やきものを哲学する 01 中国・朝鮮編(1)
白い陶片の物語
桑子敏雄

高遠無稽
青白磁刻花牡丹文梅瓶(筆者蔵)高さ三一・五センチメートル。購入時のタイトルは、「宋時代定窯刻花唐草文梅瓶」であったが、白磁ではなく、青白磁であり、定窯系ではなく、景徳鎮系である。時代は分からない。大きめの瓶で、堂々たる胴の大きさに比べて口がすぼまっている。釉薬は鉄分をいくぶん含んだ白磁で、還元炎によって青く発色し、刀で描いた牡丹文の溝に釉がたまって、青く模様が出ている。胎土と釉薬の収縮の差によって器面に細かく貫入が入っている。成形は胴を二つに分けて中ほどで継いだことが横切る線で知ることができる。このくらいの大きさの白磁作品をつくってみたいと思わせる作品である。
デビッド・ファウンデイション
志野の茶碗を東京本郷の茶舗のウィンドウで見かけて入手してから三年半すぎたころ、一九八三年に在外研究の機会が訪れた。英国のケンブリッジ大学に縁があり、古典学部に所属して、古代ギリシア哲学の研究を目的に二年ほど滞在することになったのである。
ケンブリッジの町は、ロンドンから鉄道で一時間あまり、楽しみは大英博物館とその近くに位置するパーシバル・デビットファウンデイションでやきものを見て回ることであった。
パーシバル・デビッド卿(一八九二-一九六四年)は、世界最高峰の中国陶磁器コレクションを築き上げたイギリスの美術品収集家である。彼が設立した「パーシバル・デビッド中国美術財団」は、約一七〇〇点に及ぶコレクションを所蔵している。
デビッド卿は、インドの裕福な貿易商の家系に生まれ、若くして実業家として活躍した。中国美術に魅了された彼は中国語を習得し、自ら専門書を読み解きながら四十年以上の歳月をかけて極めて質の高いコレクションを構築した。中国は清末の混乱期にあたっていて、辛亥革命などで紫禁城(旧皇室)から市場に流出した宮廷用陶磁器などをいち早く見出し、宋、元、明、清の時代(十世紀〜十八世紀)の貴重な陶磁器を収集することが出来たのである。
デビッド・ファウンデイションは、わたしが訪れたときは、まだ大英博物館からほどない独立の博物館であったが、現在では、寄贈されたコレクションが大英博物館の第九五室で常設展示されている。
わたしがとくに興味を抱いたのは、宋時代の青磁と白磁であった。中国美術において青磁は「玉(ぎょく・カワセミの羽の美しさ)」を模した、最も高貴なやきものとされた。とくに、北宋最後の皇帝、風流天子といわれた徽宗の時代に汝窯で焼かれた青磁は、北宋末期のわずか約二〇年間しか焼かれず、世界に約九〇点しか現存しないとされる「幻の陶磁器」である。デビッド財団はそのうち一二点を所蔵している。雨上がりの空の青、「天青」といわれる不透明で柔らかな淡いブルー(卵青色)の釉薬が特徴である。底部には「芝麻釘(しぶくぎ)」と呼ばれる、ゴマの粒ほどの極小の支柱跡(焼き上げる際に底まで釉薬を塗るための工夫)が残されていて、職人の卓越した技術を見ることができる。
ちなみに、わたしは、英国滞在中に七点、東京国国立博物館で開催された台湾故宮博物館の汝窯展で四点、東京国立博物館で二点、大阪東洋陶磁美術館で一点、計十四点の現物を見ている。
さて、青磁と対をなす白磁の最高峰が、北宋時代を代表する定窯(ていよう)である。その特徴は、わずかに黄色みを帯びた温かみのある象牙色である。焼成の特徴といえば、器を効率よく大量に、かつ変形させずに焼くため、器を逆さまにして焼く「覆焼」という技法が使われた。このため、器の口縁(ふち)には釉薬が付かない。むき出しになった素地を隠し、さらに高級感を出すために、銀や銅の金具(芒口・ぼうこう)を嵌める独特の装飾が施されている(覆輪)。白い器体に、職人が一迷いのない蓮華(ハス)や鴨、龍などの文様を彫り込んだのである。ここが光の当たり方で優美な陰影を浮かび上がらせる。
