『都邑通信』は,幻の雑誌である。しかも,1号のみのPDF版で挫折した。原稿は全て未発表である。

都邑通信
創刊の言葉
「都」も「邑」も、人間の住む場所を意味する。「邑」(ゆう)は、もともと場所を示す「口」と人が座っている様を表す「巴」が合わさった文字である。そして、「邑」は「 (おおざと)」と略される。「 (おおざと)」偏の文字は、従って、もともと人の居住する場所に関係している。
「都」(と)は、集まることを意味する「者」(しゃ)(「儲」(ちょ))と「邑」(ゆう )からなり、人々の多く集まる所を意味する。「都」は「みやこ」と読んで、首都あるいは大きな町を意味する。
「邑」も一般的に人の集まる「みやこ」、「まち」、「くに」をさすが、「都」と対語としては、「むら」と読んで、村や里すなわち小さな集落を意味する。「都」のもうひとつの対語としての「鄙」(ひ、ひな)の「啚 」(ひ)は米倉のことで、米倉のある村すなわち田舎を意味する。
「都邑」をめぐる論考を「通信」の形で積み重ねようというのが刊行の趣旨である。
機能深化への誘い
建築の主題は再び「都市」となる
渡辺豊和
1 再生平安京」と「庭園曼荼羅都市」
今「機能」が問題である。建築の主題が再び都市と住居に戻って来たからである。私はここしばらく建築の実作から遠ざかり都市像を描くことに専念して来たのもこの実惑による。1匁5 年1月17日未明の阪神大緩災は建築の主題を都市と住居に引き渡したのは確実である。震災直後から私も5[J1)人の死者の鎮魂を込めて神戸疇計画に没頭し1年半かけて96年9月に完成させたのが「神戸21(X)、庭園曼荼羅都市」である。これは150万都市神戸を根底から計画し直すものであって町割や道路等既存のものは例外を除いて全てやり直した。神戸は幕却勝海舟によって開かれた港でありかつて平安末期、平清盛によって福原京とされたことがあったにしても幕末以降の新都市といっていい。歴史がないのが神戸の特徴であるが港としては大阪よりも栄え震災時には日本一あるいは東洋一の規模を誇っていた。従ってこの都市を消滅させてしまう必然性もない代りに町割や道路等をやり直してしまってもほとんど支障がないはずであった。むしろ積極的にやり直すべきであり震災は一面では天佑ともいえた。計画についてはすでに発表しており(「造景」7~8号、1劣7年)ここでは述べないがこの時私は何を考えていたのか。特に「機能」に対する思いはどうであったのか。私は20代の後半を山口文象が率いるRIAで過ごし文象先生の声咳に接する機会も多かった。ここで身につけたのは虚飾を断つ近代合理主義の概念と社会民主主義的生活態度である。徹底した自由主義者であった父の影響から社会主義を思想的に受け容れるのは身体的に難しかったが生活態度、生き方は充分に感応出来た。それは父がそれなりの資産を所有しながらも極端に質素な学究生活をしていたことと無縁ではないかもしれない。しかし私は先生のもとを去ってすぐに近代合理主義には反旗をひるがえした。ポスト モダニズムの開拓である。これは1切0年代以降を切り開いていく若い建築家としての先生の世代への反抗であった。決して文象先生個人に対する反抗ではない。また反抗すべき理由もない。
それでも私は文象先生から直接伝授された正統近代主義は間違いなく身につけた。特にそれはプランニング手法として受け継いだような気がしている。これは現在でも血肉となっている。山口文象、植田一豊の「ゾーン プラン」である。
プランニングによって虚飾のない近代合理主義を表出していくのは都市計画でこそ生きる。ポスト モダニズムの提唱実践者である私は建築表現として「ゾーン プラン」の上に豊饒な断面を重ね合わせる手法を開発した。これは「ゾーン プラン」を創出した近代合理主義には背反することである。そのことは充分に自覚していた。というよりも私が提唱したポスト モダニズムはモダニズムの否定でなくそれに対する背反であった。このことが重要なのである。
ともあれ私は「ゾーン プラン」をもっと深め広めいきいきしたものへと進展しようと思い人口l万4aX)のニュータウンの基本計画、基本設計をたった一人でやり遂げてしまった。「近鉄桑名ニュータウン」でありこれは私の計画通りに実現している。造成量を出来るだけ少なくする案でありこれこそ虚飾を断つことであったがこの当時世に表れるニュータウンは起伏に富んだ地形を無惨に切り刻み平坦に造成するものばかりであった。このことの方が近代合理主義と当時の計画者達は思い込んでいた。当時というより現在でもこの傾向は少しもあらたまっていない。こうしておくとうわものである建築が配置しやすくまた安価に出来ると信じているからであろう。しかしこれは明らかに間違っていて造成費と建築費の合計は地形の現状をなるべく改変しない方が安い。但し高度な計画技術と思想がいる。世の凡庸な計画者にはこれがないだけである。
これから丁度10年経って81年には「東急美原ニュータウン」の景観と植栽の基本計画を仕上げた。「近鉄桑名ニュータウン」はRIA在籍中に近鉄不動産の担当でありどういうわけか私はこの会社の人々に好かれ私でなければここの仕事は細部まで一切動かすことが出来なくなっていた。RIAを辞して同じRIAの先輩藤田邦昭の創立間もない都市問題経営l兆究所を手伝うことになり近鉄不動産は藤田にニュータウンの計画を依頼して来た。私の存在を念頭に入れてのことだとこの会社の人々はいっていた。それでもこの仕事は「都市問題」に依頼されたものであるが「東急美原ニュータウン」は私のエ房が単独で受託し完成させた。但し町割や道路計画等はすでに出来ていて私には町並みの景観と各戸の庭を含めた全体の植栽計画を依頼して来た。偶然かもしれないが街区や道路等の計画は私の「桑名」に似ていてしかも原地形をなるべく改変しないよう配慮してあった。「桑名」では景観や植栽まではやっていないのでこれは私には楽しい仕事になった。
規模は「桑名」よりも小さく人口1万弱だったと記憶する。今私のエ房が制作した計画雹を見ても人口計画はすでに出来上がっていたから記されていないのが残念である。このニュータウンは大阪府の東南部美原町のゆるい南斜面に作られることになっていて絶好の敷地条件ではあった。私が特に意を注いだのは植栽計画である。今では緑したたる住宅街となっていて計画した私自身すらここの景観にはうっとりと見とれてしまうほどである。斜面の下から上へと東西に横長に12の水平帯を想定し冬から秋にかけて1カ月ごとに季節の花が咲き乱れるように計画した。これを「濶寺記のまち」と呼んだ。斜面に縦、即ち南北の道路は桜や柳、イチョウ等の並木としている。南河内は古凋酎赳以降はなやかな歴史に彩られた場所であり美原にも語るべき物語はいっばいあって公園、広場等の門、塀、石垣、陸橋等を平安朝の神殿様式を近代風にアレンジした意匠としたが必ずしも私の計画通りにはなっていない。擁壁には美原の歴史事件の線刻画を画家に依頼し抽象画風の原画まで描いてもらったがこれも実現していない。コストが問題だったのだろう。街区の家並みの、景観計画の大枠は、私の計画通りであるが一戸一戸の建物の設計は、私はしていない。余りに個性が強く敬遠されたのが真相であろう。これは宮脇壇が担当していて卿腐きわまりないがそれでもこの方が無難で間違いはなかったということであろう。今となってはこれも私がやったのと宮脇とどちらがよかったのか。私にもわからない。
ただこれも私がやっていれば世界に冠たる住宅地風景が現出していたことは断言できる。
さてこのような2度のニュータウン計画の経験が阪神大震災後の神戸計画にかりたてたのはいうまでもない。たった一人で相談相手もなしに2つのニュータウンを計画、実現させた経験を有する建築家は私以外にはまずいないのではないかと思うのである。そのことを誇示するのではない。その得がたい経験が重要なのである。
この2つの経験からニュータウンの計画で最も重要なことは都市にとっての機能概念をどう捉えるかということであると確信するに至った。「桑名」では商業や業務を含む中心地区、小、中学校の文教ノーン、更に中層ゾーン、低層連棟ゾーンなどを機能別住戸構成別にゾーン割りしているから近代主義の手法を素直に踏襲しているといっていい。ところが「美原」はまさに都市計画のポスト モダニズムであった。街区割りや道路等はモダニズムの手法で出来上がっていてこれに背反する形で景観と植栽を計画したのである。「ゾーン プラン」に豊饒な断面を重ねる方式と同じ考えである。豊饒な断面は変化に富む断而でもあり虚飾を断つ「ゾーン プラン」とは相反するが街並の景観や植栽は都市のゾーニング計画とは必ずしも相反しはしない。むしろ必要不可欠のことであるだろう。景観も植栽も都市にあっては「機能」なのだ。しかし近代主義の都市計画では明らかに置き忘れられていた。景観や植栽は街区割りや道路等に比べてはマイナーな「機能」として片隅に追いやられていたという方がより正確かもしれない。私は「美原」では街並の展開に物語手法を採用した。「機能」を近代主義そのままの概念として捉えるのではなく物語化したのである。ここに「機能」の概念転換の萌芽があったと今にして思う。
さて「神戸」に戻ろう。
この計画はーロにいってしまえば神戸の市街地の人口密度を現在の2倍にし、更に1(X)年後の総人口を2分の1に縮小し残余の4分の3はJ巌地か緑地に還元してしまうというものである。極めて簡単明瞭である。町割は全く一新してしまうのはすでに述べた通りであるが日本の何処というより世界のどの場所にでも適用できる小都市単位を緯度、経度l分分の矩形としこの一単位の人口密度を1ヘクタール当たり2(X)人と設定した。これはパリの人口密度であり、東京や日本の大都市の、平均人口密度の2倍である。各単位は商業、業務、殷業をも含む13単位であり人口密度は一律2(X)人としているから商業や業務、工業の単位では住宅は高層化するのはいうまでもない。一単位人口は神戸の場合は5万4ffi)人である。「庭園曼荼羅」といっているのはまず単位全体を庭園としその上に建物を建てることを構想しているからである。まずは庭園曼荼羅状に配置されている都市といったほどの意味ととってもらえれば充分である。さてここでの「機能」とは何か。これが本稿では問題である。庭園が主題の都市像であり建築は背景に退いている。庭園が羮荼羅をなしている都市とは極めてユング的でありこれを私は「元型都市」空間であるといった。元型を「機能」と呼び得るか。この計画の立案時点ではそのような問いはない富。今この稿を書きながらそう問うているのである。この都市像はイランの古都イスファハンをモデルにしている。あれはまさに元型的都市空間である。あの場合の都市機能としては曼荼羅状に配置された庭園が最も重要なものとしてとらえられるであろう。庭園即ち都市生活の癒しの場であり、元型空間である。厳密にいうならこの都市では庭園の癒しこそが最重要機能である。それと絢爛華麗な建築群が呼応する。「庭園曼荼羅都市」の構想はこう解析されるべきだった。そうしておけば発表時の雖解はまぬがれていたかもしれない。
次に「再生平安京」。
この計画は「神戸」を踏襲しているが違うのはクモの巣状の線型木造建築ネットワークを提案していることである。名所旧跡を保存しているのはいうまでもない。私はかつて「京都t胴勿館都市」を提唱し地上は木造5階を限度とし近代的都市機能は全て地下に埋めるべきであるとした。このアイデアの模倣をした建築が最近話題になるが私がこれを提唱した80年代半ばにはこのようなことをいうものはただの一人もいなかった。むしろ狂気扱いにされかねなかった。しかし「再生平安京」では年来の持説である地下都市案をきれいさっぱり捨ててしまった。中高層木造都市を構想したのである。これは京都造形芸術大学の同僚横内敏人のアイデアである。これ以外の構想は細部に至るまで私の手になるが「地下都市」は模倣が多くこれでは国際コンペに入選はおぼつかないという判断が私の中にもあった。この計画では線型木造建築のネットワークが都市機能の最重婆プログラムである。もはや道路や鉄道ではないのだ。用途地区などのゾーン割りでももはやない。線型木造建築が張り巡らされるがこの建物の内部は立体格子の入れ子となる。この建物の細部に亘る用途が問題なのではなく主題は空間である。空間こそ「機能」なのである。少々むずかしくいうなら空間現象が「機能」なのだ。
2 何故鳳凰堂か
