「中欧から」 

ウィーンに居ると見えてくること

三谷克人

アドルフ・ロース補考

アドルフ・ロースに関してはもう語り尽くされている感もあるが、じつはその言説の多くは、巷に通用するロースについてのナラティブの反芻的性格を持つように思われる。それに対して、ロースの灰色に止まっている部分に光を当てるような論考は、日本には少ないようだ。結果として、同じテーマが語り直されることとなり、その都度筆者の見解がプラスαとして付け加えられることとなる。

かくしてロースは、無数のαが集積した霧の向こうの霞んだ存在となってしまう。

モダンの黎明期、ミヒャエラ広場に面したウィーンの帝室宮殿の向かいに新しい建物が出現した。ロースハウス(1909ー12)だった。【写真1】

写真1 ロースハウス  Wien1.  2025年           筆者撮影

最後まで空地のまま残っていた敷地に建つことになるこの建物が、広場のアンサンブルに決定的な影響を及ぼすことを自覚していたロースは、設計者としてさっそく市当局との折衝に着手した。

最初の課題は、不定形な敷地に都市計画的に正しい建築線を設定すること。市当局による敷地の一部供出を前提とした案に、ロースが施主を説得して合意が成立した。広場で支配的な基壇を踏襲し、右手に建つ三棟の寡黙なファサードを踏まえたロースの列柱案が承認され、ファサード上部の最終的造形は、基壇部が完成した後に足場を外して下との調和を吟味しつつ決定するという条件で、着工を認可された(「アドルフ・ロースとウィーン」 2011年, ミュリー・ザルツマン出版)。

役所とは上手くいっていた。

だから足場が撤去された1910年に、敵対者と新聞社によるバッシングを受け、政治が動いて現場停止にまで至るというスキャンダル的展開は、予想だにしない出来事だった。【写真2】【写真3】

しかしそうなると、ロースだって黙ってはいられない。

即座に同年「ミヒャエラ広場の建物に関する二つの主張と一つの付言」という一文を発表し、例のロース調で皮肉に啓蒙し、専門的観点からの論考を社会に投げかける。

『私はこの建物を、可能な限りこの広場に溶けこむよう設計したのだ』と訴え、さらには『かつてのウィーンの先達たちと同じように対処してきたつもりだ』と自分の基本姿勢を説明し、真意を伝えようと試みた。

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写真2 ウィーン市 カタスター地図 1858 (赤丸がミヒャエラ広場予定地、敷地形状に注意)Wien History Wiki, CC BY-SA 3.0 
写真3 ミヒャエラ広場 1910 当時 Wien History Wiki, CC BY-SA 3.0

しかし無駄だった。当時は誰も耳を貸さなかった。だったら今日ならどうか?人々はその耳を備えているけれど、今度は前提となる基本知識が足りないようで、やはり理解を求めるのは難しいだろう(引用出所:「にもかかわらず」鈴木了二・中谷礼仁監修加藤淳訳、2010年代のみすず書房三冊シリーズ出版の二冊目11ー129p。ロースの論説集にはもう一冊「装飾と罪悪:建築・文化論集」伊藤哲夫訳、中央公論学術出版1987年(現在ちくま学芸文庫2021)がある)。

アドルフ・ロースのグレーに接近するカギ

まず、自問して頂きたい。

この建物のスキャンダルにつながったファサードの上部と基壇部との違犯について、我々は本当に充分な知識を備えているのだろうか?

ロースハウスの基壇の柱が人造大理石云々の伝説は無視するにしても、ロース自身が「装飾と犯罪」という論考で装飾を否定しているのに、同じ建築家がどうしてファサードに装飾を使うのかという疑問が、今でも控え目な声で囁かれている。

あの基壇部で、ロースが展開する様式の謳歌とでも呼ぶべき様相に、戸惑う人々が少なくないようなのだ。案じられる。

でも一体どうして、そうなるのか?

結論から言おう。

それはアドルフ・ロースが「古典」を信奉していたことが、充分に理解されていないからだ。

西洋の「古典」とは言わすもがな、古代ギリシャ・ローマで実践された芸術の有り方を括ったカテゴリー的な呼称だが、言うならば日本の「やまとごころ」に近いのかもしれない。日本の文化を語るとき、「わび」とか「みやび」とかいった「やまと」の感性的概念がよく使われるが、それを旧弊だと責める者はいないだろう。

ヨーロッパ人にとっての「古典」も、これと同じことなのだ。

だから生活の近代化を主導したロースがヨーロッパ人として、その文化的ルーツたる「古典」に価値を認めたとしても、それには何の不思議もない。

ロースと「古典」をとペアとして語ることをに合点が行かないとすれば、それは米国から伝授されることを鵜呑みにして、そのナラティブを問いに付すこともない、日本側の問題なのではないか?