デビッド卿が集めた白磁や青磁には、清の乾隆帝(けんりゅうてい)がその美を称えて器の底に自ら刻ませた御製詩(詩の刻印)の残るものがある。これは、これらの作品が中国皇帝の宮廷で愛蔵されていた一級品であることの証明である。デビッド卿は、中国の文献と照らし合わせて、どの器がどの窯で、どのような歴史をもつかなどを明らかにして選んだのであった。
定窯趾の発見
西洋で中国の至宝磁器の研究が先端的に進められているなか、日本の小山冨士夫が中国の古陶磁研究に踏み出したのは、大正時代に自ら作陶修行をしたのち、日本や中国の古陶磁研究の第一人者である奥田誠一(おくだせいいち)に師事したことがきっかけである。
小山は、京都の陶芸家・二代真清水蔵六に弟子入りしたのち、瀬戸の古窯址(小長曽古窯址など)を訪れたことで古陶磁の魅力に取り憑かれた。昭和七年(一九三二年)から奥田誠一が主宰する 東洋陶磁研究所の所員となって、古陶磁の文献研究や調査活動を開始したのである。
当時、中国陶磁研究をリードしていたのはイギリスであった。一九三七年には、デビッド・ファウンデイションにも縁のある英国人研究者のA・D・ブランクストンが青花磁器で有名な景徳鎮の湖田窯を発見したというニュースが世界を駆け巡った。
一九三〇年代、欧米では中国の北宋時代の「定窯(ていよう)」白磁の研究が進んでいたが、その定窯がどこにあるのかは知られていなかった。「イギリスに先を越されてはならない」という強烈なライバル心が小山に中国での現地調査へと駆り立てる原動力となった。この情熱を胸に中国へ渡った小山は、一九四一年(昭和一六年)、中国・河北省の澗磁村で、それまで世界中の研究者が血眼になって探していた北宋時代の定窯の跡地を世界で初めて突き止めたのである。
小山が北京から現地(曲陽県)へ向かった当時は、日中戦争の戦火が続く非常に危険な情勢で、現地での探索には治安上の理由からわずかな時間が与えられただけであった。
小山は陶磁に関する中国の古典などの研究をもとに、すでにあたりをつけて、白い陶片を探し、地面を掘り進めた。すると、象牙色に輝く美しい白磁の破片や柿釉の破片が次々と現れた。ついに幻の「定窯」であることを証明したのである。この奇跡的な発見により、彼は一躍世界的な陶磁学者として名を轟かせることになった。
白い陶器から白磁への展開
小山冨士夫が窯跡を発見した白磁は、白いやきもの、白い磁器である。中国で白いやきものといえば、唐時代の白釉陶器が有名である。だが、これは磁器ではない。陶器から磁器への展開は、唐時代から宋時代への時代の転機と符合している。
陶器と磁器の決定的な違いは、簡潔にまとめると、以下の三つの違いがある。陶器は粘土つまり土から作られるのに対し、磁器は陶石つまり石の粉から作られる。また、陶器は一〇〇〇〜一二〇〇度で焼くのであるが、磁器は一三〇〇度以上である。さらに、陶器は厚手で叩くと鈍い音がするのに対し、磁器は薄手で金属的な高い音がする。
白釉陶器は唐三彩の本格普及に先立って、高級副葬品の主役として流行していた。七世紀(初唐)には、洗練された単色の「白釉龍耳瓶」などが代表的な副葬品であった。その後、八世紀(盛唐)に多色で華やかな唐三彩が流行すると、白釉陶器の技術は唐三彩の基盤へと統合されていった。
