ヤン・ファン・リ-ベック 02

Jan van Riebeeck 02

世界分割(デマルカシオン)の最前線 The Front Lines of the War to Divide the World(Demarcation)

17世紀・オランダ・ケ-プ・バタヴィア・トンキン・出島 17th Century, Netherlands, Cape, Batavia, Tonkin, Japan-

世界の海をつないだ航海者たち Navigators who connected the world’s oceans

布野修司

Ⅱ 平戸オランダ商館 1609-41

 クワッケルナックがパタニで死去した4年後の1609(慶長14)年,VOCが派遣したフェル-フ艦隊のデ・ロ-デレ-ウ・メット・ペイレン号とグリフィユ-ン号の2隻が平戸に入港した-日蘭国交開始の年とされ,2009年には日蘭友好400年記念の催しが行われた-。

肥前国平戸藩初代藩主松浦鎮信(1549ー1614)は,マウリッツ総督(オラニエ公)(1567-1625)の「日本の国王」宛の書状を携えた両船の上級商務員アブラハム・ファン・デン・ブルックAbraham van den Broek(?-?)とニコラス・ポイクNicolaes  Puijck(?-1664)をオランダ使節として,駿府に帯同し,家康に拝謁,平戸にオランダ商館を設置し,朱印状貿易を行う許可を得た。通詞として同行したのは,リーフデ号の生存者サントフォ-ルトである。

 初代のヤックス・スペックス以降, 9代(8人)の商館長(カピタン)が日蘭交易の任に当たった。しかし,徳川幕府は,第3代将軍家光の寛永年間(1624-44)に,踏み絵を開始し(1626),禁教,海禁(鎖国)政策を徐々に推し進めた。1633(寛永10)年に,奉書船以外の渡航を禁じ(第1次鎖国令),翌年,出島建設を長崎有力町人に命じ(第2次鎖国令),1635年には日本人の海外渡航と帰国を禁止し,外国船の入港を長崎のみに限定した(第3次鎖国令)。そして,翌年,出島が完成すると,外国人の市中雑居を禁止し(第4次鎖国令),貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)をマカオに追放,1639(寛永16)年には,ポルトガル船の入港を禁止した(第5次鎖国令)。そして翌1640年,建物の破風に西暦年号が記されているのを口実に,幕府はオランダ商館の取り壊しを命じる。オランダ商館が出島に移転したのは1641年で,初代の商館長となったのは9代平戸商館長マクシミリアン・ル・メ-ルMaximiliaan le Maireである(1641年2月-1641年5月)。以降,幕末に至るまでオランダ船の発着,商館員の居留地は出島のみに限定されることになる。

コスメ・デ・ト-レス

ポルトガルは,種子島漂着以降,頻繁に九州各地の港に出入りするようになった。その航路には,中国人海商,王直の大友領・松浦領航路(A)と徐海・陳東の島津領航路(B)の2系統があり,それぞれ博多と坊津が受入港となっていた。1546年にポルトガルの海商ジョルジェ・アルヴァレスJorge Álvares(?-1521)の商船が薩摩山川に来日したが,このアルヴァレスが薩摩からマラッカに同行させたアンジロ-(ヤジロ-)(1511?-1550?)から日本についての情報を得たフランシスコ・ザビエルFrancisco de Xavier (1502-1552)が,コスメ・デ・ト-レスCosme de Torres(1510-70),ジョアン・フェルナンデスJoão Fernandes(1526?-1567)を伴って薩摩に着いたのは1549年8月である。

ザビエル以降,イエズス会による日本布教が始まるが,その最初の拠点となったのが平戸である。1550年に平戸を訪れた海商ドゥアルテ・ダ・ガマDuarte da Gama(生没年不詳)にザビエルは会いに行き,その後A系統が優位となっていく。ト-レスは,バレンシアの出身で若くしてメキシコに渡った司祭である。そして,ルイ・ロペス・デ・ヴィジャロボスRuy López de Villalobos(1500-1546)の艦隊に乗船し,モルッカ諸島でザビエルと出会った。日本にとっても運命的出会いであったといっていい。ザビエルに心酔したト-レスはゴアに同行し,イエズス会に入会,共に日本を訪れて布教に大きな役割を果たすのである。ヴィジャロボスが1535年に設置されたヌエヴァ・エスパ-ニャ副王領の初代副王アントニア・デ・メンド-サAntonio de Mendoza y Pacheco(1490-1552,位1535-1550,第2代副王1551-52)に命じられて,出航したのは1542年である。ルソン島,サマ-ル島,レイテ島に到達し,フェリペⅡ世に因んで島々に「ラス・イスラス・フェリピナス Las Islas Felipinas」と命名したのはヴィジャロボスとされる。彼は,ポルトガルの捕虜となり,アンボイナ島の牢獄で死去するが,ト-レスはこの時ザビエルと出会うのである。そして,ザビエルが去った後,日本布教の責任者として,山口,豊後,肥前などを転々としながら,地道に宣教を続けたのがト-レスである。彼は,マカオを拠点とする貿易商人であり,ドゥアルテ・ダ・ガマの船団員であったルイス・デ・アルメイダLuís de Almeida (1525-1583)をイエズス会員とする(1556)。また,大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とした(1563)のがト-レスである。アルメイダは,豊後に乳児院そして西洋式病院を建設したことで知られる。そして,ポルトガルが平戸から大村領の福田浦(現長崎市)に拠点を移すことになったのは(1567)大村純忠の主導による。1571年に町割が開始され(1571),1580年には大村純忠が長崎をイエズス会に寄進して,「キリシタンの町」が誕生することになるのである(パチェコ・ディエゴ1969 )。

平戸島

平戸島は,北東から南西に伸びる長さ40㎞,幅10㎞ほどの細長い島で,北東端でわずかな海峡を隔てて北松浦半島に接している。海峡からやや湾入した平戸港は,入口に小さな黒子島があり,後背の山で東シナ海からの強風を防ぐ天然の良港として知られる。平戸は,平安時代以降,水軍で知られる松浦党の根拠地であり,中世末から戦国時代にかけては松浦氏の城下町が湾の北岸から西岸に形成される。14世紀中葉の前期倭寇は,対馬,壹岐,松浦半島の「三島」の日本人が主体であったと考えられ,ポルトガルの来航直前には,後期倭寇の根拠地となっていた。王直(??-1560)は,五島も根拠地としたが,平戸には「印山寺屋敷」跡に「唐様屋形」を構えていた。17世紀前半には,顔思斉(1588-1625),李旦(?-1625),鄭芝龍(1604-61)等の倭寇の頭目も平戸島に拠点を置いていた(図Ⅱ①)。

