加子母木匠塾 – 建築資料研究社 BOOKS & MAGAZINES
| 著者 | 「加子母木匠塾」編集委員会 編 |
|---|---|
| ジャンル | 設計 > 住宅設計 施工 > 工程 施工 > 工法 建築様式 > 日本建築 建築論 > 住宅 |
| 出版年月日 | 2026/03/15 |
| 書店発売日 | 2026/03/23 |
| ISBN | 9784868340157 |
| 判型・ページ数 | A5・376ページ |
| 定価 | 3,630円(本体3,300円+税) |
「木匠塾」よ、永遠なれ!
布野修司
1991年1月29日、ある秘かな夢を抱いて飛騨高山へ向かった。藤澤好一、安藤正雄、そして筆者の3人だ。名古屋で高山線へ乗り換えて、高山のひとつ手前の久々野で降りた。暖冬の東京からでいささか虚を突かれたが、飛騨は例年にない大雪であった。長靴に履き替えて登山のような雪中行軍である。高根村の野麦峠に近い抜群のロケーションにその山小屋はあった。高根村は現在は高山市に編入されたが(2005年)、当時日本一人口の少ない村であった(廃村時731人)。

図①「飛騨高山木匠塾」―インターユニヴァーシティ・サマースクール
久々野営林署は80周年を迎え、樹木の伐採のための山小屋(野麦製品事業所・従業員寄宿舎)は使命を終えた。この山小屋を払い下げるから「木」のことを学ぶ「セミナーハウス」として使わないか、というのが上河潔営林署長(現森林・自然環境技術教育研究センター専務理事)の提案であった。芝浦工業大学、千葉大学、東洋大学の3研究室は、京都造形芸術大学(現京都芸術大学)渡辺豊和研究室を加えて、1986年(美ヶ原)以降、佐渡、川場村、能代と夏季合同合宿を続けてきていた。また、大野勝彦[i]さんを中心に「住宅生産組織研究会」が東京大学、工学院大学、東京都立大学、東京工芸大学、職業訓練大学、武蔵工業大学(現東京都市大学)を加えて組織されており、何とかなる金額であった。
設立趣旨に、「わが国の山林と樹木の維持保存と利用のあり方学ぶ塾を設立する。生産と消費のシステムがバランスよくつりあい、更新のサイクルが持続されることによって山林の環境をはじめ、地域の生活・経済・文化に豊かさをもたらすシステムの再構築をめざす」と謳い、創立当初は「飛騨高山木匠塾」と名乗った(図①)。
「飛騨の匠」を甦らそうという心意気である。一方、当初からインターユニヴァーシティ・サマースクール(図②)と銘打ってきた。

図②
「木床塾」の初心は、大学間のみならず、「木」についての全ての壁(境界)を取り払った「学びの場」を創りだすことであった。
創意工夫の多彩なプログラム
設立初期の「木匠塾」のプログラム、その具体的な活動については、「木構造設計技術向上事業」などで援助頂いた(財)日本住宅・木材技術センター(下川英雄理事長)の広報誌『住宅と木材』にその都度書き留めてきた(文献①~⑩)。また、最初の10年については「木匠塾小史」を『群居』47号(1999年)にまとめている(文献⑪)。全て振り返る余裕はないけれど、楽しい思い出ばかりである。
まず、足場丸太組実習を学んだ。ロープ結びと番線を締めるシノの使い方を指導してくれたのは、「木匠塾」と並行して3人が内田祥哉先生のもとで取り組んでいた職人大学[ii]設立のドライヴィングフォースであった日綜産業の大棟梁藤野功さんである。測量実習もやった。山小屋の整備に必要だったのである。入浴施設がないことから、岩風呂や太陽熱温水器をつけたシャワールームもつくった。木匠塾だけれど、登り(蛇)窯をつくって陶器も焼いた。
樹木についてももちろん学んだ。マルタ(丸太)剥ぎもやったし、葉っぱを掲げて樹種を当てよ、という講義も受けた。中でもハイライトとして思い出すのは「日本一かがり火祭り」に参加するための屋台の制作(図③)と高山祭りのための山車の模型製作である。

