アジテーターとしての編集者 その3
建築ジャーナリズムの世界へ
神子久忠
(敬称略)
*幸建築事務所(構造事務所)でアルイバイト
そのうち建築施工会社をしていた縁者から、まずはアルバイトで生活費を稼ぎ、その後に受験したらどうかと、幸建築研究所(構造事務所)を紹介してくれた。四谷三町目のビルの2階にあった。所長は日大出身、所員3人も日大出身で全員が日大山岳部の主要メンバーだったから、登山の話ばかりしていた。そこでの仕事は虎ノ門にあった日本酸素の建物の構造図、さらに赤坂にあった吉村順三建築設計事務所の仕事である。
当然、構造計算もできないし、構造図も書けないが、最後の方は簡単な構造図を書けるようになった。吉村事務所では「箱根ホテル小涌園」(1959年)、「同志社大学アーモスト館新館」(1962年)の構造図を届けたことを覚えている。吉村が指名コンペで、新宮殿基本設計で当選した頃である。
さらに同じビルの2階に、二葉積算事務所があった。所長は宮谷重雄。のちに日本建築積算協会初代会長になる。早大で吉阪隆正と同期で仲が良く、のちに吉阪の次男が勤務した積算事務所である。おそらく幸建築研究室の積算もやっていたのだろう。
*連合設計市谷建築事務所へ
幸建築研究室(構造事務所)でアルバイトをしているうちに、連合設計市谷事務所へのアルバイトとなった。
同事務所は市ヶ谷左内町にあった。市ヶ谷駅からお濠を渡り、急こう配を上がると右手に鎌倉書房があった。『マダム』や『ドレスメーキング』を出していた出版社である。そのビルにあったから、市谷事務所と名付けたのかも知れない。そこから飯田橋へ移り、現在は江東区にある。私がいたなかで、一番活発だったのが飯田橋時代である。吉田桂二設計の自社ビルで、お洒落な事務所だった。
同事務所は1959年、東大建築学科出の吉田英雄が所長、あとは東京芸大建築科出の吉田桂二、小宮山雅夫、戎居研造の4人でつくり、その後芸大出の小木などが加わった。総勢10人を超えた事務所である。
当時、「天照皇大神宮教本部道場」(1964年)をつくった冲種郎は、大谷幸夫らと設計連合をつくった。中国での設計組織のあり方の一つで、日本でも流行った。『建築文化』で特集をつくったほどだ。そうしたこともあって、設計連合ではなく連合設計にしたのだと思う。

天照皇大神宮教本部道場」沖種郎設計 1964年
吉田が群馬県境町の出身だったから、そこでの仕事や戎井からは日共関係の仕事があった。小豆島出身の壷井繁治の妻で『二十四の瞳』を書いた壷井栄、二人は当初日共党員だったと思う。そこで小豆島での仕事に、全員で出かけた。そのおり、小豆島土庄の江戸時代末期の「農村歌舞伎舞台」を見た。少し荒れていたが、初めて見る舞台に興奮した。小林文次の名著『日本建築図集』(1968年)に「亀山の座敷(小豆島土庄町、江戸時代末期)農村歌舞伎舞台の前に、丘の斜面を利用してつくられた座敷。」とある。見事な「野外階段座敷」である。
そして党員でプロレタリア作家の佐多稲子、その縁で軽井沢に佐多や芝木好子の別荘などをつくった。まだ舗装されていない埃だらけの道路を、何度もみんなで行った。私はドラフトマンだったが、これらの別荘の図面を描いた。
*吉田桂二のことと日大へ
事務所で設計を細かに教えてくれたのが吉田桂二だった。事務所は吉田を除き幹部が全員が芸大卒だから、なにを描いてもうまいが、吉田は格別だった。見ている前で、あっというまに見事なパースを描いた。
吉田は1992年「古河歴史博物館と周辺の修景」で、日本建築学会作品賞を受賞。さらに全国町並み保存連盟をつくった。その一つの活動が、信州飯田から峠を越えていくと、260年の歴史をもつ大平宿があり、その再生もやった。こうした民家再生に尽力した。あわせて、日本の伝統的建築を数多くつくった。


吉田英雄所長と日大で建築法規を教えていた市川清が東大の同級生だったこともあって、日大へと進められた。ただ私は連合設計市谷事務所では、ドラフトマンとしては役立ったと思う。先述した軽井沢に佐多稲子別荘、芝木好子別荘などの詳細図なども書いた。給料もしっかりもらえ、過不足なかった。そしてなによりも、所員全員がなにかにつけ、いろいろな建築をみんなで見に行く楽しさがあった。
そこで吉田所長に、吉田の知り合いの市川清がいる日大2部へ行きたいこと、卒業したら事務所に戻るという条件で了承をもらった。ドラフトマンとしては重宝だったこと、仕事が面白かったこと、生活するには困らなかったことなどから、入学は通常より2年遅れた。
そして日大3年生の時に、千葉地裁判事をしていた長兄が、木更津に土地を買ったので設計をと頼まれた。そこで当時、連合設計市谷事務所の売りの一つだった垂木構造のローコスト住宅を設計した。設計から監理までやって、長兄が死去するまで残っていた住宅である。
ところが日大に入ってみると、状況が一変し、結局、市谷事務所に戻らなかった。それは近江栄と黒沢隆に会ったからである。建築家への道を断念し、建築ジャーナリズムへとなった。





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