劣年と2(XXl年度の京都造形芸術大学の大哨浣一回生に与えた課題は「京都」ではあるが①年度は「イスラム名建築の木造化」、2(XXl年度は「鳳凰堂細部木組の拡大による建築化」とした。「京都」を課題としたのは「再生平安京」を更に具体化してみたかったからである。線型木造ネットワークはとりあえず棚上げしておいてまずは京都の新しい木造建築のプロトタイプを考案してみようとした。学生に出来ることはすでに実在している石造や煉瓦造等の組積造建築から木造の架構空間への転換であろうと見当をつけたのである。但し何故ヨーロッパ建築ではなくイスラムなのかは説明の必要があろう。私自身の好みといってしまえばそれまでではあるが共同で授業を担当してくれた京都大学の布野修司も同意してくれたのだから単に私の好みとはいいきれない。以下のことは布野に説明したわけではない。但し折に触れてはいったような気はする。やはり京都の歴史が問題なのである。平安京が出来る以前のことであるから話は古い。この地は葛野かどの郡といい秦氏が開拓した場所であり平安京以前は秦氏の京都南部の深草と並ぶ拠点であった。この秦氏の居住した場所は大秦(うずまさ)といい現在でもここは秦氏関連の史跡が多い。「大秦」又は「太秦」は唐の時代、中国ではペルシアを指す名前であったから秦氏は自らをペルシア系の渡来人であることを示していたことになる。このことが現代の京都にまで大きく影響している。京都の工芸品の繊細華屈は間違いなくペルシア美に酷似する。祇園祭の山車の側面を毅う垂幕にはペルシア紋様そのままのものすらある。これは江戸時代から伝わるとされるから鎖国時代にわざわざ長崎を通して京の町衆がペルシアから取り寄せたものなのだろう。
ペルシア史の伊東義教は飛鳥時代、聖徳太子の頃にペルシアから渡来した人々が多数いて美術、工芸を含めたペルシア文化を伝えた痕跡があると言明している。秦河勝は聖徳太子の最側近であり太子の妃が残したとされる『天寿国繍屁lはペルシア紋様であると指摘もしている。飛鳥から平城京、平城京から長岡京を経て平安京へと貴族達の居は移るが彼等の血脈が変わったわけではない。飛鳥のペルシア文化の芽は平安京で花開いたといってもいい。京都美はペルシア美を根底としている。しかし現在の京都文化といわれているものはどうか。能、茶の湯、大和絵、友禅染、数寄屋……と京都から発生した伝統芸能、工芸、歌舞音曲などは繊細優美、幽玄、わび、さびとしては特徴づけることが出来る。これらの京都美は明治以降そのまま日本美として諸外国から認められている。しかし近年の京都は停滞気分に覆われ活気がないことおびただしい。市民も自信を喪失しているのであろう。これは諸外国での即ち京都美の下落をも意味するに違いない。京都美即ち日本美は外国人の単なる異国情緒やジャポニカ趣味の対象から一歩も抜け出せなかったということではないか。これは極めで情けないことである。
紘細優美は荒々しさ、激しさ併せもつ豪華絢爛を、幽玄はダイナミズムを、わびさびは華麗を内包してはじめて生命力を発揮する。あらゆる美は逆の美を内包する間ははつらっとした生命力を保持し続けるものである。京都が停滞衰退しているのは繊細優美も幽玄もわびさびも形骸化し豪華絢爛、ダイナミズム、蘊腿を喪失してしまったからに違いない。疎水の建設、路面電車の採用、京都大学での社会主義の隆盛など明治以降の京都市民がみせた革新性も今や見る影もなく痩せ細っている。しかしこれを嘆いていてもはじまるまい。京都の復興には何らかの手立てがいるであろうが一度生命力を失った文化を蘇生させるには新しい血を注入するしかない。明治以降は「ヨーロッパ」を注入して京都のみならず「日本」は国際化したように見えるが結局「ジャポニカ」から脱却出来なかった。ところが12OO年の都、京都にとっては「ヨーロッパ」はやはり異質すぎるのであろう。それなりに親近出来る文明を探し出しそこの古典が見せる特徴を京都美に接合する必要があろう。
但し漠然と京都美といっていても鮮明な京都美の像が結ばない。私は京都美の典型は宇治の平等院鳳凰堂であると確刊言している。全ての京都美は鳳凰堂に収飲しそこから発出する。この美は間違うことなくペルシア美に通底する。これは阿叩佗堂であるが阿弥陀信仰即ち浄土教の極楽浄土は中世ペルシア人が信じた天国像とまるでそっくりなのだ。中世ペルシア文学の華『千一夜物語』に描写される天国と阿洲吃信仰の極楽洋土は全く同じなのである。鳳凰堂は阿弥陀信仰即ち浄土教の極楽漁土を建築空間化した典型であるからこれがペルシア美に彩られているのは当然であろう。現在、イスファハンに散在する古典建築、庭園、特に建築は鳳凰堂の美を紡彿させる。まさにむべなるかなである。これらの建築、庭園が造られたのはl即奴営よりも7{X)年も遅い 18世紀なのにである。この頃日本は鎖国の真只中にあったからイスファハンの建築家達が鳳凰堂のことを知っていたはずはない。随分不思議なことではある。文明的血の近さを感じる。
ペルシアのアラベスク紋様はアラベスクの中でも一頭地を抜く精緻美であり幽玄でもある。またペルシア建築の幾何学構成の絢爛華麗かつ精緻の極致は特筆すべき特徴である。このペルシア美を「京都」に接合するのはそれほど困難ではあるまい。私達は鳳l戴堂をもっているからである。とはいえ「ペルシア」はヨーロッパよりは近いにしてもやはり異質ではある。この近似と異質の葛藤、相克が新しい生命を生むであろう。
「再生平安京の線型木造建築のネットワーク」も実はペルシアイスラムのアラベスクを引き写している。これは京都全体を計画した巨大スケールの建築であるがこれを細分化してひとつひとつの建築空間におとし込むにはまずイスラムの名建築を木造建築に転換してみるのがひとつの手だてになる。但し建物のスケールを変えないことを前提とした。プランも余り変えないことにしている。天井高さなどの断而構成の大枠もなるべくは守るが形態は当然大きく変わる。組積造から架構構造に変換するのであるから当然ではある。結局京都市内36ヶ所のスポ外にこれらの木造建築を挿入することとなった。学生の計画であるから稚拙なのはやむを得ないがそれでも中にはプロの私ですら感心する計画に仕上がったものもある。
次に鳳凰堂の細部の木組や屋根等建築の一部を切り取り、それを10倍から20倍に拡大して平面に転換した案と断面に転換したものとひとつの細部に2つ案を出させた。20′.X)年度は劣年の3人の倍6人いたから計画総数は倍になってもよさそうなものだが副題設定がむずかしかったのか48案ほどにとどまっている。前の年とスポットが重なっているところもあるから今後調整の必要はある。伝統木造の木組を勉強してから計画に着手すべきであったが手順が逆になってしまい木造的でない案もあり前年よりはバラッキが多いのは気になるところではある。正直いって私も伝統木造の木組は漠然としか知らず布野が京都大学からもって来てくれた資料で私自身も勉強したのが真実のところである。木造は基本的にはジャングルジムの入れ子構造であり私も木造はそれを徹底的に意識して設計して来た。学生達にもその原理は教えたつもりではあるがこれを理解し応用するのは容易ではなさそうである。私の実例が京都や京都の近くにはほとんどないため実見して参考にする機会がないのもその原因には違いない。
建築の細部を10倍か20倍に拡大して建築化するのは実は私の独創ではない。①年に学部を卒業した学生が案出したことである。彼女はイスタンブールのハギャ ソフィアをバラバラに分解し、その分解した部位を一様に10倍に拡大し建築化して再構成しリベスキンドの都市像に近いものに転化していた。これを鳳凰堂に応用したというわけである。
3 歴史は再生の手立てになるか
京都を考えるということはそのまま歴史をどう惚識し、どう活用するかということに尽きる。たとえば町屋であ
る。町屋の再生は随分古くからいわれ木造3階建による再生案が最も典型的な形で喧伝されたが今までのところ見るべき提案なり実作があらわれていない。これは既存の町屋のプロットタイプに拘束されそこから一歩も踏み出せないからに違いない。短冊型の敷地と京格子にがんじがらめになっている。これでは何も出てこないのは当然であろう。同じことが寺院茶室など伝統領域のものにもいえる。
村野藤吾の佳水園(1959年)は鉄筋コンクリートの巨大ホテルに隣接して造られた同じホテル内の和風別館であり村野数寄屋の傑作と高く評価された。和風別館として依頼されているのであるから伝統様式にそれなりにのっとっていない限り「和風」とはならないはずであり事実堂々とした和風建築ではある。村野和風は吉田五十八が大壁数寄屋を考案し明確な吉田スタイルを確立したのとは違って伝統にのっとり真壁構成である。但し開口部が極端に広かったり屋根勾配が常識よりも緩かったり、鴨居の高さなども必ずしも伝統にしばられず村野流をのびのびと展開し建築空間としては変化にも富み吉田を遥かに凌親している。又開口部が広いためであろうが柱を一般数寄屋なみに細くするために柱の心に鉄筋を入れておくようなことを平気でやっている。文象先生のところを辞して間もない30オをちょっと越えた頃村野に直接説明いただいてこの建物を実見したときには驚いた。先生なら絶対に許さない虚構である。勿論私は村野の伝統破りの大胆さに目を見張ったのである。一見伝統を墨守しているように見せて実は随所で伝統に違反している。この極めて文学的創作方法に私は感動すら覚えた。文象先生は造形作家としてなら何をやっても超一流になったと思えるほど美術の才能にも恵まれていたが文学的ではなかった。村野が建築家の才能として第一にあげたのが文学であり次いで数学、最後が美術だった。私自身に秘かに思うところがあったので村野からそれを聞いたときにはひざを打ちたい気持ちであった。
とはいえ村野の方法は歴史を活用する最高の手立てか、というとそれはそうではあるまい。これよりは丹下健三の方法の方が建設的である。
丹下は東京都庁舎(1952年)ではミース ファン デル ローエ風のプランにコルビュジェ風ではあるがコンクリート細工でなく鉄細工の軽快なブレーズ ソレイユを立面に採用した。「ミース ファン デル ローエ十コルビュジェ」のような近代主義スタイルを創出してみせた。丹下はこれをミースやコルビュジェの模倣と考えたのかどうかは定かではないが同じ庁舎建築でも香川県庁舎(1962年)では「伝統からの創造」といわれる新方式を編み出した。前面に下部ピロティの低層議会棟背後に高層事務棟というふうな低い回廊と高い5重塔の法隆寺の空間構成を思わせる建築である。庁舎建築のプロットタイプにもなったこの建物では各階に張り出したバルコニーを支える垂木状の細い小梁、手摺などから5重塔の近代様式への転換が明らかに見てとれた。議会棟にも連子格子を思わせる縦ブラインドが全面開口部のガラス窓の内側にしつらえられこれが丹下の力説する「伝統からの創造」なのかと納得させられた。丹下は伝統木造建築の特徴である重屈する庇、4邁と、手摺、垂木、手摺、連子格子、さらには回廊と五重塔の構成といったものを巧みに近代風にアレンジした。近代風アレンジとは丹下にあってはこれらのモチーフを徹底的に平滑にし直線化することであった。日本古来の固定した間仕切りをもたない融通無凝な平面構成はF·L ライトやB タウトを通して近代主義に多大な影響を与えていたから丹下にとっては「伝統からの創造」は法隆寺の空間構成を単純化し伝統建築の細部を―直線化することで充分だったようである。しかしこの安易な伝統の近代化がこれ以後の日本近代建築に不幸をもたらしたのではないか。これで「日本」は主題ではなくなってしまったのである。こうも簡単に近代化できる日本の伝統とは何と便利な歴史追産なのかと軽視されるに至り、丹下の弟子達も含め70年代以降の若手建築家達は「日本」を真剣に考えなくなってしまった。この傾向は現在にも至っている。というよりも現在ほど強いのではないか。当然「表層日本」を積極的に拒否した私自身もその一人である。直射日光を防ぐためのすだれを思わせるレース編みのような金属や木材のカーテンの世界的流行は相も変わらずの「表層日本」の流用である。
但し最近の藤森照信の草花を装着した壁や屋根のある家屋は不思議な「日本」表現として注目される。藤森によれば茅屋根の棟に草花を装着した家屋は北東北などに見られこれも「日本」のひとつだとのことである。この方式の屋根にも決まった呼称があるとのことであったが失念してしまった。しかし壁にも装清するのはi簸森独自のアイデアであろう。草花を愛で枝葉に丹念に手を加えて鉢植えする盆栽趣味が「日本」というならわかるが藤森の草花は建築と心中しているような何処か悲愴感もあり彼がねらっているかもしれない滑稽さやアイロニーを上回ってしまっている、と私には思える。藤森のやり方は大上段に力を振りかざした「伝統」が主題ではないし、勿論モチーフでもない。それでもこれが「日本」だよといわれるとそうかもしれないと納得させられてしまう説得力をもっている。これはどういうことなのか。少年の頃打ち捨てられた炭焼きの丸太小屋の壁や 屋根に草花が生えていた光景を鮮明に思い出す。湿度が高く温暖な気候の日本ならあって当たり前の光最であろう。この当たり前を藤森は故意に再現しているのであろうか。しかし現代日本には全く見られなくなってしまった光景ではある。今では消え去ってしまったありふれた「日本」を故意に新築家屋に積極的に再現することはやはり歴史による再生への手立てなのであろうか。このような設問自体が無意味と藤森に一笑に付されそうではあるが考えてみないわけにはいかない。