図Ⅱ① 1621年平戸図 平戸オランダ商館蔵  

ポルトガルは,1550年代半ばに双嶼港を根拠地として,中国-日本航路を支配するようになる。平戸は,1550年以降,ポルトガルの交易拠点となる。そして以上のように,布教が並行して行われる。ポルトガルがマラッカ攻略したのは1511年,イエズス会がマラッカ司教区設置したのは1557年である。ポルトガルがマカオに居住権を得たのが同じ年であり,以降,マカオが交易,布教の拠点となり,カピタン・モ-ル(司令官)が派遣されて行政長官を兼ねた。定期的に日本に交易船が送られるようになり,その受入れ港となったのが平戸である。

コスメ・デ・ト-レスの後任となるガスバル・ヴィレ-ラが足利義輝から布教許可を得たのは1560年,ルイス・フロイス来日が1563年,フランシスコ・カブラル,オルガンティ-ノ来日が1570年である。そして,イエズス会の中国,日本司教区が独立したのは1575年である。天正遣欧少年使節団を組織したアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの来日は1579年である。

イエズス会の布教活動とともに貿易活動が展開される。宣教師と商人は一体となって南蛮貿易を展開するのである。ポルトガルの場合,日本では商館建設には至らないが,平戸でポルトガル人そしてキリスト教を受け入れたのは「船宿」である。日本ポルトガル双方に多くの死者を出した宮ノ前事件(1561)で,ポルトガルは横瀬浦(西海市)に拠点を移したが,わずか2年後,横瀬浦は武雄領主後藤孝明の焼き討ちに会い(1563),再び平戸に戻っている。

ポルトガル国王を後ろ盾としたポルトガル船によって来日した中には様々な出自のヨーロッパ人が含まれていた。ザビエルはそもそもスペイン(バスク)人であり,ヴァリャニ-ノはイタリア人である。一方,スペインはマニラに拠点を築き,中国日本への進出を企てつつあった。マニラからマカオへ向かうポルトガル船が流されて,乗船していたスペイン人修道士が平戸に到達したのは1584年のことである。しかし,翌年,グレゴリオⅩⅢ世の教令が発布され,日本への布教は東回りのポルトガルのイエズス会士に限られることになる。日本布教における混乱を避けるためにヴァリャニ-ノが教皇に要請した結果である。

その結果,スペインはマニラに留まらざるを得なくなったが,フィリピン征服を勧める長崎の海商,原田喜右衛門の情報をもとに,秀吉がマニラ総督に日本入貢を強制する勧告状を送ったことから(1592),日本とスペインとの正式な交渉が始まる。マニラから3回送られた使節団の第3回目(1594)に宣教師に混じって日本を訪れ,『日本王国記』を書いたのが,スペイン人海商アビラ・ヒロンである。

こうして,マカオとマニラを拠点として日本をねらうポルトガル,スペインに割って入ったのがオランダであり,そのきっかけとなったのが1600年のリ-フデ号の漂着であった。

商館設置

ポルトガルそしてイエズス会による貿易・布教活動は,17世紀に入ると,徳川幕府の禁教,海禁政策によって,日本海域から締め出されることになる。ポルトガルにとって代わったのはバタヴィアに拠点を置くVOCである。

1602年に設立されたVOCは世界最初の株式会社とされるが,ネ-デルラント共和国連合州総督から勅許状によって国家に匹敵する独立した権限を与えられた組織体であった。会社の組織に関するあらゆる種類の規則,管理体制,要塞建設,総督の任命,軍隊の編成,戦争の遂行,和平交渉を総督の名前において行うことができた。そして,喜望峰以東およびマゼラン海峡を通じての貿易の独占が21年の期限で認められていた。艦隊は,指揮権と全責任を担う提督制が採られ,各船は上級商務員opper-koopman,船長schipper,下級商務員onder-koopman,第一舵手stierman,甲板長hoogh-bootsmanによって構成された。

VOCは,1603年以降ほぼ毎年東インドに艦隊を派遣する。1603年 にステ-フェン・ファン・デル・ハ-ヘンSteven van der Hagen(1563-1621)(13隻),1605年にコルネリス・マテリ-フ・デ・ヨング(c1569-1632)(11隻),1606年にパウルス・ファ ン・カルデンPaulus van Caerden( c1569-c1615)(8(9)隻),1607年にピ-テル・ウィレムス・フェルフ-フPieter Willemsz Verhoeff(c1573-1609)(13隻)の艦隊が東インドへ出航している。ポンプ(ディレク・チナ)は,このカルデン艦隊に乗船していたのである。

最初のハ-ヘン艦隊は予めモザンビ-クとゴアのポルトガル拠点を攻撃することを命じられていた。いずれも東インド航路の重要拠点であり,それを押さえる必要があったのである。それに先立つハウトマン等の航海は,ゴアに拠点を置くポルトガルの支配圏を避けて,マダガスカルから直航で東ジャワのバンテン(バンタム)に至るものであった。その後,後述するブラウェルが「吠える40度」を直航する航路(ブラウェル・ル-ト)を拓くことになる。

VOC艦隊が当初商館設置の拠点としたのは,バンテン(バンタム)とパタニ(1604-)であった。

このパタニに平戸から向かったのがクワッケルナックを送還する松浦鎮信の一行である。家康の親書はデ・ヨングに渡されたとされるが,マウリッツ総督に届けられたかどうかは定かではない。むしろ明らかにされているのは,既に,カ-ルデン艦隊がマウリッツ総督の「日本国王」宛の書状を持っていたことである。すなわち,オランダ側も,日本との貿易を欲し,商館設置の方針を決定していたことである(クレインス 2023)。艦隊はそれぞれ任務があり,1609年になってフェルフ-フ艦隊がようやく日本来航を果たしたのである。

