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建築とジャーナリズムAJ研究会[1]第1回 2021年7月3日 14:00-17:00

基調報告 神子久忠 コーディネーター:布野修司:コメンテーター:斎藤公男,和田章,今村創平 記録:佐藤敏宏

建築ジャーナリズムの来し方行く末Ⅱ 

神子久忠インタビュー

アジテーターとしての編集者

◇神子久忠 略歴

1941(昭和16)年4月20日生まれ

1958(昭和33)年3月 江見町立中学校卒業(鴨川市)  

同年4月 千葉県立安房第一高等学校入学(館山市)                 

1960(昭和35)年3月 同高校卒業                  

4月 桑沢デザイン研究所プロダクトデザイン科入学

この間,幸建築研究室(構造事務所),連合設計市ヶ谷事務所でバイト。

1962(昭和36)年3月 卒業

1962(昭和37)年4月 日本大学理工学部建築学科二部入学               

1967(昭和42)年3月 同大学卒業

         同年4月 新建築社入社

1971(昭和46)年2月 同社退社

           11月 相模書房入社

1984(昭和59)年2月 同社退社(*相模書房は2015(平成27)年9月廃業)

            3月 日刊建設通信入社,

1996(平成8)年1月  同社退社

           4月  日刊建設工業新聞社入社

2009(平成21)年3月 同社退社

*新建築社に約4年,相模書房に約13年,建設通信に約12年,建設工業には約13年,退社後現在で12年。

*相模書房,建設通信,建設工業などでの出版は,別紙の通り。

神子久忠 出版に関わった本

*相模書房(増補版も含む) 

三宅理一「ドイツ建築史〈上〉」「ドイツ建築史〈下〉」/向井正也「日本建築・風景論」/丹下敏明「スペイン建築史」/郭中端・堀込憲二「中国人の街づくり」/田中清「建築設計事務所の経営」/光安義光「わすれがちな設計のポイント」/小川守之「建築家マッキントッシュ」/山本正三「ウイリアム・モリスのこと」/ウィッチャリー,小林文次訳「古代ギリシャの都市構成」/◆小林文次「日本建築図集」/小林文次「建築の誕生」/真鍋恒博「省エネルギー住宅の考え方」/山田修「わかりやすい住まいの法律」/中善寺登喜次「住まいの設計ノートから」/山本公喜「住みかえの知識」/◆髙橋林之丈「苦悩する建築設計界」/林青梧「文明開化の光と闇―建築家・下田菊太郎伝」/田中正大「日本の自然公園」/森川育造「住まいの補修と維持管理」/山野勝次「建築昆虫記」/◆向井覚「建築家吉田鉄郎とその周辺」/向井覚「建築家鉄郎とその周辺」/向井覚「建築家・岩元禄」/◆布野修司「戦後建築論ノート」→増補改訂版(れんが書房新社)/◆陣内秀信・板倉文雄「東京の町を読む」/◆佐々木宏「ル・コルビュジエ断章」/佐々木広「二十世紀の建築家たちⅠ」,「二十世紀の建築家たちⅡ」/佐々木宏「〈インターナシュナル・スタイル〉の研究」/佐々木宏「巨匠への憧憬」/佐藤京子「庭とのふれあい」/小谷喬之助「劇場物語」/エドゥアルド・トロハ「エドゥアルド・トコハの構造デザイン」/◆近江栄「光と影・蘇る近代建築史の先駆者たち」/近江栄「建築設計競技」鹿島出版会(学位論文)/近江栄「光と影」/原沢東吾「建築学入門」,原沢東吾「建築学序説」,原沢東吾「都市と建築の哲学」/◆西澤文隆小論集1「コート・ハウス論」,2「庭園論Ⅰ」,3「庭園論Ⅱ」,4「庭園論Ⅲ」/エリアス・コーネル著,宗幸彦訳「ラグナル・エストベリー」/レオナルド・ベネーヴォロ著,佐野尊彦・林寛治訳「「図集 都市の世界史」1,2,3,4巻/小野木重勝「明治洋風宮廷建築の研究」/RIA建築綜合研究所近藤正一(伊達)◆「建築家山口文象 人と作品」/横山不学「遥かなる身と心との遍歴」/前田邦江「手づくり家づくり」/遠山静雄「アドルフ・アピア」/岡島孝雄「建築経済学」/◆長谷川堯「神殿か獄舎か」,「建築―雌の視角」,「都市廻廊」/小能林宏城「建築について」/◆上松佑二「世界観としての建築」,ルドルフ・シュタイナー著,上松佑二訳「新しい建築様式への道」/◆松倉保夫「ガウディの装飾論」/松倉保夫「ガウディの設計態度」/松倉保夫「ガウディの装飾論」/砂川幸雄「現代の家づくり」/保坂陽一郎「まもりのかたち」/城戸久・高橋宏之「藩校遺構」/◆今和次郎「日本の民家」/小倉強「東北の民家探訪日誌」/小倉強「増補 東北の民家」/川島宙次「民家の画帖」/◆山本祐弘「樺太アイヌ・住居と民具」/山本祐弘「北方自然民族民話集成」/山本祐弘「北の家・南の家」/山本祐弘「インテリアと家具の歴史」/知里真志保,山本祐弘・大貫恵美子「樺太自然民族の生活」/◆池浩三「家屋文鏡の世界」/池浩三「祭儀の空間」/池浩三「住まいと匠」/須田敦夫「日本劇場史の研究」/飯田須賀斯「中国建築の日本建築に及ぼせる影響」/小林昌人・溝口歌子「民家巡礼・東日本篇」,「西日本篇」/林野全考「近畿の民家」/杉山信三「韓国の中世建築」/片桐正夫「朝鮮木造建築の研究」/田村剛「作庭記/◆野村孝文「増補 南西諸島の民家」/◆宮内康「風景を撃て 大学1970-75」/◆横山正「透視画法の眼」/中村順平「建築という芸術 上」「下」/カサネリェス著,入江正之訳「アントニオ・ガウディ」/◆水原徳言「白井晟一の建築と人」/石山修武「バラック浄土」/李家正文「トイレットで語ろう」/岡秀隆「建築デザインの論理」/◆吉阪隆正「乾燥なめくじ」/吉阪隆正「告示録」/吉阪隆正「住居学」/吉武茂介「焼きもの塗もの金もの」/田中久「裸のスウェーデン」/ピュツェップ著,田中久「手術センターの計画」/竹内芳太郎「年輪の記」/田中昌穂「家相真法秘要」/永雄五十太「さしがね入門」/津川俊夫「英和建築用語字典」/井上宇一「建築設備ポケットブック」/清田文永「空港」/佐藤武夫「公会堂建築」/広瀬考六郎「都市上下水道」/髙橋靖夫「最新透視図技法・図法編」/高野浩毅「パースで進める店舗設計」/笠原敏郎・市川清志「建築物法規概説」/田中礼治「鉄筋コンクリートの構造入門」/川原泉「建設業のTQC早わかり」/米国教育保健省公衆衛生局編・吉武泰水他訳「綜合病院の設計と構造」/石関秀穂「屎尿浄化槽設計資料集」/髙橋靖夫・高橋久美子「最新透視図技法・入門編」/福田健也・高橋久美子「スケッチパース」/小菅哲「建築マネジメント実践」/小林梅次「日本の草屋根」/◆武基雄「市民としての建築家」/◆中村順平「建築という芸術」上,下/◆岸田日出刀「岸田日出刀」上,下/五十嵐敬喜「裁かれる近代」/太田邦夫「東ヨーロッパの木造建築」/川島宙次「世界の民家・住まいの創造」/田中重光「大日本帝国の領事館建築」/馬場璋造「建築21世紀はこれからだ」/竹村真一郎「白い僧院」/

*いろいろな出版社

◆石田繁之介「三井の集会所」/石田繁之介「三井の土地と建築」(以上,日刊建設通信社)/石田繁之介「三井の建築六十年の軌跡」/石田繁之介「ジョサイア・コンドルの綱町三井倶楽部」(以上,南風舎)/◆田中孝「物語・建設省営繕史の群像」上,中,下(以上,日刊建設通信)/西澤文隆「西澤文隆の仕事Ⅰ」,「Ⅱ」,「Ⅲ」/◆「本間利雄自伝」(以上,鹿島出版会,2022年)/馬場璋造「信頼される建築家像」/馬場璋造「日本の建築スクール」(以上,王国社)/徳岡昌克「建築―ゆずり葉のデザイン」/◆佐野正一「建築家三代」/佐野正一・石田潤一郎「関西の建築」/小菅哲「建築マネジメント概論」/小菅哲「建築マネジメントの実践」/江藤静児「鉄筋混凝土にかけた生涯―阿部美樹志」(以上,日刊建設工業新聞社)/◆村野藤吾・神子共著「村野藤吾著作集全一巻」(同朋舎,現在は鹿島出版会)

◆は内容に少し触れる本。

相模書房のこと

 相模書房のオーナーは鈴木二六。1936(昭和11)年創業。箱根強羅の環翠楼のオーナーで,小田川漁業協同組合理事長をやった。鈴木家は小田原の名門で,兄の鈴木十郎は1949(昭和24)年から5期小田原市長をやった。早大中退,同人雑誌を出すなど文芸に興味があり,巌谷小波(いわや・さざなみ)と懇意だったから,初期は武田麟太郎,里見弴,野上弥栄子などの文芸書を出していた。相模書房には巌谷家・親戚の巌谷さだ子が,経理で死去するまで勤務していた。

