アジテーターとしての編集者 その2
編集者としての原点
神子久忠
(敬称略)
*勝見勝と修のこと
私は、いまは千葉県鴨川市だが、昔は江見町で3000人ほどの半農半漁の貧しい過疎地で生まれた。温暖なところだから緊張感がなく、有名人が出ない。少し離れた寒村曽呂村から、大蔵大臣をやった水田三喜男がいるくらいである。高校の先輩でもあり、浮世絵のコレクターだった。
小・中学校は2クラスで1クラス30で総勢60人。どこといって取柄のない中学校だが、英語教師に勝見修がいた。黒板に見事な絵を画いて、発音の仕方を教えた。さらにバイオリンも弾いた。当時としては珍しいことだった。

どうしてそんな過疎地の中学校にきたのかわからないが、人気は抜群。しかし中学2年頃、結核だと思うが死去。火葬場はいまと違って山の中。焼却した煙が見え、誰もが忘れられない思い出となった。絵は勝見のお陰で、中学校では美術部。最近部屋を整理していたら、当時の江見町を描いた何枚かの稚拙な油絵が出てきた。当時私は勝見から、長文の励ましの封書をもらった。それが生きる指針となった。
その後デザイン関係をやるなかで、勝見修の兄が勝見勝だと知った。勝見勝(1909-1983)は東大文学部美学科卒、同大学院。日本デザイン学会設立委員、『グラフィックデザイン』創刊。東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長、桑沢デザイン研究所開設にも関与。勝見コレクションは、いま多摩美大にある。勝見家はそうした環境にあったのだろう。勝見修は、私たちに強烈な印象を残した教師だった。
そこから近くの鴨川市にあった高校に行かず、40分ほどかけて館山市にあった千葉県立安房第一高等学校へ。1クラス50人5クラス250人。試験のたびに、講堂に順位が張り出された。女性は安房第二高等学校があったが、第一にも1クラス2、3人いた。のんびりする余裕もなく、できない勉強に明け暮れた。ただ社会科教師が60年安保とはなにかをガリ版で刷り、それを授業で教えた。当時、私には無縁の世界だったが、教師たちにとっては喫緊の問題だったのである。そのおかげで、私は60年安保、70年安保の下地を教えてもらったことになる。
*活気溢れた桑沢デザイン研究所
1960年3月同校を卒業。勝見の影響もあり、デザイン方面へとなり、同年4月渋谷の桑沢デザイン研究所プロダクトデザイン科に入学。同校は1954年桑沢洋子がバウハウス思想に沿って青山につくったデザイン専門学校。その後、1958年現在の場所に移転。設計は増沢恂。RC造3階建てで少し高台にあるから、いまでも遠望できる。卒業生に倉俣史朗や内田繁などがいる。
あとで気づいたが、後年、私は長谷川堯の『神殿か獄舎か』(1972年)を手伝うが、それに関連して内藤廣が『著書解題』(2010年)で長谷川に聞いている。
長谷川は60年安保の頃、「大学を出てから数カ月の前期の間、桑沢にいた。当時浜口隆一が建築史を教えていたから。さらに篠原一男にも習った。〈住宅をプランからでなく、形からデザインせよ〉といわれ、模型をつくって褒められた」という。私はそのことは知らず驚いた。考えてみると、長谷川とは不思議な縁だったように思う。
バウハウス思想に沿っただけに、教師陣も多彩だった。いつも洋書を何冊も抱えていた美学の阿部公正、家具の松村和夫、ファッションの立体裁断の伊東茂平、東工大助手の篠原一男、歌人の村上一郎などがいた。篠原は紀伊国新書で、最初の書『住宅論』を出したところだった。当時、村上は紀伊国屋書店の嘱託だったから、その縁で出したのだと思う。

篠原は住宅論を教えるよりは、通常の設計を教えた。むしろ住宅論に近い話をしたのが村上である。奈良盆地の中央に慈光院がある。障子を取り払うと、奈良盆地がすべて見える寺である。つまり室内外が一体となる空間のあり方を教えてくれた。後年建築を学ぶが、法隆寺をはじめ奈良には何度も行った。慈光院もそうだが、京都にはない骨太の空間に魅かれた。
慈光院の話は、篠原の住宅論にあるから、村上はそれを話したことになる。歌人でもあったから、さらにボルテージをあげて話したのだろう。
桑沢デザイン研究所の授業内容は、どれも知らない初めての世界だった。なにしろ本格的始動したばかりの2年後に入学したのだから、教える方も教えられる方も活気に溢れ、いま思うと梁山泊のようだった。しかし住宅デザイン科はなく、プロダクトデザイン科だった。2年いるあいだに、本格的に建築を学ばねばと思い始めた。
*村上一郎から『試行』を購入
それよりも私にとって桑沢デザイン研究所の最大の出来事は、村上一郎や吉本隆明に出会うチャンスを得たことである。ある時村上が、今度仲間と同人誌を出したので、購入してほしいといわれた。それが『試行』である。最初は吉本隆明、谷川雁、村上一郎の3人で出し、のちに吉本の単独編集になり、村上は単独で『無名鬼』を出した。
また高根正昭が教えていた。60年安保を主導した一人で、二十世紀研究所を創設した清水幾多郎の高弟である。高根の下宿先へ行って、いろいろなことを聞いた。このように当時の桑沢デザイン研究所はデザイン関係のほかに、こうした多士済々の顔ぶれがいた。
入学した1960年4月は、60年安保の敗北感のただなかにあった。私がそれらに関心をもてたのは、先述した高校の社会科教師がつくったガリ版刷りの授業である。当時吉本は、60安保闘争の裁判闘争で被告たちへの弁論を展開していて、それにも影響された。村上は海軍主計大尉で、日本刀を持ち歩く武士道そのもの。さらに歌人。実直な人柄が魅力で、私は吉本同様、大きな影響を受けた。最後は自宅で日本刀で命を絶った。
*自立学校のこと
吉本隆明に話を戻す。