徳川家康は,浦賀を貿易港にし,オランダ商館も浦賀に設置することを望んだと言われる。しかし,平戸藩初代藩主となる松浦鎮信の厚遇,貿易航路の拠点としての立地から,オランダ使節団は平戸を選んだ。初代館長となるヤックス・スペックス以下6名が残り,李旦の手配で一軒の家を借りて商館とした。スペックスとともに活躍したのが,リ-フデ号の生き残りのひとりヤン・ヨ-ステンである。平戸商館が設置され,オランダ・日本(日蘭)の公式の国交が開始された1609年は,初代オランダ東インド総督ピ-テル・ボ-ト(1609-14)が就任した年でもある。

日蘭交易の基礎をつくったヤックス・スペックスは,ドルトレヒト生まれで,兄コルネリス・スペックスもアユタヤ交易を確立した航海者として知られる。スペックスは,フェルフ-フ艦隊に下級商務員として参加するが,フェルフ-フとは共に80年戦争最中のオステンド(ベルギ-)包囲戦に参加していたという。後述するが,スペックスは1622年に平戸からバタヴィアに異動して評議会委員に任命され,臨時ではあるが東インド総督(第7代,1629-32)にもなる。

スペックスは,当初から王直の後を継いだカピタン・シナこと李旦(??-1925)と協働するが,後に台湾にゼ-ランディア城建設を勧めるのが李旦である。スペックスは,しばらくは来船が無く,商品の欠乏に悩んだ。そもそも,平戸商館は当初,貿易よりもオランダ勢力の東インドでの戦略拠点という性格が強かった。海上で発見したポルトガル船や中国船を襲撃して積荷を奪い,略奪した物資を一旦平戸商館に集めたうえでバタヴィアに送った。集めた物資は平戸ではあまり売却されず,むしろ,食料,刀,鉄砲などが日本から輸出された。平戸でのオランダ人は比較的自由で,藩の役人,商人,大工など様々な日本人と接触することができた。また,オランダ人は毎年江戸参府し,江戸,京,堺,長崎に駐在員をおいて,各地の情報を集めた。

1612年にバンテン(バンタム)から最初の定期船団が訪れると交易は次第に軌道に乗り,本格化していく。ところが,1613年にイギリス商館が開設されると両国間に摩擦が生じることになる。オランダは薄利多売路線でイギリスに対抗し,日本への輸出額を大きく伸ばした。イギリス商館の設置に尽力したのがウィリアム・アダムス(三浦按針)である。アダムスが,リ-フデ号の臼杵湾漂着と同じ1600年,VOCに先駆けて設立されたイギリス東インド会社EIC(East India Company)へ,自らを仲介人としてイングランドと徳川幕府の通商関係を結ぶ書状を送ったのが1611年,それに呼応して,イギリス艦隊グロ-ブ号司令官ジョン・セ-リス(1579/80-1643)(John Saris 1614)がイングランド国王ジェイムス1世の国書とともに平戸に入港したのが1613年である。アダムスは,セ-リスらイギリス使節一行に付き添って駿府城での家康らとの謁見を実現させ,貿易を許可する朱印状を得る。セ-リスは,オランダ商館の近くに李旦の屋敷を借りてイギリス商館を設置した。商館長にはリチャ-ド・コックス(1566-1624)(Diary of Richard Cocks, 1615-1622 「イギリス商館長日記」原文編 訳文編 訳文編付録 東京大学史料編纂所)が任命され,6人の部下とともにアダムスも商館員として採用され,平戸に居を移し,顧問を務めた。

アダムスは,コックスが購入したジャンク船を遠洋航海用に改造して,自ら船長として貿易を行った。シ-・アドベンチャ-と命名された改造船による第一航海は,シャムへ向かうが(1614),暴風雨に阻まれ船を損傷,那覇に停泊,大坂冬の陣で徳川方の勝利の情報を得て,翌年,平戸に帰港している。この時,アダムスはサツマイモの根菜を持ち帰り,イギリス商館の庭に植え付けたというエピソ-ドがある。サツマイモは同時期に薩摩藩にも伝わったとされるが,このアダムスによる平戸への移入もサツマイモ伝来の起源とされる。国内最初の甘藷畑跡「コックスの甘藷畑跡」は平戸に残っている。シ-・アドベンチャ-号による第二回のシャム航海(1615-1616)は無事に行われた。さらに,アダムスは,別のジャンク船を自ら買い取り,「ギフト・オヴ・ゴッド」号に改名,交趾(ヴェトナム北部)に航海している(1617)。

オランダ,イギリス両国の関係は,両国の庇護者であった家康の死(1616)によって,またアジア海域におけるヨ-ロッパ諸国のヘゲモニ-争いによって変化していく。ヤン・ファン・リーベックがクレンボルフで生まれたのは家康の死の2年後のことである。

第二代将軍徳川秀忠(1605-23)は,家康の死とともに,全ての外国船の入港を平戸と長崎に限定し,オランダ・イギリス両国人の平戸以外での雑居及び移動を禁止する。そうした中で,両国の貿易競争は激化し,1618年にオランダ船がイギリス船を拿捕するなどエスカレ-トしていった。

しかし,1619年に両国の東インド会社間でスペイン,ポルトガルを共同敵国とする協定が結ばれ,オランダ・イギリス連合艦隊が編成される。連合艦隊は,平戸を拠点として,スペイン,ポルトガル船の拿捕を繰り返した。日本人に大砲をつくらせ,日本人を傭兵として海外に連れ出している。1620年,宣教師2人を乗船させていた堺の海商平山常陳の朱印船がマニラから帰国する途次,台湾近海でオランダ・イギリス連合艦隊に拿捕される事件が起こる。この連合艦隊の略奪行為に対して,ポルトガル人はその非を訴え,一方, スペックスとコックスは,カトリック追放を訴えたが,幕府は,外国船に商売の機会均等と安全を保障した将軍の威信が犯されていること,日本人や日本の武器が国外に持ち出されていることを憂慮し,外国船による日本人の海外渡航や武器の輸出を禁止する貿易制限令(1621)を出す。さらに,翌年,長崎西坂でカトリック教徒55名を処刑した(「元和(長崎)の大殉教」)。

