宙地の間

地球環境時代のモデル建築

渡辺菊眞

   

Ⅲ グロカール(地球-地域)建築をめざして 建築作品とプロジェクト

[1]  「太陽系の惑星地球」を体感する

   「宙地の間」と「ゲンダイタテアナ」

[2]  地域を生き抜く民家に「改増」する

   「角館の町家」と「博士の家 Plat-home」

[3]  地域に「地球の感受」を定位する

   「産泥神社」と「金峯神社」

[4]  建築構法の編成で地球-地域環境に適応する

   「南シューナ地区コミュニティセンター」と「天翔ける方舟」

[5]  地域と地球がひとつになる

   「風景の庭」と「葡萄棚パッシブハウス」

[3]  地域に「地球の感受」を定位する

   「産泥神社」と「金峯神社」

  地域環境は常に変化を続けている。変化はとがめるような事象でもない。しかし、変化が勢いを増して激化すると事情は違ってくる。スクラップアンドビルドが繰り返されて新しい街路が街を切り裂いていく。都市では更新があまりにめまぐるしく空き地になったその場所に何があったのか思い出せない。地域環境の記憶喪失である。地方では過疎が進行して、住民が一人また一人と姿を消して集落自体も消滅していく。私がいる高知では中世にまで遡ることができる集落でさえ消えていくこともある。環境の記憶喪失や集落消滅は単なる変化を超えてしまっている。そんな地域環境のなかで人間はどうやって生きていけるのか。そういう問いを立てざるを得ないのが現代である。

 生きる環境が不安に満ちる時、人間は常に祈りをささげて平安を願ってきた。その意味で「祈りの空間」がこの不安解消の鍵になるかもしれない。ただし、この不安は地に足がつかない不安、足をつけるべき大地が見つからない不安である。この時必要な「祈りの空間」は我々が生きる環境から遊離してはならない。環境の根っこに結びつくことこそ肝要である。地域環境の根っこは地球である。不安な地域に今一度足を踏みしめてその根に地球があることを深く感受できる「祈りの空間」が必要なのではないか。

 「産泥神社」、「金峯神社」ともに地球を感受できる神社である。「産泥神社」は「開港都市にいがた 水と土の芸術祭2012」のために構築した屋外展示作品であり、実際には神社ではない。この芸術祭は日本海側における現代最大都市の新潟市において、都市繁栄で忘れかけてしまった地域の根っことしての「水と土」を今一度憶い返すことをテーマにした祭典である。流動する地域環境の根源にある自然とむすびつくこと。これによく応えられるのが自然信仰に根がある神社だと直感した。神社は私の設定である。「金峯神社」は正真正銘の神社である。消滅寸前集落の氏神さまであり、社殿は崩壊直前であった。緊急事態の中、それでも、神社の由来来歴を読み取り空間を精査してその根にある信仰を探り当てることから始めた。結果として地域の自然にむすびつくことを超えて地球とむすばれていく神社であることを見出した。社殿崩壊まで秒読み状態であり、自力建設で必死でつくりあげた神社である。それでも地域と地球にむすびつく神社たらんことを強く誓い、結果的にはそれができたと感じている。

 

[産泥神社]

序詞

 土嚢建築だけが決まっていた。私はインドやウガンダで貧困緩和自立支援としての建築を手がけてきた。土さえあれば建築できる。土を袋につめてブロックにして積み上げる土嚢建築は、お金がなく材が乏しい場で効力を発揮する。ゼロから土で建築をつくる建築家、世界の被災地や貧困地で建築している日本にはないリアリティを持つ建築家。それが新潟という場で何を見出して何を構築するのか、それが期待されていた。呼びかけてくれたのは新潟大学の丹治嘉彦ディレクターである。設置場所は決まっていなかった。というより場所を見出していくことを含めた設計建設依頼であった。何百何千もの土嚢が積み上がってできる土嚢ドームは古墳の石室のようであり、石でなく土であるからより温かみがあり、胎内回帰という言葉がピタリとくる空間である。海外の現場は緊迫していたが、土嚢を積み上げてドームを築き上げることの喜びやそのなかに身をおく安らぎを身にしみて感じていた。生きていくことが困難な人々を守るためのやすらぐシェルター。そんな建築であった。物理的に生きていくことが困難ということは日本では生起しにくい。日本の現代都市にたつ土嚢建築は、どんな場所に、どんな姿であるべきなのか。これは難問であった。