吉本の最初の書『擬制の終焉』を出した現代思潮社社長・松田恭二(1928-2011)や松田政男(1933-2020)などが中心になって、早大正門脇の観音寺で「自立学校」を始めた。埴谷雄高、谷川雁など多彩なメンバーが教師である。当時は汚い寺だった。60年安保の総括と、次代のための自立学校で、そこにも通った。しかし圧倒的に影響を受けたのは吉本からで、それから長い間〈吉本教〉の信者となった。
『試行』は当初500部だが、60年安保の落ち込みで多くの強烈な信者を増やしていった。私はそれでかろうじて精神の安定を保てた。創刊号から20年くらい経った頃、貧乏の極で売ったら驚くべき値で売れた。それほど『試行』は、強い影響力をもちはじめていたのである。発送などの事務は吉本夫人がやっていた。『試行』は1997年12月、第74号で終刊となった。私は先述したように、村上一郎の勧めで1961年9月の創刊号からだったから、36年間、20歳から56歳までの読者だった。
吉本との関係では、のちに相模書房に移ってから野村考文『増補 南西諸島の民家』、池浩三『家屋文鏡』『祭儀の空間』などを出したが、それが吉本の南島論へとなっていった部分がある。送ると短い文面で、お礼のハガキがきた。
吉本が扱う範囲は非常に広く、建築や都市にも及んだ。磯崎新との対談もある。またファッション論もある。『共同幻想』など数えあげればきりがなく、影響を受けた本はいくつもあるなかで、晩年の『アフリカ的段階について』(2006年)がある。従来の西洋近代史観を批判し、人類の「原型」としてのアフリカ的段階の歴史的基盤をとらえた著である。
*激しい批判
吉本は戦後最大の思想家といわれたが、そこから鶴見俊輔や松田道雄など、いわゆる岩波文化人たちの影響を受けた。
吉本の著書の大半は、『試行』での連載である。だから読者もそこへの掲載を望んだ。吉本は掲載に値する力量のある人へ頁を割いて載せた。そこから桶谷秀昭など優れた論者が、多く輩出した。のちの〈吉本教〉の信者たちで、その信者たちの論考にも私は魅かれた。今回の布野の『SLAB』もそうあってほしいが、それには厳しい〈審査〉が必要なこというまでもない。
『試行』での連載の一つに、激しい批判や論争があった。かつて仲間だった鮎川信夫や埴谷雄高などへも、遠慮なく激しい批判を続け、論争をして縁を切っていった。これに類したのが斎藤茂吉で、歌人として第一級で私は多くを学んだ。自由奔放な生涯をおくったが、批判の凄さは吉本同様、容赦しなかった。多くの門人を破門した。
*吉本隆明と鶴見俊輔の晩年
戦後思想界を牽引した吉本隆明(1924-2012年、87歳)と鶴見俊輔(1922―2015 93歳)は同世代で、生まれも死去もほぼ同じである。この巨人たちの晩年はどうか。
吉本の妻は歌人の和子、長女は漫画家のハルノ宵子、次女は作家の吉本バナナである。
ハルノ・宵子に『隆明だもの』(2023年)がある。鶴見には、本人が晩年に書いた『もうろく帖』(2010年)がある。前者は吉本家を中心に書いたもの。後者は耄碌していく自分を書いたもの。『隆明だもの』は死後に書かれたから、耄碌して死んでいく吉本が実に詳細に書かれている。ハルノは、〈吉本教〉の信者たちには耐えがたいだろうがといっている。

他方の『もうろく帖』は生前の本人が書いたから、鶴見がどのような死に方をしたのかはわからない。こうした類書は、いろいろとあると思うが、いずれにしろこの巨人たちの老後も凄まじい。そこにあるのは巨人どころではなく、どこにでもいる普通の老人の老い方であり死に方だが、それでも常人と違って巨人らしい様相を見せる。2人に多大な影響を受けてきた私にとっては、驚きでもあるが、どこにもある老年から死へ向かう人間の老い方に安心もする。
ちなみに丹下健三(1913-2005、91歳)の後妻の連れ子・丹下憲孝に『七十二時間集中しなさい』(2023年)がある。世界の丹下が、何度もガン闘病を続け、亡くなっていく様子が詳細に書かれている。世界の丹下のモダニストらしい記録である。著名建築家で、これだけ生々しい記録は珍しいだろう。から大きな影響を受けた。それは後述するが、建築家をめざしたが力不足でなれず、建築ジャーナリストとなった。その影響については稿を改める。





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