オランダ・イギリス連合艦隊は,この貿易制限令とともに,僅か3年で解散し,スペックスは1621年に平戸を去る。そして,かねてから利益のあがらないことを理由に1623年にはイギリス商館は閉鎖された。1623年には,ヤン・ピ-テルスゾ-ン・ク-ンがモルッカ諸島アンボイナのイギリス商館を襲い,商館員全員を殺害する。このアンボイナ事件により,東南アジア・東アジア海域におけるオランダの覇権が強まっていく。イギリスは東インド海域から撤退せざるを得なくなり,日英関係も断絶するのである。さらに,布教活動のともなう交易を求め続けたスペインも,1624年のスペイン船来航禁止令により,日本から完全に閉め出されることになる。以降,平戸を拠点とするオランダ,長崎を拠点とするポルトガルと日本の三者鼎立の時代となる。

永積洋子(2000)は,平戸オランダ商館日記(永積洋子 1969-70)をもとに開設当初の平戸オランダ商館を「海賊の時代」として描いている。ヤックス・スペックスに,朱印状を盾にポルトガル船・中国船の拿捕を命じたのは,事務総長であり続いて総督となるヤン・ピーテルスゾーン・クーンJan Pieters Coen(1587-1629,在位4代1619-23,6代1627-29)である。オランダの肩をもつ平戸藩主松浦隆信とポルトガルとの交易を優先する長崎奉行長谷川佐兵衛そして将軍とのやりとりが生々しく記録されているのである。オランダの露骨な海賊行為については,さすがに平戸の奉行たちをも不快にさせていくことになる。クーンは,しかし,海賊行為を推奨し続けた。1620年以降も,ポルトガル船や中国船の追跡、拿捕を繰り返すのである。ポルトガルは,江戸に大使を送り,オランダの行動を非難し続けた。ヤックス・スペックスは,1621年に,江戸参府から戻った平戸藩主から江戸に行ってオランダの行為について弁明するように勧められている。スペックスは,1619年に辞意をクーンに伝えており認められていたのであるが,この江戸参府の必要性を理由に平戸に留まり続けたことについて,永積洋子(2010)は,何かの過失を犯し,「1620年に商館の財政が悪化したらしい。そして,すでに9ヶ月前から,総督の命令に従って,平戸での商館長としての職務から離れていたのである。しかも明らかに彼自身の勘定口座や帳簿は決算が済んでおらず,このままではジャワで総督や参事会の前に出頭した時,彼自身の名誉にかかわるほどだった。」と書いている。1621年10月,ヤックス・スペックスは平戸を去るが,平戸藩主から5ヶ条からなる将軍の命令を伝えられている。

①将軍の許可状なしに,日本人を送り出すことを禁止する。

②短剣,短銃,その他の銃器,軍需品の輸出を禁止する。

③日本近海で掠奪してはならない。

④長崎では,外国からの大船も,その他の船も,大御所様(家康)の時に定められたとおり,少しも変更することなく,取引を行うこと。

⑤海上で掠奪を受けた長崎商人の船には,宣教師が二人おり,押収されたのはそのためだといわれている。宣教師がいたかどうかを,厳しく調査させ,報告させること。

⑤の長崎商人の船とは,堺出身でマニラ在住のキリシタン、平山常陳が所有する船で,1620年7月,澎湖島と台湾の間で、英蘭連合艦隊に拿捕され,日本に曳航された事件(「阿蘭陀人忠節之事」)である。宣教師と船長は火刑,日本人乗組員12人は打首に処せられた。そして,1622年9月の「元和の大殉教」が起こることになる。

結局,5次にわたる鎖国令が出され,平戸商館は閉鎖され,出島に移転させられることになるのである。

ゼ-ランディア城

 ヤン・ピ-テルスゾ-ン・ク-ンは,総督就任とともにバタヴィアの建設を開始する。そして,香料交易でポルトガルが先行して拠点を置いたモルッカ諸島を次々に襲う。ポルトガルのアルブケルク,イギリスのクライブに比肩される征服王であり,VOCの基礎を固めた功労者とされるが,アンボイナ事件の直前,スペイン・ポルトガルとの休戦協定(1609-21)の期限が切れたまさにそのタイミングにク-ンが襲ったのがマカオである(1622)。しかし,さすがにポルトガル艦隊の抵抗は強硬で攻略には失敗する。その後,マカオに対峙する拠点として建設されたのがゼ-ランディア城である。

敗退を余儀なくされたVOC艦隊は,澎湖島Pescadoresに砦を構えたが,明はこれを容認するわけにはいかなかった。倭寇や海賊に対する防衛ラインであったからである。澎湖島から撤退することを条件に,また,中国船の来航を妨害しないことを条件に,「化外の地」(中国にとって王化=教化の及ばない土地)である台湾の占領と台湾における通商交易がオランダに認められることになる。

総督コルネリス・レイエルセンCornelis Reijersen(c.1590-1625)は,カピタン・シナ=李旦の手引きで台南のタイオワン(大員湾)を拠点として,マルティネス・ソンクMartinus Sonckを行政長官(1624-25)とする。台湾南西岸は倭寇や海賊の拠点であった。倭寇がそれまで自由に貿易してきた場所でオランダ人が輸出入税を徴収し始めたのが,後に触れる「タイオワン(ノイツ)事件」の伏線である。ピ-テル・ノイツは第3代行政長官(位1627-29)である。また,後にゼ-ランディア城を攻略してオランダ人を追放することになる鄭成功の父鄭芝竜を指導者とする大規模な漢族系海賊集団は,オランダ人入植地の数10km北にある魍港(現・嘉義県)を占拠して活動していた。

図Ⅱ② ゼーランディア城 1624 Vingboon 

スペインは,中国-マニラ貿易を切断しようと目論むオランダに対抗すべく,台湾北端の東岸から西岸にかけて,1626年にサンティアゴ Santiago(漢訳三貂角,現・三貂堡),サン・サルバドル San Salvador(鶏籠=基隆湾内の社寮島,現・和平島),1629年にサント・ドミンゴ Santo Domingo(滬尾,現・淡水)と称する要塞をそれぞれ建設した。こうして,台湾は,オランダ,スペイン,漢族系海賊という三大武装貿易集団がそれぞれに拠点をもって活動し,それら三大集団に対して,秀吉によって朱印船貿易として制度化された日本商人たちが取引を試みる,という競合と棲み分けの舞台となった。