唐三彩の赤みがかった粘土にそのまま緑や黄色の釉薬をかけると、色が沈んで美しく発色しないので、まず器の表面に白い化粧土(粘土の泥水)を薄く塗り、銅(緑)や鉄(黄・褐)の顔料をプラスしたものが唐三彩である。白釉は、唐三彩の色を鮮やかに引き出すための技術であった。
唐三彩の焼成は、まず一〇〇〇度ほどで素焼きをする。そのあと、施釉するのであるが、釉薬には鉛が、緑釉には銅が含まれていることから、高温を避けるために、、八〇〇度から九〇〇度で焼かれた。その焼成は酸素を十分に供給する酸化焼成であった。一
唐代の器形(器の形)を簡略に形容すると、「豊満で力強く、国際色豊か」と表現できる。丸みと張りのある、どっしりとしたボリューム感、輪郭線に勢いがある。堂々とした生命感、シルクロードでの交易なども背景とした大帝国としての力強さもあった。
唐三彩という名にも明らかなように、唐時代の焼きものは豊かな色彩であった。このことには、唐時代に流行した仏教文化との関係があった。仏教では、荘厳という概念が重要である。荘厳とは、見事な飾りや彫刻、お供え物などで仏の世界、すなわち、寺院などを美しく尊く飾り付けることである。唐のやきものは、器を色で飾るという思想からつくられていたのである。
不思議なことであるが、色彩豊かな唐の三彩は、唐の時代から宋を建国した趙氏の時代転換のなかで劇的な変容を遂げる。この転換は、もちろん、陶器から磁器への技術面の発展がベースとなっているが、技術だけでは説明できない革命的な変化であった。これを理解するには、王朝の特色、それぞれの文化、さらには、思想・哲学も理解する必要がある。
宋時代の哲学と磁器
前述のように、ギリシア哲学研究のためにイギリスに渡ったわたしであるが、ケンブリッジ大学の教授たちの議論に参加するうちに、かれらは写本として残された哲学者たちの文字情報のなかで思考をめぐらしていた。しかも教授たちは現代のギリシアには古代ギリシアの文化レベルも、精神も失われているという共通理解があった。
わたしは、イギリス滞在中、ギリシアの歴史・文化を体験するために、何度もギリシアの地を踏み、古代の遺跡をめぐり、古代劇場で上演される悲劇詩人たちの作品を鑑賞した。地中海の空気を吸い、生きたギリシア語のなかに身を置きながら考えたのは、固定された文字情報のなかで思索することでは、紀元前に生まれたギリシア哲学の息吹を感じ取ることはできないのではないかということであった。しかも、わたしが目的とする人間と自然の関係を捉えることは難しいのではないかという感触を持ち始めていた。
そんなこともあって、わたしの心は、西洋から東洋へと向きを変えはじめた。ケンブリッジ大学の総合図書館の四階と五階には、東洋の書籍が収蔵されていた。わたしの楽しみは、ケンブリッジの町を望む窓辺の席に本を積み上げて、思索に耽ることになった。
図書館には中国の書籍もたくさんあって、もちろん中国語の原典も並んでいたが、日本語の翻訳書や研究書もあった。そのなかでわたしが関心をもったのは、人間と自然の関係を論じた朱熹(しゅき)(朱子(しゅし))とその先駆者たち、北宋の四子といわれる周敦頤(しゅうとんい)、二程といわれる程顥(ていこう)と程頤(ていい)の兄弟、張載(ちょうさい)の哲学である。わたしが親しんだのは、四子の思想を朱熹が編纂したアンソロジー、『近思録(きんしろく)』であった。
ギリシア哲学と並行して中国哲学を研究したのであるが、わたしがデビッド・ファウンデイションや大英博物館、それにケンブリッジにあるフィッツウイリアム博物館などを訪れたのは、宋代哲学と文化、そしてやきものの関連を考えるためでもあった。唐代の色彩陶器から宋代の単色磁器への転換がどうした起きたかを知りたいと思ったのである。
