皇室制度とプロイセン

お茶の水女子大学名誉教授 田 中 辰 明

1.皇室制度の静かな転換――皇族数確保をめぐる新たな一歩

 2026年7月、国会において皇室典範等の改正が成立した。1947年に現在の皇室典範が制定されて以来、実質的な制度改正としては初めての大きな変更である。しかし今回の改正は、皇位継承の仕組みそのものを改めるものではなく、むしろ将来にわたって皇室を支える皇族数の減少という現実的な課題に対応することを主眼としている。

 戦後の皇室制度は、憲法のもとで新たな位置づけを与えられ、長い年月を歩んできた。その一方で、少子化や皇族の減少という社会の変化は、制度の持続可能性に関わる問題として次第に大きくなっていた。今回の改正は、そうした時代の変化に対する一つの回答である。

 改正の第一の柱は、女性皇族が結婚後も皇族としての身分を維持できる制度の創設である。これまで女性皇族は、一般男性との結婚によって皇籍を離れることが定められていた。新制度では、本人の意思など一定の条件のもとで結婚後も皇族として公務を担う道が開かれ、皇族数の急激な減少を抑えることが期待されている。

 第二の柱は、旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎える制度が設けられたことである。戦後、皇籍を離れた旧宮家の系統を制度的に再び皇室と結びつけるものであり、将来的な皇族数の維持を目的としている。また、この養子となった男子には皇位継承資格を認める仕組みも盛り込まれた。

 しかし、今回の改正が触れなかった重要な問題もある。皇位継承資格は従来通り「男系男子」に限定され、女性天皇や女系天皇を認める規定は導入されなかった。また、現在の皇位継承順位にも変更はない。

 つまり今回の改正は、皇位継承制度そのものを変えるものではなく、皇室を担う人々をいかに確保するかという課題への対応である。伝統と時代の変化の間で、皇室制度はいまも静かな模索を続けている。女性天皇や女系天皇の是非を含め、皇室の未来をどのように考えるかという問いは、今後も日本社会における重要な議論であり続けるだろう。

2. 明治日本が学んだプロイセン――近代国家形成の光と影

 1868年の明治維新によって新たな歩みを始めた日本は、短期間で近代国家を築くため、欧米諸国の制度や技術を積極的に研究した。そのなかでも、とりわけ深い影響を与えた国がプロイセン王国である。国家制度、軍事、教育、法律、官僚機構など、近代日本の骨格を形成した多くの分野で、日本はプロイセンから多くを学んだ。

 最も象徴的なものが、1889年に公布された大日本帝国憲法である。伊藤博文は1882年にヨーロッパを訪れ、ベルリンの憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストやローレンツ・フォン・シュタインらから国家制度について学んだ。その結果、日本の憲法はプロイセン憲法を参考に、天皇を国家元首とする立憲君主制、強い行政権、内閣が議会ではなく天皇に責任を負う仕組みを採用したのである。

 軍制においても、プロイセンの影響は決定的であった。明治初期、日本陸軍はフランス式を範としていたが、1871年の普仏戦争におけるプロイセンの勝利によって、その軍事制度への関心が高まった。その後、参謀本部制度、軍人教育、作戦指揮体系などが導入され、ドイツ陸軍のメッケル少佐の招聘は、日本陸軍近代化の大きな転機となった。

 また、プロイセンの特徴であった高度な官僚制度も、日本の行政形成に大きな影響を与えた。能力を重視した官僚登用、中央集権的な行政組織、専門知識を備えた国家官僚の育成という考え方は、現在の日本の公務員制度にもその面影を残している。

 教育制度では、義務教育、教員養成、国家による学校管理という仕組みが参考にされた。さらに法律、医学、工学の分野でもドイツの学問体系が導入され、東京帝国大学を中心にドイツ法学やドイツ医学が発展した。医学用語に残る「カルテ」「ギプス」などのドイツ語も、その歴史的な交流の名残である。(写-1)

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写-1 ベルリンの森鴎外記念館、森鴎外(もり おうがい、1862–1922)は、明治・大正時代を代表する文学者であると同時に、陸軍軍医、翻訳家、評論家としても卓越した業績を残した知識人です。本名は森林太郎(もり りんたろう)**で、森鴎外は津和野町の藩医の家に生まれた。幼くして神童と称され、11歳で東京医学校(現在の東京大学医学部)予科に入学し、19歳で卒業した。その後、陸軍軍医となり、1884年から約4年間ドイツへ留学し、衛生学や医学だけでなく、西洋文学や哲学にも深く触れた。 