 新潟市をあちらこちら巡っては「ここなんかどうだろう」と、丹治さんは一生懸命に候補地を案内してくれた。多くは自然が豊かな風光明媚な場所であり、素晴らしかったのだが「ここではない」と感じていた。芸術祭の趣旨は都市の繁栄でみなが忘れてしまった水と土との格闘の(一面の湿地帯を水田に変えていった)歴史を憶い出すことだ。私は丹治さんに「都市がいいです」と応え、車中から街中を必死に見渡した。日本で生きるのが困難なこと。それは物理的なことではなく、安心して足を踏みしめられる基盤を見失ってしまっていることである。必要なのは命を守るシェルターではなく、地域で見失った根っこを見出すための根源的な空間ではないか。めまぐるしく更新を続ける現代都市・新潟でそんな根源回帰の場所をつくること。それが必要だと決意した。見つかったのは2本の高架橋に挟まれてぽっかりあいている空き地であった。橋建設でここにあった街の一部が消えてしまったという。「ここしかない」と感じた。「産泥神社」のはじまりである。

概要(Fig Ⅲ-[3]-1〜4)

 産泥神社は、信濃川下流にかかる柳都大橋北詰にある空地を敷地としている。同地は高架橋建設予定地であったが、バブル経済の崩壊にともない建設は中止となり、空地として放置されていた。柳都大橋は信濃川に架かる橋の中では比較的近年に建設されたものである。かつて、この敷地を含む周辺には礎町があったが、橋建設にともない、町の一部は姿を消した。このように大都市化した新潟市においては都市の更新が目まぐるしく進行し、そこにかつて何があったかがわからない、いわば記憶喪失のような現象が断続的に引き起こされている。

 産泥神社は、都市更新の過程で生じた空っぽの場所を敷地とし、「土と空だけがある」根源の風景を憶う空間とした。具体的には大地そのものを囲い込んだパンテオン型の土嚢ドームを本殿とし、そこに接続するための空間を手前から拝殿、石の間としている。この両空間の壁は土嚢建築、屋根は(足場用)単管造の上に木屋根を設置している。土嚢ドームの本殿では頂部の穴から空をのぞむとともに、雨や雪が入り込む。本殿からの出口は木造切妻屋根の平面的に屈折したトンネル空間とした。トンネルの出口は、まっすぐに柳都大橋の中心軸を指し示す。ここでは新潟の根源的風景を憶う本殿とは対照的に、現代都市・新潟を象徴する空間を設定した。産泥神社では、現代都市を起点に社殿を進み、本殿で根源的風景に出会ったのちに、現代都市・新潟に帰還する。その時、自らを問うことになる。「われわれは、どこからきて、どこにいて、どこにいくのか」と。

Fig Ⅲ-[3]-1 産泥神社の冬季全景。社殿の先に柳都大橋の亀裂がみえる。

Fig Ⅲ-[3]-2 産泥神社にみる雑多なもので構成された外部造形

Fig Ⅲ-[3]-3 産泥神社 配置図(上)平面図(中)断面図(下)

Fig Ⅲ-[3]-4 産泥神社の本殿内観。大地と天をむすぶ「天地型の地球感受空間」である。

フィールドの読解と設計

【都市】フィールドの読解

 産泥神社の敷地(「社地」)は、新潟市中央区礎町にある。信濃川に架かる柳都大橋北詰であり、橋頂部から北詰めの地に下りる2本の斜路に挟まれた空地である。空地にはこの上に架かる高架道路の橋脚が設置される予定であったが、バブル崩壊によって高架橋建設が中止となり、空地のままとなっている。柳都大橋の架橋前、ここは礎町という町の一角であったが架橋とともに町は消失した。

 残存している礎町は南北に架かる柳都大橋によって東西に分断されてしまい、東西方向の街路も橋で分断されている。町の切断線としてぽっかり空いた「社地」があり、空地であるがゆえに「町の不在」をより強く象徴する。「社地」は信濃川に向けて上昇する2本の斜路に挟まれており窪地のようである。「社地」南側では平行して走る2本の斜路の距離は縮まっていくが、完全には交わらず両者の間に亀裂状の空隙が走る。この亀裂線が「社地」の中心軸を強く印象づける。橋中央の亀裂が形成する明確で強い軸線には日常の生活空間のスケールを大きく逸脱する迫力がある。