ありふれた日本の中に私達の祖先は長い間生きて来た。まるで長い長い橋を渡るように歩いてきたのにここ 30年ほどの間にそれが切断され渡る橋がなくなって私達は谷底に落ち込んでしまったようである。しかもそのことに私達はほとんど無自覚なのだ。幸せに現代を享受しているがこれで本当に幸福なのかと彼はいっているようでもある。歴史とはこのようにして個人に現象して来るものなのだと歴史家藤森はささやいているようにも思える。それとも歴史家のニヒリズムか。
さてもう一人触れておかなければならない。建築表現で歴史を語るなら白井晟ーの存在を忘れることが出来ない。「広島原爆堂計画」(1955年)。直方体を円筒がつきさす極めて単純な幾何学立体とテンプルの前面に湾曲した平面のミュージアムというだけの案であるがミュージアムにはギリシア様のフリューティングがほどこされたエンタシスのある円柱が数本見えている。「歴史」を思わせるのはこの数本の円柱のみであるがこれが極めて印象的である。平滑で単純な幾何学立体の中に突如として挿入されたギリシア円柱は換喩の手法の鮮烈さを瑣憾なく発揮している。白井はこのような掬喩によって「歴史」を表現した。彼の「歴史」はギリシアの場合もあるが日本も当然同じ手法によって出来たであろう。しかし彼はそれをしなかった。斗供を柱頭に戴く円柱一本だけ起立させたインテリアによって高松伸がそれを実現して見せた。高松がこの表現手法を的確に応用して見せたということは白井の方法が如何に普遍性の高いものであったかを示している。但しこのようなシンボリズムは「歴史」と真っ向から格闘していることにはならない。
さてそれでは私が大哨浣生に与えた課題はどうか。まずは「イスラム名建築の木造化」である。私は、建築は平面と断面に表現の殆どがこめられるものであり立面は平面断面の結果に過ぎないと思っている。従って「イスラム名建築の木造化」は組積造建築の空間特性を変えずにどう木造化しどう空間を変容させるかを私は学生の答えを見ながら考えたかった。イスラム建築の特徴は多用されるドームである。これは私自身実作(「余呉町森椒霞センター」1知年等)ですでに木造化を試みていてはっきりした答えをもっていた。しかし学生たちの提案にはこれといった目新しいものはなかった。注意すべきはやはり平面である。木造化とはいえ京都市内に立地させられしかも現代に{剋廿される施設に転化させられるものであるからこれには相当の工夫がいる。たとえばモスクの空間特性を余り変えずに集合住宅に転換するといったことを彼等は課されたのである。勿論用途は彼等一人一人の自由ではあったが平面の大きさや輪郭、屋根の形状や高さを変えることは許されていないのだからこれはプロでも一苦労するはずである。
私自身モデルを創っていないのでこの結果については明確に答えられないが私ならどうしたであろうか、と自問してみる。
モスクを集合住宅に転化するとする。たとえばトルコ、イスタンブールの「スレイマニエモスク」を対象にしたらどうするであろう。組積造を木造の軸組構造にするのはプロとしてはそうむずかしいことではない。問題は平面である。中心の大ドームの下方を逆四角錐の台形に絞り込んで4周に住戸を嵌め込む断面にするのがいいかもしれない。それともドーム下の吹抜を階段状に上部に向かってセットバックして4周に住戸を嵌め込むかであろう。勿論廊下は巨大吹抜に面しているのはいうまでもなかろう。前面の回廊は吹放ちとはせずガラス壁として広大な共用空間とするであろう。但しここには共同浴場や会議室、ロビーなどがとられるはずである。
図面を一切制作せずにこのようなことを書かれても迷惑には違いないが何となく空間は想像してもらえるのではないか。こうして出来上がる木造空間は立派な「歴史」の転用ではある。少なくとも丹下健三の香川県府庁のような初歩的「歴史」活用ということにはなるまい。勿論村野藤吾の佳水園のような伝統引き写しとも違う。歴史空間の転換であることは言明していいのではないか。
4 歴史と機能
建築の機能、単純にいえば用途として歴史が直接に対象となることはまず考えられない。歴史博物館は歴史が建物の内容ではあっても「機能」は展示である。その場合に展示物が古文書であったり、歴史人物の像、遺物などその博物館の内容にそった歴史的事物ということになりこれが絵画に変わってしまうとその建物は美術館となる。これはこの種の建物の展示が「機能」であることを如実に示している。しかしこの転換を拒否した博物館例がある。リベスキンドの「ユダヤ博物館」(1998年)である。帯状の細長い平面を何回も屈曲させ上空からは巨大な文字に見えるようになっていて、内部にはその屈曲を突き刺すようにブリッジが架け渡され普通なら壁にかけられるべき展示物を見るためにそれは設けられるはずなのにそのような役割が与えられているようには見えない。それだけでなく壁面の多くには縦櫛卸もに細長い窓が穿たれ到底壁に展示物がかけられるようにはなっていない。しかも平面はやたらに屈曲を繰り返すから床置展示にもむいていない。要するにこの建物は展示を拒否しているのである。建物全体がナチスのユダヤ人迫害を表現しているのであって個々の展宗物にそれを求めてはいない。荒々しいむき出しのコンクリート打放壁も収容所の荒涼たる光景を紡彿させるはずであった。しかしこの方式はユダヤ迫害の記憶が人々の脳哩に焼きついている間はいいがやがて長い時が流れ幾世代も後になると具体的展示のないこの博物館の意味がその時の人々には理解できなくなってしまうに違いない。この恐れがあったのであろう。コンクリート素肌むき出しの壁は平滑に仕上げられリベスキンドが意図したものとは違ってしまった。それでもこの建物が示したのは表現としてのみならず「機能」としても歴史が取り扱われうるということであった。歴史対象が生々しい近代の事件であったことがこの計画の長所にも欠点にもなってしまった。ところが確実に人々の知識となっている歴史事実を対象とするならばリベスキンドの方法はどう展開されるであろうか。
実は私が大学院生に課した「鳳凰堂の細部木組の建築化」は歴史を機能対象とする試みなのだ。このようなことが実作になるには今しばらくの時間がいるであろうがもう少しすると実際のプロジェクトが始まるはずである。学生ではなく私自身である。ともあれ鳳凰堂であるがこれを仮に「鳳凰堂計画」と呼ぶ。
副孤堂の木組だけを摘出するのではなく木組を含む一部を切り取り、これを20倍に拡大した平面のものと断面のものを計画、制作するわけではあるが、建物の一部だけならば鳳l砒抵でなくても時代にそれほどの隔たりがなくしかも似たような建物ならばどれでもたいして変わりはないであろう。その意味ではこの課題は鳳凰堂又は平痴l寺代の美を機能対象としているとはいえない。しかしこの課題の目的はこうして出来上がった建物群を洛中に配置し洛中風景全体で鳳凰堂の平安美の再生をしようということであったから酎画全体の機能対象は間違いなく鳳凰堂であった。但し洛中全体に建物群を配置するのは全体計画を散漫にしかねない。むしろ、ある決まった一地区を定めてここに建物群を稲密に配置した方が所期の日的に叶ってはいる。その点布野修司が中心となって企画している京都コミュニティ デザイン リーグに参加してこれを適用すると想像以上の効果を発揮するに違いない。
いずれにしても木組を10ないし20倍に拡大して木造建築とするのであるからこの計画には木造建築の特性が入れ子になるはずである。学生の力1雨からそれを十全に表現することにはなっていないが方法としての可能性は極めて広大であるといっていい。それでもひとつの建築としてこの「鳳凰堂計画」を実践してみた場合、鳳凰堂全体が機能対象となるであろうか。勿論繰り返しにはなるがそれはあり得ない。しかし木組を含めた細部を切り取っても鳳凰堂のエスプリがあらわれ出ていないかといえばそんなことはない。細部も馴賊堂なのである。優れた建築は全体から細部に至るまで何重もの入れ子になっている。このフラクタル(無限入れ子)の特徴が細部を拡大して全体と逆転を可能にする。こうすると鳳I匹也とは一見似ても似つかないのに細部を全体に逆転して再びフラクタルとなす建築に再生する。これもやはり「鳳凰堂」なのであり、但しこの場合は「鳳凰堂」はこの建築の機能対象となっている。表現と紙一重でしかない「機能」であるのは断るまでもあるまい。
厳密にいえば「歴史」の「機能」への萌芽であるかもしれない。それにしてもこうして計画された建築はどのような用途を担いうるのか。学生達もそれには大変苦感していた。平面への適用の場合はまだしも断面適用では用途が思い浮かばないことが多かった。これは私がやってみても同じ事だったと思う。断面表現が用途を誘発するのがこの種の方法であり私自身都市再開発計画で盛んに使った手法ではある。但し「l副砒監計画」のように歴史建造物の断片を発想のモチーフにしたわけではない。
都市再開発の対象地区を凝視しているとどういうわけか断面形がまず浮かんで来た。市街地の一部を切り取ったのが対象地区であるから地区の周囲とのなじみが当然気になる。しかもその周囲をどう変容させ、活性化させるかを具体的な姿形にしてみせることを私のようなフィジカルプランナーは要請されている。そこで対象地で区を含めた周辺区域の未来像を想像する場合には断面から想定する方が楽だった。しかるのちにその断面に合った用途を考え出すとそれは的確な未来予測になることが多かった。そうして実現した計画もいくつかはあるはずなのだが私は具体的な実現案には関与しなかったのでその結末は不明である。「平面」は現実を引きずるが「断面」は未来を開示するとでもいっておこうか。特に都市建築にあってはそうである。
「鳳凰堂計画」はそのような建築群で洛中を埋め尽くすことが想定されてはいるが都市再開発の場合とは発想のlII則年が逆である。再開発では既存の市街地が計画の与件であるが「鳳凰堂」の場合は「歴史」が与件でありそれが用途を誘発しその建物周辺地区の変容を迫るのである。
少々唐突の様ではあるが現在も建設続行中で更に完成まで2①年近くかかるといわれるガウディの「サグラダ ファミリア教会」の建設プロセスも歴史が「機能」に転化している好例かもしれない。ガウディ自身は中世復興を意図してこの建物の計画をし、長い年月の建設期間を企画したのであって「機能」を意識していたはずはない。しかし短期日で巨大規模の建造を日常化してしまった20世紀の後半以降の真只中にあって「サグラダ ファミリア教会」の建造が進行中であることはガウディの意図を越えた問題を呈示しているように思えてならない。この教会が完成してしまえば多分中世の現在にも残る大伽藍と殆ど同じ様な建物としてしか認識されなくなるであろう。それがどれほど優れて劇的な空間であろうともである。中世の真只中に建造されたゴシック大伽藍はその建設に従事した人々に完成への一歩一歩が神の国への道程として時間の流れを結像させる力が備わっていた。しかし20世紀や21世紀にあってこの建物の建設に従事した人々にそのような意識が惹起するであろうか。神の国を心底から信じる人がいるとは思えない。それでもこの建造は続行されていく。となると続行だけが目的となっているといっていい。日本人の彫刻家ノトオも自分の分担が終了すればこの建造から遠ざかってゆく運命にあるようである。この建造にたずさわった大多数の人々はソトオと同じ運命を辿ったに違いないし又辿るであろう。又それで充分納得しているであろう。この建物にとって建造プロセスこそが最大の「機能」であろう。それ以外は無に等しいといっても過言ではないに違いない。
剛むの趨勢に徹底的に逆行した建造プロセスが、建築が完成することの無、味さを告示しているようである。情報が瞬寺に全世界を巡り新奇なことすらたちどころに現実化してしまう「今日」では建築は馬尺に合わない仕事であり21世紀には廃棄される分野に違いないとは石山修武の指摘である。そんな中で完成させないためにひとつの建築が営々と建造され続けていくとしたらこれの意味は何なのか。
5 「機能」は復活可能か
