヤル・アカデミー・スクールで建築を学び,ロンドンの建築家事務所(1882~1887)を経て,生まれ故郷のケントに自分の事務所を開設したが(1890),1892 年には南アフリカへ向かう。セシル・ジョン・ローズ(1853~1902)からテーブル・マウンテン中腹のローズ邸と南アフリカ首相官邸の改築を依頼されるのである。ベイカーの後ろ楯となったセシル・ローズは,ダイヤモンド鉱山,金鉱山を独占して巨万の富を得た富豪であり,ケープ植民地首相(1890~96)にもなり,中央アフリカを征服し,自らの名に因んで「ローデシア」と名づけた植民地政治家である。ベイカーは,1913年に帰国するまで20年にわたって南アフリカを拠点に建築活動を行うが,南アフリカのみならず,ケニア,ジンバブエ,また,イギリス,フランス,ベルギーなどヨーロッパでも,さらにインド(ニューデリー国会議事堂),オーストラリアでも数々の作品を残した。基本的には新古典主義の様式建築であるが,代表作とされるのはプレトリアの南アフリカ連合 (1910 年 5 月 31 日設立) の政府庁舎ユニオン ビルディング(図3-2③)である。ベイカーはナイトの称号を授与され (1926),王立アカデミーの会員に選出されに英国王立建築家協会RIBAの王室金メダルを受賞している(1927)。ベイカーら英国人建築家が植民地政府の諸施設や白人入植者のための邸宅を設計する一方,大量に移入した労働者が居住したのはバラック建ての労働者住居のコンパウンド(囲い地:カンポンに由来)である。特に,金鉱,ダイヤモンド鉱の労働者は,柵で囲われ,警備員や警備犬で巡回監視される刑務所のような強制収容所であった。

南アフリカそしてナイジェリアで仕事をした建築家・都市計画家として,アルバート・トンプソンAlbert Thompson(1878~1940)がいる。トンプソンは,世界最初の田園都市レッチワース(1903~)そしてハムステッド(1905~)を計画設計したレイモンド・アンウィン(1863~1940)&バリー・パーカー(1867~1947)事務所(1890設立)に勤務した後1914年に独立したが,アンウィンの勧めで1920年に南アフリカに行く。そして,ケープタウン郊外のアフリカ最初の田園都市パインランズ(図3-2④)そしてダーバン・ノースの計画に携わった。パインランズは,しかし,白人のみの居住区が開発された最初の例であり,集団地域法Group Area Act(1950)に30年先立つ人種隔離政策の最初の例として位置付けられることになる。
トンプソンは,1927年に南アフリカを離れ,ナイジェリア土地測量局の都市計画官の職に就いた。首都ラゴスの急激な拡大成長に伴う,スラムの発生,疫病の発生に都市計画的対応が求められていたのである。ナイジェリアは英国のアフリカ植民地であるが,フレデリックJ.K.ルガード総督(1858~1954)によって人種隔離による間接統治の原則が採られた。現地民のための現地機関と入植者のためのタウンシップという二重の地方自治体がつくられるのである。ヨーロッパ人居住区とアフリカ人居住区をインフラも含めて分離する「二重都市」を徹底化したのが南アフリカのアパルトヘイト・シティである。トンプソンは,ラゴスのみならず,南ナイジェリアのワリ,サペレ,ペニン,オニシャについても都市計画案を策定したが,地域の状態をあまり認識していない、地形を全く無視している、商業地域が孤立しているなどと批判され、さまざまな改良を提案したが,結局受け入れられず、1932年に解雇されて帰国している。

西アフリカのガーナ,ナイジェリアで仕事をした建築家としてエドウィン・マクスウェル・フライ(1899~1987)夫妻(ジェーン・ドリュー)がいる。フライは,1920 年にリバプール大学で建築を学び(1920~23),ニューヨークで短期間働いた後イギリスに戻って、都市計画事務所に勤めている。西アフリカに向かったのは1940 年代であるが、1930年代には,ロンドンに亡命してきたウォルター・グロピウスとケンサル・ハウスアパートやインピントン・ヴィレッジ・カレッジを共同設計している(1934~36)。また,1950 年代には、コルビュジエとともにチャンディーガルの計画に 3 年間取り組んでいる。近代建築家の世代に属し,国際建築近代会議CIAMにも影響を受けており、その英国支部である近代建築研究グループ(MARS)にも密接に関与していた。イギリス領西アフリカでの仕事は,都市計画顧問に任命されたことがきっかけであったが,代表作とされるのはナイジェリアのイバダン大学(1949~60)である。フライが注目されるのは,後に『湿潤地帯の熱帯建築』(1956)を出すのであるが,ヨーロッパの近代建築をそのまま輸出はできない,通風,日射制御,日陰など地域の気候条件に適応した軽量で開放的な建築構造とすべきことを設計指針としてまとめていることである。
