ヤン・ファン・リ-ベック 01
Jan van Riebeeck
世界分割(デマルカシオン)の最前線
The Front Lines of the War to Divide the World(Demarcation)
-17世紀・オランダ・ケ-プ・バタヴィア・トンキン・出島-
-17th Century, Netherlands, Cape, Batavia, Tonkin, Japan-
世界の海をつないだ航海者たち
Navigators who connected the world’s oceans
Ⅰ リ-フデ号 1598-1600
オランダ船リ-フデde Liefde(慈愛)号が豊後の臼杵湾黒島に漂着したのは,関ヶ原の戦いの半年前,1600年4月19日(ユリウス暦,グレゴリオ暦29日,慶長5年3月16日(和暦))である。日本とオランダの歴史的出会いとして記憶される。
マゼラン海峡-マフ船団
リ-フデ号を含む5隻の船団がフレ-港(ロッテルダム)を出港したのは1598 年 6 月27日であった(図Ⅰ①)。この年,フェリペⅡ世(1527-1598)はマドリ-ド近郊のエル・エスコリアルで,そして豊臣秀吉(1537-1598)は伏見城で,その生涯を閉じた。
リ-フデ号を派遣したのは,連合オランダ東インド会社VOC(Verenigde Oost Indische Compagnie)設立(1602)以前に起業されたいわゆる先駆諸会社voorcompagnieënであった。最初の先駆会社は,9人のアムステルダムの商人が各々 1 万 2000ギルダー(グルテン)を出資して1595年に設立した遠国会社Compagnie van Verre(1595)である。遠国会社は,「旧会社Oude Compagnie」に発展統合されるが,「旧会社」は1600年までに4回の航海を試みている。さらに多くの会社が林立し,1595年から1602年に至る間に計15船団,65隻の船を東インドに送っている(Gaastra 2002)。そのひとつがリーフデ号を送ったマゼラン・ロッテルダムMagelhaensvhe・Rotterdamse会社である。出資したのは,ピーテル・ファン・デル・ハーヘンPeter van der Hagen,そして,フランドル人のヨハン・ファン・デル・フェーケンJohan van der Veekenである。先駆諸会社が送った15船団のうち帰国できなかったのは,マゼラン・ロッテルダム会社が送った西回りのこのリ-フデ号の船団だけである。ただ,5隻のうちヘローフ号は,マゼンラン海峡で引き返し,目的を果たせないまま帰国している。この船団の失敗で,マゼラン・ロッテルダム会社は破産することになる。
5隻の船団を率いた提督はジャック・マフJacques Mahu, 副提督はシモン・デ・コルデスSimon de Cordesであった。2人とも貿易商であり,マゼラン・ロッテルダム会社の株主であった。提督船はホ-プHoop(希望)号(500トン,乗組員130人)で,船倉内に,4つに分けたマゼラン海峡で組み立てる予定であった小舟ポスティヨンPostillon号を搭載していた。副提督はリ-フデ(慈愛)号(300トン,乗組員110人)の船長となった。そして,トラウTrouw(忠実)号 とブライデ・ボーツハップ Blijde Boodschap(福音)号 はそれぞれ 220 トン(乗組員86人)と 150 トン(乗組員56人)の小型船であった。さらに,夜,船尾にランプを付けて船団の先頭を走った船がヘロ-フGeloof(信仰)号(350トン,乗組員109人)である。乗組員は総計491人(異説有)であった。
リーフデ号は,この航海以前はエラスムス号として知られており,船尾には哲学者エラスムスの木像が据えられていた。現在,龍江院(栃木県佐野市)が所有している(東京国立博物館所蔵)このエラスムス像は,日本とオランダの最初の出会いとして,関西大阪万博が開催された2025年,「日蘭交流425年展」(大阪城)で展示され,その歴史的経緯についての一書が編まれている(森良和編 2025)。

| 図Ⅰ① マフ船団の出航1598年6月 ヤンセン航海記(1600)ロッテルダム海事博物館 |
エラスムスDesiderius Erasmus Roterodamus(1469(1466) ?-1536)は,ロッテルダム生れの神学者,哲学者であり,『ユートピア』(1516)を書いたトマス・モア(1478-1538)との親交が知られる。また,「95ヶ条の論題」によって宗教改革の声をあげたマルティン・ルター(1483-1564)との「自由意志」をめぐる論争でも知られる。何故,エラスムス号だったのか,何故,その名をリーフデ号に変更したのか定かではないが,船団の3つの船名は『新約聖書』のパウロの三元徳「信仰・希望・愛」から採られたとされる。ブライデ・ボーツハップ号は,以前はフライゲント・ハートFreigent Hart号(空飛ぶ心)という名前であったという。
船隊は,1577-80年にイギリス人として初めて世界周航-マゼラン(マガリャンイス)に次ぐ史上第二の世界周航(1578-80)-を達成したフランシス・ドレイクFrancis Drake(c.1543-1596),そしてまた史上第三の世界周航(1586-88)を達成したトマシ・キャヴェンディッシュThomas Cavendish(1560-92)の西回りル-ト,すなわちマゼラン海峡を抜けて北上,チリ,ペル-の海岸さらに北米のスペイン植民地を襲って略奪を繰り返した後,太平洋をわたって中国,日本,フィリピン諸島に至ったル-トを想定していた。しかし,航海の危険性,ポルトガル,スペイン,そして先住民との戦闘の危険からほとんどの乗組員には秘密にされていたという。