ここにカギが潜んでいる。

システムとして装飾的な細部を含む「様式」と、様式からエレメントだけを借りて来て装飾に用いるという折衷的なやり方は、その見掛けの類似とは裏腹に、全く異なるものだということだ。

よく読むと、ロースが論考「装飾と犯罪」のなかで、この違いを指摘していることがわかる。

「ここで彼らが使っている「様式」という言葉は、装飾のことを指している。」(「にもかかわらず」 p.83、鈴木了二・中谷礼仁監修加藤淳訳、2015年みすず書房) 

表現を裏から読めば、よく分かる。つまり、ロースにとっての「様式」は装飾なのではなく、彼らは「様式」と装飾とを混同している、と指摘したのだ。

ちなみに筆者は偶然ネットで、「装飾と犯罪」をテーマとする研究に遭遇した。世界各国における同論考の伝播過程に関する研究で、「早稲田大学中谷礼仁研究室 芳野真央、2015年度修士論文「近代建築思潮の伝搬に関する研究」梗概、アドルフ・ロース「装飾と犯罪」の西洋と日本の受容過程を通して」という論文だ。

それによると、ロースのこの論考が最初に出版され影響を与えたのは1913年のパリで、それが後日、コルビジェの「レスプリ・ヌーボー」誌への収録へとつながってゆく。論文全体へのアクセスが叶わなくて残念だが、チェコの知人建築家の知見と照らし合わせると、穏やかではない事情が背景に見え隠れする。機会があれば別稿として指摘したい。

このように、ロースの文献の追跡調査はすでに進行している。

筆者は、引き続きウィーンの現地情報を紐解きつつ、ロースの「古典」の信奉者としての側面を浮き彫りにしてゆこう。

「折衷主義」を享する市民と権威に供する「様式」 

「古典」と、それを再発見したルネッサンスと、それが展開して聖俗権力のアイコンとなったバロック(早・盛・後+過渡期)の各々、そして19世紀に過去のオリジナルを厳格に踏襲することで成り立った「新様式」建築は、個別に完結した建築造形のシステム(オーダー・規範)として認識され得るという意味において、「様式」と呼ばれることになった。

そういう観点からして初めて、過去の諸様式を構成要素に分解して自由にアッセンブルするという、19世紀の言わばB級「歴史主義」ともいえる折衷主義との、根本的な差異が明らかとなる。

本来「様式」は特権的なのだが、一日の長があったヨーロッパが世界の富を吸い上げ、経済が膨張してブルジョワジーが台頭すると、彼らは独自のパレスを建てはじめた。

それを羨むプチブルのフラストレーションを目の当たりにし、マニュファクチュアを営む企業家が商機を嗅ぎ取って、あっという間に誰もがカタログから、自分の懐事情にフィットするプレキャストの装飾を選べるようになった。【写真4】そういったハイパーな展開を支えたのが19世紀の折衷主義で、昇進してグレードアップを求める小市民の住まいや、19世紀末に爆発的に都市へ流入する労働者のためにベッド使用権を二交替三交替で貸す家主たちに大ヒットした。賃貸し住宅の家主たちが、自分たちのテイストを競い合ったのである。

写真4 窓廻り装飾プレキャスト施工例 2026年 需要大  筆者撮影

運と時間と鑑識眼さえあれば、ウィーンの街の様々な建物に同じエレメントを探して廻るのも、御一興かもしれない。

かつてロースが、様式的エレメントのパズル的な組み合わせで成り立った建物に満ちたウィーンを「ポチョムキン都市」と描写したが、言い得て妙だった。

 硬派のアカデミズム「歴史主義」も同時に存在していて、市庁舎や議事堂などの公共的記念建築物などは、閉じられた建築語法と約束事を共有する学術的カーストに属する建築家たちによって独占され、彼らはみな、多かれ少なかれ、自分の選んだ過去の「様式」に独自のフレーバーを加えて同業との競争に備えていた。