設計

 社殿の中核をなすのは本殿である。本殿は直径5m、高さ4.1mの土嚢ドームである[1]。ドーム内部は土嚢あらわしとする一方で、外部の南側半分は「ロールプランター」[2]下地の芝生マットを打ち付け緑化し、北側は農業用資材の「アゼナミ」で被覆している。内部の床は地面がそのままあらわれる。壁は土嚢の組積壁、頂部にはパンテオン型の穴があき空のみが見える。穴からは雨や雪が侵入し雨天時の床はびしょ濡れになって湿地を彷彿とさせる。内部空間として参照したのは古墳の石室である。特に奈良県明日香村の真弓鑵子塚古墳の石室をモデルにしている。内部は大地と空だけである。それに対して外部の緑化や「アゼナミ」はさしたる意味もなくガラクタ然としている。この外観の内部に根源的空間が封入されているとは全く思えない。ガラクタ然とした本殿外観は内部空間を全く想定させないためであって両者の差異の大きさが内部の驚きを誘発する。

 社殿全体としては拝殿、石の間、本殿を直列でつなぐ複合社殿である。通常、神社本殿はその内部に侵入することはないが、ここでは本殿の中に入って「地球感受の空間」を体験できる。本殿内部に達すると、そこから石の間へ折り返すのではなく屈折した「への字」型平面の「躙り口」のような空間に進入する。その出口の真正面には、柳都大橋の亀裂軸がある。産泥神社は一般的な神社とは異なり巡り歩くことに興味が持てる神社である。拝殿の前には土嚢の湾曲壁によるアプローチを設け、その奥に楕円平面の拝殿、次に湾曲壁の石の間、さらに奥には本殿があり、ここに出口の屈折した躙り口が設置される。拝殿、石の間、本殿は柳都大橋亀裂軸と平行する中心軸を持つが、内部動線はそこを背骨にしつつもクネクネと紆余曲折する。これは近世日本の行動的空間[3]を意識したものであり、空間体験に飽きがこないようにしている。(Fig Ⅲ-[3]-5)

 一般的に神社は拝殿、本殿、その奥の自然の信仰核(山、海など)など、奥にいくほど聖性が高まる。そして、最奥部の自然信仰核には「奥の宮」が設置されることが多い。産泥神社では本殿までは段階的に聖性を高めており、本殿から躙り口を経て出会う「柳都大橋の亀裂」を「奥の宮」としている。この「奥の宮」は自然の信仰核ではなく、日常の飽くなき都市更新が産み出した現実そのものである。本殿では「大地と空」によって新潟の根源に対面する。しかし、本殿を出て最終的にたどり着くのは現在都市・新潟である。本殿の根源的風景と現在都市・新潟の間を振動することこそ、産泥神社で実現したかったことである。象徴的な根源的風景と都市更新の過程でたまさかあらわれた象徴的な現実風景。両者の振動の中で「どこにむかうべきなのか」を思考する。

Fig Ⅲ-[3]-5 「産泥神社参詣案内」会期中に配布された(制作:渡辺菊眞+D環境造形システム研究所)

施工の風景化

 産泥神社は「水と土の芸術祭」の野外展示作品である。2012年7月の開幕から12月の閉幕までが展示期間であり、その間にこの建築が空間体験者に何をもたらすかが重要である。その一方で建築そのものとも言える本作では建設に時間がかかるとともに関わる人々も多岐にわたる。会期中の完成建築だけではなく、どのように作られて、いかに姿を消すのかも極めて重要である。

 施工は私と高知工科大学環境建築デザイン研究室の学生、「水と土の芸術祭」ボランティアスタッフ、新潟市民のボランティアメンバーによるセルフビルドである。建設に参加したメンバーが何を感じるかはとても重要であるが、それと同時に建設の過程が風景化される意味が大きい。敷地は柳都大橋の斜路に挟まれた空地であり、ここを行き来する車は無数にある。常に多くの人々の目に触れられる場所である。しかし、このプロジェクトがおこなわれるまではこの空地を意識している市民はほぼいなかったという。ある日いきなり空地に人が出入りし、資材の搬入、敷地での縄張り、土嚢建築の施工、屋根と外装の施工が展開されていく。土嚢建築は軸組構法とは違い、棟上げ時において一気にカタチが見えるものではない。一日の施工で土嚢ブロック一段積み上がるくらいが限度である。日々、少しずつカタチを変え、ただの壁が建築となっていく姿を多くの市民が見ることとなった。これにより現場を知り建設に加わった市民の方もいた。