未完が目的とは思わないが建物の完成をためらうことを作法としているのが石山修武でありサグラダ ファミリアの彫刻家ノトオを私に紹介したのも石山である。石山から建造し続けるこの建物をどう見ているのかを聞いたことはないが彼は間違いなくこのことを強く意識している。この建築の空間の質について言及した人は多いが石山のような問題意識をもった人は多分彼以外にはいないのではないか。外国人にもいないであろう。石山は若い時から建物を完成させることをためらうふうであった。それはどういうことなのか。今「機能」を改めて問い直すに当たってこのことが重大であると私もようやく気付きはじめた。
「管平の家」というのがあるが私は実見してはない。しかしこの建物は妙に気になっていた。何年経っても完成しないことだけは聞いていたし、時折建築雑誌に建設途上の写真が発表されていたから常に記憶の片隅にこびりついて離れない。長いコルゲート チューブの家であり建主が少しずつ石山とともに作り続けているようであった。私には「幻庵」よりも実見したことのないこちらの方がどうも気になるのである。その理由は自分でも分からない。石山のセルフ ビルドは世間一般のものとは随分違っている。コルゲート チューブは工業製品であり、家の中の部品も一通りは工業製品といえるものを使う。これは「幻庵」以来の手法であり組立は建主と石山が少しずつやり続けるのも彼流のセルフ ビルドである。このような作り方はこの道に全く暗い私にはそれが常道なのかどうかはさっばりわからない。少なくとも日本の素朴な手作り派セルフ ビルダーとは違うであろう。建物を作ろうとする意識が違うのだと思う。石山のやり方は工業製品といっても使い古された廃品のようなものを建築の部品に転化しているのであってその意味では廃品の機能転化の発見をし続けるということに関心が集中しているように見える。彼は建物を少しづつ作り続ける間中モノの「機能」に直面しているといえそうである。そういえば彼はバラックに異常な関心を寄せたのも同じ位相であり実作以前の学習だったのであろう。彼が関心を寄せるバラックは廃品を山と積み上げた奇妙な空間だけではなかった。廃品がどう見事に機能転換させられているかということでもあった。むしろこちらの方への関心が強かったのではないか。これは現代美術の方法でもありその意味では特別言挙げすべきことではないかもしれないがそれを現在でも続行しているのは稀有としかいいようがない。
現在建設途上の自邸兼仕事場「世田谷村」はその集大成に違いない。いまだso代の後半である石山がこの建物で終わるということはあり得まいがひとつの集大成であるのは確実であろう。私は建築について語る時どうしても図面がないと困ってしまうがあいにく「世田谷村」には図面がない。設計図はあるに違いないのだが石山の場合建築途上はそのまま設計途上なのだから彼の建築は私には最も扱いにくい代物であることには変わらない。去年(2(XX)年)の末頃にこの現場に訪れ、見せてもらい石山からも説明を聞いた。直感的には極めて優れた建築ではある。それは間違いない。しかし目の前に図面がないとどうも何が優れているのか語りにくい。それでも丁度いい機会なのでこの建物について述べてみたい。
この建物は旧宅をそのまま建ててあるままにしておいて旧宅の外側に4本の鉄骨柱を立て、梁を渡して2階を作ったというものである。ようは旧宅の上に新宅がまたがって建っているという構図なのである。更にもとは庭だったところの地下を掘りその地下室は仕事場となっていた。勿論この部分は鉄筋コンクリートである。この上部は又庭になるのであろうが内部から見てトップライトが巧みにとられていたからこれは外部では庭石のような扱いを受けるのであろう。上部の新宅に押しつぶされそうにあえいでいる旧宅の中には石山夫人がいた。これは過酷なことではあるまいか。着工して2年以上その間夫人は建築現場の真只中で日常生活をしているのである。正直言ってよく耐えていると思った。私も自分の家を増築する時完成まで、特に足場が外れるまでは何とうっとうしいと思ったものである。私の家は小さいし期間も短かったからいいとしても2年以上、更にもう1年は一応の完成までかかりそうであるからこの忍耐は想像して余りある。最終的には旧宅はとりはらわれ新宅のl階となるのであろう。地下の仕事場には大哨浣生やスタッフがいたし2階にはスタッフが寝泊まりしているという。夫人は何時この新宅に引き移ってくるのか他人事ながら心配になったほどである。
石山の建築は全作にいえることであるがお世辞にも美しいとはいえない。破調だらけで出来上がっているのがその特徴といっていい。表現からは「建築のダダ」といっていいのではないか。但し石山の場合建築にダダが成立している唯一の例かもしれない。美術でダダが一世を風靡したのは50年代半ばから①年代はじめであり石山が建築をはじめる70年代も半ばは下火だったはずである。しかしダダの与えた影響ははかりしれない。当然私も影響を受けていた。私の建物では「オッパイハウス」は明らかにダダを意識したものである。しかし私の場合は何処までも空間表現としてである。普通なら建物の上、即ち屋根として使用されるべきドームを建物の中間に挿入しそのドームの4分の1は部屋の真只中に立ちあらわれてしまうといったことや大小2つのしかも両方とも直径がゆうに1階分もある乳房状のふくらみを外壁に装着し片輪のオッパイといってみたりした。この建物も断片的形状を比較的無操作に配置して予定調和ではない不協和な空間を現出させようとしたことにダダの影蓋があった。
石山のダダは空間が必ずしも主題ではなさそうである。というよりも空間だけではないといった方が正確かもしれない。
「世田谷村」は簡単にいえば鉄骨2階建て、2階外壁全面ガラスのミースばりの建築になりそうな基本構成である。しかし外観からも全然そうは見えない。2階の水平線は仕方ないにしても屋根は桁行方向に片流れとなっていて片方の妻側は丸みをおびた奇妙な形となって壁に折れ曲がっていた。架構がそうなっているというのではない。屋根形伏がそうなのである。石山は確かこの屋根材は特殊な布で2璽になっていて中空には空気が入れられていて断熱効果を発揮するといっていたような気がする。しかもこの屋根は空気構造にもなっているということであった。但し説明されないとそのことはわからない。というのも屋根全面がこうなるのではなく片方の要側のみなので断片的であるからだ。空気構造や空気断熱を強調するなら全面そうすべきであるが石山はそうはしない。他人の予測を嫌うのであろう。ここがダダなのだ。しかもこのようなやり方であるからいかにも片輪の屋根といった印象である。私ならとうの昔にやめてしまった表現法である。しかし石山のこのダダの仕方を見ると彼の場合、根源的にダダの作家なのかもしれないと思ってしまう。
1階の一部新宅の玄関になる場所であろうがここの壁は木造で厚さ5センチはあろうかという分厚い板をまるで校倉のように、組積造の様な仕方で作ってあった。目下のところ石山がお気に入りの部分らしい。又建物の中には足の置き場もないほどに種々様々のモノたちが置かれていた。このモノたちこそ機能転換を待っている部品なのに違いない。
モノに抒情があるというのが常々石山の建物に感じることである。どうしてなのか今まで余り考えたこともな·かったが改めて何故なのかと自問してみたい。モノそのものに抒情があるのか、それともその配列になのか。石山のような作法から最も遠い私にはもとよりわからないことではある。
まず私にとって見えるのはモノの配列である。配列によって抒情がかもし出されるのは間違いあるまい。しかしそれは石山がねらっていることではなさそうである。勿論彼はその効果を充分意識してはいるであろう。
彼の、建物のモノたちの見せる抒情はやはり機能転換と深く関わっているに違いない。たとえば煙突が屋根を突き破って立ち上がっていたとする。その煙突はもともとはそのようなモノとして使用されるモノではなく鋳鉄の配水管として作られたものであった。それがT字のエルボー付きで煙突に転化されてしまうとこのモノは見慣れた煙突とは違う表情を見せることになる。これが抒情なのだろう。石山の建築のモノたちが見せる抒情とはこのようなことなのかもしれない。これは彼自身の意識に立ち入らない限りわかることではないが私にはそう思える。
石山には「伊豆長八美術館」や「リアス会館」など公共建築でも優れたものが多いがそれでも彼の真髄は住宅であることは誰しも異存のないことであろう。本人自身も決して否定はしないであろう。石山はことさらに住宅に関心が強いと見える。その思いは何となくわかるような気がする。住宅を他の用途に転化するのは相当の改造をしない限り無理なものである。流しや調理台等厨房は他の用途では必ずしも必要ではない。夫婦寝室の個室化も同じことであろう。この本来的に用途変更のしにくい住宅を住宅でなくすること、即ち機能転換の可能性を色濃く潜ませながら住宅を作ることに彼は表現の行き先を求めているのではないか。特に彼の住宅は特異なタイプの建主のものが多い。同性愛のカップルの家などはその最たる例であろう。特異なタイプの住宅は一般住宅より更に用途変更が困難であろう。その人だけにしか通用しない平面構成だったり断面だったりするはずである。それでも石山は機能転換の可能性を潜めることに全力を尽くすであろう。そのことの困難さにこそ表現の革新性が秘められていると思っているのではないか。
もう20年ほども昔のことになるが石山は自分の作っているコルゲート チューブの家の屋根が真夏の直射日光に熱してその上で卵焼きを作って食べたと嬉々として語っていた姿を思い出す。彼は太陽熱や風力など自然エネルギーを活用して住宅のエネルギーは出来るだけ自給出来るようにすべきなのだといいたかったであろう。それを屋根で卵を焼いて楽しむことに転化する。私にはソーラーハウスの実践家、井山武司という友人がいる。彼の設計する家は卿底した自然エネルギーによるエネルギー自給の家であり山形県酒田の自邸は80パーセント自給を達している。日照時間の極端に少ない酒田でのこの自給度はすばらしい。東京や大阪のような場所なら①パーセントを越すはずである。井山には厳格な科学者の相貌がある。ところが同じことを目指しているはずなのに石山にはそのようなところは見られない。
たぶん井山の目的は自然エネルギー活用による普遍建築空間の創出であるのに比して、石山のは機能転換を潜ませた建築計画であるため極めて個別的空間へと至るようになっている、その違いであろう。まさに普遍と個別の違いなのだ。
今後の建築は自然エネルギーの活用は当然として更に徹底したリサイクルが可能な建築材料の選択が必然の道となる。これを配揺しないものは不要とされるはずである。その時に井山と石山の2つの道があることを肝に銘じておくべきであろう。どちらが優れているということではない。面白く芸術であるのは勿論石山の方である。ダダとは衝翫の全く逆であるのはいうまでもあるまい。その点私自身は観念性の極めて強い建築家であると思わざるを得ないため私はやはり普遍を逃ぷのか。それでも井山とは違ったタイプにはなるだろう。又そうならなくては意味がない。「機能」を改めて問い直すのもそのためなのである。
6 現象学と機能主義
コルビュジェは「住宅は住む機械である」と言った。まさにいいえて妙ではある。建築の機能主義をこれほど端的に表明出来たことは燈異といっていい。機能主義は合理主義の一端ではあっても全てではない。従って機能主義は近代合理主義の負の遺産を全て負わなければならないわけではない。徹底した「機能」とは建築の場合微細な細部に至るまで全て合目的に作られてあることをいうであろう。自動車や船ならば間違いなくそう作られるしそのことに誰も疑問を抱かない。それなのに建築の場合必ずしもそうはいかないと思われてしまう。コルビュジェの蔵言はそのことを如実に示している。人々の建築住宅に対する保守性に対する攻撃こそあの蔵言だったのである。コルビュジェは建築を自動車や船を作るように作るべきだと考えたがコルビュジェの時代自動車は確かに合目的的に作られていた。しかし船は必ずしもそうとはいえなかった。豪華客船の室内はまるで王宮のサロンと見違うばかりに作られていた。余分な重量を負担させていたことになる。船にすら余分を要求する人々の飽くなき装飾への嗜好はコルビュジェにとって腹立たしい限りであったはずである。ともあれコルビュジェやミースなどの近代主義の巨匠によって機能(主義)は堂々と建築の第一主題としてまかり通るようになった。とはいえ「機能」が建築に於いて徹底的に追及されたのかといえば必ずしもそうではなかった。もしそれが行われていたら建築はどうなっていたか。建築は内部に人を入れる容器であることは自動車や船と変わりはない。しかし自動車や船は動くが建築は不動である。不動であること、巨大であること、この2つが容器としての特徴でありこの特徴に即した機能追求を徹底させていたら建築は現在私達が眼にしているものとは随分違っていたはずである。建築の内部で人々は動く。この動きにそって内壁が軟体動物の皮膚のように膨らんだり縮んだりして常にその形態を一定させないことこそ肝心だったのではないか。これは住む人の少ない住宅でなら可能だったはずである。しかしそんな住宅はついぞ立ち表れなかった。必要なかったのだろうか。それとも技術的不可能だったのか。決してそんなことはない。住宅ならば事と次第によっては外壁や屋根に至るまで伸縮可能なものも実現可能であった。ところがそのような住宅は結局作られなかった。198)年代ならばこのような卿底して居住者の動きに合わせて伸縮可能な住宅が作り出される可能性があった。しかしむしろこのための技術は宇宙ステーションヘと転用され住宅にまで適用されることのないことを見極めて私などの「ポスト モダニズム」が70年代初頭から始まった。徹底した機能追求は建築には必要ないのだ。もっと保守的なものでこそ建築はあるというのが70年代以降の潮流となったのは否めない事実である。