建築や工学の分野でも、構造工学、衛生工学、都市計画、建築教育においてドイツの影響は大きかった。日本の近代建築教育の形成には、ドイツの工学教育の理念が深く関わっている。

 では、なぜ日本はプロイセンを手本としたのか。それは両国が、新興国家として急速な近代化を必要としていた点にある。強力な中央政府、教育制度、官僚機構、軍隊を国家発展の柱としたプロイセンは、明治政府にとって近代国家建設の成功例であった。

 しかし、プロイセン型国家には光だけでなく影も存在した。強大な行政権や軍部の発言力、議会政治の未成熟といった特徴は、後の日本の政治体制にも影響を及ぼした。近代化を急ぐあまり、国家と軍事の力が優先される結果を招いた側面も否定できない。

 明治日本は、決してプロイセンを単純に模倣したのではない。日本独自の歴史や天皇制と結び付けながら、新しい国家の形を築こうとしたのである。明治日本とプロイセンの関係を振り返ることは、近代日本の成立過程と、その後の歩みを理解するうえで、今なお重要な意味を持っている。

3. プロイセン王位継承権――ホーエンツォレルン家が守り続けた王家の秩序

プロイセン王国の歴史を理解するうえで、王位継承の制度は重要な意味を持っている。それは単なる血統の問題ではなく、ホーエンツォレルン家が数世紀にわたり築き上げてきた「家の秩序」そのものであった。プロイセン王位の継承は、王家独自の家法(Hausgesetz)によって厳格に定められ、その根底には男子相続を重視するサリカ法(Salisches Gesetz)の伝統があった。

プロイセンでは、王位は女性に継承されることはなく、ホーエンツォレルン家の男子系統によって受け継がれた。基本原則は長子相続(Primogenitur)であり、国王の長男が第一継承者となった。もし長男が王位に就く前に死亡した場合には、その男子子孫が優先される。直系男子が絶えた場合には、同じホーエンツォレルン家の別系統の男子へと継承権が移る仕組みであった。

この制度は、王家の血統を維持するため、結婚にも厳しい条件を課した。王位継承資格を持つ男子は、王族や旧支配家系など、家法で認められた「身分相応の結婚」(Ebenbürtigkeit)によって生まれた者でなければならなかった。一般市民などとの身分違いの結婚、いわゆる貴賤結婚(morganatische Ehe)から生まれた子には、王位継承資格が認められない場合があったのである。

1871年、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ドイツ帝国が成立すると、この継承制度はさらに大きな意味を持つことになった。ドイツ皇帝位は独立した世襲君主制ではなく、プロイセン国王が兼ねる地位とされたからである。つまり、プロイセン王位を継承した者が、そのままドイツ皇帝となる制度であり、皇帝位の継承も実質的にはホーエンツォレルン家の家法に従った。

しかし、第一次世界大戦の敗北は、この長い王朝の歴史に終止符を打った。1918年11月、ヴィルヘルム2世は退位し、プロイセン王国とドイツ帝国は消滅した。それでもホーエンツォレルン家は家法を維持し続け、現在も「プロイセン王家家長(Chef des Hauses Preußen)」という歴史的な称号を保持している。ただし、これは現代ドイツにおける法的な王位ではなく、あくまで旧王家内部の伝統的地位である。

現在の家長は、ヴィルヘルム2世の玄孫にあたるゲオルク・フリードリヒ・フォン・プロイセンである。旧家法を基準にすれば、その後継者は男子長子相続の原則に従って定められる。しかし、現代のドイツ連邦共和国には君主制も王位継承制度も存在しない。

4. プロイセン王国を築いた九人の王――ホーエンツォレルン家の栄光と終焉

フェールベリンの戦い(Schlacht bei Fehrbellin)**で、ブランデンブルク=プロイセン軍(後のプロイセン軍の前身)がスウェーデン軍を破ったのは、1675年である。(写-2)

写‐2 ブランデンブルグ・プロイセン軍がスエーデン軍に勝利した戦勝記念碑はフェールベリンに建つ

この勝利は、ブランデンブルク選帝侯 フリードリヒ・ヴィルヘルム によるもので、彼はこの戦いによって「大選帝侯(Der Große Kurfürst)」の名声を確立した。長らく「無敵」と考えられていたスウェーデン軍を打ち破ったことはヨーロッパに大きな衝撃を与え、ブランデンブルク=プロイセンが後にヨーロッパの強国へと成長する出発点になったと評価されている。