基本的に、この造形的新趣向と資本との依存の構造は、折衷主義のみならず、続くユーゲントシュティルやモダニズムに関しても同様に存在しており、今日まで機能し続けている。

たとえば、ファンタジーに満ちた外観を持つ仕事を世に送り続ける建築家たちのビジネスは、ファサード全般を職種横断的に一手に引き受ける体制が整った、有能なコンサルタントの存在なしにはもう成り立たないし、暫くすればAIが進化して、ファンタジーの枯渇した御用建築家は過去の遺物になるだろう。

ところが、全ての「様式」と折衷主義を十羽ひとからげに装飾に満ちた不毛な産物と断罪することが、1930年代の欧州で支配的となる。そしてトレンドとなった運動のスローガンとなったのは、選りにもよってロースの論考のタイトル「装飾と犯罪」だった。「古典」を信奉するロースの本意とは裏腹に。【写真5】これが今でも、ロースを正当に理解する上で大きな妨げとなっている。

写真5 「装飾と犯罪」ロース講演ポスター 1913年3月 Wiki Common

ロースの街頭講義‐1、 ミヒャエラ広場 1913年

筆者はここまで、灰色のまま置き去りにされているロースについてお話してきたが、知識としてのみならず設計の側面においても把握することが重要だ。最終的な目的は、ロース建築の総体的な理解であるべきなのだから。

写真6 ロースの建築学校教程 1912-13年 (三年制で、古典美術史,住全般の実務的知識,素材論講義が週各1時間) Wien History Wiki, CC BY-SA 3.0

ロースは1912年に建築学校を開き、受講生たちと共にコメントするに足るウィーンの建物を巡って、都市計画から素材の使い方に至るまでを広範に説き、それを街頭講義という必修科目に定めた。【写真6】

今日、校外実習とかエクスカージョンとか呼ぶそれだが、そのロースが実際に行った「建築の散策」をここで模擬的に再現してみようと思う。もちろん臨場感は伴わないが、ロースが語ったその内容が文章として残っているし、実際の建物の代わりに、解説内容に即した写真を使えば、なんとかなるだろう。

まず手始めに、『アドルフ・ロース ウィーンの建築について』(Adolf Loos überWiener Gebäude, 1913/14)という小文をとり上げよう。

これはウィーンのPrachner書店が監修出版した書籍『アドルフ・ロース 建築を巡って』(Adolf Loos, über Architektur, 1995)に収録されていて、ロースが1913/14年に実行した「建築の鑑賞散策、その一参加者のノートから」という副題が付いている。【写真7】

写真7 ロース「建築に関して」選集 Prachner書店, 1995年 

この「建築散策」に収録されているのは、ヘーレンガッセ通り (Herrengasse)の南側に建ち並ぶ,、年代と様式の異なる複数の建物へのコメントだが、究極的にはロース自身の、ミヒャエラ広場に建つロースハウスの設計にまつわる思いが語られる。

ロースにとってはこの界隈に建つ建物全てが、ウィーンの建築の伝統との関連において貴重なのであり、その、個々の建物へのコメントは、あたかも古い名盤の想い出に蘊蓄を傾ける、年季の入ったミュジシャンのようでもある。

さて、ロースはまず、ミヒャエラ広場を語る。

『乗馬学校の屋根に乗るドームと、その周囲に建つ建物とが醸し出す景観の美しさを観れば、人はどうして私がミヒャエラ広場の建物をあのように設計したのかを理解するのだし、分からないということなど有り得ない。それに対して、王宮のようなドームを頂き城のような外観を持つヘルバーシュタイン宮は、いかに場違いで間違った建築解だろうか。』(ロースハウスの南西隣、後にペントハウス増築でドーム消失)。【写真8】

写真8 ヘルバーシュタイン宮 Wien1. Karl König, 1897年 幕からすると20年代後半撮影か?  Wien History Wiki, CC BY-SA 3.0

実際にこの広場に立った方々もおありだろう。

真ん中に立って周囲をぐるりと見渡すと、教会入口の門構えとロースハウスの基壇が共に帝宮の大ぶりの造形に向こうを張り、上部のニュートラルな壁面は、教会側のファサードと共に広場の大きな壁となり、帝宮のボリュームを受け止めるという、ロースの都市計画的な計算は、見事に実を結んでいる。