 4月30日に着工し、7月半ばの開幕数日前まで施工は続いた。およそ2ヶ月間、建設の状況が都市風景になった。会期終了は12月半ばであったが雪深い同地で、その時期の解体作業は難しいと判断されて翌年の2013年3月に解体することとなった。芸術祭が終わってからも3ヶ月間は雪が舞うなかで産泥神社は鎮座を続けることとなった。

 解体は施工と逆順で、外装材と屋根をはずし土嚢建築を解体する(土嚢ブロックを積み降ろして、トラックで残土処理場に運搬する)。解体のちは敷地を整地して現状復帰する。建設に3ヶ月かかったのに対して解体は3日間で終了した。この状況もまた風景化され最後は何もない空地に戻った。建設はある種の祭り事である。施工の風景化によって建設は都市祭礼となる。産泥神社では誰もが知っているのに誰もが気に留めなかった都市内の「空白」に気づいたことの意味が大きい。この気づきにより日々更新と変容を続ける都市の様態を認識したであろうし、それに気づき得ない自身についても振り返る契機になったと思われる。

 産泥神社は会期前から風景として公開され、それを含めて根源の記憶を呼び起こす神社であった。ちなみに施工の風景化はインド、アフリカでの貧困緩和自立支援としての建設時にしばしばおこったことであり、極めて多くの人々が建設風景を目にし、そのことで活動が広がっていった。産泥神社では、その経験が下地になって施工の風景化を自覚的に計画した。(Fig Ⅲ-[3]-6)

Fig Ⅲ-[3]-6 産泥神社における施工の風景化 建設と解体

[金峯神社]

 出会った時は「開かずの社殿」であった。軸組が不朽し柱が礎石からずれ落ちてしまっていた。なおす人材も財も村にはなく数年この状態であった。「開かずの社殿」を覗き込むと札に「金峯神社」とある。明治初期の神仏分離以降の名称であろうから、それまでは蔵王権現を祀っていたのではないかと直感した。奈良県大峰修験の総本山金峰山寺の本尊は蔵王権現であること、社殿の中の本殿が奈良地域に圧倒的に多い春日造りであることもこの直感を後押しした。村史等によると江戸期までは「坐王権現」だったいう。的中である。「開かずの社殿」がたつのは中後入西ノ谷集落の「ミヤノニシ」という小字である。しかしこれは江戸期に移転した結果の社地であって、もとは「ミヤノタニ」に位置していたという。「ミヤノタニ」は宮のある谷であり「ミヤノニシ」はその西だ。「ミヤノタニ」は大小さまざまな岩が折り重なる沢の水源である。日本固有の山の宗教:修験道の聖地は大峰山系以外もいくつも訪ね歩いたことがある。巨岩奇岩がひしめく場所だ。修験の神、坐王権現を祀るにふさわしい場所であった。どの位置に社殿があったかはわからないが、巨岩の上か傍に屹立していたことであろう。現在の社地は居住域の山道を数分歩いところに立つ鳥居から急傾斜でまっすぐのびる石段の先にある。その軸とは合致しない明らかに不自然な向きで社殿がたっている。これまでの聖地探訪の経験から、この向きの果てには聖なる山があるのではと感じていた。高知工科大学の国土情報処理工学研究室代表の高木方隆先生に調べてもらったところ、修験の聖地である御在所山(社地からは10㎞以上遠方)をピタリと向いていた。神社は元来自然信仰である。修験も山岳信仰であり、両者が習合してもそれは変わらない。起源にまで遡ると神社に社殿はない。仏教の影響で社殿を構えるわけだが、信仰の原点は保持して、社地や社殿の配置を状況の変化に応じて編成してきた。社地編成こそが神社の歴史である。村が消滅寸前の危機に瀕するいま、固定した大きな社殿を建て替えるのは無理である。いまこそ神社再編の時ではないか。仮説的な構えで何かあれば動かせて、簡便に補修もできる構え。それが必要だと感じた。それと同時に信仰の原点たる御在所山を向く構えはどうあっても守りたい。施工素人の私でもつくれて補修できる工法、そこで見出したのが工事足場用の単菅であった。