実は,マフ船団には一人だけキャヴェンディッシュの世界周航に参加したティモシー・ショッテンTimothy Shottenというイギリス人が水先案内人として乗船していた。ショッテンはリーフデ号で日本に漂着するウィリアム・アダムス(三浦按針)の親友であった(森良和 2014)。後に触れるが,アダムスも1588年に海軍に入隊,フランシス・ドレイクが指揮をとってスペイン無敵艦隊を破ったアルマダの海戦に参加した経験があった。マゼラン海峡を抜けた後,ふたりはリーフデ号とホープ号に分かれたが,ショッテンはホープ号とともに行方知れずとなる。
航海は,案の定,悲惨なものとなった。
このマフ船団のマゼラン海峡までの航海が詳細に後世に伝えられるのは,太平洋横断を断念して帰国したヘローフ号の航海記録が残されているからである(Wieder 1925, Barreveld 2001)。このマフ船団の航海については,他の資料も加えて三浦按針の生涯を解き明かす森良和(2020)が詳述している(「第3章 大西洋南下航海とマゼラン海峡通貨」「第4章 船隊各船の命運」「第5章 リーフデ号太平洋横断」)。
出航まもなく凪が続き,大西洋をなかなか横断できない。出航後3ヶ月経っても,カーボベルデ諸島に留まったままであった。当時の航海は,壊血病,マラリア,赤痢などの病気で病死する危険と背中合わせであった。ホープ号の乗組員の多くは熱病にかかり,提督マフ自身も含めて数人が死亡してしまう。
マフの後を継いだのは副提督コルデスで,新司令官は旗艦ホープ号の船長になった。リ-フデ号の船長となったのは,へロ-フ号の船長であったヘリット・ファン・ブーニンゲンGerrit van Beuningenである。日本に辿り着くヤコブ・ヤンツ・クワッケルナックJacob Jansz. Quaeckernaeck(?-1606)がリーフデ号の船長となるまでにはさらに曲折がある。ヘローフ号の船長となったのは,ブライデ・ボーツハップ号の船長であったゼ-バルト・デ・ヴェ-ルトSebald de Weert(1567―1603)である。ヴェールトもまた数奇な運命を辿ることになる。そして,ブライデ・ボーツハップ号の船長になったのは,ディルク・シナことディルク・ヘリッツゾ-ン・ポンプDirck Gerritsz Pomp(1544-1608)である。ポンプは,実は,1585年に日本を訪れ,8ヶ月ほど長崎で過ごしたことがあった(1585.07.31-1586.03.20)。日本を最初に訪れたオランダ人はポンプということになる。後述しよう。
マフ船団は,アフリカ西海岸に沿って航海したが,食料調達が容易ではなく,飢餓の危険があった。拠点としていたポルトガルとの戦闘も不可避であった。壊血病に罹患する乗組員も増え続けたことから,ギニア湾に回りこんで,サントメ島南に位置するアフリカの交易島アンノボン島(赤道ギニア)で補給を行った。船団が大西洋を横断したのはようやく1599年1月になってからである。そして,さらに3ヶ月,マゼラン海峡に到達したのは出航1年後の 1599 年 4 月6日であった。
マゼラン海峡は航海の最大の難所であった(図Ⅰ②)。強い向かい風,雹,雪,雨,霧のため,船団は海峡内で長い間立ち往生を余儀なくされた。4ヶ月以上航行できず,8月24日まで越冬を強いられるのである。パタゴニアの先住民(テウェルチェ族)は敵対的で,上陸すれば戦闘となった。厳しい天候と戦闘によって,約 120 名以上の乗組員が死亡した。マゼラン海峡に入るまでに既に100人以上が死亡しているから,太平洋に出た段階で,出発時の船員の4割以上が失われていたことになる。
船団が太平洋に乗り出したのは1599年9月の初頭である。しかし,激しい嵐と荒れ狂う海に巻き込まれ,船団は散り散りになってしまう。

| 図Ⅰ② マゼラン海峡 著者作製 |
ホープ号とリ-フデ号は2ヶ月後,11月初旬にサンタマリア島で再会することになるが, リーフデ号の航跡の詳細はウィリアム・アダムスの妻への手紙によって知られる(図Ⅰ②)。暴風によって南方に流された後,逆風となった南風に乗って北上,離散した場合の待合せ場所としていた南緯46度地点でホープ号を28日間待った。しかし,僚船が現れないため,サンタマリアを目指して北上,サンタマリア岬に上陸した途端,船長ヘリット・ファン・ブ-ニンゲン以下,上陸した23人全員が先住民によって惨殺されてしまう。そしてその直後,サンタマリア島に停泊していたホープ号と再会するのである。ホープ号もまた,サンタマリア島に向かう途中,モチャ島に上陸,提督シモン・デ・コルデス以下27名が先住民によって殺害されていた。リーフデ号が暴風でモチャ島上陸を断念した前日のことであった。
再会した時,リーフデ号の船員は30人,ホープ号の船員は47~48人であり,多くは衰弱しており,食糧の備蓄もせいぜい2ヶ月程度であったとされる。サンタマリア島で,両船は,先住民との抗争を援助することを条件に食糧の供給をスペイン軍から受けた。しかし,スペイン軍との一触即発の関係は明らかであった。マフ船団の目的は,そもそも南アメリカ沿岸でスペイン船そして植民拠点を襲って銀を入手,それをもとに「東インド」で香料,絹織物など商品を購入,帰国するというものであったのである。しかし,両船に海賊行為を行う力はなかった。