砂州状の半島,大員(「大湾」「台員」タイオワンTaioan ないし Taiouan)に仮城の建設が開始されたのは1623年3月であるが,すぐさま放棄され,翌年には大員の北に位置する島「北線尾」(パクセンボイPacsemboy/Paxemboy)に商館が建設される。結局,本格的に要塞と市街が建設されるのは1624年以降である。1625年には,内海を挟んで大員と向き合う本土側の一帯,「赤嵌」にプロヴィンシア城と市街の建設が開始された。すなわち,大員には,ゼ-ランディア要塞 (当初は オランィエOrange と称した)(図Ⅱ)とその東に市街地が建設され,赤嵌には新市街地プロヴィンシアとプロヴィンシア要塞が建設された。北線尾にも ゼ-ブルフZeeburch と称する砦が築かれたが,当初の商館は早くに大員に移転しており市街地はなかった。船舶は北線尾と大員のあいだを水路とした。都市の名称としてのゼ-ランディアは,1627年に,これらオランダ入植地の総体(基本的には「大員」+「赤嵌」)を指す名称として定められたものである。ゼ-ランディア城が完成したのは1640年頃である。

ゼ-ランディアの市街地としての発展は,清王朝の誕生(1644)に伴う明末の内乱が起こってからの中国人移民の流入を契機として進んだ。VOCは漢族系移民を住民として抱え込み,後背地の開拓に当たらせる(稲作と甘蔗作)。また軍事力を背景に,彼らに様々な税を課し,これにより貿易および防衛上の諸施設を建設し,市を運営した。周辺農村については,オランダは1650年までに293の村を含む7地区を統制下に入れている。

オランダがゼーランディア建設を確固として進めたのに対して,スペインは,結局,台湾での競争から脱落していった。彼らが入植を試みた台湾北部にはとりわけ勇猛な先住民のアタイヤル族がおり,マニラからの補給も台風に妨げられ,植民地経営もカトリック伝道もままならなかったのである。1638年にはサント・ドミンゴ要塞(淡水)を破壊して放棄し,残されたサン・サルバドル要塞(基隆)も1642年のVOC艦隊の攻撃により陥落した。

一方,鄭芝竜ら福建・広東両省を中心とする中国人グル-プは,泉州一帯からマカオ,マニラ,台南,平戸などで活躍し続ける。そして,植民に消極的だったオランダに対し,鄭一派は1628年から福建省民数万を募集して台湾へ移民させ,魍港周辺の開拓を進めた。台湾に自己勢力を扶植し,オランダと対抗するためであった。その鄭芝龍の息子鄭成功が1661年に出した25,000の水軍によって,オランダはあっけなくプロヴィンシアを奪われ,翌1662年には ゼ-ランディアをも明け渡すことになる。

オランダを破った鄭成功は,プロヴィンシア要塞を承天府と称して台湾支配の中心とした。中国人はこれを「赤嵌楼」あるいは「紅毛楼」と呼んだ。ゼ-ランディアは安平鎮とされ,ゼ-ランディア要塞は鄭成功の居館となった。鄭成功は,ゼ-ランディア要塞の外郭北辺の2稜堡間に門を開けたほか,外郭北東角の稜堡のそばに溝渠を設けて城内の池に海水を入れて池畔の亭から楽しんだという。

平戸商館長群像

平戸オランダ商館は,出島移転まで,初代ヤックス・スペックス(1609-13)以下,2代ヘンドリック・ブラウェルHendrick Brouwer(1613-14),3代 ヤックス・スペックス(1614-21),4代レオナルド・カンプスLeonard Camps(1621-23),5代コルネリス・ファン・ナイエンローデCornelis van Nijenro(o)de(1623-32),6代ピ-テル・ファン・サンテンPieter van Santen(1632-33),7代ニコラス・ク-ケバッケルNicolas Coeckebacker / Couckebacker(1633-39),8代フランソワ・カロンFrançois Caron(1639-41),9代マクシミリアン・ル・メ-ル(1641-1641)まで,8人の商館長(カピタン)によって運営された。

 VOCは,カ-メル制を採り,アムステルダム,ゼ-ラント(ミッテルブルフ),ロッテルダム,デルフト,ホ-ルン,エンクハウゼンの各カ-メルの代表からなる取締役会,そしてその決定機構としての「17人(重役)会HerenⅩⅦ ” Vergadering der Heren Zeventien”」によって統治されたが,オランダ東インドについては,総督Gouverneur-Generaalとインド評議会Raad van Indie(バタヴィア政庁)によって運営された。

ヤックス・スペックス

初代平戸商館長となったヤックス・スペックスは,オランダ東インドにおける有力メンバ-となる。上述したように,スペイン・ポルトガルとの休戦協定が切れ,ヤン・ピ-テルスゾ-ン・ク-ンがマカオ攻撃を指令した1622年にバタヴィアに異動する。そして,日本や中国との貿易に関する情報を欲しがっていた「17人会」は,スペックスをアムステルダムに召喚し(1627-29),状況を把握している。そして,インド評議会の初代評議員に指名して,再び東インド,バタヴィアに派遣した。ところが,バタヴィアに着いた 1629 年 9月21日の前日に第4代(1619-23),第6代(1627-29)総督を務めたヤン・ピ-テルスゾ-ン・ク-ンJan Pieterszoon Coen(1587-1629)が急死する事態に直面するのである。しかも,バタヴィアはマタラム軍に包囲される状況にあった。スペックスは,突然,インディアス評議会によって暫定総督(1629-32)に任命されるのである。

スペックスの総督時代には,バタヴィアの骨格が形づくられる。また,スペックスは,台湾での取引をめぐる「タイオワン事件」(1628)の処理に当たった。しかし,「17人会」は,スペックスの総督就任を承認せず,1632年にはオランダに帰国することになる。スペックスは,型破りで豪放磊落,様々なエピソ-ドが伝えられる。財務会計処理は大雑把で,私的取引による不正蓄財を疑われた。日本人女性との間に娘サラをもうけたが,バタヴィアでのサラの奔放な男女関係をめぐるスキャンダルも伝えられる。レンブラントなどの絵画の収集家としても知られる。1633年に帰国し,アムステルダムのカイザ-グラハトに住み, 1643年にはオランダ西インド会社の監督官,1645年にはVOC長官になったというが定かではない。1652年に死去した。