 二六は初めて箱根・強羅温泉を探りあてた第一号。敷地,建物は岩崎弥太郎三男の別荘。本館2棟と離れ4棟。相模書房は岸田日出刀との関係(岸田を中心としたいろいろな本を出す)から,環翠楼内に本館とは別に離れ4棟をつくった。岸田に私淑した郭茂林の設計。骨太のディテールで,建築家・郭の力量がわかる。

 相模書房の初代社長は小林美一,編集は引頭百合太郎(いんどう・ゆりたろう)。引頭は岸田と懇意だった。私が入った頃は小林,引頭は老齢で,用事のある時だけきていた。

「新建築」事件で一緒に辞めた小川格は「a+u」創刊に1年関わり,私が相模書房に入った翌年(1972年)相模書房へ。退社後,1983(昭和58)年南風舎を設立。現在は顧問。したがって相模書房の仕事は,小川との共同作業である。

2代目社長(1950年)は,佐藤弘。鈴木二六は相模書房のオーナーだから,年2回,決算報告に環翠楼に招待,慰労してくれた。

相模書房は2015(平成27)年9月廃業,80年の歴史を閉じた。社屋は入舟町(八丁堀)の木造2階のしもた屋,近所に印刷屋などがあった下町。その後,再開発で一変。昔,道路向うに沖種郎の「連合設計」,いま川方向に岡部憲明の事務所がある。

いまはなくなったが,当時の印税支払いは増刷部数の印紙をもっていき,押印してもらう。500部程度が多かった。その時,増刷部数だけの現金を渡し,押印してもらった印紙を奥付に貼る。今和次郎,吉阪隆正などの本はこうしたやり方で,その場ですべて押印してくれた。

相模書房は,2015(平成27)年9月廃業。79年の幕を閉じた。入舟町の再開発に伴い,銀座・松屋百貨店裏に移転,1階と地下(地下は倉庫)。いまはホテルとなっている。廃業に際し印税未払いは,弁護士に依頼し,未払い分相当の書籍を引き取ってもらう交渉をした。大半が応じてくれた。(神子久忠)

目次

建築ジャーナリズムの来し方行く末Ⅱ… 0

神子久忠インタビュー.. 0

アジテーターとしての編集者… 0

◇神子久忠 略歴… 0

□神子久忠 出版に関わった本.. 1

□相模書房のこと.. 2

Ⅰ 疾風怒濤の建築修行… 6

桑沢デザイン研究所… 6

吉本隆明と「自立学校」… 8

幸建築研究所(室?)+連合設計室市谷建築事務所… 9

小林文次… 10

吉田鉄郎… 11

卒業論文『建築家の主体性確立のために』… 12

『週刊建設ニュース』.. 13

Ⅱ 『新建築』から相模書房,そして『日刊建設通信』『日刊建設工業新聞』へ.. 13

第二次「新建築」問題.. 14

日大全共闘… 15

長谷川堯『神殿か獄舎か』.. 17

岸田日出刀… 17

日刊建設通信・日刊建設工業… 21

Ⅲ 建築とジャーナリズム.. 22

『建築討論』… 23

建築界の閉鎖性… 25

文化欄以外は業者.. 27

発信すること… 28

隈一強現象… 28

若い世代の声… 29

外国の動向… 30

構造設計の評価―正解はひとつか?.. 31

クライアントと私有財産… 32

批評とハラスメント?.. 33

ブログの世界―閉じたコミュニティ?… 35

建築言語… 36

環境問題―エコシステム… 37

建築賞の評価… 38

ザハの遺言―新国立競技場問題から.. 39

コメント… 41

新建築問題の真相.. 41

建築界の分裂… 43

市民とアジアとの連帯.. 43

地域からの発信… 44

布野:神子さんの方から,略歴,これまで携わられた著書,さらに相模書房の歴史についてのメモを頂きました。それと「選ばれる設計者になろう 信頼されることが一番」という神子さんの文章を資料としてお配りしています。これは,神子さん自身の仕事ですが。『建築21世紀はこれからだ 編集者・写真家 三〇〇年の視点』(相模書房,2013)に書かれたものです。建築家へ向けてのアジテーションというか,激励のメッセージというか,建築家への期待が述べられています。

1981年

神子さんは,私にとって特別な編集者で,編集者のひとつのモデルなんです。というのも,僕の処女作の『戦後建築論ノート』(相模書房,1981)を書かせた編集者なんです。なんの実績もない,まだ20代だった私に,「とにかく,お前書け!」ってアジった,その編集者が神子さんです。著者が書いたものを出版社に持ち込むのが一般的なのかもしれませんが,編集者というと,著者をアジルというか,いろいろ疑問を呈したり,アドヴァイスしたり,議論のなかで共同で本をつくりあげる,そんなイメージがあります。神子さんに最初に出会った編集者だからなんですが,編集者のモデルだと今でも思います。神子さんが相模書房から,建設通信,建設工業新聞社などに移られても,私は,結構原稿を書く機会をいただきました。
 経歴見て,初めて知ったんですが,桑沢デザイン研究所におられたんですね。山田脩二さんと一緒ですか。ほぼ同じ歳ですよね。そういう事も含めまして,今日はおうかがいできればと思います。

Ⅰ 疾風怒濤の建築修行

桑沢デザイン研究所

神子:神子でございます。こういうリモートのミーティングは初めてで,緊張してます。建築とジャーナリズム研究会の第1回ということですが,これまで編集者としてわたしのやってきたことをお話してみたいと思います。 お手元に資料がいっていると思うんですが,桑沢デザイン研究所に入る前に,舘山に在る,今は安房高と言いますが,昔の安房第一高等学校,そこを出たんです。丁度,1960年の安保の直前ですね。今でも大変よく覚えてるんですが,社会科の先生がガリ版刷りで,60年安保について毎回授業で教えてくれたんです。田舎の高校ですけれども,60年安保については結構理解してたんです。

布野:神子さん,皆さんと経歴,画像共有しますか。
神子:そうしてください。安房第一高等学校を出て上京して入ったのが,今でも渋谷に在ります桑沢デザイン研究所[1]なんです。後で驚くんですけども,長谷川堯さんも同じ時期に桑沢デザインにいたんですね。
布野:一緒にいらっしゃった?
神子:学生で
布野:えー。これは初耳ですね。

神子:後から聞いて,びっくりしたんです。
布野:長谷川堯さんは,同郷なんですが,僕の一回り上です。

神子:僕より4歳位の差です。堯さんは,あちこち勉強に行ってるんです。桑沢デザイン研究所2年間だったんですが,講師陣は多士済々でした。「建築美学」は阿部公正[2],それから篠原一男,それから松村勝男(1923~1991)[3],そういう人たちが皆助手の頃です。一般教養科目なんだろうと思うんですが,教えに来ていました。その中に,村上一郎[4]という,これは評論家で,歌人ですけど,教えに来ていました。

村上一郎さんは,今でも思い出すんですが,奈良の慈光院の凄い借景の空間がありますね,奈良の盆地が見える。慈光院の話をするんです。不思議な人だなーと思いましたね,何で文科系の人が慈光院の話をするんだろうって。後で分かったんですけども,村上一郎さんは紀伊国書店の顧問だったんですね。それで紀伊国屋書店から紀伊国屋新書の最初に出したのが,篠原さんの『住宅論』(1962年,紀伊国屋書店,SD選書,1970年復刻)なんですね。村上さんが建築の話をしていたのは,どうも篠原さんのサゼッションだったんですね。
 とにかく,教師陣に錚々たるメンバーがいたんです。その村上一郎さんが,授業の中で建築の話をする中で,今度はこういう同人雑誌だしたんだ,と僕らに紹介したのが,村上一郎,谷川雁[5],吉本隆明[6]が出した『試行』[7](1961年9月創刊)という雑誌でした。1961年に出したばかりでした。僕らは意味が解りません。そこで,いろいろ教えてもらったんです。村上一郎を筆頭に,吉本隆明,・・・皆そこから付き合いが始まったんです。その頃に早稲田に…

吉本隆明と「自立学校」

布野:吉本隆明に直にいろいろ教わったんですか?