| 図Ⅰ③ リーフデ号の航路 著者作製 |
そこで,殺害されたコルデスに替わってホープ号の船長になったコルデス・ジュニアと上述のキャヴェンディッシュの世界周航に参加したティモシー・ショッテン,死去したブーニンゲンに替わってリーフデ号の船長になったクワッケルナックとウィリアム・アダムスの4人で協議し,乗組員を一方の船に集めることも検討したというが,結局残った乗組員およそ80名を2隻の船に分けることにした。積荷の毛織物は当初目的地としていたモルッカ諸島より中国・日本が需要があるというポンプの情報をもとに日本を目指して太平洋横断に向かうことにする(森良和 2020)。
サンタマリア島を出発したのは1599年11月27日であった。
しかし,両船は,1600 年 2 月24日,激しい嵐によって離れ離れとなった。ホープ号のその後は不明である。
一説にはハワイ諸島に辿り着いたという。はるか時代を下って1822年に,イギリス人宣教師ウィリアム・エリスは,ケアラケクア湾に白や黄色の服を着た見知らぬ7人がペンキ塗りの船に乗って現れた,彼らはハワイの女性と結婚し,ハワイ社会で高い地位を得ていることを現地の住民から聞いている。彼らがハワイ島に到着していたとすれば,彼らはジェ-ムズ・クックよりも179年前にハワイ諸島に到達していたことになる(Restarick 1927)。
リ-フデ号は,新しく船長となったクワッケルナックの指揮の下,太平洋に出て約5ヶ月,1600年4月19日,命からがら臼杵湾に辿り着いたのであった(図Ⅰ②)。
ファン・ノールト『世界一周紀行』
ホープ号,リーフデ号以外の3隻のその後の運命は以下のようであった。
ヘローフ号とトラウ号の2隻はマゼラン海峡に押し戻され,お互いを見失ってしまう。トラウ号の船長バルタサール・デ・コルデス(シモン・デ・コルデスの従弟)であったが,マゼラン海峡をなんとか抜け出て,チロエ島(チリ)に辿り着いて悪天候から逃れることができた。しかし,チロエ島の東部に砦を築いていたスペイン人と戦闘,かなりの死者を出した。難を逃れた30人弱の船員と先住民は,単独でアジアを目指し,1600年12月にモルッカ諸島のティドール島に辿り着いた。到達したのは24人,チリから連行した先住民は4人,18人はポルトガル人によってすぐさま処刑された。生き残った6人のうち5人はゴアに,1人はマニラに送られた。マニラに送られた1人は逃亡して,反スペイン勢力に合流した。ゴアに送られた5人のうち,3~4人は,捕虜交換協定によって帰国を果たしたという(Barreveld 2001)。結果的に,この3~4人は世界周航を果たしたことになる。
捕虜交換協定というけれど,国家間の公式の協定,条約が締結されたわけではない。あくまでも現場での合意であった。ポルトガルにとって,捕虜は人質であり,労働力であり,情報源である。要するに,交換可能な国家資源であった。それ故,通訳,航海士を処刑することは滅多になかった。ゴアは,捕虜の再配分拠点であり,送り先は,モルッカか,マカオか,マニラであった。ティドレはテルナテとともに香料諸島の最重要拠点である。ティドレで捕らえた捕虜は,ゴアへ送るか,マニラ経由で新大陸に送るのが基本的対応であった。
船長デ・ヴェールトが指揮するヘロ-フ(信仰)号は,最終的には帰国を決断,何の商品を持ち帰ることなく帰港することになる。上述したように,帰国したことで,ヘローフ号の航海誌によって,その航海の概要は知られる(Barreveld 2001)。デ・ヴェールトが帰国を決断するに至ったのには,乗組員の体力の消耗が激しく,太平洋横断への意欲を失い,サボタージュさらには反抗的的態度をとるものが増えていったということがある。また,船が損傷し,航行に必要な水先案内人(航海長)や船大工など熟練航海員を失ったということも大きい。
そうした中で,たまたまマゼラン海峡でオリヴィエ・ファン・ノールトOliver van Noort(1558-1627)のオランダ船隊と遭遇する。ファン・ノールトは,船大工を派遣し,ヘローフ号の損傷を修理させ,合流して航行しようとしたが,ヘローフ号がついていけない。そして,食糧を支援するほどファン・ノールト船隊に余裕はなかった。単独での航海を覚悟したヴェールトは,乗組員の体力を回復させるためにペンギン諸島でペンギン狩をしたりしている。結局,アジアへの航行する展望を失ったデ・ヴェールトは帰国を決断したのであった。
ヘローフ号は,帰路,フォークランド諸島を発見し,上陸している。1600年1月のことである。デ・ヴェールトは,フォークランド諸島の正確な測量を行なったことで歴史に名を残すことになる。ヘローフ号は,3月に赤道を通過し,6月6日にアゾーレス諸島を経由して,7月13日にフレ-港に寄港した。ヘローフ号の当初の乗組員109人のうち,帰国したのはわずか36人であった(森良和 2014)。その後,デ・ヴェールトもまた数奇な運命を辿ることになる。帰国2年後,1602年3月にVOCが設立されると,セイロンのキャンディ王国との貿易交渉に向かい,国王の逆鱗に触れて惨殺されるのである。
デ・ヴェールトがマゼラン海峡で遭遇したファン・ノールトは,もともとロッテルダムで船宿を経営していた人物であるが,デ・ヴェールト以上の名前を歴史に残すことになる。ファン・ノールトの船団は,実は,マフ船団の1週間後にオランダを発った別会社(マゼラン会社)によって計画された西回り航路でアジアを目指す船団であった。4隻からなるファン・ノールト艦隊の航海も,マゼラン海峡を抜けた段階で哨戒艇を失い,副旗艦と離れ離れになるなど多難な航海であった。しかし結果として,ファン・ノールトは,世界周航を成し遂げた初のオランダ人となり,史上4人目の船長となるのである。4人目というのは,マガリャンイス(マゼラン),ドレイク,そしてキャベンディシュに次ぐ4人目ということである。ファン・ノールト船団の副旗艦は,ティドレに辿り着いたとされるが,その後は不明である。