1695年にはベルリンにプロイセン建築の華シャロッテンブルグ宮殿御建設が始まった。(写真‐3)

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写-3 ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿は、1695年に建設が開始された。建設を命じたのは、後に初代プロイセン王となるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世で、妃ゾフィー・シャルロッテ(Sophie Charlotte)の夏の離宮として計画された。

1701年から1918年まで、約二百十七年間にわたりヨーロッパの歴史に大きな足跡を残したプロイセン王国。その王位は一貫してホーエンツォレルン家によって世襲され、九人の国王が時代の変転を担った。小さな辺境領から出発したプロイセンは、軍事力、官僚制度、教育制度を基盤として近代国家へ成長し、やがてドイツ統一の中心的役割を果たすことになる。

初代国王フリードリヒ1世は、1701年1月18日、ケーニヒスベルクで戴冠し、「プロイセンにおける王(König in Preußen)」を名乗った。当時、神聖ローマ帝国との関係から「プロイセン王」という表現は避けられたのである。彼はベルリンを宮廷文化の中心として整備し、王国の威信を高めた。

その後を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は「兵隊王」と呼ばれ、華麗な宮廷文化よりも国家財政の健全化と軍隊の強化を重視した。強固な官僚制度と常備軍の基礎を築いたことは、後のプロイセン発展の礎となった。

三代目のフリードリヒ2世、すなわち「大王」は、1740年の即位後、シレジア戦争や七年戦争を戦い抜き、プロイセンをヨーロッパ列強の一員へ押し上げた。啓蒙君主としても知られ、1772年以降は正式に「プロイセン王(König von Preußen)」を称した。(写-4)(写-5)(写-6)

写-4 フリードリッヒ大王は美人のスパイを送り込まれたこともあり、ベルリンを嫌い、郊外のポツダムで政治を行った。ポツダムのサンスーシー

写-5 フリードリッヒ大王が住んだポツダムのサンスーシー宮殿:サンスーシーは憂いが無い事を意味する

写-6 サンスーシー宮殿のなかにあるフリードリッヒ大王の墓:9匹の愛犬と共に眠っている。大王の墓には大王が南アメリカから輸入、改良しドイツ人の常食となったジャガイモが置かれている。

4代目のフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の時代(在位期間1786~1797)にはプロイセン建築の象徴とも言われるブランデンブルグ門が建設された。(写真-7)

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写-7 ブランデンブルク門は、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により、1788年から1791年にかけて建設された。設計は宮廷建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスが担当し、古代ギリシャ・アテネのアクロポリス入口「プロピュライア」を手本とした新古典主義建築である

この時代にはベルリンにプロイセン建築を多数残したカール・フリードリッヒ。シンケル(1781-1841)も活躍した。(写真-8)

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写-8 ベルリンの旧美術館、シンケルは古代ギリシャ神殿を理想としながら、単なる模倣ではなく、近代市民社会のための新しい公共建築を創造した。旧博物館は、それまで王侯貴族だけのものであった美術品を、市民に公開するための建築であった。主な特徴は次のとおり。

  • 正面には18本のイオニア式円柱が並ぶ壮大な列柱廊
  • 幅広い大階段によって都市空間と建物を連続させる構成
  • 中央にはローマのパンテオンを思わせるロトンダ(円形大広間)
  • 左右対称の明快な平面計画
  • 古典主義建築の均整と簡潔さを極限まで追求したデザイン

18世紀末から19世紀前半にかけて、プロイセンはナポレオンの脅威と向き合うことになる。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の時代には、シュタインやハルデンベルクによる行政・社会改革が進められ、近代国家への転換が図られた。続くフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は「ロマン主義の王」と呼ばれ、芸術や文化を擁護したが、1848年革命という激動の時代に直面した。

1861年に即位したヴィルヘルム1世は、宰相オットー・フォン・ビスマルクとともにプロイセンの歴史を大きく変えた。普墺戦争、普仏戦争に勝利し、1871年にはドイツ帝国を成立させ、自ら初代ドイツ皇帝となった。この時以降、プロイセン王は同時にドイツ皇帝を兼ねることとなった。