フランスのアフリカ植民地を代表する建築家・都市計画家はアンリ・プロストHenri Prost(1874~1959)である。パリの北郊サン・ドニに生まれ、エコール・デ・ボザールで建築を学んだプロストは,イタリア国立印刷所の設計でローマ賞を獲得した(1902)気鋭の建築家であった。1913年にフランス領モロッコの総督ユベール・リョーティ(位1912~25 1854~1934)の招請でモロッコに渡って10年間滞在,カサブランカ、フェズ、マラケシュ、メクネス、ラバトの都市計画に当たった。プロストは,1910年にアントワープ改造計画国際コンペで最優秀賞を受賞したことを契機として、レオン・ジョセリー(1875~1932)、エルネスト・エブラール(1875~1933),アルフレッド・ラガシュらとともにフランス都市計画家協会を設立する。ジョセリーもエブラールもエコール・デ・ボザール出身でローマ賞受賞者である。ジョセリーは,出身地のトゥールーズを中心に都市計画を手掛け,長らく会長職を務めた。エブラールは,1921年にハノイの インドシナ建築都市計画局の局長に任命され、1920年代後半に数多くの著名な建築物を設計することになる(→3-7)。
何故,エコール・デ・ボザールのローマ賞受賞者がフランス都市計画協会を設立するに至ったのか。プロストらの数年先輩となるローマ賞受賞者トニー・ガルニエ(1869~1948)が展示を拒否されながら「工業都市」案を発表したのは1904年である。彼らはローマ賞の評価基準に対する基本的な不満があった。建築の構成に関する習熟や歴史的建造物に関する知識のみでは,優れたデザインを生み出す基盤とはならない,最も美しい建物でさえより大きな都市の文脈から切り離して考えることはできない,個々の建物から都市全体へと重点を移す必要性について意見が一致したとプロストは書いている(Gwendolyn Wright 1991)。プロストは,1923 年にフランスに戻ると,地域計画担当としてリヴィエラのコート ヴァロワーズにおける一連の包括的な都市計画を策定し,1932 年にはパリ大都市圏の都市地域計画を指揮することを求められ,そのパリジェンヌ地域改善計画は 1939 年に承認されている。さらに,プロストは,イスタンブール再開発の壮大な計画を策定するためにムスタファ ケマル アタテュルクからトルコに招待され15 年間滞在,市の計画局の責任者としてマスタープランを作成している。
フランスの植民地化の中心イデオロギーとされたのは「文明化の使命 la mission civilisatrice」である。全国植民地会議や国際植民地協会会議において確認されているのは、言語、法律、建築様式など全てにおける文化的な優位性であり、先住民の都市や町を破壊しうる軍事力の優位性である。一方,先住民族との文化的差異を認め、独自の地域文化の尊重と保存を主張した連合主義(アソシエーショニズム)が唱えられてもいた。植民地政府が採ったのは,むしろ土着様式style indigèneを推奨する施策である。土着様式とは,もとよりアフリカが育んできたヴァナキュラー建築ではない。現地の伝統様式(特にイスラム建築)の要素(馬蹄形アーチ、装飾(幾何学模様)、スタッコ・タイル,ミナレット),形態,平面(中庭型)を,フランス植民地政府が選択・整理・規格化したものをいう。「現地文化を尊重している」という演出・アピールである。その理論を編み出したのは,上述のモロッコ総督ユベール・リョーティである。都市計画については,旧市街(メディナ)=現地人の空間,新市街(ヴィル・ヌーヴ)=ヨーロッパ人の空間,近代都市の分離は前提とされ,その中間に土着様式の空間を配置するのが方針である。土着様式の代表的建築家となったのはオーギュスト・カデットAuguste Cadet(1881~1956)である。
ドイツ,ベルギー,ポルトガル,スペインのアフリカ植民地で活動した建築家の仕事については他に委ねよう。植民地期の建築・都市計画の基本的テーマは以上で理解できるであろう。
アフロ・フューチャリズム