図③
生活の場に何が必要か?建築と自然との関係はどうあるべきか?「木」の可能性はどこにあるか、「木匠塾」の原点にある問いである。
かしも木匠塾
1994年に「飛騨高山木匠塾」は「木匠塾」に改称する。「木匠塾」のような活動が各地(川上村、角館、美山、さらに多賀町)に広がりだしたのである。参加大学も、京都大學から大阪芸術大学、大阪技術専門学校、奈良女子大学、日本大学、滋賀県立大学、京都府立大学、京都工業繊維大学へ拡がっていった。そして、根拠地も高根村から加子母村に移ることになった。高根村の管理体制の問題もあったが、加子母村の粥川真作村長また中島工務店(中島紀于)等地元建築界の熱心なお誘いが大きかった。1995~98年の木匠塾は高根と加子母(渡合)の二ヶ所で開催している(文献⑧~⑩)。加子母村もまた中津川市に編入されるが(2005年)、編入時には3338人ほどの村であった。東濃ヒノキの産地として知られ、中島工務店をはじめとして建築組織がしっかりしているのが「木床塾」の大きな基盤になった。久々野営林署の中川護次長が加子母村地区を管轄する付知営林署長に就任されたのも大きかった[iii]。「かしも木匠塾」は、2024年に設立30周年を迎える。これだけ持続してきた「木匠塾」は他にはない。
ネットワークを拡大していくこと、その中心をサステナブルに維持していくこと、それは当初からの目標である。
バンガロー・コンペ


図④ab
高根村では、実習は、山小屋の宿泊施設としての生活環境整備(入浴、トイレ、浄化槽、屋外仮設舞台、湧き水利用のビール貯蔵など)が中心であり、何か作るといっても。京都造形大チームが裏山で原始入母屋造りを試みたぐらいであった。加子母村に移っても、当初は、キャンプ場があった渡合地区が拠点であり、宿泊の整備(営林署の建物のリノヴェーション)が課題であった。藤澤先生を中心に「加子母森林総合研修センター」(仮称)の設立を提案したけれど、村が即対応できるわけではない。
粥川村長は、それでもバンガロー・コンペを提起してくださった。そこで最優秀案となったのが森田一弥くんのブラックキューブ(図④ab)は、立方体の内部外部を多彩に使う仕掛けを組み込んだバンガローである。森田くんはその後左官修業を経て今や京都を代表する建築家となり。京都府立大で教鞭もとる。
「木床塾」は、建築家、建築職人が育つ場所である。実際、多くの人材が育っていった[iv]。




図⑤~⑧
地域再生と木匠塾
千葉大学は、芸術工房アトリエ村の下に大きな「木デッキ」をつくった。京都造形大学は、ナメクジ祭り(旧暦7月7日)に、近くの「乳子の池」で水面に電光を投射し布地に投影させるインスタレーションを行った。各チームが具体的に「作品」を作り出すことになった。加子母村の全体が実習の場となるのである。
製作のための木材など建築材料を調達するのは結構大変である。「みどりと水の森林基金事業」(国土緑化推進機構)など各種助成、村からの助成、研究室からの援助などにその都度工面してきた。そうした中でユニークだったのは、村民を施主としたプログラムである。建築材料の費用は負担いただいて、村民が必要とするものをつくるのである。セルフビルド(自力建設)が基本だからそんなに大規模な構築物はできないけれど、プログラムは、生活環境整備の村への拡大であり、村づくりへの参加でもある。村民の要求は様々であったが、解体される木造住宅の材料を再利用して茶室をつくった例もある。また、橋(図⑦)やバス停(図⑧)など村の要請に直接答えた例もある。本書には、数々の「作品」が掲載されている。
加子母村が「かしもふれあいのやかた」を建設したのは2002年である。「木匠塾」の強力な拠点となった。村づくりと一体化するなかで「木匠塾」は大きく育つことになった。


