香月真大の建築ノート05

風と建築──身体と環境のあいだ

香月真大

風の案内所 杉並区・善福寺公園

私たちは建築について語るとき、「空間をつくる」という言葉を当たり前のように使っている。

建築家は壁を立て、屋根を架け、柱を組み、内部空間をつくる。そして、その空間をどのように構成するかが建築の価値であると考えられてきた。平面や断面、構造や素材、光やプロポーション。建築教育もまた、そのような空間を構成する技術を中心に発展してきた。

しかし私は近年、その考え方だけでは建築を十分に説明できないのではないかと思うようになった。

人は空間そのものを経験しているのではない。

身体を通して環境を経験している。

朝、木漏れ日の中を歩くこと。

湖面を渡る風を頬で感じること。

湿った土の匂いに気づくこと。

鳥の声が聞こえること。

雨上がりの空気の冷たさを感じること。

建築を思い出すとき、私たちは柱の寸法や壁厚を記憶しているわけではない。

「あの場所は風が気持ちよかった。」

「あの建築は静かだった。」

「あの場所で見た光が忘れられない。」

記憶に残るのは、身体が経験した環境なのである。

前回の建築ノートでは、「身体と関係の建築」というテーマについて、銭湯を通して考えた。湯気は人と人との距離を曖昧にし、同じ環境を共有することで緩やかな公共性を生み出していた。今回は、その前提となる「身体と環境」の関係について考えてみたい。

そのきっかけとなったのが、《風の案内所》という小さな建築である。

風は不思議な存在である。

私たちは風を見ることはできない。

風には形も色もない。

図面にも描くことはできない。

しかし私たちは風を知っている。

葉が揺れる。

枝がしなる。

湖面に波紋が広がる。

服が揺れ、髪がなびく。

つまり私たちは風そのものを見ているのではない。

風によって変化した世界を見ているのである。

私は、このことが建築にも当てはまると思っている。

建築は壁を見るためのものではない。

建築によって変化した世界を経験するためのものである。

一本の木の下に小さな屋根ができるだけで、人は立ち止まる。

窓の位置が少し変わるだけで、風景の切り取り方は変わる。

床がわずかに高くなるだけで、身体の重心も視線も変化する。

建築は世界をつくるものではない。

世界の感じ方を変えるのである。

近代建築は、環境を制御することによって発展してきた。

断熱性能。

気密性能。

空調設備。

照明計画。

建築は外部環境を遮断し、均質で快適な室内環境をつくることを目指してきた。

その成果は計り知れない。

私たちは夏も冬も快適に過ごせるようになった。

しかしその一方で、身体は風を感じる機会を少しずつ失ってきた。

窓を開けなくても暮らせる。

季節が変わっても室温は一定である。

外の音は聞こえない。

雨の匂いも風向きも感じない。

建築は快適になった。

しかし、身体は本当に豊かになったのだろうか。

私はそう簡単には答えられない。

風とは、その土地の個性である。

春の柔らかな風。

夏の湿った風。

秋の乾いた風。

冬の澄んだ冷気。

風は季節を伝え、土地を伝え、時間を伝える。

そして風には境界がない。

壁を越え、窓を抜け、木々を揺らし、人と人のあいだを通り抜けていく。

建築は内と外を分けるための技術として発展してきた。

しかし風は、その境界を静かに越えていく。

だから私は、建築とは境界を閉じるものではなく、環境との関係を調整する膜なのではないかと思っている。

風を遮るのではなく、風を受け止めること。

風を排除するのではなく、風を感じられる場所をつくること。

そのような建築もまた存在してよいはずである。

《風の案内所》は、善福寺公園の湖畔に計画している小さな仮設建築である。

用途はアートイベントの案内所であり、来場者が最初に立ち寄り、パンフレットや地図を受け取り、公園を歩き始めるための場所である。

しかし私は、この建築を単なる案内所にはしたくなかった。

情報を伝えるだけならテントでも十分である。

私がつくりたかったのは、公園そのものを経験するための建築である。

建築は約一・四メートル角の立方体を四十五度回転させた幾何学を基本とし、四十五ミリ角の木材による立体トラスで構成される。

私はこの構造にも意味があると考えている。

強さは一本の太い柱から生まれるのではない。

細い部材同士が互いに支え合い、関係を結ぶことで生まれる。

建築の構造そのものが、「関係」によって成立しているのである。

外装にはハーフミラーポリカーボネートを部分的に配置する。

全面を鏡で覆うことはしない。

鏡は建築を隠すためではない。

風景を映すためにある。

木々が映る。

空が映る。

湖面が映る。

歩く人が映る。

見る角度によって建築は現れ、消え、再び現れる。

私は建築が主役になるのではなく、公園そのものが主役になる建築をつくりたいと思っている。

この建築には、小さな透明のスツールを一脚だけ置こうと考えている。

そこへ腰を掛ける。

風を感じる。

湖を見る。

木々の揺れを見る。

親子が歩いていく。

パンフレットを手に取り、公園を散策する。

建築が提供するのは情報だけではない。

環境を経験する時間である。

現代社会では、建築は目的によって利用されることが多い。

買い物をする。

仕事をする。

食事をする。

しかし私は、何もしない時間を支える建築も必要だと思っている。

風を感じる。

空を見上げる。

静かに座る。

そのような何気ない時間の中で、人は環境と出会い、自分自身を取り戻していく。

私は以前、「建築は人を収容する器ではない」と書いた。

今もその考えは変わらない。

建築とは、身体が環境と出会うための装置である。

そして環境とは風だけではない。

光。

音。

湿度。

匂い。

時間。

木々。

水面。

そして他者の存在。

それらすべてが重なり合ったとき、建築は初めて経験となる。

建築家は壁だけを設計していてはならない。

身体と環境との出会いを設計しなければならない。

風は設計できない。

光も設計できない。

季節も設計できない。

しかし、風を感じる場所は設計できる。

光が差し込む場所は設計できる。

人が立ち止まりたくなる場所は設計できる。

建築とは、自然を支配する技術ではない。

自然と身体が出会う条件をつくる営みなのである。

前回は「身体と関係」について書いた。

今回は「身体と環境」について考えた。

身体は環境を感じる。

環境を通して場所を知る。

場所を通して人と出会う。

そして人と人との関係が生まれる。

私は、この順序が重要だと思っている。

身体が先にあり、環境があり、その先に関係がある。

だから私は、身体と関係の建築を考えるために、まず身体と環境について考えたい。

《風の案内所》は、大きな建築ではない。

しかし、小さな建築だからこそ、風を感じ、光を受け、木々と共にあり、人が静かに環境へ身を委ねることができる。

私は建築を、物体としてではなく、環境として考えたい。

人を囲い込むものではなく、人を世界へ開くものとして考えたい。

建築とは空間をつくることではない。

建築とは、身体と環境との出会いを設計することである。

私はこれからも、そのような建築を考え続けていきたい。

SLAB – Global Criticism of Architecture & City & Housing


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