コモンズの基礎理論――愛されるコモンズをつくる
松村 淳
1. 問題の所在
「コモンズ」という語は、もともと共同利用資源(common-pool resources)を指す経済学的概念として出発した。しかし今日、この語は都市計画・建築・地域づくりの現場において、単なる資源管理の枠組みを超え、人々が場に対して抱く愛着や関係性そのものを含意する言葉として用いられるようになっている。本論ではコモンズ論の古典的系譜を整理したうえで、松村淳『愛されるコモンズをつくる――街場の建築家たちの挑戦』を概観するが、わけても、なぜコモンズが「愛されるコモンズ」である必要があるのかについて、つまり、なぜ「管理されるコモンズ」から「愛されるコモンズ」への理論的転回が必要なのかを中心的に論じたい。
2. なぜいまコモンズか――後期近代というコンテクスト
コモンズ論がなぜ今日これほどまでに参照されるのか。この問いに答えるには、後期近代(late modernity)という時代診断を経由する必要がある。
ベック(Ulrich Beck)のリスク社会論によれば、第一の近代を支えてきた国民国家・完全雇用・核家族・階級文化といった「集合的なるもの」は、再帰的近代化のプロセスを通じて漸進的に解体されていく。個人は、伝統的な共同体や制度がかつて与えてくれた確実性を失い、みずからの人生を絶えず自己言及的に構築し直すことを強いられる(個人化)。ギデンズ(Anthony Giddens)が再帰性(reflexivity)として定式化したように、後期近代における制度・関係・自己は、もはや所与の規範として受け取られるのではなく、絶えず吟味・選択・更新の対象となる。
この個人化と再帰性の高まりは、逆説的に「不特定多数に開かれた公共性」への信頼を掘り崩す方向に作用する。誰にでも開かれているはずの公共空間・公共施設は、匿名的であるがゆえに、再帰的に自己の生を構築しようとする個人にとって、もはや十分な意味的支えを提供しない。むしろ人々が希求するのは、顔の見える関係性のなかで、みずからが選び取り、みずからの手で形づくることのできる場――すなわち、普遍主義的な公共性(publicness)ではなく、特定のコミュニティを基盤とした、選択的で再帰的な帰属の場としてのコモンズである。
換言すれば、後期近代における公共施設・公共空間の設計思想もまた、不特定多数への開放性を至上命題とする近代的公共性の理念から、限定された当事者性を前提とするコモンズ的な場の理念へと、その重心を移しつつある。筆者が「愛されるコモンズ」を主題化する背景には、こうした後期近代に固有の、公共性からコモンズへという時代的移行への認識が存在している。
ここで強調しておくべきは、個人やメンバーが限定されたコミュニティを起点とするコモンズは、透明性と公開性を担保しながらも、利己性を否定するものではないという点である。コモンズは万人を包摂する必要はない。誰もが等しくアクセスしうることを至上命題とする近代的公共性の理念からすれば、これは一見、後退のようにも映るだろう。しかしコモンズにおいて重要なのは、開かれていることそれ自体ではなく、そこに関わる者にとってその場がいかなる意味を持つかである。コモンズは単なる居場所ではない。それは、再帰性が高まった時代を生きる個人に、生の意味と強度を与える場であり、同時に、その個人を一人の主体として承認する場でもある。この承認という契機については、本書では触れることは出来なかったが、また別の機会に、アクセル・ホネットの承認をめぐる議論と接続しながら改めて考えみたい。
3. 古典的コモンズ論――悲劇から制度設計へ
コモンズ論の出発点はハーディン(Garrett Hardin)の「コモンズの悲劇」である。農民や牧人たちの共有地は、各利用者が自己利益を最大化しようとする限り、過剰利用によって荒廃するというこの命題は、共有資源が私有化か国家管理かの二択に還元されるという通俗的理解を強く規定してきた。
これに対しオストロム(Elinor Ostrom)は、世界各地の実証研究を通じて、コモンズは私有化や国家介入によらずとも、利用者自身の自治的な制度設計によって持続的に管理されうることを示した。境界の明確化、利用ルールの地域的適合性、モニタリングの当事者性、段階的制裁、紛争解決の場の存在など、いわゆる「設計原理」は、コモンズ論を経済学的最適化の問題から、制度・規範・信頼の構築という社会学的問題へと押し広げた点で画期的であった。
しかし、オストロムの枠組みは依然として「いかに管理するか」という統治(governance)の水準にとどまっている。そこで問われているのは合理性であり、持続可能性であって、利用者がその場をどれほど「好ましい」と感じるかという情動的次元ではない。