神子:もちろんです
布野:そうですか,僕は一度だけですけど,1988年頃ですが,春秋社の「東京思想論集」の企画で米沢慧さんと二人で話を聞いたことがあります。企画は,ものにはなりませんでしたけど,超有名人だったから,ちょっと気後れしたというか,緊張したことを覚えています。

神子:早稲田に,今あるかどうか分りませんが,観音寺というお寺があって,ありますか? あそこに「自立学校」[8]というのを,吉本が,谷川雁,埴谷雄高,黒田寛一らとともにつくったんです。吉本も,埴谷雄高も,『試行』のメンバーが,毎日教えてましたね。そのメンバーに教えてもらって,「ああそうか,こういう事か」と勉強したんですね。

もうひとり桑沢には高根正明(1931-1982)[9]という人がいたんですね。これも一般教養科目教えていた。清水幾太郎(190-1988)の高弟でしたね。。高根さんからも「現代思想研究会」で教えてもらいました。今のGAの在る,直ぐ後ろ,千駄ヶ谷に住んでました。そこでも勉強しましたね。建築よりかいろんなことを話しましたね。それで,結局,一番影響をその頃受けたのは吉本隆明ですね,死ぬまで追っかけをやったんですから。

出版リストに関わったいろんな本があげてあるんですが。野村孝文さんの『増補版 南西諸島の民家』がありますね。吉本の大きな柱は南島論ですから,興味を持ったんですね。
布野:『増補版 南西諸島の民家』(相模書房)は僕も買って持ってたような気がしますが,何年ですか。

神子:1961年が初版で,増補版を出したのは1976年です。
布野:沖縄については,池浩三さんの『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』(1979,相模書房)も出されてますよね。そして『家屋文鏡の世界―古代祭祀建築群の構成原理』(相模書房,1983年)はちゃんと読みました。『祭儀の空間』は,『現代思想』で書評をしています(日本建築の原像『現代思想』1979年6月,(布野修司建築論集Ⅰ収録))。東南アジアを歩き出してましたし,日本建築のルーツに興味があったんです。

1979年

神子:吉本の南島論というのは,柳田國男は暖流,黒潮を重視するんですが,吉本は日本海流を重視します。沖縄から玄界灘を抜けて,日本海に流れていく寒流ですね。それで,吉本さんが,野村孝文の『南西諸島の民家』が大変参考になったと言われたんですね。吉本の日本海重視の論拠には,和舟の問題もあります。船底が浅くって,浅瀬の港に着けるんですよね。とにかく,民家論が吉本の南島論の軸になっている。沖縄にカミアシャゲというのがありますね。それを解明するのが池浩三さんの『祭儀の空間』ですね。それは吉本の南島論につながっているんです。吉本についてそんなのを勉強していったんですね。
布野:吉本の南島論というのは,『琉球弧の喚起力と南島論』(河出書房新社,1989),『全南島論』(作品社,2016)がありますが,沖縄返還(1972年)が大きな背景にありますよね。

1983年

神子:そうです。

幸建築研究室+連合設計室市谷建築事務所

神子:戻りますと,桑沢デザイン研究所と「自立学校」に通って,埴谷とか,吉本とかいろんな先生にならったんですが,実際事務方をやったのは現代思潮社[10],今在りますかね,石井恭二が創業した,他に松田政男とか,アナーキーな連中ですね。

 そんなことをやっているうちに,バイトの方をしなくちゃいけないっていうんで,四谷三丁目にあった幸建築研究所にいくんです。所長は佐藤幸一,日大の構造出た先生ですね。構造事務所でした。全部で4,5人でしたね。日大の山岳部のメンバーでしたね。理工の山岳部じゃなくって日大の本部の山岳部のメンバー。ヒマラヤに行ったり,年中山登りばっかりしてました。金が無くなると幸建築研究所でバイトしたんです。そこに随分いまして,構造計算できないんですけども,構造の図面が描けるようになった。隣の部屋に二葉積算というのがあった。
布野:二葉積算というのは,積算事務所のパイオニアですよね。

神子:二葉積算は,社長が宮谷重雄[11]さんだったんですが,日本積算協会の最初の発起人は宮谷さんなんですね。宮谷さんは,俺が会長になるよりか,吉阪に会長になってもらえっていう感じだったから,日本積算協会の初代の会長,吉阪隆正さんじゃないでしょうかね。その後,会長になられた。

布野:しかしそれにしても,たった1,2年の間にいろんな経験をされたんですね。
神子:そうです,振り返れば,いろんな事やりましたね。
布野:僕も,大学入っていきなり全学ストライキで,鉄塔の設計とか,木造の移築とかいろんなことをやったんですが,60年安保の時はもっと凄かったような気がしますね。

神子:幸建築研究室というのは,構造事務所ですから,今でも覚えているんですが,吉村順三の同志社の宝物館,それから箱根の小涌園,などの構造をやっていました。僕が構造図持って赤坂に在った吉村順三さん所に届ける。小僧ですから,そんな事をやっていました。

市ヶ谷には,鎌倉書房という『ドレスメイキング』を出していた有名な出版社がありました。また,そのビルの中に連合設計社市谷建築事務所がありました。

布野:連合設計というと,吉田秀雄,吉田桂二さんですね。共同設計を旗印に掲げて設立されたんですよね。

神子:その頃はですね,いろんな連合設計流行ってました。・・・ねろうさんだとか,峰岸さんだとか,・・・連合という組織からをつくった,名前だと思うんですが,その一つが連合設計の市谷事務所。

神子:連合設計でも随分バイトやりました。やってみたら,やはり,デザインは出来ないんです。しかし,ドラフトマンでも設計が面白くなったんですね。面白くって,僕がやったのは,そうですねー,軽井沢の別荘とか・・・

小林文次

布野:神子さん,連合設計でのアルバイトは,日大理工に入られた後のことも含んでますか?
神子:そうですね。幸建築研究室に行ってたら,日大に関係があるから,お前行ったらどうか,という話になったんです。連合設計でもうドラフトマンとしてほぼ所員でしたから。食べるのも充分食べられたし,もうこのまま自立しようかとも思ったんですけど,日大の二部なら大丈夫だから入ればということになったんです。入ってからは,昼間はもう卒業するまで設計やってましたね。昼間はフル回転。日大は,皆さんご存知のように,近江(栄)[12]さんの研究室に入ったんです。小林文次[13]さんが教授で居ましたね,その下に近江さんが居たんです。

布野:斎藤先生,文次先生は怖かったようですね。
斎藤:凄い怖いし,お洒落だし。英語で授業やっていたね。も~情熱的でしたね。
神子:そうでしたねー,あの頃。文次さんはね,お兄さんが角田文衛[14]さんという,歴史学の大家ですから。小林文次さんは凄かったです。研究室に戻るだけでビシッとする,緊張感が走って,もう~すごい緊張感。研究者というのは,こういう事かと。片っ方の近江さんは穏やかでフランクですから,対照的でしたね。
布野:相模書房時代には,『建築の誕生』の改訂とか,『古代ギリシャの都市構成』(1980)とかぜんぶ担当されたんですね。

神子:そうなんです。中でも小林文次さんの凄いのは英文で作った「日本建築図集」ですね,英文併記の日本の本なんですが,今は大判になってます。解説が中心なんですが,独特な建物を見つけてくるmmですね。外国から来る人たちのお手本,教科書になりました。で,文次さんは増版するたんびに写真を替えるんですね。そのたんびに本人の所に行って,チェックを受けた。それが文次さんのやりかたでした。今でもその本は売っているんじゃないですか。いい本です。

布野:今でも,売っているんですか?

神子:版をかえて売っていると思います。ぜひご覧いただくといい,大正の建物はやっぱり素晴らしいなーという感じがありましたね。

吉田鉄郎

神子:近江研の話でもうひとつあるのは吉田鉄郎のことですね。近江さんは吉田鉄郎の弟子だ,最後の。日大の助教授でしたかね。鹿島建設の設計と兼務してた。吉田鉄郎さんのドイツ語の本がありますね。ドイツ語の内容はあんまり十分でなかったので,その後長谷川堯さん,大川三雄さん含め今の現役の仲間が翻訳しなおして,本になってますが,最初のは近江さんも含めてやった。吉田鉄郎さんの一番晩年の時に,自宅へ行って,一生懸命。いろんな小間使いをしてたのは矢作英雄さん。吉田鉄郎のいろんな資料を預かって来まして。それに沿ったものを建築学会の黄表紙に一杯書いてる。最後に本にまとめるんですけど。日大を辞めて,・・駅の近くにいらっしゃったんです。矢作さんが入院した時に見舞いに行ってます。娘さんがいたんですが,父が亡くなって,内容は分らないけど。これをゴミに捨てるっていう連絡があった。ゴミの収集車が何日に来るというので,慌てたんです。娘さんですから,吉田鉄郎の貴重な資料って分んなかったですね。いやーたいへんだ。すぐ止めてほしいって,直ぐ止めてもらいました。その頃吉田鉄郎の美術館,図書館でみんな動いてたんです。NTTファシリティーズの吉岡さん,今も居ると思うですが。吉岡さんが「じゃーうちが引く受けましょう」っていうんで。どうでしょうか2トントラックで2,3台有りましたね。吉田鉄郎の資料全部引き受けてくれて。・・・・っていうんで,大川さんを軸に,郵政から菅野さんに,もう大変な資料が。今その・・・の資料は・・・資料館が在ると思うんで,そこに収まっていると思う。貴重な吉田鉄郎の資料が一杯,そこに。田端・・の資料は日本で4つか5つある,そこが一番持っていると思う。吉田鉄郎さが持っていた物ですからね。そんなのが日大の,そこで有りましたね。それが・・・

卒業論文『建築家の主体性確立のために』

日大に居た時に,近江さんは建築史,ジャーナリズム研究史の看板もっていましたから,僕は,すーっとそこに入って行ったんですね。それで,研究室は面白かったんですけども,最後にどうするかと言うんで。卒論では『建築家の主体性確立のために』というのを書いたんです。その後路,主体性論が流行っていたんです。あんまり出来は良くなかったんですけど, 桜建賞をもらって,賞状を万年筆をもらいましたね。
布野:今もありますね。