但し私達も決して「機能」を否定したわけでなかった。建築の主題を「機能」から空間へと変転させたに過ぎない。コルビュジェが「ロンシャン教会堂」ですでにやっていたことでもある。建築で機能追求が不徹底だったのは伸縮自在な建築が実現可能だったとしても多人数が内部で動き廻る建物の場合一人一人の動きに合わせて壁などが伸縮するとなるとまるでとりとめないことになり混乱極まりない内音閲犬態を現出してしまうことになりかねない。むしろミースのように間仕切りも何もないだだっ広い一室空間にしておく方が人々のどのような動きにも対応するという至って無責任な平面技法が勝利をおさめてしまった。完全なる判断停止なのだが誰もこれに異犠をさしはさまなかった。ミース流は無責任な統計的な平均主義なのであり「民主主義」にはなじみやすい長所をもっていたからである。ところがこれが近代主義のチャンピオンとされたから「機能」追求は中断されてしまった。判断停止の無責任が近代主義の主題だとしたら誰も真面目に機能追求などしないであろう。コルビュジェがミースをどう評価したかはわからないが多分彼に対しては不機嫌だったのではあるまいか。彼の自殺もこのことと無縁ではあるまい。ミースはどうもおかしな奴である。バウハウスではあの無責任さで全身全霊生命を賭けて近代主義を創始したグロピウスを追い出したし近代主義でも近代主義の闘将コルビュジェを押しのけいつの間にか第一人者におさまってしまう。1滴の血も流さずおいしいところだけを食いちらかすのがミースでありミースの存在が近代主義を中途半端にしたといっていい。但しそうしたのは民主主義の弱点としか思えない極めて偽善的な統計的平均主義であるのはいうまでもない。ミースがアメリカに渡って近代主義の第一人者になったのもこのことを如実に示している。
私の72年の『空間変容術』によってポスト モダニズムは弧弧の声を上げた。この時も近代主義については徹底的に批判したが「機能」については一切触れなかった。私は一刻も早く建築の主題を「機能」から空間に転じたかった。但し72年当時隆盛を極めていたのはスーパースタジオの「動く都市」や黒川紀章のメタボリズムであったから修正機能主義とでもいうべきものではあった。しかし誰一人としてこれが今後の建築の主題となるとは本気に考えはしなかったであろう。
空間が主題となる場合「機能」の対象であるモノは主舞台から背後に退いてしまう。問題は人々の意識であり極めて現象学的色彩の濃い空間認識態度が要求される。このことに気付いたのは当時京都大学の教授であった増田友也の「エスノスの風景」を読んだからである。今では書いてあったことの殆どを忘れてしまったが増田が問題としていたのは空間であり空間を体験する人々の空間に対する意識であった。雑誌文章としては長大なものであったが生来哲学、文学趣味の澁厚な私は眼を見開く思いでこの文章をむさぼるように読んだことを記憶している。あの時空間を主題するにあたって現象学が有効であることに気付いたからポスト モダニズムは一世を風靡した。増田の恩恵というべきであろう。今「機能」を問い直すにあたって現象学的認識法を使えないのか、とまず思う。72年当時には一度捨ててしまった「機能」ではあるがもしあの時に現象学的に「機能」を再認識していたらどうなっていたであろうか。ポスト モダニズムがあそこまで燎原の火のようにまたた<間に世界に広がることはなかったかもしれないが近代主義は随分深化していたであろう。
それでは現象学的機能認識である。
現象学は意識が問題であるから私自身の住宅を取り上げるのが妥当であろう。「神殿住居地球庵」であるがあの建物の中で球形の茶室「地球庵」の直下に食卓を置き地球庵の南極に当たる場所には孔が穿たれた部屋の、内部の照明の光が食卓を照らすようになっている。従って「地球庵」全体が食卓上の照明器具ともなっている。設計当初はこの「地球庵」の真下の部屋は子供室として想定していた。断面計画は全く変わっていないから現在出来上がっている断面形状のままで子供室であったわけである。しかし建主の奥さんがここを厨房食事室にしたいと言い出した。しかも球の真下に食卓を置けば面白いし充分使えるとも彼女はいう。私も彼女の思い付きはいけると思った。「地球庵」全体を巨大な照明器具にしたのは私であるが彼女の提案がなかったら考えついていなかった。この例のみならず建物の設計の間か施工の最中に予定とは違う使用の仕方を思い付き細部の設計を変えてしまうことはままあることに違いない。それでもこの建物のような場合は珍しいのではないか。極めて個性的ともいえる球形の部屋の、真下の空間の使用勝手を変えてしまうには相当の強い意志が働かない限りなかなか出来ることではない。あの場合建主の奥さんの意識が重要なのだ。ここは一番いい空間であり46時中家にいる自分の空間にすべきであるとまず彼女は考えたという。
地下にめり込んだ空間であり私には窓も採れず暗くてうっとうしい場所ではないかと思われていた。それなら夜しか使用しない主人の普斎か、せめて子供部屋ではあるまいかと思っていた。しかし奥さんには暗くうっとうしいなど眼中にはないらしい。確かに隣接する部屋を居間として続き部屋にしてしまえばそこから光が入ってくるように出来るからうっとうしさは緩和されるには違いない。とにかく彼女の場合空間の断面形伏から「機能」を編み出してしまった。しかもおよそ常識から離れた意識においてである。彼女にとっての厨房は単なる調理の場所ではなかったようである。食事室の直上の「地球庵」がまるで巨大な妊婦の腹のように垂れ下がって来ている真下で食事することの面白さが調理の意味すら変えてしまったということらしかった。「機能」を意識を通して見るというのは彼女のような態度というのかもしれない。通常「機能」は常識の表出として捉えられる。食事するための食卓、寝るためのベッド、そのための空間が寝室といったように「機能」は誰にでも理解出来る現象である。それなのに幾分か常識でない意識が働いて調理が変容されると厨房までも常識からは離れていってしまう。それでもこの食事室兼厨房は当たり前の「機能」を十全に果たしている。
「神殿住居地球庵」は特異な空間が思いがけない「機能」を生み出した例ではあるが「機能」が意識の対象となることも示している。近代合理主義の一端としての機能主義は明らかに機械主義であった。手や足等人間の機関の代替として、しかも人間の機関が果たすよりも圧倒的に早く正確な道具や器具を生み出す機械こそ機能主義の象徴であった。その場合には「機能」は意識の対象にはなり得ない。建築に於いて「機能」が意識の対象となるのは石山修武が一貫してやって来たモノの機能転換か特異な空間が思いがけない「機能Jを生み出すときに限るであろう。但し「神殿住居地球庵」では特異空間が思いがけない「機能」を生み出したが必ずしもそれが特異な空間である必要はない。
要は機械主義に陥らない機能認識が重要なのである。人間の機関の代替だけが「機能」ではない。{可でもない灰皿でもタバコを吸って灰の受け皿として何故これがここにあってこうなのかと問いはじめた瞬間に「機能」は意識の対象となっている。
7 仮想現実と機能
「空間が意味を持ち得なくなるとしたら、それは構成に原因があるのではなく、空間が空間を体験する人々に現象する、その仕方に何らかの破局が認められる時である。ある空間をたとえば暗く歪んだ空間であると意識する時、この空間は私にとって意味を持ち得るけれど、ある空間が私に何の印象も、また以前の経験からは何の脈絡も感じられない時その空間は私にとって意味を伝達しない。従って模倣や剰窃による創作行為によって創られた空間も空間体験者に対して現象する仕方に破綻がない限り、決して意味論的に病んだ空間とは言い難い。もっと単純化して言えば、模倣や漿ll窃は創作主体の問題であっても、空間体験者の問題になり得ることは少ない。」(『空間変容術』『SD』72年3月号)
『SD』誌72年3月号に掲載された400字詰原稿用紙80枚を越える長大な拙文の一節であるがこれがポスト モダニズムの引金となった。建築の主題を明確に空間とし、空間をそれを体験する者の意識の対象として捉えて意味論を構築していく方法を提示した。もしこの時意識の対象を空間ではなく「機能」としていたらどうであったろうか。この文章がこれ以後巻き起こるポスト モダニズムの潮流の起爆剤となるような役割は勿論果たしえず、せいぜい修正機能主義の一文として幾分かの意味を持ちえたに過ぎないであろう。この拙文の中で書いた記憶がある。
「空間の変容は一般的には物体としての現存する空間と体験者に現象する空間の形象の違いが明確になる時点において顕わになると言える。もっと具体的には現実に四角で何の変哲もない倉庫のような空間において天井からぶら下がった首吊死体を発見して一瞬にしてその空間が歪み、内壁の白は恐怖を誘う色彩と化してしまう。このような現象を空間の変容と呼んでいいだろう。従って空間体験者の心的現象における空間の変容と考えてよい。」(『空間変容術』)
このような空間体験者の意識によって空間の意味を探りそれを空間創出の出発点とする。これは空間の現象学的創出法といっていい。そのもととなるのは勿論「空間の現象学」である。これを「機能の現象学」としたのが前章の内容であるがこれを書くのに30年の歳月を必要としたのは{覗攻なのか。RIAを辞してから私は藤田邦昭の「都市問題経営研究所」で都市再開発の計両の手伝いをしていた。この仕事は都心に住む人々の経済的欲望がむき出しとなり欲と欲とが激しくぶつかり合うすさまじい現場であった。私はフィジカル プランニングの担当者ではあったが何度かそのような現場に立ち会う機会があった。これが都心の現実でありドキュメンタリー文学作品が成立するにはまたとない生々しい現実ではあった。建築の主題が「機能」である確信が もし私にあったら都心現実をドキュメンタリーの手法を駆使しながら建築計画に結実する努力をしたであろう。し かし前述したようにおよそ建築にとっては、本質的とは言えないメタボリズムなどの修正機能主義が全盛であっ たし、ミースの無責任近代主義にもうんざりしていたこともあり、いさぎよく都市から撤退する決意をし「空間変 容術」をそのマニフェストとして書いた。これ以後私は住宅設計に没頭し80年代後半からは離島寒村の公共建 築へと移っていった。その間一員して追求して来たのは「空間の現象学」である。しかしーカ月足らずの間に 引き続き起こった95年の阪神大震災とパートナーの構造家川1畷冨則の死をきっかけとして建築設計の現場か ら故意に遠ざかってしまった。ブランクともいえるこの5″-U年間にモダニズム リバイバルがあっという間に世 を席巻してしまった。この傾向はどうなるのかはっきり言って不明ではあるが私にはどうでもいい現象ではある。私が離島寒村に設計対象を絞り込んでいったのは現代建築による海辺山村田園風景の活性化に主眼があった からである。「龍神村民{本育餡」が学会賞に選ばれるとそれまで見向きもされなかった離島寒村は建築家の草 刈場となってしまった。それは今でも続いているがモダニズム リバイバルが何故そのような場所に必要なの か全く理解に苦しむことが多くなってしまった。ともあれ95年の2つの事件をきっかけに私にとっての「離島寒 村」は終わった。開始者の私が終わったのだからその意味は今や無に等しい。というよりも濱t島寒村」には 明らかにマイナスであろう。