そうしたなかで、わたしの心をひいたのは、二程といわれる程顥と程頤の兄弟である。二人の思想は、『二程全書』という本に収められてた。そのなかに、つぎのような言葉を見つけた。
外に見(あらわ)るるものは、中に出づるものなり
外から飾るのではなく、中から見(あらわ)れるものこそが本物であるという思想である。これは人間だけでなく、価値あるものすべてに当てはまる。やきものも同じで、その美しさは、外側から飾り付けるのではなく、美しい姿はその内から現れ出たものである。
同じ趣旨であるが、程顥と朱熹が文芸・芸術のあり方を論じた際の言葉がある。
文は皆、道中より流出(りゅうしゅつ)す
文はすべて道の中から自然と流れ出てくるものであるという意味である。道とは人間と宇宙、自然を貫く根本の道理であり、文は文字の表現であるが。文は綾に通じている。美は「内から外へと自然に湧き出る」という思想である。人間の心の内に体現した宇宙の摂理(宋代哲学では、宇宙の摂理を理、心に体現したものを性という)が自然に外に現れた姿が文(あや)であり、美である。
このことが意味しているのは、唐代までの文学や芸術は、きらびやかな形式や言葉の装飾(外側の美)を重視する傾向があったのに対し、宋代では、内面の真実が溢れ出ること、すなわち、「人間が内面に正しい真理(道や理)をしっかりと蓄えていれば、芸術的な表現(文)は、内側から外へと自然に溢れ出てくる(流出する)ものだ」という思想である。宋代の理想は内面を磨くこと(居敬窮理)こそが人間のなすべきことであるとし、技巧を凝らして外側だけを飾ることを厳しく退けたのである。
無駄のない器形と一色の釉薬による宋代の磁器は、文化を担った人びと、士大夫たちが己の心から余計な感情を削ぎ落とし、静寂の中で世界の根本原理(理)と向き合おうとした「居敬(きょけい=心を主一無適の静粛な状態に保つこと)」の精神的態度を視覚化したものであった。
もう少し説明してみよう。宋代の哲学では、宇宙の根本にあるのは理(道理)であり、人間にはその道理が性として備わっている。ただし、この性は宇宙の道と通じ合わなければ、内にあるものが具体的に現れることはできない。そのために、理と性を一体とするための努力を払わなければならない。道としての理は、形として現れる以前の宇宙と人間の本質であるから、いわば形をもっていないもの、すなわち形而上の構造である。他方、この形になっていない道理は、材料となる気によって具体的な形をもつものになる。気は宇宙の根本的な物質であり、エネルギーである。宇宙の気は、人間の精神や身体をつくる気とも一貫している。ただし、この気は、理が人間の性となっていても、その性の発現を濁らせることもある。気を本来の性の状態へと導く努力が居敬窮理である。
理と気の二元論をやきものに重ねるならば、材料となる石や釉薬はいわば気に該当する。その気のなかにある性が立ち現れるとき、器はその本来の美しさを出現させるということになる。
北宋の四子や南宋の朱熹がその哲学の根幹に位置づけた古代中国の書、『易』には、
形而上なるもの、これを道といい、形而下なるもの、これを器という
という言葉がある。宇宙の道理が気という物質的(あるいはエネルギー)のうちに形になったものが器(人間でいえば身体)であるという思想である。
唐代のやきものと宋代のやきものでは、見るべき視点がまったく対照的である。このことを中国哲学の文献を読みながら、同時に博物館で宋代の傑作たちと対面しながら覚ったのであった。
北宋定窯の悲劇と青白磁への道