ファン・ノールトの旗艦モーリシャス号は,南アメリカ西海岸でスペイン船に対して略奪行為を行なったが,成果を上げることなく,太平洋を横断,フィリピンに辿り着く。マニラ湾では,スペインのガレオン船サン・ディエゴ号を沈没させたが,この海戦での船体の損傷が激しく,乗組員も激減したため,交易や海賊行為をあきらめて,喜望峰経由で帰国したのであった(クレインス,2010)。
こうして,ファン・ノールト船団も本来の目的を果たすことはなかったのであるが,特筆されるのは,この世界周航で得た情報をファン・ノールトが帰国まもなく公刊したことである。すぐさま簡易速報版が作られ,1602年にはオランダ語で刊行されるのである。その刊行とほぼ同時にフランス語版(『地球を一周した苦難の旅の記録 Description dv Penible Voyage Faict en Tovr de L’vnivers ov Globe Terrestre)が公刊され,ドイツ語版, ラテン語版も出された。アムステルダムの出版社であるコルネリス・クラエスCornelis Claeszは,リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten, 1562? – 1611)の『東方旅行記』(1596)の出版など航海記出版で知られ,高品質な図版や地図の作製技術を持ち,ヨーロッパ中に配本するという広大な販売ネットワークも有していた。すなわち,ファン・ノールトの『世界一周紀行』は,熱狂的に広く読まれるのである。1602年は,連合オランダ東インド会社VOCが設立した年である。ファン・ノールトによる世界周航は,オランダが海洋進出へと本格的に乗り出していく歴史的展開を決定づけたといってもいいのである。
日本についてもファン・ノールトがヨーロッパにもたらした情報は大きかった。ファン・ノールトのモーリシャス号は,実は,日本船と洋上で2度も遭遇しているのである。1度目は1600年12月3日で,マニラ近海を航行中に日本船を拿捕した。積荷にめぼしいものはなかったため,略奪を諦め,友好的に接することにし,日本の船長を旗艦に迎えて厚遇したというのである(図Ⅰ③ab)。

| 図Ⅰ④a 「日本の船」 ファン・ノールト『世界一周紀行』 Olivier van Noort, Oliver(1602) |
「彼は日本生まれであった。その名前はヤマシタ・シティサムンド(山下七左衛門か)と名乗っていた。彼らはポーランド人のように長い服を着ている。(貴族であった)船長の服は軽い絹からできており,様々な葉や花の模様が描かれ,とても巧みに作られている。日本人は頭を剃刀で完全に剃っているが,首のところだけはそのまま,髪を長く保っている。戦争においてはとても勇敢な民族であり,大柄である。日本では東インドで最も良い武器が作られている。例えば,刀,火縄銃,弓,矢。我々もいくつかの武器をもらった。刀はとても鋭く切れる。彼らによると,日本では一回の振りで3人の人間を切ることができ,売買の際,数人の奴隷にそれを試す。これらの刀はとても高価であり,大いに珍重されている。…日本の各国には王がいて,互いに大戦をしている。大部分の地域が一人の王の支配下となった。ポルトガル人がそこで自由に貿易を行っているが,貿易の大部分を行っているイエズス会士を除けば,彼らはそこで影響力がない。日本に住んでいるイエズス会氏は皆ポルトガル人であり,そこで多くの領主や多数の一般民衆を教皇の宗派[カトリック教]に改宗させた。というのは,彼らは日本人にもいろいろ信じ込ませているため,『小さな神』と見なされ,尊敬されており,その国の富の大半を得ている。また,イエズス会士は他の宗派が入ることを許さない。その日本人によると,王もキリスト教に改宗する見込みがある。ポルトガル人は貿易のために毎年大きな船で来航している。以前はとても大きな利益を得ていたが,現在は百パーセントの利益は得にくい。というのは,日本人は現在自分でも多くのものを作っているし,チンチェオ[常州か]の中国人も絹やあらゆる商品を積んで来航している。」(クレインス 2010)。
ファン・ノールトは自身が実際に出会った日本の船長の話や風貌を細かに記録しているのである。当時のヨーロッパにおける日本情報は,イエズス会を中心としたカトリック修道会による宣教報告が唯一であった。オランダでは,リーフデ号が日本に漂着したことは知る由もない段階で,ファン・ノールトの『世界一周紀行』は,同時代の日本の情報を逸早く伝えたのである。
2度目は1601年1月3日で,ボルネオ沖で日本船のジャンク船と出会った。船長はエマヌエル・ルイスというポルトガル人であり,長崎に住んでおり,口之津(島原)からマニラに向かったが,強風で航路を外れて航行中であった。この時,ファン・ノールトは,リーフデ号の日本漂着という情報を得ている。ただ,生存者は14人と伝えられたという(岩生 1985)。