都市から撤退して30年、見渡す限りの荒涼とした風景を都市は呈している。今が最もひどい状態である、と私には見える。都市に関しては国によって事情が違うため単体の建築のようには一律にいうことは出来ない。従ってこの場合は日本に限ってのことである。
東京有楽町の「東京フォーラム」を磯崎新は粗大ゴミと酷評したがその当の本人の東静岡の巨大ホールも同様かそれ以上に粗大ゴミである。何故あのような粗大ゴミが!l懃釘もなく設計されていくのか。これは建築家の都市認識に対する重大な欠陥を露呈しているに違いない。何か重要なことが欠落しているのだ。たぶん機能認識に問題があるのではないか。都市は種々様々の事物や情報が複雑に絡み合っているからこれを整理再構成するには「機能」に着目するしかあるまい。しかし現在まで都市風景を形成して来た建築群や高速道路や河川堤防、楢梁等は近代主義の機能概念に沿って作られて来てこの破綻である。当然近代主義の機能概念では立ちいけないことがはっきりしている。それでも「機能」は都市にとっての中心課題であり続ける。私ははっきりと都市戦線に復帰してみようと思う。そうなると必然的に「機能」が主頓となる。そう思ってここまで書き続けてきたが残すところ仮想現実と「機能」がどう関係し合いうるのかということのみとなってしまった。
去年(2(XX)年)の末、石山から聞いたことであるが若い建築家達は現実の建築を作ることに殆ど興味を示さなくなっているという。彼等はCGの中の、バーチャルリアリティの建築で充分満足しているのだそうである。これは世界的傾向であるという。また「グッゲンハイム、ビルバオ」の予想を越えた反響に気をよくしたF ·O •ゲイリーはありとあらゆる曲面を多数の弟子達にCG画面に出させそれを建物の部分として使用し圧倒的多数を集合させてひとつの建築に纏めあげる設計方法を編み出し仕事の注文に追い廻されているとも言った。CG の威力をいかんなく発揮させた設計法をゲイリーが確立したということらしい。その代わり「グッゲンハイム、 ビルバオ」のようにまるで使えもしないチューブ状の空洞が単に外観の特異さのみに立ち表れているに違いない。表現のための虚偽の断面である。彼の設計法は極端な「空間の張りぼて」である。張りぼてが正当な建築に採用されたことは洋の東西歴史上一度もないからやがてこの方法もうたかたの如く消えてしまうであろう。しかしバーチャルリアリティはこの場合とは意味が違う。ルドーやピラネージのような建たない建築も間違いなく建築には違いない。但しこの建築は永久に使用されることがないからゼロ「機能」の建築とでもいうべきなのか。当然ゼロ空間の建築であるしゼロ材料の建築でもある。それでも「水車監視人の家」などと題をつけられた家の絵を見ると平面図も断面図もそろっているせいかこの建物が現実に建っている姿を想像しどう使用されるのかも想像出来てしまう。そういう意味では仮想の「機能」が浮かび上がって来る。それでもルドーやピラネージは手書きの建築であるからその作品の数にはおのずと限度があるがCG建築ならば無数といっていい作品が可能である。しかも種々様々な局面の空間描写が可能であり動画すら容易であるからこのバーチャルリアリティの精度は現実を写真にしたり映像にするものと大差がない。この場合に想像される「機能」は果たしてありきたりのものだけであろうか。決してそうではあるまい。何か想像も出来ない「機能」が浮かび出してくるのではあるまいか。CGの可能性はここにあるのではないか。決してF·O ゲイリーの方法ではあるまい。 CGは空間を発見する道具ではなく「機能」を発見する道具であるだろう。バーチャルリアリティもそのような可能性があってこそ真のリアリティを獲得することになる。
仮想現実が現実の代替をするのでは意味をなさない。現実を越えてこそ意味があろう。
「機能」は極めて現実的な概念である。しかも新しい「機能」自体は日々生み出されてゆくものに違いない。仮想現実には現実の「機能」がないのは当然であるが仮想された「機能」が現実世界の中では特別に発見的な形で立ち表れては来るであろう。こうなると「機能の現象学」とは紙一重ではあるまいか。意識と仮想の違いだけなのだ。このことがCGによる仮想建築の制作にあたっては重要な留意事項とはならないか。
8 機能概念の転換
「機能」は現象学のフィルターを通って概念転換の過程を全て終了したであろうか。実は最後の最も重要なフィルターが待ち受けていた。ユング心理学である。これを通過しない限り概念転換が行われたとはいえない。
仮想現実と意識とは紙一重であるといったがこの紙一重も見掛けのことであり相当の懸隔がある。仮想現実は如何にもありそうな無数の仮象の断片を寄せ集め構成して出来る画像であるから画像自体に深度があるわけではない。ところが意識には表層から深層まで何屑もの重なりがあって深度を有する。この違いは無限に大きいとすらいえる。この意識の最深層に照明を当てたのがC·G ユングである。何事も性欲に結びつけられたフロイトの無意識はユングにあっては中間層に過ぎない。父を殺し母を犯すことを欲求する無意識エディプスコンプレックスも中間層なのである。ユング心理学のキーワード「元型」についてはすでに簡単に説明したから繰り返しはしない。「機能」がユング心理学を通過するということはこれが「元型」になりうるかということであるのはいうまでもない。以下その検証である。実はこれが至難の技なのである。まずは最近手掛けた自作からそれをはじめるしかあるまい。「トルコ国立民族隙物館」(1匁5年~)これはトルコの首都アンカラの中心にある広大な都市公園の中に計画されたものである。アンカラはイスタンブールの陰に隠れて余り知られないが40′.)万人を越す巨大都市である。そのシンボルとしてこれは考えられている。
古代中国の最初の統一国家は始皇帝による秦であるが始皇帝は北方に蝠鋸する匈奴はトルコ系騎馬民族だった。中国北方現在の南シベリア一帯に彼等は居住していた。この匈奴は分裂を繰り返しある時には鮮卑として北中国に北魏(423~534年)をつくり純然たるトルコ人としては突蕨帝国(552~657年)がありこれも南シベリア一帯を領したが分裂して東西に分かれ、東西帝国とも滅亡後次第に西進し1037年には現在のトルコのある場所にセルジュクトルコ帝国を創り紆余曲折の後1405年にオスマントルコ帝国に変わって現在に至る。トルコ民族はおよそ12(X)年かけて極東アジアから極西アジアにまで移動したことになる。移動した範囲はユーラシア大陸の半分以上に亘る。このトルコ民族の歴史博物館ということであったから私は長さ8(X)メートル、巾①メートルの極端に細長い建物を想定した。トルコ民族移動の「道」を建築空間化しようと考えたからである。しかもこの建物は一直線で入口から出口まで一方的に進む展示空間であり一度地下に降り又上がるが入口から遥か彼方に出口が見えるようにした。地下階まで降りきったあたりは1階2階と言十3層になっているが巨大吹抜の両側を進むようになっているからこの展示スペースは基本的には一室構成である。
私はこの建物の構想の軸として「道」を意識した。当然空間としての「道」である。
遠くエジプトの新王国時代にカルナック枡澱でも「道」は見事に空間化され、この神殿の総長は伯)メートルはあろう。「カルナック」以来「道」が空間化された建築は数多く建てられたから道は建築空間としては元型として意識されて来たといっていい。隊商や騎馬民族などの移動民にとっては「道」が人生の空間そのものであり彼等が建築を構想するとき無意識裡に「道」を空間化していることが多いようである。中央アジアから西アジアにかけての騎馬民族系都市のバザールは明らかに道が建築空間化したものでありどの都市でもここが最も建築空間として質が高い。少なくとも移動民か、かつて移動民だったものにとっては「道」は元型空間である。移動民でなくとも人々は先祖以来「道」を作らなかったことはなかったはずである。「道」は文明発生以前にすでに作られていたに違いないから人類にとっては根源的空間であるといっていいであろう。ということは「道」は元型空間であるということである。しかし「道」は決して3次元的であるとはいえない。むしろ大地に刻まれた線であるから一次元空間であり空間としては3次元空間に比べて印象度が遥かに弱い。
やはり「道」は人々が移動する線であり空間として意識されるよりも移動という「機能」の方が強く意識されるであろう。「道」は空間としてよりも「機能」として元型化され易い。私は「トルコ国立民族陣物館」を「汎ユーラシア文明センター」として構想し「道」を空間化したには違いないがよくよく考えてみればこの建築にあっては道機能こそが強調されるべきである。入口から遥か彼方の出口が見えるという建築構成は一直線の並木のトンネルをイメージしているのでありその限りでは「空間」が強く意識されてはいる。しかし私の無意識には巨大な廊下を展示空間にしようとしていてこの巨大廊下は当然憎遥i」という「機能」がイメージされている。この建築では空間が表層意識に浮かび上がっていて深層の意識である無意識に「機能」が潜んでいたといえる。
次に「メッカ巡礼者用宿泊施設」。この建物は「トルコ」ほどには「機能」が元型化してはいない。
たった20ヘクタールに10万人が宿泊するという強烈なプログラムなのである。ヘクタール当たり5(JJJ人の都市を想像してみてほしい。ヘクタール当たり1ぽ)人でも超高層住宅を林立させないと出来ないものである。それなのに建物は12階建てまで、2万人が同時に礼拝可能なモスクもこの中に想定されていた。10万人の宿泊施設であるから明らかに「都市」である。デパートから個々の店舗までの商業施設や業務施設、バスのための交通施設上下水道センターなど都市に必要なものは殆どそろえなければならない。但し宿泊室は集団部屋もあってしかも自炊出来る簡易宿泊施設である。とはいっても個室も相当数要求されていた。要はこの計画のプログラムは「超高密中高層都市」の設計ということである。又メッカの市内に立地するから「インナーシティ」でもある。種々様々の「機能」がスシ詰めになったがんじがらめの計画設計条件である。
簡単に言ってしまうと地下に交通センター、上下水道1緬文、1階から7階までと8、9階2階分を全面吹き放ちの屋上テラス、10、11、12の3階分を特別宿泊ゾーンと定めた。条件に長期使用と短期使用の2ゾーンが設 定されていたからでもある。建物下部は厳粛な正方形グリッド平面としその上部にイスラム紋即風の住居ノーンを架構させるという空間構成をまず構想した。上部と下部の平面形が違うためそれを連結する縦動線の設定は相当のエ夫がいる。上部は縦動線のシャフトが柱の役割をし、シャフトからシャフトまでのスパンは1(X)メートルを越すものもあり橋梁の技術を使うこととし建築空間は巨大なガーダーの中空である。こうして説明してくるとまるで機能処理に終止している感があろう。このような建物の計画は錯綜する機能の処理が出来なくては成立しないから当然なことには違いない。しかし私はこの計画で主眼にしたのは、機能処理は当然のこととしてやはり「空間」である。とはいえ空間イメージが出来たところで具体的にそれが十全な建築内容となるように構成システムを考案する必要がありこれは松本正が担当した。松本のシステムは大変優れていて空間表現のみならず錯綜した機能処理にも威力を発揮した。いずれにしてもこの計画の最大の特徴は7、8階2階分の吹き放ちをはさんで上下部分の平面形が違っていることであろう。上下で平面の構曲即浬が違う。上部は下の道路すら覆ってしまうイスラム紋様の空間ネットワークであり上空からこの建物を見下ろすとまるでアルハンブラ宮殿のタイルの紋様を見ている様なはずである。というよりもこのイスラム紋様はアルハンブラ宮殿のタイル紋様をそのまま拡大してあるのだ。そう見えるのは当然である。イスラム紋様は幾何学図形の組合せであり森の中の蔦が絡み合っている様を抽象化している。森を喪失した砂漠の民の森林欲求が紋様となっている。その意味でイスラム紋様は元型である。密教の曼荼羅と同じことであろう。元型である紋様を空間そのものとして織り込んだ建築は間違いなく元型空間である。胎臓界をそのまま立体化した曼荼羅であるアンコールワットがそうであるてのと同じであり私の「メッカ」は立体イスラム紋様としてそれは元型空間なのである。このことはいいとしてもこの建物の何処が元型機能なのか。それは浪縮都市であることに尽きる。道は移動を「機能」とする元型空間であるが道にあっては「機能」の方がより元型的である。都市も集住が「機能」である。しかし元型として都市を意識した場合には梱密な集住でない限りそれらしきものは結像しない。ニューヨークの摩天楼の林立風景が元型なのは、この理由による。それ故にこの都市風景が人々に強烈な印象を与える。「メッカ」は充分に「機能」を元型としている。