ヘンドリック・ブラウェル

スペックスに変わって商館長となったのはヘンドリック・ブラウェル(1581-1643)である。しかし, 着任すぐに離任する。スペックスがやむを得ず日本商館長に再任されるのであるが,ブラウェルは,日本との交易に専念するより,VOCの拠点獲得により強い関心があったと思われる。時代はやや下って,第7代オランダ東インド総督(1629-32)となったスペックスの後を継いだのがブラウェルである。

ブラウェルは,モザンビ-ク,ゴアなどポルトガルのアジア拠点を奪取することを目的にしたカルデン艦隊にバンダ号の書記として参加した後,同じ1606年末 3 隻の戦隊の指揮官として東インドに向かった。コルネリス・デ・ハウトマンの遠征(1595-97)以降のVOC艦隊に先立つ先駆諸会社の船団の航路は,ポルトガルが拓いた航路すなわちアフリカ東海岸からモ-リシャス,セイロンを経由してバンテン(バンタム)島に至るル-トであり,随所でポルトガルとの衝突の危険があった。

ブラウェルが試みたのは,喜望峰から南下し,一年中強い西風が吹く「吠える40度」と呼ばれる南緯40度-50度を東へ一気にインド洋を突っ切り,ジャワ島に向かうル-トである。ブラウェル・ル-トあるいはクリッパ-ル-トと呼ばれる。ブラウェルが発見したこのル-トによると,それ以前には1年以上かかった行程が5-6ヶ月に短縮され,コストの大幅削減につながり,壊血病の発生も大幅に減少することになった。 VOC は 1617 年にこの航路を公式ル-トとする。

ブラウェルは,1611年以降,バンテン(バンタム)を拠点に,ジャワ島の北海岸,モルッカ諸島とバンダ諸島で活動する。そして,1612年に平戸へ向けた最初の定期船団を率いた。「17人会」は,ブラウェルをインド評議会の委員とし,平戸商館長に任命するのである。ブラウェルは,マウリッツそしてピ-テルス・ポ-トPeters Port初代総督(1609-14)の親書と贈答品ともに駿府に参内している。そして,スペックスの仕事を引き継いだが,中国との交易にウエイトを置こうとするブラウェルの方針とスペックスに親しい平戸藩や海商たちとの摩擦から自らすぐさま辞職する。ブラウェルは,離任の際に,68名(大工9名,鍛冶職3名,左官2,3名,他は水夫と兵士)をバタヴィアに連れて行っている(1613年2月)。VOCは,植民拠点維持のための労働力として,また兵士として日本人を東インドに招致することを方針としていた。日本人は,労働力としては勤勉実直,兵士としては勇猛果敢であり,「性質怜悧にして優秀であり,給料は低廉にして,米と塩魚など極めて安価な賄いで養うことができる」とみていたのである(平戸商館長ヘンドリック・ブラウェルのピ-テル・ボ-ト総督宛書簡(1613年2月11付)。戦国時代が終結し,多くの武士が新しい雇い主を探していたという事情が日本側にもあった。合わせて数百人がバタヴィアに移住したとされるが,幕府は,貿易制限令(1621)によって,武器輸出の禁止とともに,武士の渡航を禁止する。

ブラウェルは1615年に帰国し,アムステルダム東インド会社の代表に就任,「17人会」の取締役となる。また,1621年から1623年にかけてロンドンに駐在し,両国間の協定と紛争をめぐる交渉,条約締結に関わっている。そして,1932年に,スペックスの後,オランダ東インド総督(第8代 1632-36)に就任,5年の任期を務めた。帰国して6年,根っからの探検航海者であったブラウェルは,WICの艦隊(15隻)を率いてブラジル,ペルナンブコに向かう。1642年,61歳である。しかし,ペルナンブコから金の採掘を目指してスペインとの交戦しながらチリへ向かう途次病死している(1643)。

スペックスが退任した1621年は,オランダ西インド会社WICが設立される年でもある。オランダの対外戦略は,以降,大きく変化していく。第4代総督となったク-ンは,スンダ・クラパSunda Kelapaのイギリス商館を襲ってバタヴィア建設を開始し(1619),さらにアンボイナ事件(1623)を起こした。また,中国貿易をポルトガルから奪取すべく,台湾にゼ-ランディア城を建設する(1622)。

レオナルト・カンプス

スペックスに替わって第4代商館長となったレオナルト・カンプス(??-1623)は,中国絹の輸入を拡大することを提言するなど貿易拡大を計り,イギリス商館長リチャ-ド・コックスとともに徳川秀忠に拝謁し,武器禁輸解除を請願するなどしたが,在任2年で病死する。

コルネリス・ファン・ナイエンローデ

第5代商館長コルネリス・ファン・ナイエンローデは,平戸で死去するまで10年にわたって商館長を務めた。ナイエンロ-デは,フェルフ-フ艦隊のデルフト号の乗組員であり,バンテン(バンタム)経由でパタニに着く(1609)。パタニには5世紀頃までランカ・スカLangka Suka と呼ばれるインド化された国家があったとされるが,15世紀以前のパタニについては確かなことはわかっていない。ポルトガルがマラッカを占領し(1511),国際交易の流れが遮断されると,ムスリムとチャイニ-ズが移住し,それとともに東南アジア有数の交易港に発展する。ポルトガルがマラッカからパタニへ商船を送ったのは1516年であり,1538年までにおよそ300人のポルトガル商人が居住してきた。オランダは,1602年にパタニをバンテン(バンタム)に続く拠点としたが,ナイエンローデの時代にはパタニと平戸は頻繁に交易を行っていた。

しかし,ナイエンローデは,直接パタニから平戸へ向かったわけではなく,派遣されたのはアユタヤで,翌1610年には商館が設置された。その後,パタニの北に位置するサンゴラ(ソンクラ-)で貿易に従事したが(1613-17),再びアユタヤに戻って商館長となった。ソンクラ-は,シュリ-ヴィジャヤ王国の拠点であったと考えられており,ソンクラ-湖周辺の発掘調査によって,10世紀から14世紀にかけて泉州と交易関係があったことが明らかになっている。イスラ-ムの到来後はランカ・スカ王国の支配下に置かれてきたが,16世紀にはスマトラのムスリムが移住し,港市として大いに発展する。17世紀初頭には東南アジア有数のハブ港となっていた。