アフリカ諸国は,独立以後,大きな流れとしては先進諸国の近代建築の展開を追うことになる。ポルトガル人建築家アルベルト・ソエイロ(1917~)の集合住宅「モンテピオ・デ・モザンビーク」(a マプト 1960)がその嚆矢とされるが,ジャン=フランソワ・ゼヴァコ(1916~2003)の「ティト・メリル・リハビリテーション・センター」(b カサブランカ 1960)も初期の例である。,アブデルモネイム・ムスタファのエル・イクワ・ビル(c ハルツーム 1970), イタリア人建築家のリナルド・オリヴィエリ(1931-98)のラ・ピラミッド(d コートジボアール 1973),タンザニア人建築家のB.J.アムリ(1938)のカリアコー市場(e ダルエスサラーム 1974), ジャック・バーネット(Jack Barnett)とレスリー・ブロー(Leslie Broer)のバクスター・シアター・センター(f ケープタウン 1977)など,力強い建築が設計されてきた(図3-2⑤ abcdef)。

一方,1980年代から20世紀末にかけてアフリカ諸国は急速な都市化に見舞われ、ナイロビ,キンシャサ,ラゴスなどの大都市には大規模な「インフォーマル居住地」が形成されてきた。もちろん,「貧民街」「スラム」「不法占拠地」というネガティブなトーンの物理的な貧しさを強調する言葉も少なくはない。北アフリカでは,フランス語でビドンビルbidon villesというが,bidon =「ブリキ缶の都市」 という意味である。石油缶などブリキ缶を利用して建てたトタン屋根の粗末な住居(バラック)が集まった貧民街をいい,チュニジアあるいはモロッコで1930年代から使われていたとされるが,特にアルジェリア独立戦争の時期(1950~60年代)に、アルジェの郊外やパリ周辺に移民労働者の ビドンビルが広がり、ネガティブなニュアンスをもつ「スラム」や「不法占拠地区」とほぼ同義の言葉で一般的に使われるようになった。アフリカでもさまざまな呼び方があり,ガボンではマパネmapaneまたはマティティmatiti,アンゴラでムセクmusseques,ケニアでキジジkijijiである。マパネはコンゴ川流域に分布する熱帯植物である。掘立て小屋の壁材や屋根材に使った。「マパネ小屋」=「粗末な住居」→「スラム街」となるのである。マティティは,バントゥー諸語で「草地」「サバンナの草」「荒れ地」を意味する ティティtiti に由来する。草葺きの住居建ち並ぶ居住地を「マティティ」→「不法占拠のバラック街」となるのである。ムセク は,キンブンド語(アンゴラのバントゥー系言語)で「赤土」を意味する。アンゴラの都市周辺に赤土の土地に、低所得者が不規則に建てた家々をムセクと呼ぶようになり、「スラム街」の意味に転じるのである。キジジ は,スワヒリ語で「村」を意味する。「都市の中に自分たちの村」をつくる感覚でそう呼んだ。キジジのように、タンザニアではウスワヒリーニuswahilini(スワヒリ人地区),ガーナではハウサ語でゾンゴzongo(宿営地,隊商宿)など通常の居住地に近い呼称である。やや皮肉で逆説的なのがナイジェリアで,ヨルバ語でアジェグンレajegunle(豊かに生きる地)である。深刻な住宅不足は都市計画対応を超えていたが,居住者の近隣組織をベースとする自力建設や段階的な環境改善を行う試みが様々に展開されてきたことが注目される。

1970年代以降,近代建築批判のグローバルな流れが「ポストモダン」建築に向かうと、アフリカ建築界も近代建築からの離脱を模索始める。すなわち,植民地的な建築様式への従属から脱却し、アフリカの建築レガシーに根ざした独自の建築言語を探求し始めるのである。その代表が,ブルキナファソの貧困地域における学校を地域の土材と伝統的建築技法を活用して設計し,アフリカで初のプリツカ―賞を受賞(2022)したディアエド・フランシス・ケレ(1965~)である。
ケレは,オートボルタ共和国(1960年独立,ブルキナファソ共和国に改名 1984)のガンド村の村長の息子として生まれた。オートボルタ共和国の領土はもともとフランスのコートジボアール植民地の一部である。ガンド村には学校がなく7歳で親元を離れ、モシ王国(11世紀~)の都があった首都タンドコの叔父の元で教育を受けた。大工修行していて開発援助の実習生としてドイツに留学,苦学の末にベルリン工科大学に入学する。そして,大学在学中の1998年に学生仲間とともに「ガンド小学校」を建設した。ベルリンに拠点を置くが(2005~),ブルキナファソのみならずスーダン,トーゴ,ウガンダ,セネガルなどでも活動している。