神子:ありますか,そうでしょう。桜建賞ありますか~。桜建会というのがあって,斎藤(公男)先生は前会長でしたね。
神子:そうですか。建築家の主体性,主体制論については,吉本とかですね,鶴見俊輔とか,それからアナーキー系の人たちの随分影響を受けました。戦争責任論,転向論も当時流行っていました。そうした議論が卒論には集約されていて,タイトルは「建築の主体性確立のために」ですけれども。半分以上が丹下批判ですね。丹下健三の戦争責任論です。
布野:卒論ありますよね,どこかに。是非読んでみたいです。
神子:あると思いますよ・・・。後に,長谷川堯さんが『神殿か獄舎か』で丹下批判をしますね。僕にとって全く違和感が無かったし,長谷川さんの本を出していくことになるんです。後から井上章一さんが,日本の建築家はヨーロッパの建築家と違って,戦争責任を問われるような活動をしてなかったといいますよね。ああ,そういう事かなーと思いますが,そういう意味では,ヨーロッパの建築はすごいですよね。 
布野:井上章一の『アート・キッチュ・ジャパネスク-大東亜のポストモダン』(青土社,1987)(『戦時下日本の建築家―アート・キッチュ・ジャパネスク』(朝日選書, 1995年)ですね。井上章一のこの本のもとになったもは「ファシズムの空間と象徴」ⅠⅡ(『京都大学人文学報』,1982年,1982年)という論文なんです。なんで知っているかというと本人から送られてきたんです。相当,違和感をもちました。そのことを「国家とポストモダニズム建築」(『建築文化』1984年4月号)で触れたんですね。日本にはファシズム建築などない,丹下健三の「「大東亜建設記念営造計画」が社会的にになった役割は,戦争協力という点から考えれば,無視しうるものだと言える」と言い切っているんですね。日本のファシズム建築様式についてはどこにも書かれていない,実現もしていない,だからなかったというんですね。これは,長谷川堯さんとも話したことがあるんですが,「帝冠様式」といった屋根を載せるかどうかという問題が,建築家に実際に迫った問題を井上は理解していない,いまでいう忖度もあるし,特高警察,治安維持法が身近に強いた時代のプレッシャーですね。それと,実現すべきものとしてあった「近代建築」は,丹下健三の「「大東亜建設記念営造計画」によって既に乗り換えられており,モダニズム以後の建築は戦前戦後で連続しているというのも違和感のひとつですね。

『週刊建設ニュース』

神子:日大の時に,もうひとつやったのは,「週刊建設ニュース」っていう,週刊誌があったんですね,そこに「竣工5年後」という頁を編集長にもらって,近江さんとか,黒沢(隆)とか,大岡さんとか,みんなでルポして書いたんです。3年,4年書きましたね。その頃どういう訳か,分らないんですが,原稿料は手形でくれたんです。手形でくれても,どうすればいいか分らない。小林文次さんの所にいらっした助手の住谷さん,女性ですが,お茶の水の駅前のここの所に行ったら手形を割ってくれるから,そこに行きなさいと教えてくれたんです。行って手形を割ってもらって原稿料もらった。僕ら貧乏ですから,随分嬉しかったですね。

布野:『週刊建設ニュース』っていうのを知らないんですけど,どこが出していたんですか?
神子:黒沢隆が年中書いていました。
布野:黒沢さんは先輩ですか?

神子:同じ歳。
布野:同級生ですか。
神子:黒沢とは死ぬまで行き来してましたね。優秀でしたね。でも先生にならずに助手で終わっちゃっいました。惜しい男でした。
布野:誰かにいじめられたんですか?
神子:なかなか こういう形じゃ言えない
布野:斎藤先生はけっこうご存知ですよね。その雰囲気は。

斎藤:学園紛争とかそういうのありましたしね・・・

神子:一杯ありました,一つはね,黒沢が優秀だったですから,この優秀さがやっぱり,ブレーキになったかな。よく勉強してました。
斎藤:批判が多かったですね。

神子:そうです。あんなに教えることに情熱を持った人いなかったですね。

Ⅱ 『新建築』から相模書房,そして『日刊建設通信』『日刊建設工業新聞』へ

第二次「新建築」問題

布野:卒論で桜建賞獲って,1967(昭和42)年に日大を卒業,『新建築』 に入られますよね。近江栄先生の勧めですか?

神子:そうです。近江さんの推薦です。近江さん推してくれて,入れてくれたんだろうと思うんです。
布野:馬場璋造時代ですか?湯島ですね。

神子:そうです。

布野:で,1971年に,4年程で辞められますよね。日大闘争も起こり,1968年には東大が全学ストライキをやった。僕は,1968年に上京しましたので,当時の東京の雰囲気はよく知っています。
神子:新建築社に入ったんだけど,労働環境が悪かった。大変ひどくて,どうしようかって…,組合をつくった。一つは労働環境の改善,もう一つは編集権の確立ということですね。編集権の確立ということでは,川添登さんたちの第一次の新建築問題(1967年)がありますね。村野藤吾の「有楽町そごう」を批評したことに吉岡社長が激怒し,編集部員全員が解雇された事件ですね。川添さん,平良(敬一)さん,宮内(嘉久)さん,宮島さん,全員が解雇された。

その時も編集権と言っていたんですけれども,後から馬場さんにも聞くと,社長の一番の友達の村野をけなしたということと,もう一つは部数が激減したことがあるんですね。編集権以前に『新建築』はやばいっていう状況があったと馬場さんはおつしゃってました。部数減が大きな要因だというんですね。その当時,吉岡保五郎さん,創設者ですけども,湯島すぐ100mぐらいの所に住んでいらして,本が出来上がると,吉岡邸にみんな編集長以下,呼ばれまして,出来具合をチェックしてたんだそうです。

新建築に僕らが入った時も,労働環境改善と編集権の確立を同じようにいったんですけど,後々で考えてみると,すでに川添さんたちも,馬場さんたちの時も,編集権はちゃんと確立していて,経営的から圧迫されるということは無かったですよね。やっぱり部数の問題が大きい。それと,僕らのときには労働環境が大きかったですね。労働環境,ひどすぎた。それで組合をつくったんです。丁度,東大の安田講堂の時期でしたね。安田講堂のときに,たいへんな闘争をやったわけですが,新建築社には赤旗が林立しました。

布野:神子さんに聞いたんですけど,新建築問題について,内藤廣研究室で,修士論文が出てるんだそうですが,それは,第一次を扱ってるんですか。
神子:全部ですね,両方です。
布野:二次もですね。
神子:布野さんがおっしゃったように,内藤さんが東大の教授の時に,たぶん内藤さんの指導だと思う。『新建築』史ですね。川添さんぐらいからのオーラルヒストリーがベースですね。全部やってくれてました。日経BPの『日経アーキテクチャー』,『コンストラクション』かな。優秀でしたね。内藤さんに残部があったら,布野さんに送ってとメールを送ったんですけどね。
布野:まだ,受け取ってないです

神子:ただ,オーラルヒストリーというのはね,大事な第一次資料ですけれども,検証が要ります。粉飾して喋っている,自己確認,思い違い,それは大きいですね。第一次資料って面白いんですけど,そこのチェックがジャーナリズムには大事なんです。生に使えません。
布野:それけっこうポイントですね。

神子:今度の建築とジャーナリズム研究会にしても,議論を深めたらいいと思います。

日大全共闘

布野:結局4年で辞められたのはどういう経緯ですか。
神子:まあ,組合やったことでやめるんですね。その頃は全共闘の時代でしたから,みんなやってました。東大安田講堂,日大闘争もあった。磯崎さんが日大に講義しに行ったりした時期ですね。日大建築の全共闘議長は前川建築設計事務所の社長の橋本功さんですね。建築共闘の議長,闘士だったんです。
布野:日大全共闘議長は秋田明大ですね。橋本さん近江研ですか
神子:違うでしょう,設計の研究室じゃない, 
布野:前川國男先生も日大の自主ゼミに呼ばれたんでしょう。そこで,前川さんは橋本さんと知り合ったんですね。僕は,宮内嘉久さんに呼ばれたんですけれど,結局は僕が潰してしまったということになってしまってるようですが,『地平線』という雑誌を出す企画があったんです。そこで橋本さんに出会いました。最近,福井駿さんという若い京都工業繊維大学の大学院生が,『編集者宮内嘉久の思想と実践について』(2021年3月)という修士論文を書いたんです。そのためのインタビューを昨年受けて確認したんですが,1980 年に,布野修司,入之内瑛,橋本功,小柳津醇一,富永譲,武者英二,永田祐三,藤原千晴がメンバーでした。企画が破綻したのは布野と宮内が対立したからで,永田さんは,布野さんが「支援ではなく売上で運営」すべきと主張されたと見ておられます(『永田祐三の直観力』建築ジャーナル,2019 年)と聞かれたんですが,要するに,自立メディアをうたうのであれば,スポンサーを当てにするのは変だ,ということなんです。その宮内VS布野の対立に関しては,僕は当時『建築文化』1978年10月号に掲載した「自立メディア幻想の彼方に」という表題の文章に書いています。

神子:そうでしたか,
布野:神子さん,『新建築』で扱った建築で印象に残っているものはなんですか?
神子:建物ですか?一生懸命,紙面をつくろってやってましたからね。あの頃は,新左翼運動でしたから。皆さんご存知のように,東大では助手共闘があって,福田晴虔[15]さんとか横山正[16]さんとかがいました。

布野:僕は,横山さんはよく知っています。何度も飲んでいます。吉武泰水研究室の助手だった松川淳子[17]さんが同級生で,ら福田晴虔さんのこともよく聞きました。

神子:当時,いろんな交流があって,いろんなことをやってました。よその会社の団体交渉に平気で出たりね。今では考えられないですけども,三一書房とかは勝ち組になりましたね。『新建築』では仕事しないでそんなことやってました。

布野:仕事してないんじゃないですか?