建築にまつわる都市計画的措置はかなりの部分まで、健全な良識でカバーすることができるもののようだ。

ワグナーの陰に育つ次世代の建築家

40歳を越した1912年、アドルフ・ロースは伊達や酔狂で建築学校を開いたのではない。支配層による扇動者というレッテルとは裏腹に、彼の建築観に共感する次の世代に自分の本意を伝えるのが、使命だと覚ったからだ。

そしてそれは無駄ではなかった。

のちにアメリカで活躍するリチャード・ノイトラ (Richard Neutra) が聴講していたし、戦間期に一人ウィーンに残って気を吐いたヨーゼフ・フランク (Josef Frank) は、ロースの弟分。前者が1929年にアイコン的モダン建築「ローヴェル・ヘルス・ハウス」を完成させ、後者は1930年に台頭するモダニズム批判のマニフェストとして、ベーア邸をウィーンに完成させる。

写真9 ベーア邸 Wien13. Josef Frank, 1930年(2026年3月大改修竣工)筆者撮影

時代の波に乗ったノイトラは若くしてモダンの寵児となり、ロースの考えをラディカルに展開したフランクは、工業生産に理想を託したバウハウス・モダンが資本に巻かれる運命にあることを、1930年の講演「なにがモダンなのか?」(Was ist modern?)で喝破した。

そういうこともあってフランクは、バウハウスを太陽として廻るディスクールに登場することがなく、よって日本では、カラフルなインテリアと洗練された家具で知られた北欧(亡命先)の作家なのであり、重要な建築家だとは殆ど認知されていない。【写真9】

ここで、先ほどロースが槍玉に挙げたヘルバーシュタイン宮の設計者をご紹介して、名誉挽回を試みよう。

それは知る人ぞ知る、オットー・ワグナーと同じく1841年生まれのカール・ケーニッヒ (Karl König)で、ウィーン工大で長年教鞭を執ったユダヤ系の建築家だった。上述したノイトラとフランクの恩師でもある。

ケーニッヒは歴史主義を貫いたが、西洋建築に脈々と受け継がれる造形の仕組み(極意)を説くと同時に、新しい素材や構造に通じている必要性を説く合理主義者でもあった。

そういうこともあってイトラは、ウィーン工大でハイレベルの鉄骨構造を修得しており、自分のビジョンをそのまま建設可能な建築として世に問う能力を持ち合わせていた。それが若くしてアメリカで成功した理由の一つだと思われる。【写真10】

第一次大戦前のウィーンをワグナーシューレの活動に還元してしまうのではなく、そこで10数年後の世界に影響を与える才能たちが育っていたことを見逃すべきではない。でなければ関連が失われてしまって、先が見えなくなってしまう。

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写真10 Rovell Health House CA/USA, Richard Neutra, 1929  Wiki, CC BY-SA 3.0
街頭講義で受講生に広範な知識を伝授したロースと、歴史主義を貫いたがゆえに歴史から抹殺されるが、大学教員として優れた弟子を輩出した建築家ケーニッヒ。

この、ワグナーの背後で尽力した二人の下で、次の時代に中欧で活躍することになる建築家が、着実に育っていた。

それが例えば、ブルノに開花した人の顔をした「機能主義」「建築」だったのだが、これに関してはいずれ別稿で、まとめてお話させていただこう。

ロースの街頭講義‐2、 へーレンガッセ通り 1913年

このへーレンガッセ通り(写真11)というのは、ウィーンの旧市街南部をほぼ一直線で東西に横切る古くからの交通路で、ハプスブルク家の居城に近いため高位の貴族たちの宮殿の立地となった。それに応じて今日では、オーストリアの省庁、文化施設、EUの諸機関などが居を定めている。

さっそく観てゆこう。番地がみな奇数なのは、当該家屋が通りの南側に位置するからで(北側はみな偶数)、北側には言及すべき建物は存在しなかったと思われる。さすがのロースも、相手が生徒たちだからロース節を頻繁には使わず、語り口は平易で理解しやすい。

写真11 Map Herrengasse  Wien1. 1835年  A:ロースハウス, B:王宮劇場, C:オペラ座, D:シュテファン寺院、A&C予定地, B 焼失前.  ロースは都市空間への配慮から市に敷地を割譲。)