しかし,バタヴィアの建設によって中国・日本貿易を一括管理することを計画したク-ン総督とインド評議会は,アユタヤ商館を閉鎖する(1621)。ク-ンは,上述のように,スペイン・ポルトガルとの休戦協定が切れると,マカオのポルトガルの貿易拠点を奪うべく,コルネリス・レイエルセンを総司令官とする艦隊を送った(1622)。ナイエンローデはその副司令官に任命され,先行してマラッカ海峡でマカオへ向かうポルトガル船4隻を捕獲して,レイエルセンの艦隊に加わるのである。マカオ攻略に失敗すると,レイエルセンは澎湖島に退いて砦を建設し,マニラへ向かう中国のジャンク船の積荷を略奪するなど海賊行為を行う。ナイエンローデが平戸に向かったのはその戦利品を売りさばくためであった。

ナイエンローデが平戸に着いたのは1623年8月6日であった。ナイエンローデが平戸商館長になったのは偶然といっていい。レオナルド・カンプスは2年の任期を終え,後任のウィレム・ハイヘンの着任を待っていたのであるが,ハイヘンは到着数日前に船上で死去したのである。そこで,カンプスは,ナイエンローデに日本に留まるように懇願したのである。ところが,そのカンプスも11月19日に死去してしまうのである。「平戸のイギリス商館に行って,半時間足らず座り,ビールを飲んだが,外に出ると悪寒を訴え,商館に帰って寝たまま,熱が下がらず,商館のことについても,彼個人のことについても,なにひとつ言い残さないまま,二日後に没した」のだという(永積 2000)。

ファン・ナイエンローデは,結局10年間,商館長を務めることになったが,平戸藩主・奉行との関係は相当悪かったようである(第一章 四 商館長ナイエンローデと平戸藩主と不和(永積 2010))。また在任中,「タイオワン(ノイツ)事件」のために,オランダ船は4年に亘って入港できなかったのであった。

発端は,レイエルセン艦隊がマカオ攻撃に失敗し,台南のタイオワン(大員湾)に拠点を築き,初代行政長官マルティネス・ソンクが寄港する船舶に10%の関税をかけたことによる。台湾南西岸は倭寇や海賊の拠点であり,倭寇がそれまで自由に貿易してきた場所である。関税措置について日本船が反発するのは当然である。

そして,1627年8月1日,タイオワンをめぐって緊張関係が高まるなかで,クーンが派遣した大使として来日したのがノイツ一行である。間が悪いというべきか,長崎奉行・末次平蔵が台湾全土を将軍に捧げるためにと,新港(嘉義県)の住民を連れ出してきた船とほぼ同時の平戸入港であった。

ピーテル・ノイツPieter Nuyts(1598—1655)は,ミデルブルフ(ゼーラント州)に生れ,ライデン大学で哲学を学んだ俊才で,1926年にVOCに入社した時には期待の星と目されたという。すぐさまバタヴィアに向かったが,乗船したフルデン・ゼーパーツGulden Zeepaert(黄金のタツノオトシゴ)号は航路を外れ,オーストラリア西海岸に到達した。俊才の片鱗というべきか,ノイツは,この航海で西海岸1500kmについての地図を作成した。今日にも,ノイツリーフ,ノイツ岬,ノイツ群島などにその名が残されている。それはともかく,バタヴィアに着いて1ヶ月後に,ノイツは,台湾行政長官と日本大使に同時に指名されたのである。ノイツがいかに俊才とは言え,東インド,台湾,日本の事情については,ほとんどなんの知識を持っていなかったに等しい。その高邁な態度についての悪評は記録に残されている。

ノイツは,4門の大砲とその付属品を献上品として持参し,大坂,京都を経て,78頭の馬,290人以上の行列を整え,江戸に入った。しかし,持参した書状の署名者東インド総督クーンの地位を疑われ,その尊大な態度を咎められて,将軍への拝謁は認められなかった。待遇も悪く,這う這うの体で江戸を発ち(11月8日),タイオワンに引き上げるしかなかったのであった(12月3日)。

そして,翌年事件が起こった。

浜田弥兵衛が統率する長崎代官・末次平蔵の持ち船2隻がタイオワンに入港したが,船には武器,火薬が積まれていたことから,ノイツは,武器を取り上げ,浜田弥兵衛をゼーランディア城に連行し,抑留した。日本船の乗員はオランダ人2人を殺害,ノイツを捕縛してしまう。交渉の結果,お互い人質をそれぞれの船に乗せ長崎に戻ったが,日本人人質はすぐさま釈放されたが,末次平蔵はノイツらを大牢に監禁,平戸オランダ商館を閉鎖する。この結果,ナイエンロ-デが死去するまでの4年間,日蘭貿易は途絶えることになるのである。

ナイエンローデは,日本人(トケシアとスリシア)との間に二人の娘をもうけた。姉をヘステル,妹をコルネリアという。このファン・ナイエンローデと愛人スリシアとの間に生まれた娘コルネリアの「数奇な人生」については,岩生成一の「甲必丹の娘コルネリアの生涯」(『歴史と人物』1987年1月号)があり,レオナルド・ブリュッセイ(1988)『おてんばコルネリアの闘い 17世紀バタヴィアの日蘭混血女性の生涯』がさらに詳細に焦点を当てている。「おてんばコルネリア」は,レオナルド・ブリュッセイ(1988)の邦訳タイトルであるが,原タイトルは「蝶かカマキリか」である。ブリュッセイは,蝶でもカマキリでもない「オテンバ」であるというのであるが,「オテンバ」とは,オランダ語のオンテンバ-ルontembaar (英語untamable)(手におえない,馴らしにくい,扱いにくい)の転訛である。

ナイエンローデの死の翌年,朱印船以外の渡航を禁じた第1次鎖国令が出され(1633),1635年には,外国船の入港を長崎のみに限定した第3次鎖国令,そして翌年,外国人の市中雑居を禁止した第4次鎖国令が出され,ポルトガル人とその妻子はマカオに追放された。徳川幕府の禁教政策が強化されるなかで,姉妹はナイエンローデの柩とともにバタヴィアへ移住することになった。コルネリアは7歳であった。その「数奇な人生」については後述しよう。ヤン・ファン・リーベックはバタヴィアで会ったかもしれないのである。

