建築主の責任と建築行政の役割-国民のための建築法を作ろう
神田 順
0.はじめに
そもそも法律は何のためにあるか。法律がないと力のあるものが自由に振舞えて、力のないものは従属するしかないのでは、基本的人権が守れないから、法律で保護する必要がある。誰しも幸福に生活する権利を有する(幸福追求権)。住まいや事務所はそのために必要であるが、土地は有限であり、一部の人だけが、自らのために占有することで、他の人の権利を侵害することは、許されない。法的には、それを公共の福祉と呼んでいる。もっともその公共の福祉が、どのような内容で、どこまでかということは、社会の状況にもより、けっこう難しい。ただ、だから法律で定める意味があるということになる。
世界最古の法律といわれるハンムラビ法典(紀元前18世紀)にあっては、建築に関して有名な条文がある。「大工が建てた家が壊れて中にいる人が死んだら、その大工を死罪とする」としている。多少極端ではあるが、例えばの例として、専門家と法律とはそのような関係にある。医師や弁護士にあてはめてみると、わかる関係であり、専門家に任せるかわりに、責任も取ってほしいということである。専門家のできること、法律で決めることの範囲を、どこで線を引くかも大切な問題である。
建築基準法が、1950年に制定されたときは、地震でも簡単に倒壊しない、健康に暮らせるために、最低の基準が定められて、専門的知識のない弱者としての建築主を守るものであった。想定される建物としてもせいぜい5,6階建てであった。ところが今や、広さにおいても高さにおいても、100mを超える建物が当たり前になっている。そして、なによりも、一刻も早く住まいや事務所を作らないといけないという事態ではなく、十分な住まいや事務所がすでに存在しているうえに、人口減少社会がやってきている。
そのような状況の中で、弱者と強者の関係が変わってきた。建築という行為は大きな経済行為であることも影響している。かつては何も知らない弱者を守る建築基準法であったはずが、いまでは、ある程度法律も知っているはずの強者としての建築主の建てる権利を守る役割が目立つようになってしまった。有限な土地の利用にあたって弱者としての周辺住民が気持ちよく住む権利などが守られる保障は明文化されていない。加えて、建築基準法は内閣が立法したもので、改正はすべて国土交通省住宅局が担当している。行政は、立法府ではないので、行政的な不都合が生じないように改正をするが、建築を投機の対象としたりすることも規制しないし、隣地の声を聞くということもしない。さらには地球環境への配慮なども基本になく、新築が、ある程度効率的にできるような行政をさまたげないような改正が何度もなされて来た。
土地に関しては、投機が社会を混乱させたことに対して、土地基本法が制定された(1989年)。現実には、市場経済下にあって、なかなか投機を抑えることができないでいる。その根本に建築が存在している。これまで容積率を増大することによる建築規模拡大と地価の高騰が、経済を回してきた。しかし、その恩恵は、投機した資本家にあり、富裕層の特権としての建築の自由になってしまっている。住み続ける自由も、地価高騰により困難となる場合が少なくない。
建築にかかわる専門家としては、例えば建築士資格があり、これは国家資格で、業務独占が認められているので、まさに、専門家のはずである。1950年に、こちらは議員立法で聖諦され、建築基準法と一体のものである。建築基準法が、公共の福祉を考えた最低の基準を定める一方で、質の高い建築を設計することを期待するものとなっているが、社会資産として相応しい建築を作るというよりは、建築基準法規制の枠内で、建築主のコストを抑える要求を最優先するようになっている現実がある。
持続可能社会、人口減少社会、これは、1950年代とは、全く異なる社会である。国民のための建築の法制度は、80年前の法制度とは異なってしかるべきである。法律はすべての国民が守ることを強制されるわけであるから、まずは国民が理解できるものでなければいけない。今の社会にふさわしいと考える、弱者を従属させるのでない、強者だけの自由が保証される制度ではない、建築のための法制度が必要である。土地に対して基本法が必要であったと同じ意味で、社会が建築をどう扱うか、基本を定める法制度が求められる。専門家が専門家としての知恵や能力を発揮し、自治体が市場原理の歪みを補正し、専門家を含む市民の判断の調整をする、そういった建築法制度を、国民の手で、国民のために作る必要がある。





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