へーレンガッセ(Herrengasse)ー5 

『この宮殿はヴィルツェック伯爵の所有、1750年に完成した。』

へーレンガッセ(Herrengasse)ー7 【写真12】

『7番地の建物はモデナ宮。1810年の竣工。ここの前室には、とても太いトスカナ式の柱が何本も立っている。スパンが並外れて大きいので。イオニア式だったらとてもじゃないけど、こんなに太くはできない。』

現在は内務省とEU代表部が入っていて警官が警備しており、内部は確認はできなかった。

  写真12 7番地, モデナ宮, 1810年

へーレンガッセ(Herrengasse)ー9 【写真13】

『これはクラリー宮殿。1690年頃に竣工。ファサードの左右、窓の腰壁に鋳物の柵が付いているのが興味深い。様式的な造作はすべて石を加工したもので、彫像にからむリボン状の装飾のみがスタッコ。今になっても持ち堪えている!』

この建物は繊細な造形感覚に溢れ、建築家が愉しんで設計しただろうことを髣髴とさせる。ロースからさらに百余年経った今てもスタッコの造作はビクともせず、全体に仕事が良いので驚いた。

バロックでも近代でも様式の如何を問わず、建築的工夫と意図と配慮は時を越えて伝わるものなのだ。

  写真13 9番地, クラリー宮1, c.1690年  へーレンガッセ(Herrengasse)の建築 筆者撮影

へーレンガッセ(Herrengasse)ー11 【写真14】

『11番地は地区統治庁舎で、1845年にシュプレンガーが建てた。この建物が建ってからというもの、ウィーンの建築的伝統が規範として通用しなくなった。』

色、素材、形態、プロポーション。すべてに落ち着きのない建物だ。当然のことわりとはいえ、こう教えられて実際に差がわかるようになると、街をブラついて歴史主義建築の品定めをするのもも悪くないと思い始めた。

へーレンガッセ(Herrengasse)ー13 

『これは州庁舎で、1837年にルードヴィヒ・ピッフルが建てた。英雄的とか言える代物ではないけれど、悪くはない。いや、この建物があることを私たちは喜んだっていい。この建物が建った1837年から地区統治庁舎の1845年のあいだに、建築は則(のり)を捨て、野蛮なものになり始めた。』

ここで「装飾と犯罪」を思い起こしてみようそう。11番地の建物は、どういう関連において「野蛮」なのだろう?

写真14 へーレンガッセ 11番地(左の建物), 1845年頃(註:ロース曰く、ウィーンの伝統からの逸脱)、とへーレンガッセ 13番地(真中の列柱の建物) 州庁舎, 1837年

ヘーレンガッセ(Herrengasse)ー15 【写真15】【写真16】

『しかし、この州庁舎(13番地)よりはるかに素晴らしいのが15番地だ。 この建物こそが、まさに私がミヒャエラ広場の建物を設計する上で範としたものだ。

とても良い。一階と中二階とをファサード上で統合する手法は憎いほど的確で繊細だし、その上部のシンプルさと来たら!そして屋根も平らに保たれている。』

間口の狭い道路面ファサ-ドの規模に対応したかたちで基壇部が一気に小振りのエレメントで覆われ、計算され尽くした上部の抑制との調和が憎いほど効果的だ。範にしたというロースの発言は良く分かる。

写真15-16 15番地, 旧k&k私設銀行1-2, 1822年 へーレンガッセ(Herrengasse)の建築 筆者撮影

へーレンガッセ(Herrengasse)ー17 【写真17】【写真18】

『1823年に建てられた17番地のオーストリア・ハンガリー銀行。高貴、の一言だ。

主入口廻りのとても美しいその構えに、「古典」からのインスピレーションが最も色濃く現れている。想えば、この建物が構想され施行されたのと時を同じくして、アテネのアクロポリスでエレクティオンが掘り起こされたのだった。ここに現象する純粋さと高貴さとが、その直接の影響であることは、自ずと明らかだ。館へ入る大扉に見られる木工大工の仕事の質には、文句のつけようがない。』

周囲の街並みに一際と冴える古典の造形カノンが凛と伝わって来て、担当した建築家たちの古典に対する建築的理解の深さとその確かさが心地よい。

写真17-18 17番地, 旧k&k私設銀行新館1-2, 1823 へーレンガッセ(Herrengasse)の建築 筆者撮影

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さてどういう印象を抱かれただろう?ロースの言うことに合点が行く建物が幾つかあれば、素晴らしいと思う。