「日本にピーテル・フル・ハーヘンの会社の大きなオランダ船が来た。その船はとても無残な状態でそこに漂着した。多くの乗組員が空腹や病気で亡くなっていたため,到着したのは25人のみであった。そのうち,さらに11人が死亡したため,最終的に14人しかしか生存しなかった。彼らが到着した場所は「豊後」と呼ばれている。それは34度40分のところに位置している。日本の王はその船をアトンザ[堺か]という他の港に移した。これは36度半に位置し,その良港で船は4つの錨を下ろしていた。さらに前述した船長によると,すべての乗組員が好きなところに自由に行くことを許されていた。彼らは好きなところに出帆するために小さな船を作ることも許されていたが,その力はなかった。これはフル・ハーヘンの会社の船の中の旗艦であると分かった。」(クレインス 2010)。
ピーテル・フル・ハーヘンというのは,マゼラン・ロッテルダム会社の出資者ピ-テル・ファン・デル・ハ-ヘンである。1600年のリーフデ号日本漂着は,驚くべき速さでヨーロッパに伝えられていたのである。
ディルク・シナ
そして,最後の一隻ブライデ・ボーツハップ(福音)号の行方である。マフ総督の死によって,先述のように,各船の船長の異動が行われるのであるが,ヘローフ号の船長となったゼ-バルト・デ・ヴェ-ルトに替わって船長となったのはディルク・ヘリッツゾ-ン・ポンプである。

| 図Ⅰ④b 「日本人図」 ファン・ノールト『世界一周紀行』 Olivier van Noort, Oliver(1602) |
ポンプは,上述のように,日本を訪れたことがあり,リーフデ号以前に日本を最初に訪れたオランダ人はポンプということになるが,オランダ(ネ-デルラント連邦共和国成立)が独立宣言をするのは1588年であり,80年戦争(1568-1648)の渦中である。周辺諸国がオランダの独立を正式に承認するのはヴェストファ-レン条約(1648)によってである。16世紀後半,ネ-デルラントは,既に,ポルトガルがアジアで入手してきた商品をヨ-ロッパに流通させる大きな役割を果たしており,ポルトガル,スペインの船隊に加わり,航海に通じたオランダ人船乗りも少なくなかった。ヨーロッパでは,北海,大西洋とヨ-ロッパ内陸部の接点に位置した港市アントウェルペン(アントワープ)が交易の中心であった。そうした中で,東アジア,マラッカ以東の情勢に最も通じて,その情報をオランダにもたらしたのはポンプであり,ディルク・シナと呼ばれる。その名は,現在のオランダ南極研究所の名ディルク・ヘリッツ研究所に残されている。
オランダ人航海者の中でよく知られるのは,上述した『東方案内記』(1596)を書いたヤン・ハイヘン・ファン・リンスホ-テンである(図Ⅰ④)。彼は,ハ-レムで生まれ,エンクハウゼンで育った。父親は船宿を経営し,貿易業者の代理店も兼ねていたから,少年のころから未知の外国への関心があったと思われる。リスボンに移住し,チャンスを得てゴア大司教の秘書としてインドに渡った(1583)。そして,ゴアに5年余り滞在,マラバ-ル海岸で胡椒貿易に携わった後,1589年1月にインドを離れ,1592年1月にリスボンに戻っている。この時,リンスホ-テンと一緒に帰国した船団の中にポンプがいた。2年もの時日を要したのは,暴風に会ってアゾーレス諸島で滞在を余儀なくされたことに加えて,スペイン無敵艦隊を破って(1588)意気上がるイギリス艦隊と私掠船の動向を窺う必要があったからである(リンスホーテン 1968 岩生成一解説)。

| 図Ⅰ⑤ リンスホーテン『東洋案内記』「アラビア,ペルシア,インド図」 |
ポンプは,1544年にエンクハウゼンに生まれた。リンスホ-テンの18歳年上であるが,同郷である。エンクハウゼンは,14世紀の半ばに自治都市となり,ニシン漁で栄える。オランダが17世紀に「近代世界システム」(I.ウォーラーステイン)の最初のヘゲモニーを握る経済基盤になったのは,航海と交易であり,またニシン漁である。オランダは,北海に面し,ライン川,マース川,スヘルダ川など大陸奥まで入り込む河川の河口が多く,海運と大陸各地をつなぐ交通網を歴史的に発達させてきたのである。エンクハウゼンは,17世紀中葉には,アムステルダムを凌ぐ港市であった。連合オランダ東インド会社VOCの6つのカーメルkamer(部屋の意,chambers,会議所)の1つが置かれる。
宗教改革は未だエンクハウゼンに及んでおらず,ポンプはカトリックとして育ち,11歳でリスボンの親戚に預けられた。ポルトガルはアヴィス朝(1385-1580)の時代である。ヨーロッパの海外進出の先鞭をつけ,トルデシーリャス条約を背景に,スペインとの世界分割(デマルカシオン)戦の最中であった。ポンプは,ポルトガルでアジア交易のための知識と技術を身につけたのでろう。オランダ人は砲手として扱われており,ポンプも当初は砲手として雇われていた。リンスホーテンは,ポンプは1588年にインドに来て20年になると書いており,それに従えば,1568年,24歳の時にゴアに渡ったと思われる(森良和 2014)。
20年に及ぶゴア滞在中のポンプの活動の詳細は定かではないが,リンスホ-テンに出会うまでに,ポルトガル船で中国・日本方面へ2度は訪問したという。1度目は不明であるが,2度目は,上述のように,砲手長として,ポルトガル船サンタクルス号で1585年7月5日にマカオを発ち,台湾海峡を抜けて,台州,双嶼島(寧波沖),そして女島(五島列島)を経由して1585年7月31日に長崎に到着したとされる。そして,7ヶ月余り滞在,1586年3月20日にマカオに向けて出航したことが記録に残されている(Boxer 1951)。