神子:そうなんです。で,『新建築』止めて,実は鹿島(出版社)に決まったんです。最後の身体検査で受ければいいよと言われてたんですが,『新建築』の騒動が伝わって,駄目になるんです。後に,長谷川愛子さんにお会いしたときに,聞いたんです。
布野:『SD』,『都市住宅』の編集やったかもしれないんですね。

神子:とにかく仕事をしながら,三里塚ですとか,東京中ゲバ棒もって動いてましたから。
布野:ゲバ棒持って歩いてたんですか,『新建築』で!

神子:うん,『新建築』の中はそうではない。仕事が終わるとね。
布野:三里塚も行かれた。

神子:そうです。三里塚は鉄塔が最後だね。三里塚終わったのは。ご存知のように原っぱですから。広いんですよ。現役は元気ですから。その原っぱ,平気で駆け巡って。僕らはよたですから追いつけませんね。そんな事とか,ドキュメンタリー残ってますけどね。三里塚のもう,市街戦みたいな状況でしたね。

布野:僕は,三里塚の鉄塔の図面を描いたんですよ。松川淳子さんの指令で。1段目と2段目で角度が変わるんですが,徹夜で角度出したことを覚えています。サイン,コサイン・タンジェントの立体幾何学ですが,結構手間取った。ガセットプレートの原寸図を描いて鉄骨屋に持っていったんです。現場にも行きました。したら,担当した2段目が膨らんでるんです。間違えたかなあとびくびくしたんですが,ボルト,ナットは締まってますから,構造がおかしいんじゃないかと思いました。構造計算は誰がやったということになったんですが,早稲田のコンピューターで計算したとも聞きましたが,構造は佐久間さんということでした。

長谷川堯『神殿か獄舎か』

布野:結局,相模書房に行かれるわけですが,長谷川堯さんが絡むんですよね。桑沢デザイン研究所で既に知り合われてたんですよね。
神子:そうです。で,尭さんとは呑む(読む。呼ぶ)から何かつくろうかって。尭さん最初の本。今暁さんその手紙を持っていているんです。長文の手紙を尭さん書いて。それで,よしこれでやとうかと思った。

布野:71年11月に相模書房に入られて84年までですから…

神子:13年です。
布野:長谷川さんの『神殿か獄舎か』が出るのは1972年ですよね。これは,僕ら学生にはものすごくインパクトがありました。1972年に大学院に入って,三宅理一や杉本俊多,千葉政継なんかと「雛芥子」を結成,表現主義の映画界とか,黒テントの芝居のプロデュースとか,麿赤児の「大駱駝館」の旗揚げ前公演とか「文化活動」に戦線を転じていたんですけれど,『神殿か獄舎か』が出た直後に,話してほしいと会いに行ったんですね。新宿の「らんぶる」という茶店です。その時は,『神殿か獄舎か』を出すのに全精力使って疲れているので・・・と断られるんですけどね。
神子:

 
布野:長谷川堯さんは同郷で丁度一回り上の丑年で,その後,いろんな場面で着きあってもらいました。松江で飲んだこともあります。

岸田日出刀

神子:相模書房の本のリストは,これちょっと年代がバラバラですが・・・

布野:長谷川さんは,その後,『建築-雌の視角』(1973),『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』1975と出されるんですが,『新建築』で,『日本近代建築史再考―虚構の崩壊―』という特集を村松貞次郎,藤森照信と組んでやられますよね。

神子:その頃でしょうか,よく村松貞次郎先生のところにも行ったし,ちょうと行った時に,東北大学から来た藤森君です,紹介してくれたことがあります。

布野:僕は,太田広太郎先生の大学院の授業を一緒に受けましたよ。
神子:そうですか。
布野:学年は僕らより一つ上だったけど,一緒に大谷先生の授業とかは受けてましたね。1973~74年頃ですかね。  

神子:相模書房の本のリストがありますよね。 

布野:冒頭に三宅理一の『ドイツ建築史』上下というのがありますよね。僕らは同級生なんだけど,三宅はフランスに留学したんだけど,なんで『ドイツ建築史』書くんだ,とちょっと問題になったんですよ。同じ時期に杉本はドイツに留学したんですよ。
神子:杉本さんに怒られましたよ。

布野:杉本が『フランス建築史』書けば,なんて言っていました。僕は1976年の夏にヨーロッパに行くんです。部分的に八束さんと回ったりした,チューリッヒで会って,また,ニュールンベルクからロマンチック街道でミュンヘンまで行った珍道中でしたが,杉本にはベルリンで,三宅にはパリで会いました。杉本は,すごく歓迎してくれて,ハンス・シャローンのベルリン大劇場のカール・ベーム指揮の演奏会,それとベルリン国立美術館でのベケットの芝居のチケットを買っておいてくれたんですよ。

神子:その辺のことあんまり知らなかったんですよ。

神子:相模書房についても簡単なメモをつくりましたが,1936(昭和11)年創業でオーナーは鈴木二六。初代社長は小林美一。鈴木家は小田原の名門で,同人雑誌を出すなど文芸に興味があり,文化人だったんですね。兄は小田原市長を5期やっています。強羅の温泉を掘り当てて,今でも在りますね,箱根強羅の環翠楼のオーナー,名門ですね。そこにちょっと書いたかと思うですが,初期には武田麟太郎,里見弴,野上弥栄子などの文芸書を出していた。それと岸田日出刀さんの本を戦前からずいぶん出していました。
布野:親しかったんですね。
神子:そうなですよ。編集をやっていた引頭百合太郎が岸田と懇意だったんです。岸田さんの本をほとんど受けて来ましたね。岸田日出刀さんの本が戦前,戦中ですね,圧倒的にあります。ご存知のように,岸田さんのお弟子さんが郭茂林さんですね。霞が関ビルやったり,貿易センタービルやたりした。環翠楼に本館とは別に離れ4棟をつくったんですが,これも郭茂林の設計です。

斎藤:日大の
神子:そうです,日版の,お茶の水に日版ビル,あれも郭茂林さん。
布野:吉武研だから,郭茂林さんは知ってます。吉武さんが岸田さんの助教授になるんですが,公営住宅の51Cの設計にも郭茂林さんは関わっています。息子がほぼ同じ歳でいましたね。芦原先生のとこだったかな。

神子:郭淳さんですね。霞が関引き払って,杉並の方に行かれたんですけども。そんなことがあって。岸田日出刀という本を出し,大きな本。岸田さんのドクター論文といろんなもの,未完本です。委員長が吉武泰水さんでしたね。お金集め,全部仕切ってくれたのは,郭茂林さん。郭茂林さん優秀なひとでしたから,亡くなって台湾に台湾版と日本版の郭茂林さんの・・をつくる。僕らはみんなお手伝い。今は見られるようになったと思うんですけども。その事もあったせいか,郭茂林さんはデザインが好きで。図面よく描けたんですね。箱根の環翠楼の離れにもまだ泊まれると思うんです。とてもいい建物でしたね。

布野:編集された本のリストには,相模書房[18]以後のものも含まれていますね。

神子:◆印がついているのが,出来れば,どこかにコメント残しておきたい,そういう本ですね。相模書房は零細出版社なので,紙の質とか,斤量とか製本,全部やりました。神保町に今はまだ紙屋さんが在ります。そこに行って紙を選んだり,すぐ下に橋本製本というのがありました。職人タイプのオヤジさんでした。長谷川堯さんの三部作なんかは線香花火でつくった。基本的に編集の僕らがやって,初めにデザイナーに「こんなのはどうでしょうか」と言って,その本の装丁デザインをしてもらう。本が出来ると,今は東販,日版ありますけども,神保町の本屋さん,全部で4,5軒ありましたね。簡単なレジメを書いて,こんな本出たんですがと行くと。だいたい部数の半分くらい,3000部ぐらいですから,その半分ぐらいを取次が前渡金をくれるんです
布野:それは企画の段階ですか。
神子:いや本の見本持って行って,向こうの担当が見て決めるんです。これは力関係で今も新参の出版社はほとんど,ただ同然でもらえない。相模書房は長かったから信用はあった。みなさんご存知のように,今はどんどん本を出さないと前渡金が来ない。会社が回らない。今は猛烈に出す出版社はあんまりないですけど,自転車操業ですね。出してないと前渡金が来ないんです。
布野:増版で食べるというセンスはなかった?それも含めて自転車操業ですか?
神子:相模はそういうことはなかったですね。教科書を何点もつくって出している出版社がありますよね。会社の運転資金はそこで確保するわけです。新刊はほとんど売れません。増版を何点持っているかというのと,教科書を何点持っているか。彰国社さんは教科書をつくっている。重版をベースにして,新刊の数は押さえている。新刊の数は今でも一般書も同じかなと思うんですけど。