ピーテル・ファン・サンテン(1632-33)

1932年に再開された平戸オランダ商館の第6代となったピ-テル・ファン・サンテンは,「タイオワン事件」の後始末としてノイツの釈放に尽力したが,在任中オランダ船の入港はなかった。ノイツが釈放されたのは1936年であり,7代商館長ニコラス・ク-ケバッケルの在任中で,前年の江戸での交渉には8代商館長となるフランソワ・カロン(1600-73)が同行している。

ニコラス・クーケバッケル1633-39)

ク-ケバッケルが平戸に来航したのは1633年であるが,五島列島,薩摩,有馬周辺の海図の作成を試みている。海禁政策が強まる中,1936年に一度バタヴィアに戻っている。そして,島原の乱(1637-38)が起こる。ポルトガルが反乱を支援したのに対し,オランダは幕府の要請に応えて海上から原城を砲撃することで幕府への忠誠を示した。ク-ケバッケルは自ら原城攻撃に加わっている。結果として,1939年に,ポルトガル人は完全に国外に追放され,マカオとの交易は禁止された。翌年マカオから関係修復,貿易禁止の撤回を求めて訪れた4人の使者とポルトガル人乗組員61人は斬首され,イエズス会による日本宣教は終止符をうった。オランダ・中国は日本での貿易を独占することとなる。

しかし,オランダもまた出島移転を命じられ,その活動を厳しく制限されることになる。その口実となったのは,キリスト教の日付(1638 年 12 月 9 日)を刻んだ商館である。幕府は,島原の乱を平定し江戸への帰途にあった松平信綱を平戸オランダ商館の実情調査に向かわせた。松平信綱は商館建築の石垣の堅牢さとオランダ人の砲術に驚異を感じ,幕府にオランダ人を平戸から閉め出すべきと進言する。それを受けて翌年,幕府は,井上筑後守を平戸に派遣し,商館の取り壊しと閉鎖を命じるのである。

フランソワ・カロン(1639-41)

平戸商館の解体を命じられたのは就任したばかりのカロンである。カロンは,オランダに亡命したフランス系ユグノ-教徒の家にブリュッセルで生まれ,VOCを退職(1651)した後,フランスに帰化し,フランス東インド会社の総裁(1665-73)となる。フランス東インド会社(1664設立)は,イギリスEIC,オランダVOCに半世紀以上遅れるが,先行するマダガスカル会社(1637),東方会社(1642),フランス中国会社(1660)の3社を統合したルイ14世の勅許会社である。重商主義者で知られる財務総監ジャン・バティスト・コルベ-ルJean-Baptiste Colber(1619-83)の起案であり,彼が指名したのがカロンであった。この就任はVOCから反逆行為とみなされ,カロンは永久にネ-デルラント諸州から追放される。

カロンが平戸に来航した1619年はコルベ-ルが生まれた年である。料理人助手としてオランダ船シ-ダム号に乗船したのであるが,正式に商館員となったのはナイエンローデ商館長の1626年である。江口十左衛門の娘との間に6人の子どもをもうけたというが,日本語に堪能で,1627年のナイエンロ-デの江戸参府の際には同行して通詞を務めている。カロンは,1627年に続き,1633年,1635年,1636年,1639年,1640年,1641年に江戸参府している。1636年の江戸参府の際に,ピ-テル・ノイツの解放のために,家光に贈呈した銅製の灯籠は日光東照宮に設置され,現在も残っている。

カロンが商館長であったのはわずか1年にすぎないが,20年にわたって日本に滞在し,禁教,海禁を強める幕府との間で優れた外交能力を発揮した。カロンの貴重な見聞は『日本大王国志』(フランソワ・カロン2007)として出版され(1661),オランダ語版に加えて,英語,ドイツ語,フランス語,イタリア語,ラテン語,スウェ-デン語に訳された。もともとは,東方会社の問い合わせに回答した報告がもとになっており,その該博な情報がフランス東インド会社総裁就任に結びつくのである。

商館長の任期を終えると,カロンはバタヴィアでインド評議会の評議員に任命されてオランダに戻るが,1643年にはバタヴィアに戻って,艦船を率いてセイロン沖でのポルトガルとの戦闘を指揮している。そして,翌 1644年,台湾総督となる。1647年にはオランダ東インド副総督に就任,1651年に私的貿易の疑いでオランダに呼び戻され,辞任している。

 フランス東インド会社では,マダガスカルに遠征(1651),ブルボン島(現レユニオン)とイル・ド・フランス(現モ-リシャス)に港を建設した後,インドに向かい,ス-ラト(1668)とマスリパタム(1669),さらにポンディシェリ-(1673)に交易拠点を設けた。その功績はフランスのアジア進出にとってとてつもなく大きかったが,帰国途中,リスボン沖で船が沈没,死亡した。

マクシミリアン・メール(1641-1641)

 カロンを継いだ9代平戸商館長マクシミリアン・ル・メ-ル(1606アムステルダム – c.1654バタヴィア)は,初代出島商館長となるが,在任期間は合わせて1年に満たない。平戸商館の解体,出島への移転が仕事であった。出島の後は台湾の行政長官をつとめた(1643-44)。父のイサック・ル・メ-ル(c.1558アントワ-プ-1624エグモント・ア-ン・デン・フフ)は,VOCの設立メンバ-の一人,最大の大株主であり,マクシミリアンは,1630年頃入社,モザンビ-ク,マラバ-ル海岸で勤務した後,上級商務員として平戸に着任した。出島移転に先立って江戸参府し,老中酒井忠清らに拝喝し,以降,情報提供を求められ,毎年作成されたのが『オランダ風説書』である。ル・メ-ルは,台湾勤務の後,帰国し,数年間アムステルダムに住んだ後,1650年にバタヴィアに移住したが,正確な死亡日はわかっていない。

 平戸オランダ商館は,1640年に取り壊しが開始され,1641年にポルトガルの去った出島にオランダ商館は移された。平戸のオランダ商館はその31年の歴史の幕を閉じたのであった。

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