ポンプは,マカオからゴアに戻ってまもなく,上述のように,リンスホーテンとともに1589年にインドを離れ,リスボンに戻った。リンスホーテンとポンプは,帰国後,同じ年にエンクハウゼンに帰郷している。リンスホーテンが『東方案内記』を出版するのは1596年である。その日本情報(第26章 ヤパン島について)は,ポンプの他,日本を訪れたイエズス会士やポルトガル海商から得たものである。また,ポンプから聞き取った内容はルカス・ヤンスゾーン・ワーヘルナールの『航海宝鑑』(Waghernaer 1592)にも付録として収録されている(森良和 2014)。ワーヘルナールもエンクハウゼンの海図制作者で,ポンプとも親しかったとされる。
ポンプの東インドでの経験と見聞は,こうしてポルトガルからの独立を勝ち取りつつあったオランダの眼を大きく東インドへ開かせることになるが,問題は,先行するポルトガルとスペインの交易ネットワークの隙間をいかに発見するかであった。
リンスホーテンは,帰郷まもなく北方航路の探索に2度参加している。そして,ポンプに参加が求められたのが西回りのマフ船団であった。ポンプはもともとリーフデ号に乗船していたが,マフ提督死去による配置転換によってブライデ・ボーツハップ号の船長となった。リーフデ号に乗船のまま日本に辿り着けば,3度目の日本上陸を果たしたかもしれない。しかし,そうはならなかった。その経緯は以下のようである(Barreveld 2001 森良和 2014)
ブライデ・ボーツハップ号は,マゼラン海峡での強風によって船首を破損,何とか修理して太平洋には抜け出たけれど,南方へ漂流を余儀なくされた。南極のサウス・シェトランド諸島(南緯61度00分から63度37分に位置する)を目撃したとされる。現在のオランダ南極研究施設がディルク・ヘリッツ研究所と命名(2013)されたのは,この時の漂流に因んでのことである。4つの移動式コンテナ研究所は,それぞれホープ(希望),リ-フデ(慈愛),ヘル-フ(信仰),ブライデ・ボーツハップ(福音)と,この時の船団の船名に因んで名付けられている。
ブライデ・ボーツハップ号は,その後北上し,チロエ群島に立ち寄った後,食糧不足,体力消耗で,スペインが植民拠点としていたバルパライソ(チリ)に上陸,拿捕され,降伏した。乗組員は24人,歩けるものは9人にすぎなかった。ブライデ・ボーツハップ号の本体そのものは,すぐさま,6人の捕虜―内3人はカソリックで文盲―とともに,リマの外港カヤオに移送された。ポンプら18人はサンティアゴに移送され,1600年2月まで1年余り拘留されている。そしてさらにリマに移送され,3年間の捕虜生活を送る。実は,ファン・ノールトがチリ沿海で略奪行為を行った際に,捕虜となったポンプの存在を知り,捕虜交換をもちかけたが合意に至らなかった。ポンプら6人が解放されたのは1604年頃で,リスボンに帰着した。続いて8人も翌年には解放されてロッテルダムに戻った。ポンプは61歳であった。
しかし驚くべきことに,ポンプは,1606年には,VOCのカルデン船隊に乗船して,さらに東インドに向かうのである。このカルデン船隊については後述しよう。8(9)隻で構成されていたというが,1隻は「シナ号」と名づけられていたという。ただ,ポンプは航海の間に衰弱し,ほとんど盲目となり,帰国するマテーリフ船隊にその身を預けられたが,その後の消息は不明である。帰国することなく,その稀有な人生を閉じたと思われる。
生存者たち
マフ船団の他の船の乗組員の行方を見届けたところで,リーフデ号に戻ろう。
リ-フデ号の当初の乗組員は110名であったが,臼杵湾黒島に上陸した生存者の数については諸説がある。イエズス会の記録によれば,24~25人が上陸,上陸直後に2~6人が死去したという。生存者として最も著名になるウィリアム・アダムス(三浦按針)によれば,24人が辿り着いたが,翌日に3人が死亡し,さらに同じ年に病気で3人が死去したという(田中丸栄子編 2010)。アダムスによれば生存者は18人ということになる。
臼杵城主・太田一吉(?-1617)がリ-フデ号の漂着を長崎奉行・寺沢広高(1563-1633)に通報すると,寺沢広高は乗組員を拘束,積載されていた大砲,火縄銃,弾薬などを没収した上で,秀吉の家督を継いだ豊臣秀頼(1593-1615)に指示を仰いだ。秀頼はこの時7歳である。応対に当たったのは五大老首座にあった徳川家康(1542-1616)である。秀頼を支える五大老の間に対立が深まり,関ケ原の戦い(1600年10月21日)へ向かいつつあった。
豊後国臼杵は,鎌倉時代から大友氏が守護を務めてきたが,キリシタン大名大友宗麟(義鎮)(1530-87)の時代には北九州一円を支配するほどの勢力を誇った。イエズス会が最初の拠点としたのが豊後である。しかし,イエズス会に対する禁教の圧力は次第に大きくなり,豊臣秀吉がバテレン追放令を発したのは1587年であった。
そして,リ-フデ号が漂着する4年前の1596年秋,マニラからアカプルコに向かったエスパ-ニャ船サン・フェリペ号が土佐の浦戸に漂着した際には,エスパ-ニャ人フランシスコ会士4人を含む26人が処刑された(「二十六聖人殉教事件」1597年2月19日)。日本でキリスト教信仰を理由に最高権力者が処刑した最初の事例である。
ポルトガルとスペイン,イエズス会とフランチェスコ会,カトリック教会が世界分割(デマ-ケ-ション)戦を繰り広げる最前線の日本にオランダ船がたまたま辿り着いたのである。「サン・フェリペ号事件」「二十六聖人殉教事件」,そして秀吉,フェリペⅡ世の死という16世紀末の歴史の綾がある。もし秀吉が生きていたら.リーフで号の生存者たちの運命は大きく変わったかもしれない。リ-フデ号の漂着者は,1573年以降スペインがマニラを拠点としてきたことはもちろん知っていたが,「二十六聖人殉教事件」は知らなかったであろう。そして,織豊政権崩壊から徳川幕府成立の真っ只中に漂着したのがリ-フデ号である(図Ⅰ⑤)。