布野:紙屋さんとか製本屋さんが近くに居て,手作り感あるじゃないですか。だけど,最近は,製本はみんな長野だと言うんですね。ちっちゃな製本屋ではもたなくって,日本中まとめてやっているみたいなことになっている。
神子:その通り,僕の居たころにも,印刷はみんなそっちでやってました。
布野:70年代はオイルショック後みんなそうでした。
神子:そうです,今大量に機械製版ですから。本が厚かろうと,金かかろうが平気でつくっている。これは本を作り方の作業の一つですけれども。出す方のしんどさがそこに有る。だからどっちかと言うと重版で食べて頑張るか,今は教科書が駄目になっちゃいましたから。重版だけで持ちこたえないと大変だから何とか点数を稼ぐということですかね。

布野:ちょっと先走りすぎましたけど
神子:そんなことで,相模書房では沢山本を出しました。鈴木二六さんはオーナーですが,年に二回,財務報告みたいなことをするだけなんです。売り上げはどうですか,というんですが,内容にタッチはしないんです。私が入った頃は小林,引頭は老齢で,用事のある時だけきていた。結局その中で,長谷川堯さん,布野さんもそうですが。みなさんによく出会いましたね。

やっぱり今思うのは,根本にあるのは,最初の吉本隆明と鶴見俊輔,この辺の土台が僕にはベースになっていて,いつも頭にあったのは「どうすれば時代に切り結べるような本が出せるか」というのは一貫してましたね。ですから,いろいろ人の論文を,学会に行ってよく読んでましたね。要点は,時代に切り結べるもの,どういう著者をつかまえればいいのか,出した本の大半はそういう視点から作られているんです。リストに※をつけてありますが,それだけでも,充分話ができるような,思い出のある本ばっかりですね。

日刊建設通信・日刊建設工業

布野:1984年に相模書房をやめられて,その後,日刊建設通信,そして日刊建設工業新聞に移られるわけですが,相模を辞められたのは,出版社としてのある種の限界があってということですね。小川格さんさんと一緒に辞められて,小川格さんは編集事務所の南風社を設立されるわけですよね。

神子:そうです。現在は顧問ですけどね。「新建築」事件で一緒に辞めた後,「a+u」創刊に1年関わり,私が相模書房に入った翌年(1972年)に相模書房へ合流します。相模書房の仕事は,小川との共同作業なんですね。相模書房はもう辞めよう思ったのには幾つか理由はあります。一つは重版で食べる所ですから,一杯重版点数を持っている。その重版も年中部数が増えるのは厳しい。経営的にしんどくなった。それから,もう一つは執筆者がいなくなった。これも今,布野さんの最初の時は何年,20年ぐらい経ってますかね。
布野:私の『戦後建築論ノート』の頃ですか,そんなところじゃないです。1981年に出してもらったんですから,40年経っています。最初にちょっと言いましたけど,僕が東洋大に移った頃,毎週とは言いませんけれども,池袋の喫茶店に呼び出されて「お前どこまで出来た」と,それを見せると「これではだめだ」と,何か熱い指導された記憶があります。「こんな生ぬるいことを,お前は将来偉くなるかも知んないから,もう少しキツイこと書いておけ」とアジテーションですねほとんど脅しですね。俺は鮮明に覚えてますよ。すごくアジられた。だから編集者というのはアジって,執筆者を鞭打って育てるものだとずっと思っています。
神子:大変申し訳ない。
布野:その後も,日刊建設通信でも,日刊建設工業新聞でも,使って頂きました。まあまあ成長はそれなりにはしたのかなーと,思ってます。

神子:僕にとっては,布野さんは鮮烈でしたね。こういう事を書く人が,その後にどう見ても,匹敵するような執筆者いなくなっちゃた,若手で。その後,うんこれは!と思ったのは早稲田の礼仁さん。
布野:中谷礼仁。

神子:明治国家のなんとかという。
布野:『国学・明治・建築家』ですね。あれは修士論文ですね。今村創平さんは同級生ですか?

今村:先輩です。
神子:そうですか。あれ読んだ時に久々に布野さん以外の大きな筆者が出たという感じがしました。あの本を出したかったたですね。それほど布野さん以降居なくなったった。
布野:ちょっと言いすぎですね。

神子:居ないんですよ。
和田:東北大に居ますよ。

布野:五十嵐太郎ですか,どうかな。斎藤先生が建築学会長になられた時には『建築雑誌』の編集長に起用されたんですよね。

神子:建設通信というのは,業界三紙のうちの一つですね。日刊建設工業通信,日刊建設工業,こないだ廃業した日刊建設産業新聞の3つですね。日刊建設通信は,田中(ぴん)[19]さんという社会党の大ボスがつくった。今でいう二階みたいな社会党の代議士ですね。その人がつくった出版社です。その弟が田中孝,本人は代議士。弟は会社,それが建設通信ですね。建築系は強かった。田中孝『物語・建設省営繕史の群像」上,中,下を出しています。名著だと思います。建設省,今の国交省ですね。逓信省から来てから郵政へ行って,,ご存知のように郵政建築の保坂さんとか,国交省の方は・・・明治28年といっている。こっちはあれでしたね。建築が強くって。そこでずいぶん作りました。この群像は今でも,営繕部長委託して本に。凄い本だなーと思うんですけど。そんなのを作ってました。それで
布野:『建設通信』時代ですね。業界紙で,それこそ,その日その日のジャーナルのなかで,建築家とか,建築文化を扱っておられた印象があります。
神子:そうです。それをほぼやっていた。それで,ある日,ライバル紙,建設通信とは対局的な建設関係のゼネコン系の新聞,業界紙です,そこから声がかかった。今の社長・・・実はこれこれしかじか,うちは建設には強いんだけども建築の方がだめだから・・っていうんで呼ばれたんです。こっちへ来て,建設通信の方,建設工業の方,皆さん,その間に一杯取材をさせていただきました。それが大きな流れです。

布野:,建設通信に約12年,建設工業には約13年ですか,相当な人脈をお持ちですよね。退職後12年ということですが,今も現役でバリバリ仕事されています。最近も私の本の書評を送っていただきました。これ最新の建築士会連合会の機関誌ですけど,伊東豊雄インタビュー兼評論,相当な枚数書かれてる。実際に取材をされてた書かれるんですね。

神子:もっと突っ込むべき,やるべきことがまだまだあるんですね。時間はとても足りなくって・・・。

Ⅲ 建築とジャーナリズム

布野:神子さんは,プロとして,自分のことは自分でまとめるとおっしゃっていますし,さらに聞く機会はこの研究会でも設けたいと思います。今日は,A-Forumの「建築とジャーナリズム研究会」のキック・オフ・ミーティングということでので,神子さんへの質問も兼ねてですね,少し議論したいと思います。

一つはこの間,紙媒体の建築ジャーナルというか,メディアが無くなって来たということがあります。それもすでに20年近くになります。例えば『建築文化』が無くなったのは2003,4年だと思います。『SD』『都市住宅』もない。そういう問題をどう考えるかというのが一つの問題意識としてはあります。プラス,もうひとつ神子さんのようなエディターというか,そういう仕掛け人が居なくなった,ということがあります。さっき書き手が居なくなったというのと並行してると思うんですけど。そういう中で,このA-Forumのような場の意味もあるんじゃないかと思います。僕は途中から参加させてもらってるんですが,構造系の先生方の活躍見て来ています。ただ,それが上手く一般に伝わって行かないということも感じます。建築ジャーナリズムと一般ジャーナリズムがつながらない,それ以前にそういう問題があります。発信者側の問題,それを伝えるメディアの問題ですね。今日はいろんな先生がいらっしゃいます。チャット欄に是非,意見,質問を書込んでいただきたいと思います。

『建築討論』

布野:神子さんが居なくなったというのは答えにくいかもしれませんが,紙媒体メディアとそれに代わってSNSによって情報だけは得る,そういうルートが成立しているわけですけどどう考えますか。そういう時代だから『建築雑誌』もいずれ変わらざるを得ないだろうと思って,建築学会でいろんな反対はあったんですけど,『建築討論』というメディアをつくったんです。最初は学会という枠が相当議論の幅を狭めるのでは思ってたけど。辛うじてちゃんと議論できるかたちにはなったんじゃないかと思います。立ち上げには相当苦労しましたが,二代目を引継いでくれた青井哲人さんが軌道に乗せてくれました。
神子:あれは建築の何年でしたか始めたの。もう何年経ってますか
布野:和田先生と僕が,会長,副会長をやっている時に,やろうと言って
和田:2011年から2013年が任期でしたね。
神子:最初は違和感があったんですか。