建築教育と木匠塾
「木匠塾」への支援を各方面へお願いする際に決まって問い返された。
「木造建築」について、何故、大学で教えないんですか?
筆者自身は、木造住宅(白井晟一「呉羽の舎」)の図面をトレースをしたり、木造の小屋を実測・図面化をしたり、日本建築史や各部構造の授業で社寺建築や接手仕口について習った記憶はある。 しかし、実際の設計となると、大学では教わらない。何棟か設計するなかで、「壁率」などというものを知ったり、見よう見まねで伏図や展開図、木拾書を描いたけれど、結局教わったのは現場の大工さんたちからであった。
日本の近代建築が木造を軽視してきた歴史がある。そしてとりわけ第二次世界大戦後は、火災に弱いというので「木造亡国論」が一世を風靡してきた。しかし、地球環境問題、地球温暖化の先鋭化(グレート・アクセラレーション)によって「木造文化」の再評価は必至である。
ただ、大学における教育に期待するのは依然として予断は許されない。この間、「木匠塾」の実習を大学の履修単位に認めるように働きかけてきた。基本的には、実習科目として認められてきたと思う(実習風景 図⑨~⑫)。しかし、正式に建築教育プログラムに組み込まれることは無かったのではないか。
指導する教官が移動したりすると、参加しなくなった大学もある。しかし、にもかかわらず、学生の自主的組織(同好会、サークル、クラブ)として参加し続けてきた大学も少なくない。今や完全に学生たちの自主的運営に委ねられているという[v]。これ自体、素晴らしいことである。「木匠塾」のサステナブルな存続基盤ができていることになる。
木造建築の希望の拠点
加子母に「協同組合東濃ひのきの家」プレカット工場が建設されたのは加子母に拠点が移ったころである。今や木造住宅の90%以上はプレカットである。特に大都市圏では、「直下率」が問題となるほど、日本の木造住宅の体系は大きく変容しつつある。そうした中で、加子母には、中島工務店を中心に、集成材工場、太物工場、造作皇城、リサイクル工場そして社寺工場など、木造建築を未来に向けて再生し、さらに発展していく一大拠点が形成されている。この拠点で、「木」について学び、木の文化を愛し続ける若者が集う「木匠塾」は、決して大げさではなく、日本の木造建築の希望である。
布野修司「木床塾」関連文献
①「飛騨高山木匠塾」構想,雑木林の世界23,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199107
②「第一回インターユニヴァーシティー・サマースクール」雑木林の世界25,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199109
③「高根村・日本一かがり火まつり」雑木林の世界37,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199209
④「第二回インターユニヴァーシティー・サマースクールにむけて」雑木林の世界33,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199205
5「飛騨高山木匠塾93年度プログラム」雑木林の世界46,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199306
⑥「第三回インターユニヴァーシティー:サマースクール」雑木林の世界51,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199311
⑦「木匠塾 第四回インターユニヴァーシティ・サマースクール」雑木林の世界62,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199410
⑧「かしも木匠塾フォーラム」雑木林の世界71,住宅と木材,199507
⑨「かしも木匠塾開塾」雑木林の世界73,住宅と木材,199509
⑩「木匠塾:第六回インターユニヴァーシティー・サマースクール」雑木林の世界85,199609
⑪「木匠塾」おしまいの頁で,室内,199807
⑫「未だ見ぬ塾生のために」特集「木匠塾」『群居』47号、1999年3月
⑬「木匠塾の目指すもの ざらざら,ぼこぼこの素材感」 見聞録08,共同通信,200102
⑭「現場に学ぶ 木匠塾の楽しい実験」 sylvan no.11,200306 15
⑮「楽しい試行錯誤ー木匠塾の15年ー」sylvan,Special Issue、 2005Autumn
⑯木匠塾の目指すもの, 藤澤好一・布野修司・粥川真作・坂田泉・塩野米松・他,AF,19980515
⑰「川上村木匠塾開催10周年記念シンポジウム」学校法人大阪工大摂南大学大阪センター,2007年9月15日
[i] 1944福島県生まれ~2012。日本の近代建築Docomomo100選に選ばれたプレファブ住宅(ユニット構法)セキスイハイムM1の設計者と知られる。東京大学内田研究室。「部品化建築論」で工学博士。『現代民家と住環境体』 (1976)『地域住宅工房のネットワーク 住まいから町へ、町から住まいへ』 (1988)『七つの町づくり設計-現代の住宅』 (1997)『現代の住宅-木造住宅』 (1998)など
[ii] 「木床塾」の設立と並行して、布野・藤沢・安藤は、内田祥哉先生の指揮のもと、田中文雄棟梁とともに職人大学の設立のためにサイト・スペシャルズ・フォーラムSSFを組織し、活動を展開していた。その運動の中心にあった日綜産業は「木匠塾」立上げの強力な支援者であった。職人大学は「ものつくり大学」(埼玉県行田市、2001年設置)として実現する。
[iii] 林野庁関係で「木匠塾」の立ち上げに当たって大きな力となったのは、下川、上河、中川の3人である。そして粥川町長、川に縁のある人たちであった。その川の中心にいたのは中島紀于さんである。
[iv] 稲荷社遥拝所(図⑤2001年)を設計した魚谷繁礼くんは「郭巨山会所」(京都)で日本建築学会賞を受賞し(2023年)、京都工業繊維大学で教鞭をとる。初期に関わった蟹澤宏剛くんは、ものつくり大学を経て芝浦工業大学で教鞭をとるが、今では国交省の建設労働、建築技能に関わる施策の中心である。月見台(渡合、1999年)の柳沢究くんは京都大学、「茶室兼農機具置場」(図⑥2000年)の山田協太くんは筑波大学、谷中五重塔の復元に参加した田澤周平くんは東洋大学で教鞭をとる。
[v] 中津川市(域学連携活動支援補助金)、岐阜県(清流の国ぎふ地域活動促進事業補助金)NPOむらづくり協議会などから助成金を得ている。





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