4. 空間論からの再照射――生産される空間としてのコモンズ
ルフェーヴル(Henri Lefebvre)の空間の生産論は、この限界を超える手がかりを与える。ルフェーヴルによれば空間は所与の容器ではなく、〈知覚された空間〉〈構想された空間〉〈生きられた空間〉という三項の弁証法を通じて絶えず生産され続けるものである。コモンズもまた、制度設計によって静態的に確定されるものではなく、日々の実践・身体的経験・想像力の交錯のなかで、そのつど生成される動的な過程(コモニング)として捉え直されねばならない。
ここに、ブルデュー(Pierre Bourdieu)のハビトゥスと界(champ)の概念を接続することができる。人がある場所に「愛着」を抱くという経験は、単なる主観的感情ではなく、身体化された知覚・評価の図式(ハビトゥス)と、その場を構成する関係性の構造(界)との相互作用として理解することもできよう。すなわち、コモンズが「愛される」ようになるプロセスは、利用者の身体がその場の反復的な実践を通じてその場に適合していく、社会化のプロセスそのものなのである。
以上を踏まえ、本稿では次の仮説を提示したい。コモンズの持続可能性は、制度設計の精緻さのみによってではなく、利用者がその場に対して形成する情動的・身体的な結びつき――ここでは仮に「場への愛着(attachment to place)」と呼ぶ――の強度によって規定される側面が大きい。すなわち、ルールが遵守されるのは合理的計算の結果である以上に、その場が「自分たちのもの」として身体化されているからである。
この仮説を建築の領域に差し戻すとき、次の問いが浮かび上がる。「愛されるコモンズ」としての公共建築は可能か。そこにはどのようなビルディングタイプが構想されうるのか。 設計者と利用者とが明確に分離していた従来の公共建築のあり方に対し、近年では建築家自身が計画・設計の段階から利用者とともにコモニングのプロセスに関与し、場の意味づけそのものを共同で紡いでいくような実践も珍しくなくなっている。そうした潮流のなかに、本稿の仮説を具体的に検証しうる手がかりを見出すことができる。
5. 建築における「愛される」への応答――大西麻貴・百田有希の実践から
この問いに一つの手がかりを与えてくれるのが、建築家・大西麻貴と百田有希(o+h)が2008年の共同主宰以来キャリアを通じて掲げ続けてきた「愛される建築」という主題である。両者は2023年の第18回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示において、大西がキュレーター、百田が副キュレーターを務め、「愛される建築を目指して―建築を生き物として捉える」というテーマを掲げたが、その核心にあるのは「愛する(love)」と「愛される(beloved)」の区別である。「愛する」が一方的な意志であり瞬間的な行為であるのに対し、「愛される」は他者との関係性のなかで長い時間をかけて形成されるものだと二人は言う。
さらに大西・百田が建築を「測り得ないもの」として、すなわち機能や性能といった数値に還元されない、命を宿した生き物として捉えようとする姿勢は、コモンズを制度設計の精緻さのみに還元することへの本稿の批判とも通底している。実際、o+hが手がけた山形の児童遊戯施設「シェルターインクルーシブプレイス コパル」は、車椅子利用者を含むすべての人の動線であるスロープそのものが子どもたちの遊び場になるという設計を通じて、機能的な効率性ではなく、そこに集う人々のあいだに生まれる関係性そのものを空間の核に据えている。これは、限定された当事者性のなかで身体的な関与が蓄積され、場が徐々に「自分たちのもの」として愛着の対象となっていく、まさに「愛されるコモンズ」としての公共建築の一つの実例と見ることができるだろう。
むろん、大西・百田の議論は建築家自身の設計思想として語られたものであり、コモンズ論が要請する制度設計や当事者による自治のプロセスを直接に理論化したものではない。しかし、「愛される建築を目指して」という二人の一貫した主題が示唆するのは、公共建築がその内部にコモンズ的な関係性――限定された利用者たちが時間をかけて場を自分たちのものとしていく過程――をあらかじめ組み込みうる、ということである。「愛されるコモンズ」としての公共建築を構想するとき、大西・百田の実践は、理論と設計実践とを架橋するための重要な参照点となる。





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