布野:学会を通すときには,『建築学会』があるわけですから,その位置づけが問題になったんです。A-Forumというこの場とも関係がありますので背景を言いますと,学会というからには,その中核は,論文審査権ですね。だから,論文集委員会が一番偉い。だけど,プロフェッサー・アーキテクトというか,大学のアーキテクトを採るときに,学位論文が必要とされる。日本建築学会は,学術,技術,芸術という三位一体をうたうわけで,他の工学系学会とは違うわけです。しかし,建築学科は大抵工学系の学部に所属しますので,学位とか論文の数が問われます。斎藤先生はアーキニアリング・デザインということをずっと主張されてきていますね。首都圏でいうと横浜国立大学のYGSとか,早稲田とか,法政とか,建築家を頑張って評価しようという流れはあるんですが,文科省からのプレッシャーもあるので,学会で『建築選集』というのを作ったんですね。そこに発表したら,大学もそういうのを認めて欲しい,学会としては認めますよ,ということを進めてきた。それで,結果的には,『建築討論』ということになったんですが,これ,和田先生が主張されたんですよね。僕は『建築文化』でいいんじゃないか,彰国社に許可をもらいに行こうか,「潰れたからいいでしょう」なんて言ってたんです。それはともかく,そこに作品を一杯発表していもらって,それから建築選賞が選ばれて,さらに学会賞が選ばれる,という仕組みなら,OKということになった。メディアとして,機能するだろう。だから,編集委員会は建築学会賞と同じ構成,建築家何人,環境系何人,歴史系何人というかたちになったんです。まあ,僕はとにかく初めて,議論の記録性が大事だと言って出発したんです。
 それで2014年に1号,2号と出すんですが,WEBデザインも定まらず,記事を作るのに苦労しました。だいたい応募して来ない。一生懸命応募してくれた中に香月真大君なんかがいて,その後つきあうことになったんですが,とにかく,書評を書いたり,粗雑な記事を随分載せました。僕が3期やって,『建築雑誌』編集長経験者の青井さんが二代目で,軌道に乗せてくれたんですね。こんど,2022年1月から三代目に五十嵐太郎君のところの市川浩司君が三代目になるようです。縮めていいましたけど,そういう経緯です

神子:和田さんは,『建築討論』のほうがいいということだったんですか,

和田:最初,『建築批評』ということだった
布野:そうです。僕は『建築批評』を主張したんです。だけど批評されたらみんな応募しなくなる,ということで,『建築文化』がモデレートかなと思った。
和田:もうちょっと前向きがいいなーと
神子:そうですか,それは正解でしたね,批評よりかは討論が本来ですね。
布野:僕は実はしめしめと思って乗っかった。ディベートですからね。それはそれとして。僕は学会として,いつまでも紙媒体を維持できるかどうかは疑問だったんです。黄表紙の電子ジャーナル化は見えていましたから。論文集は来年から電子ジャーナルになりますね。そうなると,会費をとったりするのは大変ですよね。僕も編集長一回やりました,編集委員も2回ですから,結構関わってきたんです。3万部の編集長って気分よかったです。何も言われずに自由に編集できるんで。ただ,いろんな声は聞こえてきましたけどね。学会のメディアはメディアとして,ここの場ではもう少し,一般に開かれたメディのことを考えたいと思うんですね。神子さんはこの間,いろんなメディアに関われてきたわけですが,編集者としては随分いい本を作ってこられた。いい本をつくっていくというそういう方針はあると思うんですが,もうちょっと議論する場としての紙媒体雑誌はもう無理ですか,どうお考えですか。

建築界の閉鎖性

神子:少しずれるかも分らないんですが,今はどうか分りませんが,建築学会の理事会が終わったあとに,記者会見します。で,学会の先生方が並び,こちら側に記者がずーっと並ぶ。昔で言うと,大江さんとか・・・いろんな役者を呼びました。その頃は建築関係じゃなくって,一般の記者も一杯来ましたね。でもあっという間に一般の記者は来なくなった。
布野:それは何故ですか
神子:あんまり専門の事を話しているからだろうと思うんです
布野:和田先生はそれをやっておられますよね。NHKとはつながりがあって,地震とか台風で被害があると呼ばれますよね。何でそういう場がもうずーっと無いんでしょう。
神子:だぶんね,建築家とか研究者が,社会的に期待されていることに応えてないんですね。人気だけでものごとが終わっている。一般の人にはなかなか響かない。普遍性があるとか,一番大きな問題で,将来につながる,大きな問題について。まず枠を取っ払うのは,ぜひここでもやって欲しい。今でも,一般紙の文化欄には書く人がいますよ。今は朝日ですね。大西若人さんがいます
布野:朝日は大西さんが一人で書きまくってますよね
神子:前に亡くなった,松葉一清さんがいたから。唯一朝日は建築欄を今も持ってますね。
布野:大西さんに後継者いますかと言ったら,いるような,いないような返事でした。建築出身じゃないけど,興味をもっている女性がいると言ってましたけど。

神子:他の一般紙はたぶん建築に特化した人は居ませんね,美術の中の担当ですね。
布野:むかしですが,産経新聞で,50回ぐらい連載したことあるんですよ[20]。建築という欄というか頁が,一週間に一度ですが,そういう時代があった。なんでそれがなくなったのか。
神子:昔は毎日もありました。布野さんはよくやってた,共同通信でもよく書かれてた。だけど,それ昔ですよね。建築だけじゃなくって,何か変わった・・・
布野:共同通信とは,柏木博,藤森照信,布野修司,松山巌でやった「戦後と建築五〇景」という連載がきっかけですね。『建築作家の時代』(Libro,1987)にまとめられるんですが,柏木さん,松山さんは『朝日ジャーナル』で書いていたし,声がかかったんだと思います。共同通信の文化部の編集者井手和子さんと,小山鉄郎[21]さん,そして写真家の吉田敬子さんの共同作業でした。小山さんは文芸評論家として有名になりますよね。井手さんは顧問(嘱託)ですね,最近,井手さんを通じて声が掛かったのは,新国立競技場をどう思いますかといってインタビュー受けて,記事になったんですが,コロナ直前で,東京オリンピックのレガシーを問う,というシリーズでした。木造,木造と言ってますが,あれ本当に木造なんですかというのが,若い編集者の素朴な疑問でした。記者発表に行って見学もしたんだけど,あれ疑問だと。大手新聞社は,みんな木造だって書いているけども,どこが木造ですかと言うんで,いろいろ解説したんです。

神子:最近ですか,
布野:去年(2020年)2月ですね。ただしオリンピック自体があやうくなったから,どうなるかと思ってたんですが,シリーズはやったようです。共同通信はレガシーをどう考えるかをテーマニシリーズをやったみたいです。それは僕にも声が掛かったのは,井手さんが,そういう問題なら布野さんに聞きなさいと言ってくれたらしいんです。それがきっかけで井手さんとも久々会いましたが,担当した女性記者も芸能が専門で,建築はあんまりわからないということでした。やはり編集者とのつながりでしょうか。

神子:5,6年前に定年になった,共同の建築担当の人いましたね。その方と今会っていて,
布野:女性?

神子:男です。安藤忠雄さんの批判をしたりよくやってるんです。そういうような問題が現実はありますよね。窓口が無いと。
布野:僕は斎藤先生にちらっと言うんですけど,A-Forumに一般ジャーナリズムの人に来てもらったらどうか,こっちがプレゼンして,聞いてもらったらいい。
神子:そうです 是非
布野:もう一つは現役のね,新建築の編集長とか,日経アーキテクチャーの編集長とか,ここに来てもらって。一体何を考えて編集しているかっていうことを聞いたらどうか,そういう議論はぜひやってみたいなーと思うんです。そうしているうちに動きが出てくればと・・・

文化欄以外は業者

神子:構造の問題があったときは一般のレベルで扱われました。ああいう悪い例でしか扱われない。

布野:そうなんです。文化欄ではアーティストとして扱われる。それ以外の欄では全部業者です。個人名出ません。それをよく書くんですけど,その構造は全然変わらない。一体何なんだろうと思う。もっと一般的な建築についても,身近な居住環境だとか,建築をつくる楽しみとか凄く考えて教育もしているし,一生懸命やってる建築家は一杯いるんだけど,建築業者というとだいたい悪い奴というイメージがある。
神子:ましてや,今非常に盛んになっている町づくりとか,町おこしなんか,みんな建築家が関わっていないと出来ないですね。だけどもこれは誰がやったなんて出て来ないですから。話題ばっかりで,肝心の方々に取材出来てない思うんです。そういう問題,不思議ですねー。
布野:和田先生どうお考えですか,孤軍奮闘の感がありますが。和田先生はだいたいどこにいっても本音で怒るじゃないですか。なんでこんなでこんな高層つくるんだとかね。だけど,一般の理解はなかなかついてこない。みんなタワーマンションに住みたがったりする。
神子:和田先生はテレビでもよく拝見しますが,あれはこちらから出たいというんですか。向こうからですか
和田:放送局局や新聞社も事件が起きると電話かかってくる。これだけマンションが壊れましたよと,何故ですか?と聞かれる。
布野:最近のフロリダのマンション崩壊も,あれは一体なんですかね。アメリカで潰れるってこともあるんですね。
和田:京大の構造の先生に話したら「海岸だからクラックから塩分が入ってたから」というんですが,全然理由になってない。塩害で建ってるマンションは一杯在るのに・・・。
神子:いまは何か事件が起こんないと呼ばれないですね。もっとこちら側から発信できるようにならないと。