最初にロ―スハウスのあり方を、唯我独尊的に理解しないなんてあり得ないと決めつけておいて、街角のとある建物に立ち止まり、それがロースハウスの原点にあることを告げるという憎い演出。ロースの、先人たちのやり方に従うという覚悟はがこれ程のものだったのだ。

さてつぎに、今度はロースが名建築と認める他の建築家の3作品をとり挙げ、その理由ならびにロースがそれをどう解くのかに、耳を澄まそう。

ロースの街頭講義‐3、 ウィーン美術アカデミー 

テオフィル・フォン・ハンセン (Theophil von Hansen) 1877年 【写真19abc】

この建物についてのロースの発言は、先のへーレンガッセ通りのそれと同じ巻の同じ文章に含まれている。

『70年代にハンセンが建てた、彼の最初のモニュメント建築だ。後側のゲトライデマルクト通りに面する立面のほうが効果的。というのも建物がこちら側で、はるかに高いからだ(敷地傾斜)。花崗岩を積んだ一層分の基壇部は本当にすごくて、近年に施行されたものとしては最高だ。

ハンセンは後側の立面では窓アーチをそして横側では窓を、連続性が生じるようにコーニスの下に繊細にしつらえた。

彼が四隅にパイロンを据えて建物に安定感を与え、表のファサードの中央に突出を設けないことで全体のモニュメント性が高まっている。いまごろの建築家にはできない芸当だ。

マカルト通りを通り過ぎるたびに、私は常にその横手の入口に感無量になる。

a 裏面・側面ファサード、南西角 b 玄関側 1975年当時      cマカルト通り、副出入口

写真19abc 1877年 筆者撮影

リンク通り(環状道路)からが最適で、向こうに素晴らしく、驚きに満ち、モニュメンタルな様相で建つこの建物が眺められる(当時は全貌が眺められた)。リンク通りの方が建物の敷地より幾分高いのに。もしこれが逆だったら、その眺めはきっと、凌ぐものがないほど素晴らしかっただったろう。こういう建築が主導するからこそ、都市の景観が豊かになるのだ。

しかし、リンク通りに迫り出すようなブルク劇場や、場所とその設えが不適切なゲーテ記念像には、そういう感情の湧きようもない!』

これはなかなか格調高いコメントだと思う。写真を見比べつつロースの発言を反芻して、本意を探っていただきたい。ロースのように建築を診る目を備える者が何を診ているのかを知るだけでも、非常に参考となるはずだ。

さて次は、本物のイタリア・バロック様式の建物だ。

ロースの街頭講義‐4、 リヒテンシュタイン侯爵家街の宮殿

ドメニコ・マルティネーリ (Domenico Martinelli 1705年) 【写真20ab】

この宮殿に関しては「ウィーンにある最高の〇〇』という、ロースの文章が日本語に翻訳されているが(「にもかかわらず」 p.58、鈴木了二・中谷礼仁監修加藤淳訳、2015年みすず書房)、ここではロースが街頭で語ったオリジナルを掲載する(アドルフ・ロースの市街ガイド Adoluf‐Loos‐Stadtführung 13.12.1913、ウィーン市オフィシャル歴史ウィキ) 。

ロースはこの宮殿を何度も訪ねたようで、ウィーン歴史ウィキにはあと2つ、別のバージョンがある。

『ミノリッテン広場4番地リヒテンシュタイン宮殿。ウィーンにある唯一の非ウィーン的な建築。

a  広場側入口への道行                 b  広場側玄関見上げ

写真20abリヒテンシュタイン侯爵家、街の宮殿 1705年 筆者撮影

純粋にイタリア風の建築だ。あまりにも壮大でウィーン人にとっては厳格過ぎる。

ウィーン人は、いつもウィットに富んだ思い付きを発案してみせる名人だが、このように真剣かつ壮大な建物を普請することは、できる訳もなかった。

この建物のほぼ全ては、マルティネリが石で仕上げたものだ。とりわけその各層のコーニスのプロフィール(がもたらす陰影)は素晴らしい。この宮殿のそばを通り過ぎるときにはいつも、こういった事実を噛みしめなくてはばならない。』