もちろん,ケレのみに留まるわけではない。若い建築家が様々なアプローチを展開しつつある。OMA出身のクンレ・アデイェミ(1976~)は水上スラムの教育環境改善を目的とした実験学校マココ・フローティング学校(ナイジェリア 2013)で知られる。第一に,ケレが取り組む,地域産材と気候対応,パッシブ・デザインと伝統技術への着目がある。また第二に、アフリカン・ヘリテッジ(歴史・記憶),アフリカン・アイデンティへの着目がある。アフリカの建築家たちが、西欧的な国際建築スタイルに対抗し、国家的・地域的・民族的なアイデンティティに基づいた独自の建築言語の確立を目指すのは自然である。しかし,植民地遺産をどう評価するのか,アフリカの多元的な構成や多様な価値観を単一の「アフリカ」性に帰すのでもなく,排他的なナショナリズムに還元するのでもなく,どう掘り下げるかがそこでは問われている。そして第三に,急速な都市化に伴う大量な貧困者のインフォーマル居住地の改善に対する創意工夫の取り組みがある。
主要参考文献
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永原陽子責任編集(2022)『アフリカ諸地域~20世紀』岩波講座「世界歴史」18巻,岩波書店。
Stewart, John (2022), “ Sir Herbert Baker: architect to the British Empire”, Jefferson, North Carolina: McFarland & Company, Inc.
Kéré, D. F. (2022). African Architecture: Reclaiming Tradition in the Modern World. Thames & Hudson.
全体企画 青井哲人
建築の世界近代史 —— 世界を建設した力
AFプロダクション=編著
A=青井哲人/F=布野修司
目次案
序 「世界」をつくったのは誰か ── 帝国と国民国家(A) Mサイズ 12pp
近代世界システム、脱植民地化の4波、大小「世界」の乱反射、統治を伴わない影響・・・
1 まず私たちの視野を広げよう Lサイズ 18pp
1 日本近代建築史を世界史のなかへ(A)
── 改革 restoration・膨張 expansion・爛熟 involusion
2 世界に押し広げられる「建築の近代」 Lサイズ 18pp✕5=90pp
1 産業革命と帝国のデザイン ── イギリス(F)
2 普遍性の帝国 ── フランス(A)
3 国際性と土着性の近代 ── オランダ(F)
4 産業政策とロマン主義 ── ドイツ(A)
5 計画の帝国 ── ロシア/ソヴィエト(A)
インタールード:ハウジング近代史への展望 遍く/偏る(岡部明子)Sサイズ
3 独立してゆく国々を主語とする新たな物語 Mサイズ 12pp✕9=108pp
1 地中海的なものとフランスのレガシー ── マグレブ(F)
2 「アフリカの内側」の著しい多様性 ── サブサハラ(F)
3 イスラームと近代建築 ── 西アジア(F)
4 スラブ世界とソヴィエトの影響(A→諸喜田)
5 英国のレガシーとインド性 ── 南アジア(F)
6 共通性の高さと複雑なアイデンティティ ── 東アジア(A)
7 重層性の上の色鮮やかな近代 ── 東南アジア(F)
8 コモンウェルズの果てで ── オセアニア(F→安藤)
9 ラテンアメリカの近代建築 ── ラテン・アメリカ(F)
インタールード:辺境的近代建築の骨と色(伊藤暁・福島加津也)Sサイズ
4 物語の破壊/破壊の物語 Lサイズ 18pp✕4=72pp
1 文化帝国あるいは道化としてのUSA — 20世紀後半の栄華と凋落(江本弘)
2 MOMA史観のすきま 南欧・中欧(A)
3 中国の台頭とかげり(市川紘司)
4 2025年の世界(A)
あとがき(F+A)
原稿ヴォリューム:
Sサイズ 4pp✕850字=3,400字 図版4点(6pp)✕2=12pp
Mサイズ 12pp✕850字=10,000字 図版4点(14pp)✕10=140pp
Lサイズ 18pp✕850字=15,000字 図版6点(21pp)✕10=210pp
全362pp+他20pp 384pp(図版108点)















































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