しかし帝国の栄光は長く続かなかった。1888年に即位したフリードリヒ3世は、わずか99日間の在位で世を去り、「99日皇帝」と呼ばれる。そして最後の王ヴィルヘルム2世は第一次世界大戦の敗北によって1918年に退位し、プロイセン王国とドイツ帝国は歴史の舞台から姿を消した。

5.ブランデンブルク=プロイセン博物館――歴史の光と影を見つめる場所

ベルリンの北西約70キロ、緑豊かなブランデンブルク州の小村ヴストラウ(Wustrau)に、プロイセンの歴史を静かに語りかける博物館がある。**Brandenburg-Preußen Museum(ブランデンブルク=プロイセン博物館)**である。2000年9月に開館したこの私設博物館は、ベルリンの銀行家であり法学者でもあったエアハルト・ベーデッカー(Ehrhardt Bödecker, 1925–2016)の構想と貴重なコレクションの寄贈によって誕生した。現在はエアハルト・ベーデッカー財団によって運営され、約800年に及ぶブランデンブルクとプロイセンの歩みを紹介している。(写真-9)

写-9 ブランデンブルグプロイセン博物館の銘板

この博物館の大きな特徴は、過去の栄光を一方的に称賛するのではなく、プロイセンという国家を多面的、批判的に見つめ直そうとしている点にある。展示は、中世のブランデンブルク辺境伯領の成立から始まり、1415年以降のホーエンツォレルン家による支配、1701年のプロイセン王国成立、フリードリヒ2世の啓蒙専制政治、1871年のドイツ帝国創設、第一次世界大戦後のプロイセン自由州、そして1947年のプロイセン国家解体に至るまでをたどる。

館内でひときわ目を引くのは、ホーエンツォレルン家の歴代君主を描いた肖像画の展示である。ブランデンブルク選帝侯からプロイセン王、さらにドイツ皇帝へと続く人物像が並び、王朝国家としての連続性を視覚的に理解することができる。(写真-10)しかし、この博物館が重視するのは王侯の歴史だけではない。行政制度、教育、宗教政策、科学技術、産業発展、市民社会の形成など、近代国家としてのプロイセンを支えた諸要素にも光を当てている。

写-10 ブランデンブルグプロイセン博物館所蔵のフリードリッヒ大王肖像画

長く「軍国主義国家」として語られてきたプロイセンだが、そこには法治国家の形成、官僚制度の発展、教育改革、文化振興といった側面も存在した。博物館は、単純な英雄史観や批判的評価だけに偏ることなく、プロイセンという複雑な歴史的存在を来館者自身に考えさせる場となっている。

2026年には、新しい常設展示「Kopfgeburt Preußen(頭の中で作られたプロイセン)」が公開された。この展示は年代順の歴史紹介ではなく、「プロイセンとは何であったのか」「プロイセン的美徳は実在したのか」「軍国主義というイメージはいかに形成されたのか」という問いを中心に構成されている。過去の国家像を固定化せず、記憶と歴史認識そのものを問い直す試みである。

また、子ども向けワークショップや学校教育プログラム、講演会、特別展なども積極的に行われており、若い世代に歴史を伝える役割も担っている。

ベルリン市内にはプロイセン王家ゆかりの宮殿や美術館が数多く存在する。しかし、プロイセンという国家そのものの誕生、発展、矛盾、そして終焉までを体系的に学ぶことのできる場所は決して多くない。ブランデンブルク=プロイセン博物館は、華麗な宮廷文化の背後にある国家の姿を理解するための貴重な窓である。

湖と森に囲まれたヴストラウの静かな風景の中で、訪問者はプロイセンの過去と向き合いながら、近代ヨーロッパ国家の形成とは何であったのかを深く考えることができるのである。

6. ケーニヒスベルク――プロイセンの誕生とカントの記憶を刻む都市

バルト海沿岸に位置するケーニヒスベルク(Königsberg)は、かつて東プロイセンの首都として栄えた歴史都市である。現在はロシア連邦の飛び地、カリーニングラード(Kaliningrad)となっているが、この地はプロイセン史、さらには近代ヨーロッパ史を理解するうえで欠かすことのできない場所である。(写真-11)

写-11 ケーニヒスベルク城の模型(ブランデンブルグプロイセン博物館所蔵)