設計の概要

 高知県香美市土佐山田町佐岡地区に鎮座する神社の再建プロジェクトである。金峯神社は佐岡地区中後入集落の氏神であり、明治の神仏分離前までは坐王権現と呼ばれていた。中後入集落は明治時代は9軒の家屋からなり、第二次世界大戦直後まではこの規模が維持されてきた。しかし戦後の高度経済成長期以降、過疎化が進行し、ある時期からは氏子がただ一人となり、いまや消滅寸前集落と化している。このような状況のなか、平成末期になると祭礼を実施できなくなり、2014年に当地を襲った台風のせいで社殿が損傷して「開かずの社殿」となってしまった。ただし、この地を去った旧氏子たちの多くは近隣の土佐山田町に居住していることもあり、同神社の存続を強く願っていた。その一方で財力や人手不足もあり、神社存続への具体的な対応を見出せずにいた。

 本計画では、「神社が存続できること」を最優先し、限定された予算かつ自力で建設可能な構法で社殿を再建することとした。損傷した社殿は山腹の狭小地に位置する複合社殿であり、社地に余地なく建っていたことで湿気が溜まり軸組の腐朽を進行させていた。険しい山中にあるため高齢化した氏子が参拝することも難しい状況であった。この事態を打開するために社殿再建にあたっては、拝殿機能と本殿機能を分離して社殿を小型化し、前者を里の畑地に、後者を本来の社地に建設することとした。人々が集う祭礼は里の拝殿で行うこととした。両社殿ともに(足場用)単管で構造を組み、高知杉材の垂木と厚板で屋根と床を構成し、屋根はポリカーボネートで防水した。建設はセルフビルドで行い維持管理も容易にできるように留意している。金峯神社が坐王権現であったことに起因するのか、旧社殿は10km以上も離れた修験道の聖山・御在所山を向いていた。そこで再建した両社殿ともに御在所山を向くようにし、この神社の原信仰に適う配置としている。社殿再建後、10年余途絶えていた祭礼が復活し、その後は秋に毎年、途絶えることなく実施されている。(Fig Ⅲ-[3]-7〜9)

Fig Ⅲ-[3]-7 金峯神社の信仰空間編成図 (上)旧信仰空間の編成 (下)分割造替による信仰空間再編

Fig Ⅲ-[3]-8 分割造替した金峯神社の社殿 (上)森の本殿 (下)里の拝殿

Fig Ⅲ-[3]-9 金峯神社 森の本殿(移設前:可動式)と里の拝殿の図面

フィールドの読解と設計

神社空間の読解

 金峯神社の旧社殿は西ノ谷の居住地背後の里山内に位置する。西ノ谷はその名が示す通りの谷集落であり、戦後の植林政策の実施前までは棚田集落であった。集落のある谷に後入川が流れ、ここに幾つかの細流が接続する。金峯神社の社地はこの細流の水源近くに位置する[4]。社殿は拝殿と宮殿覆屋が一体化した複合社殿であり、拝殿は入母屋妻入り、宮殿覆屋は切妻妻入りである。屋根の全体形状としては幅広の拝殿に宮殿覆屋屋根が接続しT字型を描く。なお宮殿は一間社春日造りである。社地には直線状に急傾斜の石段が取り付き、その登り口には鳥居が設置されている。この直線状の石段の中心軸と社殿の中心軸は角度が40°触れて配置されており、石段下から社殿を見ると、角度の違いが極めて明瞭に表れる。のちの測量調査[5]によって、社殿中心軸はおよそ10km先に位置する御在所山の山頂を正確に向くことがわかった。

 同神社は二つの信仰核を有している。「近い信仰核」と「遠い信仰核」である。前者は沢の水源であり、後者は御在所山である。中後入西ノ谷集落は谷に立地する小規模な棚田集落であり、利水の要はいうまでもなく後入川である。そこに注ぎ込む沢も重要である。谷集落の要として水源の地は畏敬をもって信仰される。御在所山は修験の聖地であり、山頂付近には韮生大山祇神社が位置する。金峯神社は元来、坐王権現といい、坐王権現は修験の神であることから、この神社が修験道に深く関連することが推測される。御在所山は社地からは10km以上遠方にあり、社地からも西ノ谷の里からも視認することはできない。この社殿軸の存在だけが御在所山への信仰を裏付けている。(Fig Ⅲ-[3]-10)