ビルバオのグッゲンハイム美術館を評価出来ないのは「機能」が軽視されているからである。近代主義そのままの「機能」を言ってないことはよくわかってもらえたであろう。しかし凡庸な建築家達はF·O ゲイリーの設計態l裟又は設計方法こそ21世紀的であると感心する。偽物は何処までも偽物でありそれ以上にもならなければそれ以下にもならない。20世紀の近代主義のユニークなところは「機能」を主題としたことである。それまでこれが主題とされることはなかった。ロマネスク、ゴシック、バロックでは主題は一貰して空間でありロココは装飾、日本の数寄屋にいたっては山水そのものである。そう思うと初世紀の出来事は双刃年を越す建築史上初めてのことだったのである。
それでも「機能」が深化するためには現象学やユング心理学を通過する必要がある。このことは肝に銘ずべきである。
私は拙著閲蛮Eのマギ俄舒粉』(角川書店、2(XX)年)で21世紀文明の主圃屁念は「礼」であると書いた。高度科学技術を文明の首座に据えた20世紀文明が2度の世界大戦を引き起こしたのは高度科学技術の成果を試してみたかったからに違いない。21世紀はこれとは逆に「平和」が主題となりぞの身体的文化装置として中国古来の[礼」が再評価され文明の首座に据えられると予想した。この「礼」が建築空間化して無限入れ子を想定する重層空間を呈示した。「礼」が礼儀や儀礼化して堅苦しくなることを避けるため音楽を伴うのであるがそれを「礼楽」と言うように重層空間を創出するには瞑想を必要とする。音楽も元型に膨直するように瞑想も元型を誘い出す。ただ私は3重応答方式というのを考案している。パロールと瞑想と重層空間の3重の相互応答を経て「礼」が建築空間化されるとした。「礼」の基本は二人の人間が対面するとき2メートル以上離れることでありこれは武闘になることを禁じたことなのだ。平和の身体的文化装笹とはこのことを言うのである。「礼」は身体言語でもあり儀礼、礼儀、行儀といった入れ子構成であり最上位置に聖王の言動がある。詳しいことは『マギ』を参照してもらうしかないが「礼」の入れ子構造をそのまま建築化すると重層空間となるのだがこれも瞑想とパロールとの相互応答を経ない限り元型空間となりえない。しかし私はここにも「機能」を持ち込むべきであった。「礼」自体は平和のための身体的文化装樅であるからこれぞ人類にとっての元型機能であったのだ。重層空間の最重要機能として「礼」が潜在していると考えるべきである。「マギ」では直屈空間と「礼」を分離してしまっている。もともと「礼」から構想したのが重層空間だったのだからこれを切り離すことはなかった。但し「礼」を「機能」とするのは極めて難しい。「礼」そのものを21世紀的に再構成する必要があり少なくともそれは建築家の私の任ではない。それでも機能イメージの中に「礼」が最重要位置を占めるという事はそれほど難しいことではない。私達日本人には中国人同様「礼」は血肉化しているからである。勿論朝鮮韓国の人々にとっても同じことである。「礼」が東アジアだけのものではなく世界概念となるに違いないからその時こそ私達の本当の出番なのかもしれない。
9 都市の中のバイオプログラム
「庭園曼痴疇市」がそれまでのあまたの都市像と違うのは都市全体を庭園として造りその上に道路や建築を配置していくということである。コルビュジェの都市像がピロティから全てが始まっているように私の都市像は庭園が全ての始まりなのである。しかもその庭園も日本の伝絢庭園の手法である「縮約」を駆使したものを想定している。この都市は経紺度1分分を単位として成立しているが一単位全体に日本列島の一部をl(X)分の1に縮小した地形を嵌め込み庭園とする。直径1キロの湖なら10メートルの池となり深さがもし1(X)メートルなら 1メートル、1(XX)メートルの山がその湖の近くにそびえているとしたら池の側に高さ10メートルの築山が配置されるといった具合である。勿論縮小された地形も庭園として無理の無いようにある部分は省略されたり全体的に抽象化されたりはする。要は平坦で変化に乏しい市街地に起伏をつけ変化をもたらそうというのではあるが都市の地が庭園であるというのが重要なのである。通常の都市なら市街地を毅う建物群が図であって公園や庭園は地となっている。これを逆転するのである。「庭園曼荼羅都市」では建築や道路が両界曼荼羅のどちらかに近い配置となって一単位を形成するようになっているがなにせ神戸の全体像を作製することに主眼があったため個々の建物についてはそれほど考えることはなかった。しかしこの都市像に合致した建物はどうあるべきかを想定していてよかったと今は思う。建物の機能種別には関わりなく全ての建物は緑で覆われていることを
輯是とすべきであろう。この思いがこの計画の発表以後に計画した北九州市の再開発ビルに結実させた。建物の屋上は勿論のことファサードにも樹木を植え建築の全面を樹木で毅う「緑の立体格子」を考案している。「庭園曼荼羅都市」ではいかなる種別の都市や単位であろうと居住人口密度は1ヘクタール当たり200人と固定しているから商業や業務施設の多い単位(「商業単位」「業務単位」)は「住居単位」よりは遥かに高層の住宅を必要とする。高層又は超高層の住宅でも緑を必要とするのはそれが人々の健康な生活のための最低条牛であるから居住空間である以上当然のことであろう。しかしこれは何処までも目に見える都市風景として現出しているに過ぎず、このような都市を創出した場合に緑の供給維持管理などがたちまち重要な事項となって市民の負担となって来よう。このことがスムースに運営されない限り私の計画したような都市は現実性をもたない。この運営方式をも含めた都市の生命サイクル計画を「都市のバイオプログラム」と呼んでおきたい。
今私が述べているような都市を実現しようとすると建物に装着する樹木は普通なら花升、植木の類であり、端的にはそれを巨大鉢植えにして建物の壁面を覆うことになる。勿論室内の採光にさし支えないよう細心の注意はいる。そうすると当然のようにこの空中庭園用の種苗を開発する必要があろう。超商層の屋上庭園も含めて強風に強い花升、植木が必要とされるからである。ここにバイオテクノロジーが要請される。そうして出来上がった花舟、植木も風によって種が散乱しこれが地上に繁茂して自生種の植物の生態を破壊するのでは何の意味もない。そのようなことの起こらない種の開発がいる。「庭園曼荼羅都市」でも強調したように日本の市街地人ロが低密度に家屋が散漫に拡散しているため土地利用の効率がすこぶる悪い。これを集中させ市街地は土地の高度利用をし、現在の半分以下に縮小して残余の部分は農地禄地に還元すべきである。そうなると都市の建築は高層乃至は超高層化する。その時の、緑のありようを想定しているのである。都市の市街地がこうなったとき問題は緑だけではない。自然エネルギーによるエネルギー自給建築とするためには太陽光利用を考感して建物の南面には大きく開口をとっておかなければならない。風力の利用も必要である。こうなると植栽に必要な建物壁面は東西と北面になりこの面でも充分に生育可能な種の開発もいることになる。更に建物を構成する材料は細部に亘るまで例外なく全てリサイクル可能なものとしなければならない。それに老朽化した建物からリサイクル材を作り出す都市機能も重要となる。都市は人々の集住する場所、以上のような緑とエネルギーとモノのサイクルが目まぐるしく回転しているのを有機都市、オーガニックシティ、又はオーガニシティといっていいであろう。但しこの命名は大島哲蔵による。このような都市はエコロジーとバイオロジーを重ね合わせた
「機能」を主軸とする。大島はエコロジ一のエコ(eco)はエコノミーのエコ(eco)でもありリサイクルなどは2つの概念の結びつきを典型的に示しているという。いずれにしても「緑の立体格子」を装着した建物で埋め尽くされた都市には「緑」を供給運搬する企業が成立することになろう。この「機能」を併せもつ不動産業も成立するのではあるまいか。勿論そうなるためには「緑の立体格子」の装着を法で義務づける必要はある。今ここで述べていることは何ひとつ目新しいこととはない。むしろ卿腐ですらある。それでもこのことが真剣に検討され論じられないのは私達日本人の市民意識が至って低いままであり続けているからであろう。例えば井山武司は世界に誇るべき存在であるはずなのに余り人に知られることもなく彼のソーラー技術は遅々として普及しない。彼自身の宣伝下手も原因には違いないが本来こういうものは本人が宜伝するものではなく誰かがすべきだとは思うがそのような人はかつて現われたためしがない。たぶん私達日本人一般が目先の経済活動のみにとらわれエネルギーや地球環境に対する危機意識が稀薄なのだ。
60年代の後半一世を風靡した黒川紀章などによる「メタボリズム」は都市や建築を生物の代謝機構のアナロジーとして捉え都市のインフラ、建築の構造を動物の骨格にたとえ目まぐるしく代謝を繰り返す細胞を都市では個々の建築、建築では部屋にたとえた。その結果実現したのは個室がカプセルである「カプセルホテル」だけであった。あれはモノの消費のシステムを生物の代謝機構にたとえただけのことであり大菰消費社会の代弁に過ぎなかったから都市を生命のサイクルそのものとして詔識しようとすることとはまるでかけ離れていた。都市の最大の課題は今や運搬などの交通でもなければ情報の流通でもない。これは人々が集住する都市としてはあって当然のことであり建築の場合の「用途」私の言葉では表層機能と変わらない。むしろ重要なのは都市に棲息する私達人間を含めた生物一般と建物や道路などのモノとの関係である。日本のような狭い国上、しかも居住可能な平地の少ない国土の都市ではこのことが深刻な課題となる。世界の爆発的人口増大にあってはどの国、民族であっても食幅自給が第一の課題になることは火を見るより明らかである。そうとなれば市街地を出来るだけ縮小し牒地緑地を増やすしかない。これに対する解答が「神戸21(X)、庭園曼荼羅都市」だったわけである。とはいえこの時私自身の専門である建築に関しては殆ど言及しなかった。都市構成の要素のひとつとしてダイアグラム化されていたに過ぎない。この「建築」の欠落を補ったのが「再生平安京」である。木造建築のネットワークがクモの巣のように都市全体を覆うわけであるがやはり木造こそ私達日本人には最もむいた建築方式なのだ。木造建築は私達の寿命とほぼ同じくらいの耐用年限を有するし腐朽などの欠損した部分さえ新しい木材に取り替えればlOO年以上も使用可能なのだ。これは伝統的木造家屋が証明してくれる。但し木材のみでは限度があろう。高層、超高層建築を木造にするには想像を越える巨大柱や梁を必要とし集成材でまかなうにしても限度がある。構造には鋼材の使用が不可欠となる。鉄は木材同様リサイクル材であり問題はリサイクルの周期であるがもっとことを簡単にすれば、材料としての寿命が木と鉄で同じであればいい。しかし必ずしもそうはならない。この材料の寿命の違いを考慮してなお鉄と木を併用できる建築をしかも高層、超高層で考案しなければならない。このような鉄と木併用の混構造の建築が「庭園曼荼羅都市」では必要なのだ。しかもこの建築は「緑の立体格子」を装着し屋上庭園をも設罹しているのはいうまでもない。こうした上で本 当の意味の「都市のバイオプログラム」ははじまる。これは人口密度が高く、建物が桐密な都市にこそ必要な計画、運営概念なのである。F·L ライトの「ブロード エーカーシティ」のような牧歌的な「農園都市」にはそれほど必要とされはしない。
10 大阪の再生そして東京
大阪の政治、経済的位樅の地盤沈下がいわれて久しい。勿論東京に比較してであるがその格差は年々増大している。政治や経済は私の領分ではないからこれには手が出ないが都市や地域の空間構成をどう改変すれば大阪が再生できるかは考案可能である。基本は政治経済ではあるが空間、わかり易くは風景の改変が人々に与える影響も実は予想以上に大きいものである。
大阪市の再生もまずは空間からとすれば原理的にはここも「庭園曼荼羅都市」としてであろう。但し大阪は豊臣秀吉が町割した時の縦横無尽の堀を特徴としこれを基軸として構成されて来ていたのに戦後自動車交通の利便のため次々と埋め立てられ今は殆どその姿を消してしまっている。上部に架橋された高速道路を取りはらってでもこれを全面復元する必要がある。というよりも高速道路こそ近い将来不用となろう。いずれにしても堀こそ大阪の都市風景の元型なのである。ヴェニスがそうであるのと全く同じことである。まさに「水の都」に返すべきなのだ。「庭園曼荼羅都市」は緯度経度1分分を一単位とするから堀の全面復元以外は、町割りは一変してしまう。鉄迦裂泉も変更している。それでは実際にそうしなければならぬのか。そんなことはない。大阪の「庭園曼荼羅都市」になるべく沿うように都市空間を変容させていけばいいのであって町割や鉄道は基本的に今のままでいい。大阪の場合「庭園曼荼羅都市」はどこまでもモデルに過ぎない。大阪は神戸と違って歴史都市だからである。