小山冨士夫が窯趾を探り当てたのは、北宋時代に全盛を誇った定窯である。定窯の実際の場所は、中国北部の「河北省 保定市 曲陽県(澗磁村・燕川村一帯)」であった。なぜ「定窯」と呼ぶのかというと、実際の行政区画は曲陽県だが、唐や宋の時代、この地域一帯は定州という大きな州が管轄していた。中国の古い窯は当時の管轄州の名」をつけて呼ぶ習わしがあるため、定州の窯=定窯と呼ばれるのである。
探索の当時、定窯の遺跡は定県(現在の定州市)にあるはずだと考えられていたが、いくら探しても見つからなかった。小山は文献を頼りに、定県からさらに北西へ約三〇〜四〇キロメートル離れた曲陽県の山奥へと踏み込み、ついに大量の象牙色(アイボリーホワイト)の白磁の破片が眠る広大な窯跡を発見したのであった。
定窯の位置する「河北省」という場所は、北宋と南宋の歴史的境界線において決定的な運命を分けた場所である。北宋(九六〇年〜一一二七年)の都は、現在の河南省にある開封(かいほう)であった。小山が発見した曲陽県から開封までは、直線距離で約四〇〇キロメートルほどで、中国の広大な国土から見れば「首都の目と鼻の先(同じ華北地域)」に位置した。そのため、定窯は北宋の宮廷や貴族たちへ上質な白磁をダイレクトに納めることができた。名実ともに北宋を代表する最高の白磁窯であった。
ところが、北方民族が攻めてきて、一一二七年にいわゆる「靖康の変」で、徽宗皇帝が拉致されてまもなく亡くなるという悲劇が起きた。北宋が滅び、高宗が南へ逃れて臨安(現在の浙江省 杭州)に「南宋」を建てると、状況は一変した。北宋と南宋の境界線は「淮河(わいが)」という川のあたり(中国のちょうど中央を横切るライン)で、それより北の地域はすべて女真族の国、金の領土となった。つまり、定窯のある河北省は敵国の支配下に完全に組み込まれてしまったのである。これにより、南宋の人々にとって定窯の白磁は二度と手に入らない幻の北方のやきものになってしまった。
だからこそ、南宋に逃れた人々は定窯の代わりとなる白い器を求め、南方の景徳鎮を熱狂的にバックアップしていくことになった。
ただ、南部の景徳鎮では、すでに青白磁(影青)が盛んに焼かれていた。北宋の盛期の時代こそが、景徳鎮の青白磁が誕生し、最初の全盛期を迎えていたのである。
景徳鎮で青白磁が焼かれ始めたのは、北宋の初期にあたる一〇世紀後半(九〇〇年代末)といわれている。その後、北宋の第三代皇帝・真宗の時代の一〇〇四年、地名に関する決定があった。真宗は、この地(当時は昌南鎮と呼ばれていた)で焼かれた青白磁の美しさを絶賛し、宮廷への献上品として認めた。加えて、自身の元号である「景徳」をこの街に授けたことから、「景徳鎮」という名前が誕生した。つまり、北宋が滅びるよりも一〇〇年以上前から、すでに景徳鎮の青白磁はブランド化され、帝室にも納められていたのであった。
景徳鎮の青白磁であるが、名前に「青」が入ってはいるものの、青磁ではなく白磁である。
鉄分を限界まで取り除いた純白の磁器土を使う。そこに透明釉をかけて焼くのであるが、あえて鉄分をごくわずかに鉄分を含んだ釉薬を使うことから、この鉄分が還元焼成によって青みがかる。釉薬に含まれる酸化鉄から酸素を抜くと色は青くなる。器体には、定窯のように彫刻がほどこされているので、彫りの部分には釉薬が厚くたまるから、この厚みのある釉薬のガラス層に光当たると水色に発色するのである。そこで中国では、青白磁を影青(いんちん)と呼んだ。
青白磁は、青磁ではなく、洗練された白磁であった。
景徳鎮の青白磁と小山冨士夫の運命