Fig Ⅲ-[3]-10 御在所山を向く金峯神社旧社殿

フィールドの現況読解

 金峯神社社殿は2014年の台風で損傷し、拝殿正面の柱が礎石からずれ落ちてしまい、それ以後は「開かずの社殿」となっていた。狭小な社地に対して規模の大きい複合社殿であったため社殿周辺の風通しが劣悪であった。このため湿気溜まりが発生し軸組の腐朽を招いた。この社地は家屋のある里の居住域から急傾斜の斜面を登らねばならず高齢化した集落の氏子諸氏が参集することは難しい。2005年頃からは例祭が途絶えている状況であった。西ノ谷の住民は一人だけであるが旧氏子は周辺村落に居住していることもあり、農地の一部は旧氏子による畑地として活用されている。居住域への人の出入りがあるわけであり、ここへの参集は可能である。社地が位置する直下は南向きの雛壇が数段あり、そこはかつての屋敷地であった。現在は杉が林立しており、それにより社地を薄暗くして風通しの悪さを招いていた。

設計

「里の拝殿」の設計

 敷地は、西ノ谷居住域の畑地とした。日当たりのよい開けた場所であり、建築配置の自由度も高く人々が祭礼時に参集しやすい場所である。南には棚田跡地の下に後入川が流れる。拝殿は御神体を存置しない空っぽの遥拝殿である。設計で特に留意したのが視線の透過性である。一般に遥拝殿には神籬を立て背後の壁に開口を設けて遥拝対象が視認できるようになっていることが多い。石鎚神社の遥拝殿はその特徴が顕著に現れたものであり背面壁に大きく空いた開口からは石鎚山頂を遥拝することができる。里の拝殿では直角二等辺三角形断面(底辺約6m,斜辺約4m)のトンネル状の空間(奥行き4m)を設定し、平面中央のみに床を張って祈祷の場とする。床をはった最奥部のみは、祭礼時の神座となることを加味して板壁を形成するものの、それ以外には壁を設けず視線が透過できるようにした。直角二等辺三角形の頂点が棟を形成し棟の向きが社殿の向きとして明示される。「遠い信仰核:御在所山」を向くという性質が可視化される。信仰と無縁の里の地に「里の拝殿」のみがあるため、単なる小屋のような形態の場合は農機具小屋然とした存在になってしまう。「里の拝殿」の形態は社殿だとわかるものにした。具体的には「天地根元宮造」を想起させるものとしている。「天地根元宮造」は地面に矩形の穴を掘って、そこに丸太を合掌に組んで並べて屋根を葺いただけの建築である。これは江戸時代由来の説にもとづく想定上の様式であり、昭和初期までは建築史で日本建築起源様式とされていた。先に述べた直角二等辺三角形断面の屋根しかない形式はこの様式を彷彿とさせる。これは仮想の根源建築であり、根源を想起させるが具体的な信仰様態(神明造=伊勢神宮系など)には結びつかない。

「森の本殿」の設計

 「森の本殿」の敷地は社地そのものである。しかし、そこには損傷した旧社殿があるため造替を実施するには幾つかの段階が必要とされた。①社殿が立つ社地手前の余地に「森の本殿」を建てて春日造りの宮殿を安置する。②「森の本殿」建設と宮殿安置完了のちに損傷社殿を解体撤去する。③社地を整備したのちに「森の本殿」を移設して造替を完了する。という3段階である。移設の必要性から「森の本殿」には8つの車輪が備わった可動式社殿として建設する必要があった[6]

 社殿規模であるが、社地前の余地にしばらく社殿を存置する必要があったことから、そこにおさまりうる規模が必須であった。それに加えて既存の春日造宮殿を安置する必要もある。これに応答しうるのが3m四方平面であり、宮殿を容れるに足る屋根をかけることとなった。結果的には春日造り宮殿をそのまま拡大して垂直方向にプロポーションを引き伸ばしたような形態となった。春日造宮殿を容れる最小限の容器がひと回り大きい春日造というのは合理的である。社殿の形態としても、春日造り宮殿を容れる器としての春日造りとなり、その機能にふさわしい形態である。

社殿の設計条件と構法・工法 (Fig Ⅲ-[3]-11〜13)

1.建設資金は有志による寄付で賄う。当地は消滅寸前集落であり寄付額にも限界がある。可能な限り安価な建設が求められた。そのため、建築の骨組みは建設工事足場用の単管構造とし、そこに杉垂木、杉厚板で床と屋根を施工し、屋根防水にはポリカーボネート波板を採用した。杉材は地域の大工[7]からの紹介で材木屋から比較的安価に購入できた。建設は筆者と学生によるセルフビルドとすることで「人件費なし」とした。結果として両社殿ともに、各35万円程度の建設費に抑えた。