しかしこの計画だけで大阪のエネルギーは復興できない。フッフツと沸き上がってくる商都としてのエネルギーを空間的に再生するとすれば以下の工夫がいる。これは思いつくままにほぼ一年前にメモしたものではあるが今再読してみても基本的には改めるべき個所は見当たらない。
大阪線型再開発構想 関西空港から梅田まで,
府民構成の変革 移民特別区域として
大阪府下には大阪市内猪飼野地区を中心に在日韓国朝鮮人の居住地が密集し日本の他地域とは違った住民構成をなしている
要するに大阪府民は他国籍人に対して極めて寛容であり閉鎖的日本の精神風土とは違った精神榔造を有している日本は島国のせいか他国籍人が流入して来ることに対して極度に警戒し閉鎖的である
限られた国土に外国人を無制限に受け容れることは日本人自身の貧困を招く危険がありこの閉鎖性もやむを得ないと言える
•しかし今や世界は一国のみが自閉出来る時代ではない
経済のグローバル化がその典型例であり日本もその恩恵に浴して現在の富裕をかち得た従って何時までも外国人の流入を拒否する閉鎖政策を固持することは出来ないであろう。
•と言っても彼等の無制限の流入も困る
•このアンビバレンツを打開するには日本の特定の地域に移民特別区域(以下特区)を設定し特区外への移住を禁じればよい
移民特区として最もふさわしいのは大阪府全域であろう。ただしこの場合移民には年令以外には特別厳しい制限を設けない方がいい多分最初に移民して来る層はアジアの貧困層であろう
•これを低賃金労働者として受け容れること住宅を無料で貸与すること
勿論能力のある者に対してはそれ相応の待遇をすべきことは言うまでもない
真の意味の国際交流
貿易等の経済のみのグローバル化には限度がある
当然人的交流を含めたグローバル化こそ真の国際交流であり移民の受け容れはその端的具現化である大阪府の全人口の5割近くが移民で占めるようになったら大阪府はまさに国際地区となるであろう
;~ここに移民若年労働者屈が集中すれば当然大阪府全域は異常な活気を呈するに至るのは明らかである
•そうなれば経済の活性化など立ち所に実現するであろう
大阪府全域の商都化、上海化
- 2 年現在中国最大の商都上海はたかだか7~8年でまるで見違える都市に変貌した浦東地区のみならず旧市街地全域に亘って再開発し超高層ビルが林立する
•このことの成功、不成功はもう少し時が経ってみないとわからないし況やその是非については今論じられるものでもない
重要なのは事実である
- 2 年現在建設プームは一段落し経済も一時停頓しているように見える
しかしこれは一時のことであり近い将来この東京のs.倍以上はあろうかと思える巨大空間及び建築ヴォリュームの中で人々が生き生きと活動する時がやって来る
•ここは世界商業の中心となり得る都市空間として整備し終えたのは確実である
大阪も商都、上海に敗けないだけの空間、建築ヴォリュームを構築しなければ永久に蘇生出来ずマイナ一都市として沈没したままになってしまうであろう
大阪府全域を移民特区化し活性化し同時に積極的に都市再開発を推進すべきである移民特区化と都市再開発は大阪蘇生活性化の車の両輪なのである
- この2つが成功すれば大阪府全体は間違いなく上海と並ぶ世界の商業の核都市となるはずである大阪府の人口8OO万はその意味ではむしろ少な過ぎるきらいすらある
•その不足を移民で埋めるのである
線型再開発
現在I少子化が進みこのまま推移するならS0年も経たずに日本の人口は半分以下になると予想される日本の国土からすれば現在の半分ほどの人口が適正規模であろう
•しかしそうなると経済的活力が衰退してしまう危険もある
•これを補うのが大阪移民特区化構想である
大阪の一点のみに猛烈なエナルギーを集中し日本全体の経済活力の衰退をふせぐのである
•それが堺以来の歴史的商都大阪の役割である
•世界的人口爆発により近い将来食糧問題が深刻化して来るであろう
当然自給自足が求められるようになり日本も無秩序に拡大した市街地を縮小し市街地の過半は農地に還元する必要に迫られるであろう.


大阪「庭園曼荼羅都市」と「線型再開発」
- これに対処するには市街地の人口密度を上げる必要がありlヘクタール当たり1(X)人の東京ですら現在の2倍にしてもパリ並みである
従って日本全土の市街地人口密度を2倍とし人口の自然減で半減するとすれば市街地面粗は現在の4分の1に縮小出来る
従って現在の市街地の4分の3を農地に還元すればいい
•しかし大勁荷全域移民特区に限っては例外とする
勿論市街地の人口密度は現在の4倍以上に上げる必要はある
市街地全面積を4分の1に縮小してもこうすれば総人口は減少しないことになる
•それではこれをどのようにして具現化するか
大阪市梅田から難波、堺、泉佐野、関西空港までの地下鉄御堂筋線から南悔電鉄線沿いを巾5(X)メートルを容積無制限地区として再開発すればよい。但し臨空タウンは全面的に超高密度業務地区として整備する必要がある。即ち高速鉄道を中心に巾5OOメートルの線型都市再開発を推進するのである
- しかもこの地域の人口密度は全域lヘクタール当たり8OO人以上でなければならない
勿論この地域には業務、商業その他の機能も混在するのでありそれに住居も加わると言うことである市街地の縮小と線型再開発は同時に行われなくては意味がないのは言うまでもない
完成までの目途は20年である
線型再開発地区の住居にはそれ以外の地区民をそれまでの住居費と同額家賃で賃貸入居させる
•ここ以外の地区で空家となった住居には移民を無料で入居させる
ただし持地持家の人々も何らかの処置により線型再開発地区に移動することを義務づけなければならな
し、
又都市交通には自動車は廃棄の方向に向かうであろうから大量交通として鉄道、物流は地下ベルトコンベアーによることになろう
.~ 線型再開発地区外地域の市街地構成
線型再開発地区は泉佐野から梅田まで約40キロ、巾500メートルであるからほぼ2(XX)へクタールである
- この地区は高密度地区として1ヘクタール当たり800人を居住させるとして総人口はlffi万人強である 大函術唸人口を現在と変わらないとして残り約fil)万人分の市街地は「庭園曼荼羅都市」の構成に準じる
但し南海鼈鉄沿線の泉佐野、貝塚、岸和田、津大津、堺、大阪の各市ともに現在の市街地の4分の1に縮小するわけであるから各都市間にグリーンゾーンが生じて来る。
従って沿線各都市の市街地を串差し状に線型再開発地区が買通するという構成になる線型再開発地区以外の市街地の再構成は完成まで100年が目途である。
2(XX)年2月15日記
このメモの方策は全体として途方もなく現実性がないと思われるであろう。大阪の政治、経済の現状からすればそうに違いない。ここでは批判よりも問題提起が重要なのである。
大阪「庭園曼荼羅都市」にこの線型再開発を重ね合わせると私の再生計画は完結する。こうしておいてこの計画の問題点を取り上げる。
物事を実現するには当然適切なタイムプログラムがいる。「移民特区」も「線型再開発」も同じことには違いない。「庭園曼荼羅都市」は神戸計画でその棚略は説明しているので省略する。まずは「移民特区」である。大阪府全体をそうするかどうかは今はおくとして移民がスムースに行われるためにはアジアや東南アジアと日本との経済格差が問題であるに違いない。低賃金ゆえに企業はきそってアジア、東南アジアに進出し生産部門を移してしまったのだから今さら何故移民が必要なのかとなろう。大阪活性化にそれが欠かせないかは説明しているから省くとして経済格差をどう処理するかは重要である。政治、経済にうとい私にはその解決策といってもおいそれと思い浮かぶわけではないが、まずはじめには例えば中国人のためにある特定の場所を用意してそこで旧来の生活に近い状態を現出出来るような一種の租界が必要となって来るのではないか。植民地時代の征服民族の租界とは逆ではあるがここでは彼等の母国の貨幣価値に近い物価の物品を流通させ彼等の生活を保障する必要があるのではないか。移動の際の交通費は相当の補助をすべきであろう。勿論住居も当然である。そうしないと移民たちと大勁付民さらには他荷県の人々や他民族との直接交流も生ぜず移民効果が上がらないであろう。安価な労働力を得るのが目的ではないにしてもこうするとそれは容易であるに違いない。時間が経つにつれて移民の経済レベルも上がるであろうし、又上げるように大阪府民一体となって努力すべきである。最大の眼目は各民族の文化の生き生きとした交流のはずである。これが成功すれば大靭荷全体の国際化は招かずとも向こうからやって来よう。勿論日本全体に対する国際的寄与はいうべくもない。「線型再開発」。ごれを実現させようとしたらまず最初に着目すべきは「りんくうタウン」である。現在計画は頓挫し進んでいないようであるがあれは当初の計画に問題があったのではないか。幕張の小型版をイメージしていたようであるが幕張は住宅も立地させつつ計画を進行させていたが「りんくう」はどうもその気配がない。これではいけない。
320ヘクタールの敷地にニューヨークのマンハッタンを移して来る位の思い切った構想が必要である。1旦し「線
型」の起点としてヘクタール当たり800人で25万印D人(320X800=25万({)(X))の超高層都市としたらいい。これだけの人口を想定すれば相当規模の商業スペースも見込める。但しはじめに作る建物は業務と住宅の併存機能であり業務人口分の住宅をその建物に設けられている必要がある。関西空港を最大限に活用出来る企業の業務スペースとそこで働く人々の住宅をひとつの建物が内包してあるべきということである。現在ツインタワーのうち片方のみしか完成しておらずしかも空部屋が多いと聞くが当然であろう。あの建物の中に住宅がないからである。ひょっとしたらあるのかもしれないがたとえツインビルとしても規模が小さすぎる。私は去年(XfJJ年) ll月に日本経済新聞に請われて大阪御堂筋活性化の一方策として中之島の南岸に御堂筋をはさんだ高さ知メートル68階建のツインビルを構想した。但しこれ以外は高さ30メートルは:阪市ではスカイラインを40メートルでそろえるようすでに決定済というからそれならそれでいい)でそろう現在のスカイラインを守るべきというのが私の主張ではある。これは大阪の都心であるから商業、業務、住宅も含めインナーシティとしてそれ以外の機能も包含した一種の立体都市である。片方の建物で①万平方メートルもあり余裕をみて一人当たり100平方メートル占有するとしてCXXX)人の人がこの建物の中で住みかつ働ける。勿論「緑の立体格子」は装着している。「りんくう」ではじめに作られるべき建物はこれほどの規模は必要ないとしても似たような空間構成にして平面100メートル四方、①階、高さ270メートルの建物を想定すれば総面和38万4aX)平方メートルである。ここで一人当たり占有面積を100平方メートルとすればほぼ4aX)人の人が働き居住出来る。細部に亘る計算ではないから確言は出来ないがこのビルでは25(X)人の業務スペースとその2双)人分の家族(単身か夫婦が主)が居住可能である。この建物の敷地を仮に3ヘクタール居住者5(XX)人とするとほぼヘクタール当たり人口1印)人である。この規模の建物が50棟あれば「りんくう」は成立する。但しこれだけでは商業その他施設が想定外であるから計画が進行して人口が定着するに従って必要機能を充実させていけばいい。この都市の性格は業務逍逗であり、普通なら「ビジネス コンベンションシティ」とでも呼ぶであろう。この場合の元型機能はニューヨークと同じ「集住」であるが元型空間としては「海」より他は考えられない。海辺の建物は全て海に張り出し洵底からの柱で支えられかつピロティとする。こうすれば厳島神社のような「海」を空間化した建築が連続して立ち表れ絢爛華麗な海辺風景を現出することになるであろう。 さて東京であるが大阪の再生と基本的には変わらないが首都であることが最大の武器であり大阪のような移民特区を作るような必要はない。但し現在の都市風景の涅乱は早急に改変すべきでありこの場合の東京の元型空間は皇居を起点とする「渦巻」でありこれは徳川家康の江戸の町割に起因する。もっと明確には東京は「とぐろ」であり「蛇」である。これを元型空間として東京の風景を改変すればいい。




コメントを残す