中国の宋代において、口が小さく、肩が豊かに張り、裾がすぼまった美しい形の瓶は「経瓶(けいびん)」などと呼ばれ、主に高級な酒を入れる器として使われていた(のちに清代になってから「梅の枝を差すのにぴったりだ」として梅瓶(ばいひん/めいぴん)と呼ばれるようになったことで、今では、この形の瓶を梅瓶(めいぴん)と呼んでいる。
鎌倉時代の日本(博多や鎌倉など)には景徳鎮窯の青白磁梅瓶や、龍泉窯の青磁梅瓶が「最高級のステータスシンボル(唐物)」として大量に輸入された。その遺品が各地の博物館に所蔵されている。当時、武士や僧侶たちは、これを神仏に御酒を捧げるための神聖な器(瓶子)として珍重したのである。
当時の日本には、信楽、備前、常滑など様々な古来の窯(六古窯)があり、独自のやきものを製作していたが、その中で唯一施釉して中国の磁器をそっくりそのまま真似しようとしたのが瀬戸であった。陶工たちは、輸入されてきた景徳鎮の青白磁梅瓶や青磁梅瓶をモデルにしたのである。この時代に焼かれたものを古瀬戸という。
しかし、当時の日本の技術では、景徳鎮のような純白の磁器を焼くことは不可能であった。磁器の原料となるカオリンという粘土、一三〇〇で焼成する窯の築造、高温を実現する焼成技術がなかったからである。
そこで陶工たちは、手に入る土を使い、平安時代から続く独自の灰釉(かいゆう)や飴釉(あめゆう)(酸化鉄)を工夫して施釉した。他方、形や模様は完璧にコピーすることに努力をつぎ込んだのであった。景徳鎮の青白磁にあるような流麗な植物の彫刻(刻花)を、ヘラやスタンプ(印花)を使って器の表面に写し取ったりした。色も諦めずに、黄色やあめ色(褐色)に焼き上げたが、それによって日本独特の渋みと重厚感のある古瀬戸の瓶子という新たな美が誕生したのであった。
こうして、加藤唐九郎が作った(そして小山冨士夫が騙された)永仁の壺には、何百年も遡った景徳鎮の青白磁の梅瓶への、当時の日本人陶工たちの強烈な憧れが潜んでいたのである。
中国定窯の白磁から景徳鎮の青白磁、日本の古瀬戸、そして昭和の永仁の壺まで、陶磁器の歴史の大きなうねりが小山冨士夫の情熱の糸によって見事につながったことになる。ただ、定窯の白磁を見抜いた小山の目がその後継を模した古瀬戸の贋作を見抜けなかったことは、個人の身に起きたこととはいえ、大きな悲劇であった。

自作の青釉盃。直径四センチメートル、高さ六センチメートル。半磁器土の手びねりで胎土と同じ土を水で溶き口縁に塗って滑らかにしてある。割れは意図的に施したもので、割れ目に釉薬が入り込み、色が濃く発色する。釉は青磁釉で還元焼成。
著者紹介
桑子 敏雄(くわこ・としお):一九五一年群馬県生まれ。哲学者。東京工業大学名誉教授、一般社団法人コンセンサス・コーディネーターズ代表理事。一九七五年東京大学文学部哲学科卒業、同大学院博士課程修了。南山大学助教授などを経て東工大へ。一九九九年に上梓した『環境の哲学』が建設省官僚の目に留まり、政策提言を求められ、公共事業(ダム建設など)の地元住民の合意形成にかかわるようになる。「ふるさと見分け」「市民普請」を提唱。東京工業大学リベラルアーツセンター長もつとめた。著書に、『環境の哲学――日本の思想を現代に活かす』(講談社学術文庫) 、『感性の哲学』『西行の風景』(日本放送出版協会一九九九、二〇〇一年)、『日本文化の空間学』(東信堂、二〇〇八年)『生命と風景の哲学――「空間の履歴」から読み解く』(岩波書店、二〇一三年)、『わがまち再生プロジェクト』(角川書店、二〇一六年)、『何のための「教養」か』(ちくまプリマー新書、二〇一九年)など多数。









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