2.敷地へは車両は侵入できない。車が寄れる地点から建設地までは500mほど距離があり、人力で運搬可能な建築資材の選定が求められた。単菅、杉垂木、杉厚板、ポリカーボネート波板、工具などすべて人力で運搬した。車で運搬したのち資材を仮置きし、そこから人力で里の拝殿では片道500mの距離を数回往復して資材搬入を完遂した。森の本殿は社地上方の車道から片道5分ほどの下り坂を数回往復して資材を運搬した。

3.敷地には電気が通ってない状況であった。可能な限り材の架構をほどこさないで済むように定尺材で構築できる設計が必要とされた。単菅は定尺の1m,2m,3m,4mを基本とし、切断することを可能な限り避けた。ちなみに里の拝殿では2mと4m材だけで構造を組んでいる。杉垂木は4m,厚板は長さ2mのままで可能な限り使用した。木材は切断の必要に応じて鋸を引き加工した。

4.建設の人手は私と高知工科大学環境建築デザイン研究室のメンバーとした。建設素人によるセルフビルドである。簡便な構法の選定が求められた。これは維持管理が簡便になることも意図されている。単菅、杉垂木、厚板、ポリカーボネート波板、これらは全てホームセンターで入手可能な資材であり、建設の専門性なく使える。単菅はクランプで緊結し、杉垂木は垂木止めクランプで単菅と緊結する。垂木と厚板はビス止め、ポリカーボネートと厚板は傘釘で緊結した。「里の拝殿」、「森の本殿」ともに建設メンバーは10名、2週間で竣工させた。ポリカーボネート波板の葺き替え等も簡便にできることから維持管理も容易である。

5.維持管理が容易とはいえ、風雨等によって簡単に損傷しない構造でなければならない。必要な強度を備える設計とした。「里の拝殿」は開けた土地であり風が吹く。ここでは直角二等辺三角形の断面形状とすることで可能な限り重心を低くして7箇所木杭を打ち込みロープで緊結した。「森の本殿」の仮接地時は8つのキャスターがついた可動式社殿であり、社地に遷座したのちはジャッキベースで接地する。どちらの状況でも地面への定着はない。ここではしっかりと根をはった周辺樹木を2本選定してロープで緊結した。双方の社殿ともに構造計算によってその安全性を確認している(耐震一次設計)[8]

Fig Ⅲ-[3]-11 金峯神社の構法・工法図解

Fig Ⅲ-[3]-12 金峯神社 「里の拝殿」の施工風景

Fig Ⅲ-[3]-13 金峯神社 「森の本殿」の施工風景

社殿再編後の金峯神社 (Fig Ⅲ-[3]-14)

 「里の拝殿」は2016年7月、「森の本殿」は2017年1月に社地前に仮設置した。「里の拝殿」竣工後、損傷社殿から御神体のみを拝殿に遷座した。遷座祭を7月に行い、秋には同じく「里の拝殿」にて例祭をとりおこなった。実に10年近く途絶えた例祭の復活である。西ノ谷に残る一人の氏子はもとより、近隣に住む旧氏子諸氏、建設等に関わった高知工科大学の学生と教員を含む数十名が参集し、祭りは賑やかに行われた。「里の拝殿」による例祭は以後、毎年、秋に実施されている。「里の拝殿」は畑地に建設されている。これが正式な社殿(御神体を正式に安置する社殿)の場合は、神社庁の許可が必要となるが「里の拝殿」はあくまで遥拝殿であるため認可なく設置可能であった。

 「森の本殿」は2017年にひとまずの完成をしているが、これは社地の手前にある余地での仮の竣工である。竣工時に損傷社殿から春日造宮殿を取り出し、人力で運搬して森の本殿内に安置した。春日造宮殿移設後、損傷社殿は解体して、解体した材は社地の下にある旧屋敷地に運び出した。2019年には社地を整地したものの直後に社地上方に根をはる大木(コバンモチの老木)が倒壊、倒れた樹木をチェンソーで細分化し撤去したが、大量の土砂が流れ込んだために「森の本殿」移設計画は中断する形となった。樹木倒壊からおよそ3年経過した2023年、樹木倒壊のちの斜面安定を確認し、社地の整地を実施した。流れ込んだ土砂を人力(スコップと一輪車)で取り除き、社地の平地化をはかる。それと同時に小規模な排水路を設け社地が雨水によって緩むのを防止する措置をとった。整地施工は高知工科大学の学生と私が担い、およそ一月で整地は完遂した。整地ののち、2024年2月に可動式社殿を動滑車とチルホール2機で曳いて移設を果たすことができた[9]。社地前の仮設置では御在所山へ社殿を向けることができなかったが、移設後は社殿を御在所山に向け、不要となった車輪8機を取り外すとともにジャッキベース8機と交換して接地させている。里の拝殿に仮安置されていた御神体の遷座は2024年4月に執り行われた。実に7年振りに御神体は在るべき場所に還ったことになる。