| 図Ⅰ⑥ リ-フデ号小型模型 ロッテルダム海事博物館 |
リ-フデ号乗組員は大阪城に護送されることになった。アダムス,サントフォ-ルト,ヤン・ヨ-ステンらを引見した徳川家康に,イエズス会の宣教師たちは,リ-フデ号を「ル-テル(ルタ-)の海賊Luthersche zeeroovers」船として,即刻処刑することを執拗に要求した。しかし,家康は,プロテスタントとカトリックの違いを理解し,むしろ,イエズス会士の激しい敵意に疑念を抱いた。そして,リ-フデ号の乗組員を江戸に招き,手厚く庇護するのである。
生存者たちは,江戸と浦賀に居住し,幕府の顧問として,通詞として,また,貿易商人として活躍することになる。大工であり鋳物職人であったピ-テル・ヤンスゾーン・ル-スは,大砲を鋳造し,新船を建造した。10月末の関ヶ原の戦いでは,リ-フデ号の弾薬を搭載した大砲と砲手が重要な役割を果たしたともされる。
リ-フデ号そのものは,日本沿岸の木材輸送に使われたが,嵐で江戸湾に打ち上げられ,修復不可能となった。リ-フデ号そのものは現存しないが,リ-フデ号の復元船が「ハウステンボス」(長崎県佐世保市)に展示されている(図Ⅰ②)。
生存者のうち名前が知られるのは,
船長ヤコブ・ヤンツ・クワッケルナック(ロッテルダム出身),
操舵手ウィリアム・アダムスWilliam Adams(1564-1620)(三浦按針)(イングランド出身),
書記メルヒオル・ファン・サントフォ-ルトMelchior van Santvoort(c.1570-1641),
ヤン・ヨ-ステン・ファン・ロ-デンステインJan Joosten van Lodensteyn (1556?-1623)(デルフト出身) ,
ヤン・コウシンセンJan Cousynsen,
ギスベルト・デ・コニングGisbert de Coning(ミッデルブルフ出身),
ヤン・アベルシュJan Abelsz.,
ヤン・ヘリッツJan Gerritsz,
ヤン・ジェイコブズ・ト-ルJan Jacobsz Tol,
ピ-テル・ヤンスゾーン・ル-スPieter Jansz. Roos(ロッテルダム出身),
ピ-テル・アドリアンツPieter Adriaensz(デルフト出身),
マイケル・フィズ・ブランケルトMichiel Physz. Blanckert(デルフト出身),
トマス・コルネリスThomas Cornelisz. (ダンケルク出身),
トマス・ヤコブ・スウェイガ-Thomas Jacob Swager,
ヤン・コルネリスJan Cornelisz.(エンクハウゼン出身),
そして,アルバルトゥス・ワウテルセンAlbartus Woutersen,ヤコブ・スワーヘルJacob Swaher,姓不明のウィレムWillem
の18名である。
ヤコブ・ヤンツ・クワッケルナック
船長であったヤコブ・ヤンツ・クワッケルナックは,上陸当時,相当衰弱しており,大阪城での家康の引見には参加できない状態であった。江戸に移された後,体調は回復し,強く帰国を希望するようになる。そして,1605(慶長10)年になって,家康がこれを許し,帰国の途に着くことになる。家康はポルトガルに替わる貿易相手を期待して,クワッケルナックにオランダ総督マウリッツ宛の親書をもたせるのである。サントフォ-ルトも同行することになった。
クワッケルナックを平戸からマレ-半島のパタニに送還したのは,松浦藩初代藩主・松浦鎮信(1549-1614)である。鎮信は,秀吉と早くから友好関係を取り結び, 豊臣政権下で一定の地位を確立し,小田原征伐(1590)には水軍を派遣している。そして,朝鮮出兵,文禄・慶長の役では,前進基地のひとつ壱岐に勝本城を築城,緒戦より7年間に渡って蔚山城の戦いなどでの抜群の戦歴で知られる。しかし,関ケ原の戦いでは家康の東軍につき,壱岐と松浦郡6万3,200石の所領を得て,鎮信は平戸藩初代藩主となっていたのであった。
パタニには,ヤコブ・ファン・ネックJacob van Neck(1564-1638)が2度目の航海(1600-1602)で商館を置いていたのであるが,クワッケルナックは,パタニで,VOCの東インド遠征艦隊提督コルネリス・マテリ-フ・デ・ヨングCornelis Matelieff de Jonge(c1569-1632)に会う。歴史の奇しき偶然というべきか,デ・ヨングはクワッケルナックの甥であった。ただ,これも運命と言うべきか,ポルトガル軍とのマラッカ沖の戦いで戦死し,帰国を果たすことはできなかったのである。
ウィリアム・アダムス
リ-フデ号の生存者の中で最もよく知られるのはウィリアム・アダムスである。アメリカのテレビ番組に与えられる2024年のエミ-賞で監督賞,主演男優賞(真田広之)など18冠,さらにゴ-ルデン・グロ-ブ賞で作品賞,主演男優賞,主演女優賞,助演男優賞4冠を受賞した『Shogun 将軍』は,ウィリアム・アダムス(三浦按針)を主人公とするジェ-ムズ・クラベルJames Clavell(1924-1994))の小説“Shogun”(1975)をもとにしている。このクラベルのフィクションに対して,『オランダの日本発見:J.クラベルの有名な小説『将軍』の裏の真実の物語』を書いたのがディック・ヤン・バレフェルト(Barreveld 2001)である。