都市の起源は13世紀に遡る。1255年、ボヘミア王オタカル2世の支援を受けたドイツ騎士団は、この地に要塞を築き、王(König)にちなみ「ケーニヒスベルク(王の山)」と名付けた。その後、城を中心にアルトシュタット、クナイプホーフ、レーベニヒトという三つの都市が形成され、1724年に統合されて一つの都市となった。

ケーニヒスベルクが歴史上特別な意味を持つのは、ここがプロイセン国家誕生の舞台であったからである。1525年、ドイツ騎士団国家が世俗化されると、当地はプロイセン公国の首都となった。そして1701年、フリードリヒ1世はケーニヒスベルク城で戴冠し、「プロイセン王」を名乗った。この出来事によって、ケーニヒスベルクは「プロイセン王国発祥の地」として記憶されることになった。

また、この都市は軍事や政治だけではなく、学問の都としても輝きを放った。1544年に創設されたアルベルティーナ大学は、東プロイセンを代表する知の拠点であり、18世紀には世界的哲学者イマヌエル・カントを生み出した。カントは生涯のほとんどをケーニヒスベルクで過ごし、『純粋理性批判』をはじめとする近代哲学の礎となる著作を残した。現在も旧大聖堂の傍らには彼の墓が静かに残されている。

19世紀に入ると、ケーニヒスベルクは東プロイセンの行政・経済・文化の中心として発展した。バルト海貿易を担う港湾都市として繁栄し、第二次世界大戦直前には人口約37万人を擁する美しい歴史都市となった。ゴシック様式の大聖堂やバロック建築が並ぶ街並みは、ドイツ東部を代表する景観であった。

しかし、第二次世界大戦はこの都市に大きな悲劇をもたらした。1944年、イギリス空軍による爆撃で旧市街は壊滅的な被害を受け、翌1945年4月にはソ連軍によって占領された。戦後、ドイツ人住民の多くは追放され、ソ連各地から新たな住民が移住した。地名もドイツ語からロシア語へと改められ、1946年にはソ連政治家ミハイル・カリーニンにちなみ、カリーニングラードと改称された。

戦後、ケーニヒスベルク城は1968~69年に完全に取り壊され、その跡地には「ソビエトの家」が建設された。しかし現在では、大聖堂、カントの墓、王の門、旧要塞群などが修復され、ドイツ時代の記憶を伝えている。

ケーニヒスベルクは、日本とも深い精神的なつながりを持つ。明治期の日本は近代国家建設のモデルとしてプロイセンを研究し、その国家制度や教育制度を学んだ。また、カント哲学は日本の哲学・教育・法学の発展にも大きな影響を与えた。

ケーニヒスベルクは、プロイセン王国誕生の地であり、カントの故郷であり、さらにドイツとロシアの歴史が交錯する場所でもある。そこには、戦争によって失われた街並みの奥に、ヨーロッパの記憶と思想の深層が今なお息づいている。

7. ケーニヒスベルク――哲学と科学、そして近代建築を生んだ東プロイセンの知の都

バルト海に面した古都ケーニヒスベルク(Königsberg)。現在はロシア連邦の飛び地カリーニングラード(Kaliningrad)となっているが、かつてこの都市は東プロイセンの中心として、政治のみならず哲学、数学、自然科学、芸術の分野で輝かしい歴史を刻んだ「知の都」であった。

この街を象徴する人物といえば、まず哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)である。1724年にケーニヒスベルクで生まれ、生涯のほとんどをこの地で過ごしたカントは、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という三批判書によって近代哲学の基礎を築いた。毎日決まった時刻に散歩をしたという逸話は、彼の厳格な生活と理性的精神を象徴している。

また、数学の世界ではダフィット・ヒルベルト(David Hilbert)が挙げられる。20世紀最大級の数学者の一人であり、「ヒルベルト空間」や「ヒルベルトの23問題」によって現代数学の方向を決定づけた。さらに、クリスティアン・ゴルトバッハ(Christian Goldbach)が残した「ゴルトバッハ予想」は、今日なお数学者を魅了する未解決問題として知られている。

自然科学の分野でも、この都市は多くの才能を育んだ。グスタフ・キルヒホッフ(Gustav Kirchhoff)は電気回路の基本法則を確立し、分光学の発展にも大きく貢献した。アルノルト・ゾンマーフェルト(Arnold Sommerfeld)は量子物理学の発展を支え、多くの優れた研究者を育てた名教育者である。さらに、フリッツ・リップマンやオットー・ヴァラッハもノーベル賞受賞者として科学史に名を残している。

