香月真大の建築ノート04
湯気と銭湯― 身体と関係の建築 ―

香月真大
私が近年考え続けている建築のテーマに、「身体と関係の建築」がある。
建築について語るとき、私たちはしばしば空間について語る。平面や断面、構造や素材、光や風、あるいは都市との関係について議論する。しかし私は近年、建築の本質は空間そのものにあるのではなく、人がどのように存在し、どのような関係を結ぶのかという状態にあるのではないかと考えるようになった。
建築は人を収容するための器ではない。
建築は、人の身体や関係を生成する装置である。
人は空間の中で生きているのではなく、身体を通して空間を経験している。光を感じ、温度を感じ、音を聞き、風を受け、他者の気配を感じながら存在している。そして、その身体感覚の変化が、人と人、人と都市、人と環境との関係を変化させている。
私はそのような身体と関係の生成に着目しながら建築を考えている。
そのことを考える上で、銭湯は非常に興味深い建築である。
現代都市には数多くの公共空間が存在する。
駅前広場、公園、図書館、商業施設、オフィス、カフェ。
しかしその多くは目的によって利用される場所である。人は買い物をするために商業施設へ行き、本を読むために図書館へ行き、仕事をするためにオフィスへ向かう。
そこでは行為があらかじめ規定されている。
一方、銭湯は少し異なる。
もちろん入浴という目的は存在する。しかし銭湯で起こっていることは、単なる入浴行為ではない。
人は湯に浸かり、身体を休め、ときに会話をし、ときに何も語らずに時間を過ごす。
そこには独特の公共性が存在している。
銭湯に入ると、人は服を脱ぐ。
私たちは普段、職業や年齢、肩書き、収入、所属といった社会的属性によって他者を認識している。しかし銭湯では、その多くが一時的に後景へ退く。
経営者も会社員も学生も高齢者も、同じ湯船に浸かり、同じ環境を共有する。
もちろん差異が消えるわけではない。しかし少なくとも都市生活の中で人を分断している多くの境界は弱まる。
そこでは身体そのものが前景化する。
暑いと感じること。
冷たいと感じること。
湯が気持ち良いこと。
疲れがほぐれること。
身体感覚は、人間が共有できる最も根源的な経験の一つである。
銭湯は、その身体感覚を共有する空間なのである。
そして、その空間を特徴づけているものが湯気である。
建築では光について語られることが多い。光は空間を可視化し、陰影を生み、素材を浮かび上がらせる。
しかし銭湯においては、光だけでは空間は成立しない。
そこには湯気がある。
湯気は空間を曖昧にする。
遠くの輪郭をぼかし、視線を和らげ、人と人との距離を柔らかく変化させる。
湯気の向こうに誰かがいる。
その姿ははっきり見えない。
しかし存在は感じる。
歩く音が聞こえる。
湯をすくう音がする。
水が流れる。
気配だけが伝わってくる。
私はこの状態に建築的な価値があると考えている。
光が空間を可視化するものであるならば、湯気は存在を感じさせる媒体である。
現代社会は可視化の社会である。
人は常に見られ、評価され、分類されている。
SNSは人を数値化し、都市は監視カメラによって管理される。多くの空間は明快で、透明で、説明可能であることを求められている。
しかし銭湯の湯気は、その逆の作用を持つ。
すべてを見せるのではなく、適度に隠す。
輪郭を曖昧にする。
その曖昧さが、人と人との間に心地よい距離を生み出している。
私はこのような状態を「共在」と呼びたい。
共在とは、人と人が直接コミュニケーションを行うことではない。
同じ環境を共有し、互いの存在を感じながら、それぞれが自由に存在している状態である。
現代社会では、人との関係はしばしばコミュニケーションの量によって測られる。
しかし建築が支えてきた関係は、必ずしもそのようなものではなかった。
縁側に座る人。
路地を行き交う人。
広場に滞在する人。
共同浴場で湯に浸かる人。
そこには会話の有無を超えた関係が存在していた。
私は、建築の役割とは空間を構成することだけではなく、このような共在の環境を支えることにあると考えている。
建築は壁や屋根によって成立するのではない。
人の身体がどのように存在し、他者や環境とどのような関係を結ぶのかによって成立する。
私は近年、このような考え方を「身体と関係の建築」と呼んでいる。
銭湯はその一つの原型である。
湯気によって輪郭が曖昧になり、他者の気配が共有される。
そこでは身体が環境を感じ、その経験を通して関係が生まれる。
重要なのは建築の形態ではない。
そこにどのような身体が存在し、どのような関係が生まれているのかである。
私は建築を、人を収容する器としてではなく、人の存在のあり方を支える環境として捉えたい。
建築は個を取り巻く環境から生まれる。
そしてその環境とは、身体と関係によって形成されるものである。
湯気の中で他者の気配を感じること。
同じ環境を共有すること。
言葉にならない緩やかな関係の中に身を置くこと。
そこでは身体が環境を感じ、その経験を通して関係が生まれる。
私はそこに、身体を介して関係が生まれる建築の原型を見る。
そして私が目指しているのもまた、そのような建築である。
空間をつくることではなく、人の存在のあり方を支えること。
建築を物としてではなく、身体と関係を生成する環境として捉えること。
私はこれからも、そのような「身体と関係の建築」を考え続けていきたい。





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