 遷座後も祭礼は里の拝殿で行う。拝殿に神籬を立てて神を迎えて祭礼が実施される。分割造替という例をみない措置をとった金峯神社であるが、そのことにより祭礼を持続できることとなり、この地を去った氏子諸氏が参集できることとなった。社殿が御在所山を向くという事実は旧氏子である90歳近い古老も知らないことであり、村誌等にも記されていない。この神社が江戸時代まで坐王権現を祀っていたという史実、社殿軸線が石段の向きと不自然にずれていること、これらが、この事実の発見を導いた。実に100年余も失われていた聖地の記憶である。建築がその完全な忘却を防いだ。造替後、「里の拝殿」、「森の本殿」ともに御在所山を向き、「森の本殿」では旧社殿を支え続けた礎石も存置している。これらにより、蘇った聖地への記憶が再び忘却されることはない[10]

Fig Ⅲ-[3]-14 金峯神社 移設完了後の「森の本殿」 (上)御在所山を向く (下)俯瞰全景


[1]水と土の芸術祭2012ディレクターの丹治嘉彦による要望。筆者がインド、アフリカ、ヨルダン等で貧困緩和自立支援の現場で、土嚢建築の実践を積み重ねていたことに感銘を受けたこと、土を袋につめて構築する建築である土嚢建築が「水と土」をテーマにする本芸術祭にふさわしいこと、これらがその理由であった。

[2] ニットの研究開発と製造を営む企業「ミツカワ株式会社」からの提供による。ロール状のニット素材に培養土を充填し、それを矩形の木枠につめる。ここに芝生マットを置いて養生すると芝生ブロックが形成可能となる。砂漠の緑地化(農地化)など、環境型国際協力を目的とした技術である。

[3] 井上充夫 「日本建築の空間」 鹿島出版会 1969 pp228-282

[4] 高知県香美郡土佐山田町役場編 『高知県香美郡町村誌 佐岡村』によると、江戸時代には、「ミヤノタニ」に社地があったとあるが、現在は「ミヤノニシ」に社地がある。「ミヤノタニ」はまさに水源地である。「ミヤノニシ」は、そこから徒歩5分程度の距離に位置する。

[5] 高知工科大学システム工学群建築・都市デザイン教室の国土情報処理工学研究室(高木方隆代表)による。

[6] 世界的な美術・建築紹介ウェブサイトdesignboomにおいて、movable shrineとして紹介されている。https://www.designboom.com/architecture/kikuma-watanabe-self-built-movable-shrine-kochi-mountain-japan-07-10-2017/h

[7] 沖野建築棟梁・沖野誠一氏からの紹介。同氏は土佐を代表する大工として著名である。2007年には某大手メーカーの缶コーヒーのCMに「こだわりを持って生きてきた40歳前後のオッサン」の一人として、柔道家の吉田秀彦らを含む8名に「大工棟梁」として起用されている。

[8] 高橋俊也構造建築研究所による。

[9] 高知工科大学大学院工学研究科基盤工学専攻社会システム工学コースの講義「里山工学」での2023年度活動にもとづく。同講義において「社殿移設班」が組まれ、社殿移設計画と施工計画を主導し、実践した。同班は景観デザイン研究室(重山陽一郎代表)の石川遼太郎、南部七音、深江翔希の3名で構成される。

[10] 「金峯神社」プロジェクトは、注目すべき建築として、さまざまな形で評価されている。

建築家の竹山聖は『建築設計』にて、第3回日本建築設計学会賞受賞へのコメントとして以下のように評している。「地形と架構という建築にとって最も本質的な要素に還元されたシンプルかつローコストな建築的試みだ。地域と地形と空間的物語という思想と構想の強度も秀逸、ローコストで短期間の工期も革命的である」

建築評論家の五十嵐太郎は共同通信連載『見聞録』にて「あまりにラジカルな外観だが(中略)、神社建築が発達する以前の根源的な姿のように見えるのが興味深い。改めて考えると、日本中の過疎地でも同様に、神社の維持が厳しくなっているはずだ。そうであるとすれば、分割して造替された金峯神社は、現代に対する、ひとつの解決策として重要な試みだろう」と記している。


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