ここでまずテーマとなるのは、同じ様式でありながらも国によって異なる、その違いに気付くとはどういうことか、という問いだ。

筆者はローマで、2000年前の遺跡に転がっている柱頭の迫力にショックを受けたことがある。高いところに据えられるべきものを眼の高さで間近に見たことにも依るのだろうが、発するアウラがドイツ語圏のそれと全く異なっていた。イタリアの老舗のスーツに、他国には真似のできないピリッとした仕立てを感じるのにも似た現象だ。

そしてその差は、ローマから離れれば離れるほど大きくなり、たとえばアメリカのホワイトハウスの柱頭は、カーブの曲率とかいったディテールの問題ではなく、誰が観ても分かるほど不自然だ。筆者には平たく押しつぶされたように見えるが、写真で見比べていただきたい。

ロースの言うように、イタリアの粋をウィーン人が上辺の人的魅力でカバーしようとしても、叶わない。彼らには一日の長がある。長いあいだ強い陽射しの中で、コーニスの陰影のニュアンスの変化を観察し続け、そのプロフィール断面のどこを何ミリ削るとどうなるかを、経験知として知り尽くしているのだから。

ロースの描写する様相が写真に写っていれば良いのだが…。

ロースの街頭講義‐5、 シュタディオン通りの賃貸住宅

オットー・ワグナー (Otto Wagner 1882年) 【写真21abcd】【(「オットー・ワグナー」より、「ポチョムキン都市」鈴木了二・中谷礼仁監修加藤淳訳、みすず書房)

この建物はロースが授業の一環として訪ねたものではないが、古典の信奉者としてのロースがいかにワーグナーの「歴史主義」に注目していたかの語る貴重な資料なので、ここで同列に扱ってご披露したい。シュタディオン通りの建物に該当する部分を、オリジナルから拙訳でお伝えする。

『 ・・・シュタディオン通りの二つの賃貸し住宅が、多くの点で非難されてしかるべきだということは認めよう(6‐8と10番地の2軒、ここは前者)。しかしそれは、ライオンが檻に入れられて一匹の蝿をたたき潰すに至る、その心情を鑑みつつなされるべきだろう(この建物が計画された1880年代初頭、ワグナーは多くの国際コンペに参加し一位入賞を逃し続けていた)。

認めよう、あまりにも過度な襲撃だった。彼が叩きだしたその和音はもちろん、一介の賃貸住宅には不相応なものだった。しかし、この和音は何と美しいのだろう。

リンク通りからして最初の建物(実際は3軒目、ロースの感違いと思われる)にある玄関ホールは、人の背筋を凍らせる。空間が荘厳な大らかさに満たされているのだ。「物乞いと露天取引の禁止」という看板は、ここでは意味をなさない。物乞いも露天屋も、敢えてここに足を踏み入れようとする者はいないだろうから。贅沢な素材を使うこともなく、ここでは全てが形態によって定義されている。

ここでオットー・ワグナーが列柱を並行から少しハの字型に開いて配し、パースの効果を高めようと試みそして追求するそのあり方は、私を繰かえし繰りかえし、深く感動の念に満たされるのだ。

a  正面から               b  階段より  c 入口ホール                         d 平面図

写真21abcd シュタディオン通りの賃貸し住宅, 1882年 筆者撮影

小さな空間の小さな課題に大きな空間的効果を希求する闘い、それを然るべきところで行うという道は、同時代人たちが塞いでいる。そしてここで私は、彼自身で終えなければならない闘いへの疑念や、冒険が相応の効果をもたらすのかどうか、夜も眠れないで過ごす日々のことを思うにつけ、ここで言い切ってしまわずには居れない。

オットー・ワグナーは、この列柱の台形型配置 -それは間違いもなく天才的な閃きなのだがー の空間効果を実物にして証明してみせたという事実だけでも、金色の建築名鑑に名を連ねる資格が十分あることを示したのだ。・・・ 』

1870年代後半からほぼ10年の間、ワグナーはヨーロッパ各地の一連の国家的施設の設計競技に参加するが、上位入賞が続くも勝ち取るには至らなかった。それはまた、そういう苦難の時代のワグナーをこの賃貸し住宅に投影したこの文章が、ロースハウスの騒動の最中であった1911年に書かれたのは興味深い。

ロースの街頭講義は1913-14年に計10回行われており、ここで引用したのはほんの一部にすぎない。

基本的に、それらはウィーン市の管理する「ウィーン歴史ウィキ」というサイトに収録されているので、興味をお持ちの向きにはそのホームページにアクセスすることをお勧めする。

また、街頭講義ー1でご紹介した、ロースの建築関係の論考をまとめた本は、建築に関するロースの考察を縦横に比較したい場合には、極めて有効だ。これもお勧めしたい。

アドルフ・ロース – 人の営みを司る建築家

逆説的だが、アドルフ・ロースという建築家は、考えれば考えるほどその理解が難しくなるようだ。

建築家なのか、建築評論家なのか、文化評論家なのか? 