アダムスは,イングランド南東部の生まれであるが,父親が若くして死去,ロンドンに出て船大工の親方の徒弟となった。しかし,船員だった父親の血であろうか,年季奉公を終えた1588年に海軍に入隊,フランシス・ドレイクが指揮をとってスペイン無敵艦隊を破ったアルマダの海戦に参加する。その後,海軍を離れ,航海士,船長として,様々な航海の経験を積んだ。そして,ロッテルダムのマゼラン(マガリャンイス)会社の航海士募集に志願したのであった。
リ-フデ号の生存者の中でも,徳川家康の最も覚えめでたかったのがアダムスである。その経験,知見を見抜いて,家康は,幕府の顧問格として重宝した。家康は,乗組員全員に食糧を支給することを条件に,対外政策についての助言,外国使節との対面の際の通詞に加えて,英語,天文学や航海術,それに関わる幾何学などをアダムスに教示させた。家康は,当時の世界情勢を的確に把握していたといっていい。
さらに家康は,アダムスの船大工としての経験を買い,失われたリ-フデ号に替わる帆船の建造を命じる。アダムスは,伊豆の伊東に造船ドックを造り,80トン(1604)と120トン(1607)の2隻の帆船を建造する。家康は武士の身分と三浦按針の名前を与え(1605),さらに,将軍の直臣とし,三浦郡(横須賀)に領地を与えた(1607)。「按針」とは,水先案内人の意である。
三浦按針は,平戸のオランダ商館,イギリス商館の開設に関わり,イギリス商館員として活動した。これについては後述するが,家康が1616(元和2)年に死去すると不遇となり,1620(元和6)年に平戸で死去した。その生涯については,数々の著作に委ねよう。
ヤン・ヨ-ステン
家康が,三浦按針とともに直臣としたのがヤン・ヨ-ステン・ファン・ロ-デンステインである。デルフト生れで一定の有力な家系であったとされるが,リーフで号に乗船するまでの経歴は不明である。また,マフ船団での役割もわかっていない。ただ,ヤン・ヨーステンはアダムスに次いで家康に気にいられ,厚遇された。耶楊子という日本名が与えられるが,その名は「八重洲」として東京駅南口の地名として残る。その住居は江戸城の和田倉門外の内堀端にあった。長崎にも所領を授かったとされる。按針同様,外交顧問および通詞を務め,平戸商館の開設に尽力し,朱印状を取得し,朱印船貿易に従事した。デルフト生まれのヤン・ヨ-ステンは,家康死後,帰国を希望し,バタヴィアに向かい,オランダ東インド総督に願い出たが許可を得られず断念したが,日本への帰港途中に南シナ海で船が座礁,溺死している(1623)。
サントフォ-ルト
サントフォ-ルトは,パタニにクワッケルナックと同行した後日本に戻って,貿易商として,また通詞として活躍する。マウリッツ総督の親書が届けられると(1609),アブラハム・ファン・デン・ブル-クとニコラス・ポイクの駿府参府に同行して通詞を務め,徳川家康との通商協定に立ち会っている。また,初代平戸商館長ヤックス・スペックスJacques Specx(1585-1652)の駿府参府に同行している(1611)。大坂夏の陣(1615)を契機に長崎に転居し,自らのジャンク船によって貿易商として活動した。また,平戸オランダ商館をサポ-トする大きな役割を果たした。娘イザベラは平戸商館長(第6代,1632-1633)ピ-テル・ファン・サンテン,スザンナは第7代長崎商館長ウィレム・フルステ-ヘンWillem Verstegen(c.1612- 1659)(第15代,(1646-1647)と結婚している。第一線を退いた後も長老として慕われていた。しかし,「タイオワン事件(ノイツ事件,浜田弥兵衛事件)」(オランダ領台湾長官ピ-テル・ノイツと長崎代官末次平蔵との入港船関税をめぐる紛争,1628)の影響でオランダとの交易が4年間途絶え,さらにポルトガル船の入港を禁止した第5次鎖国令(1639)によって日欧混血家族のバタヴィア追放が決定され,サントフォ-ルトも日本を離れることを余儀なくされた。ブレダ号に乗り込み,台湾に1ヶ月滞在,1640年1月1日にバタヴィアに着いたが,翌年死亡する。このブレダ号には,後に「じゃがたらお春」と呼ばれることになる,1625(寛永2)年生まれの14歳の少女がいた。父はポルトガル船の航海士であったイタリア人のニコラス・マリン,母は長崎の貿易商小柳理右衛門(築町乙名)の娘マリア(洗礼名,日本名不明)である。
リーフデ号の生存者に18人のうち到着した1600年にさらに4人死去したとされる。以上の4人以外の10人については,森良和(2014)に委ねるが,文献に表れるのはそう多くはない(Wieder 1925).上述の大工,鋳物職人として活躍したピ-テル・ヤンスゾーン・ル-スは,その後貿易商に転じたという(Murder 1985)。リーフデ号の船員たちの間でもいろいろ軋轢があったようである。アダムスは,ギスベルト・デ・コニングとヤン・アベルシュ(ヤン・アベルスゾーン・ファン・アウデワーター)をポルトガル人に協力した裏切者と書いているという(田中丸栄子編 2010)。コニングは日本人女性と結婚して,浦賀に住み,1616年に死んだという。ヤン・コウシンセンは,もともと砲手であったが,1611年に,初代オランダ商館長スペックスに帯同して,通詞として駿河に参府している。
リ-フデ号の他の乗組員たちは日本で暮らし,結局,帰国を果たしたものはいない。




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