文学と芸術の世界でも、幻想文学の巨匠E・T・A・ホフマン(E. T. A. Hoffmann)はケーニヒスベルクに生まれ、『くるみ割り人形とねずみの王様』の原作者として知られる。また、戦争や貧困に苦しむ人々を描いた芸術家ケーテ・コルヴィッツ(Käthe Kollwitz)も、この地域にゆかりを持つ重要な芸術家である。

そして忘れてはならないのが、近代建築家ブルーノ・タウト(Bruno Taut)である。1880年、ケーニヒスベルクに生まれたタウトは、後にベルリンを舞台に活躍し、ドイツ近代建築を代表する存在となった。ベルリンの「馬蹄形住宅団地(Hufeisensiedlung)」や「オンケル・トムス・ヒュッテ(Onkel Toms Hütte)」など、色彩豊かで人間的な集合住宅は、現在も世界的評価を受けている。ナチス時代には日本へ亡命し、仙台や高崎で活動したことから、日本との縁も深い建築家である。

さらに、1701年1月18日にはケーニヒスベルク城でフリードリヒ1世の戴冠式が行われ、「プロイセン王国」の誕生を象徴する歴史的舞台ともなった。

ケーニヒスベルクは、単なる東方の地方都市ではなかった。カントの哲学、ヒルベルトの数学、キルヒホッフの物理学、タウトの建築――そこから生まれた知の遺産は、時代と国境を越えて今日も世界文化の中に息づいている。失われた古都ケーニヒスベルクは、まさに「哲学と科学、そして建築の記憶を宿す都市」と呼ぶにふさわしいのである。

おわりに

まず、プロイセンという国家は、秩序を何よりも重んじる国であった。正確さ、時間厳守、規律、そして上官や上司の命令への忠実な服従は、単なる社会規範ではなく、一つの国民的美徳として長く培われてきた。その精神は官僚制度から軍隊、学校教育、さらには市民の日常生活にまで深く浸透し、「プロイセン的美徳」として近代ドイツ国家の基盤を形づくってきたのである。

しかし、第二次世界大戦後、そして近年に至るまで繰り返された大規模な移民・難民の流入は、この伝統的な秩序に少なからぬ揺らぎをもたらした。人道的責務からドイツは多くの避難民を受け入れ、住居や教育、さらには雇用の確保に努めてきたが、その急激な社会変化は行政機能にも大きな負荷を与えた。かつて正確無比と評された鉄道は慢性的な遅延が目立ち、郵便や行政サービスも期待どおりには機能しない場面が増え、市民の間には「ドイツらしさ」が失われつつあるとの不満が広がっていった。

こうした社会の閉塞感を巧みに取り込んだのが、新興右派政党AfD(ドイツのための選択肢)である。彼らは、欧州連合(EU)の統合政策や移民政策を厳しく批判し、「失われた秩序を取り戻す」というメッセージを掲げて支持を拡大してきた。もちろん、ドイツ社会が抱える課題をすべて移民やEUに帰することはできない。しかし、「秩序」を国家の誇りとしてきたプロイセン以来の歴史を知るとき、社会の変化に戸惑う人々の心理が、AfDの台頭を支える一つの土壌となったことは理解できるのである。

謝辞:フェールベリン、ブランデンブルグ・プロイセン博物館での調査には筆者のベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所留学時代の友人アクセル・ヤ-ン博士(Dr. Axel Jahn)に多大なるお世話になった。記して謝意を表す。

参考文献

  1. Unipart: Preußiscxhes Lesbuch, Bllder-Texte-Dokumente
  2. Christofer Clark Wilhelm Ⅱ. Pantheon
  3. Andreas Kossert:Damals in Ostpreußen DVA

4.田中辰明:ドイツ帝国時代のベルリンの建築物:月刊建築仕上技術「2023年5月号

5.田中辰明:フリードリッヒ大王時代のポツダム:月刊建築仕上技術「2024年11月号

6..田中辰明:プロイセンの建築に関する論考:月刊建築仕上技術「2025年11月号

7.ユストゥス・ベンダー著、田中辰明訳「なぜAfDは支持されるのか」同時代社

8.マルク・シーリッツ著、田中辰明訳「暴走してしまう民意」同時代社


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