しかし考えに沈んでそれがある深さに達すると、ロースのなかでその三つの側面が同時に機能していることを、受け入れるようになる。

筆者の場合、入念に「装飾と犯罪」を読み込んだり、今回採り上げることとしたロースの街頭講義の写真撮影に赴き、アングルを探る過程で彼のコメントと現物とを行ったり来たりする、その過程で数々のインプットが交錯して思考が立体的になり、知らぬうちにその深さに達したらしい。

ロースの講釈をライブで追う当時の受講生とは違って、語られたことを文字に辿りながら時間をかけて検証できることもあり、ロースの一字一句が、心地よく腑に落ち始めたのだ。へーレンガッセ通りの、普通なら気付かいはずの建物を前に、ロースがこれを範としたと白状するのを読んで、彼の頭に閃きマークが灯るのを追体験できるようになった驚き。

また、オットー・ワグナーが、人の眼に触れない小さなスぺースを実験のチャンスと捉えて別の解を追求し、素晴らしい空間を発明して報われたというロースの解釈。書くうちに熱くなったロースが記した少々難解なドイツ語を、何度も読み返して分かったロースの洞察力。

ここにあるのはただ、建築をする者の志に対する理解と尊敬であり、 このワグナーとロースという二つの建築屋魂には感服するほかはない。

「古典」の信奉をテーマとして取り沙汰する自分が、情けなく思えたりする。とはいえ、「古典」の本来の意味における応用なのか、意味を剥奪された単なる飾り物なのかを独自の試金石とするロースが、世紀末の「付け火」に警鐘を鳴らし続けて、それが筆者に聴こえてきたというのも事実なのだが。

筆者の最初の所見に戻ろう。

ロースの場合、作品に込めること(設計)、建築を語ること(建築論)、そして文化を語ること(文化論)とが、なんの不都合も起こさずに相互にレスポンスし合い、必要な局面で互いに他が必要とするところを補い合うように機能する。

つまりロースは、人が生きるという営為を観察し続けて、その諸局面で誘発される心理の揺らめきをスキャンし、分析したその結果を、相応の寸法と精神的効果を備えた単位空間に落とし込む。その空間のシークエンスが平面となり、三次元的に蓄積して家となる。

そういうロースは、常に人の営みに関心を寄せ、直接的あるいは間接的に空間的にサポートすることを自身の役割と定義する。

そういう構造を、人の営みを司る、という言葉で表せるだろう。

これを下敷きとするならばロースにとっての建築は、心理の状態に異なるあり方で作用する「内と外」との境に有って、両者からのの影響を必要に応じてコンディショニングする役割を担う、シェルターであるということであろう。そして外観はといえば、都市計画的に必要となる場合を除いて、彼にはそれほど重要ではない。むしろ、その単位空間に精神的効果を帯びさせる手段である、素材投入のテクニックを重視する。

そしてまさにこの意味において、ロースを白い箱に収斂するモダンの先駆者と位置付けるのは、大きな間違いなのだ。

ロースは戦間期のドイツを除いた中欧における建築の展開に、根源的に重要である。とりわけ子分格だったウィーンのヨーゼフ・フランクと、自らの出身地であるブルノに起こった機能主義は、バウハウス・モダンの引き起こした行き詰まりを打開するための手掛かりとして重要になるだろう。

長いあいだ無視され続けてきたテーマだが、欧米ではテーマとなりつつある。

省庁の言うように日本が建築大国だというのが当たっているのなら、日々それを支えておられる諸賢も遅きに失することがないように触手を延ばされることをお薦めし、この稿を終えることとしたい。アジア自身が音頭を取らなければ始まらないのだから。


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“三谷克人 中欧から 02 アドルフ・ロース補考    ” への1件のフィードバック

  1. Katsuhito Mitaniのアバター
    Katsuhito Mitani

    ワーグナーのこの賃貸し住宅は、1810年ではなく1882年の作です。お詫びと訂正まで。三谷

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