布野:建築の性能,エンジニア的なことは,誰もが関心を持つわけですよね。国交省住宅局の対応だと,建築基準法を守ってないから駄目,不十分だから駄目だということになる。基準法を強化しますということで閉じる。建築のデザインという話になると,うちは要りません,安全であればいい,金が掛かるのは要りませんということで,先に進まない,国も自治体も,住民もそういう二元的な扱いしかしない。神田先生が建築基本法制定の運動に関わっておられるのもそのことに関わるんですよね。建築に関わっているわれわれは,相当いろんな事を学んでいるし,役に立つはずなんだけど。何が悪いんですかね。

発信すること

神子:川添登さんたちが仕掛けた伝統論争の時代は,日本の文化に係わることを発信ずいぶんしているわけですね。それがなくなってきた・・『建築文化』が随分頑張ってたんですけども・・結局きちっとし評価を指針も含めて提起する人,場がなくなった。場がなくなったという前に,そういう提起をする人がいない。今や,固有名詞を出して,これがいいとか悪いとかいうことが言えなくなってきている。株主ですとか,周辺の制約は凄まじいと思います。最近は特に強いですね。
布野:こないだ僕は,隈研吾の「角川武蔵野ミュージアム」の批判を書いたんです。あれは,フェイクだって書いたんです[22]。もちろん見にいった。「新国立競技場」が隈の木造建築の到達点で,「角川武蔵野ミュージアム」が石造建築の到達点だなんてマス・メディアがいうんで,かつての虚偽構造論争をひっぱりだしてフェイクですよ,ということなんです。一般の人にとっては,一般の編集者も建築がフェイクだとかオウセンティックであるかはわからないし,建築とはそういうものだと思ってるわけですね。

神子:そのまま載りましたか。
布野:もちろん載りましたが,それがスポンサーというか,企業のウエブ・マガジンなので,前の号なんかで隈インタビューなんかやってる。真壁智治さんが仕掛けてあるスペースを乗っ取るかたちなんですが,誰が読むんだかわからない。しかし,市町村の公共建築は,今や隈,隈,隈なんですよ。特命でお願いしたい,という。なんでそうなるのか。
神子:そういう事は書けない
布野:まず書く場所がない。昔も,いろんな話があったけど,設計者選定の公正,公平なやり方を訴えるわけですが,建築家の側で,それを裏切っていくことが相変わらず少なくないんですね。
神子:ぜひここの場で,その発信をされたらいいと思うんです。それを是非・・・

隈一強現象

布野:この研究会がきちんとものを言う場に育っていけばいいと思います。

金田:南に行っても北に行ってもこれあの人だと分かるような建築がありますね。隈さんの建築もそんな感じになりつつありますね。沖縄でやったのはこうで,四国はこうで・・そんなこと書きにくいですか。

布野:事実だから書けばいいと思いますけが,安藤さんもそんな時代がありましたね。打ち放しコンクリートの安藤もどきが日本中に出来たじゃないですか。それは安藤さんそのものかと言うと,必ずしもそうでもない。みんなが真似した。真似する方の問題も書くべきですね。今も隈さんの木をぺたぺた貼ればいいんだ,みたいなのをみんながやるかもしれない。そういうレベルでしか,一般的には扱われないのが日本の建築文化の水準なんですね。
金田:うちの町にも美空ひばり来ました,という感じですね。
布野:今の隈現象にはそういうところがある。隈現象に限らず,議論すべきことはいろいろありますので,そうした議論を記録に残していきたいですね。

神子:そうですね。『新建築』の月評で宮脇壇さんなかが猛烈な批評をしてましたね。
布野:言いたいことを書いた。

神子:すごいですよ,こういうことが言えるのか,今読んでもびっくりしますね。
布野:月評についてはね,誰も知らないと思いますが,僕もやったことがあるんです。こんどその頃のことを振り返ってみようと思ってるんですが,中谷正人の仕掛けなんですけど,ペンネームで1年やったことがあるんです。調べたら79年だったんですけど,谺炎造,矢田洋,流主水という3人です。谺炎造というのが向井正也先生,矢田洋さんは有名な山口昌伴さん,そして,流主水,ル・モンドというのは,僕と,中谷正人(『新建築』),野崎正之(『建築文化』),川床優(『ジャパン・インテリア』)の4人なんです。要するに,自分の雑誌を超えて議論したんですね。今はどうか知りませんが,月評は紙面だけで批評するんですね。刷り上がったほやほやの『新建築』を中谷がもってきて,飲みながら,何だこりゃとか,これいいね,などと言いながら,今月はお前が書けといった調子でした。

神子:そうですか。

布野:とにかく制約なく議論が出来ないかなーと思うんですけど。

若い世代の声

今村:『新建築』の月評ですと,ザハの新国立競技場問題で凄く議論が盛り上がりました。槇先生が出て来て大きな声を上げられたわけですが,ある意味ではそれは凄く正しかったと思います。新建築の月評では浅古さんという若手の方が,ぜんぶキチンと批判していました。論理的に。槇先生ってここは正しいけど,ここはどうかと。例えば,ザハは世界中で作って,形をばらまいているというけれど,そんな根拠はどこにある。ザハだって一生懸命つくっていてて,槇先生・・・そんなこと単純な言いがかりにすぎないと・・・。
布野:そういうのをやるべきだ。
今村:新建築に書いて,新建築はそれを載せてますから。書く人間の意識が問題ですね。昔は出来たとかって言ってしまうと,もったいないなーと思います。

神子:なるほど。
今村:若い,そういう人もいるということなんです。私もこの研究会に誘っていただいて有難いんですが,年長の人が多くって,もっと若い方がいればね,どうしようかなーと思うんです。
布野:若い人は忙しいんですね。ここにきている種田元晴くんなんかと何か新しいメディアをつくろうと集まり出したんだけど,話を聞くと,ものすごく忙しい。今,大学は大変なんですよね。僕もまだ大学にいるから,とにかくやることが多い。今村さんは閑とは言わないけど,現役だけど,JIAの編集もやられてたでしょう。そういう意味でメディアについても,意識がある。,
今村:うれしいです。私は89年に大学を出たので,その頃は『SD』も『都市住宅』もみんな読んでいたのが,90年代にばーっと無くなった。建築雑誌がなくなると,学生の時はたくさん夢中になって読んだことを,懐かしく思います。分るんですけど。一方で私もそうですけど,学生と話していると,何で60年代,70年代にあんなに議論があったかを理解するのが難しい。凄く入り難いのが政治です。今日,神子さんの原点として,吉本隆明,鶴見俊輔という話になってましたけど,私は知っている方かもしれない。鶴見俊輔、良行の兄弟,『思想の科学』,その頃すごかったと言われても,われわれは単純には入っていけない。逆に僕が若い世代と議論しようとすると,学生はなんで革命だとか,なんで批判しないといけないのか,と言われると,ずれがある。彼らも問題意識も持っていますし,議論がきらいということでもない。このずれをどうすればいいのというか問題意識があります。

外国の動向

 外国でも同じような歴史があります。外国の建築ジャーナリズムもすごく豊かで活発でした。60年代,70年代に沢山出ていました。建築界でも同人誌,リトルマガジンなど若者が主体に発信しました。そして、レイナー・バンハムにしても,セドリック・プライスも一般紙にも書いていました。左翼系のニュースサイトにアーキグラムなどがガンガン書いています。しかし,1968まで盛り上がってリトルマガジーンなどはザーッと消えていった。似てると思います。

布野:グローバルな視点も必要ということですね。建築家のポジション,建築の社会における位置づけが相当違うといのは感じますよね。要するにヨーロッパ社会における建築あるいは建築家というのはなんとなく尊敬されている雰囲気がある。実態はどうか,,建築メディア,編集者はどう機能しているか,興味深い。建築家界の問題,建設業界の問題については,安藤(正雄)先生中心にAB研究会で何回かテーマにしてきたんですが,かなり似た同じような問題があるような気がしないでもない。設計と生産,デザインビルドの問題といったレベルで比較して議論してますけど。逆に日本の問題を発信していくような事も考えもいけないのかも知れませんね。今村先生もコア・メンバーとして,もっと若手をインバイトしてもらえればと思います。

構造設計の評価―正解はひとつか?

布野:ZOOM参加ですが,A-Forumのコア・メンバーである神田先生お願いできますか。
神田:はい,今日お話を聞いてて,どんなことを話ができるかなーと思ったんですけど,僕が建築学会で,布野さんなんかも一緒に,『建築雑誌』の編集をやっていたときに,「構造パースペクティブ」というシリーズ企画をつくったんですね。僕はそこで,本当は構造設計についても,お前の方がちょっと間違っている,というような設計の議論ができるといいかなーと思ってたんです。そういう欄を24回連載したんです。その時思ったのはいわゆる建築の意匠の分野では,あんなのおかしい俺の方がいいみたいな議論がそれなりにできるのに,構造っていうのはそういうのがないんですね。なんとなく,構造設計って正解が一つあって終わり,みたいな,そんな感じがあるんですね。結局,なかなか上手く出来なかったんですけど,人のやっている事に対して,注文する,これはおかしいって言うと,あとで何となくシコリが残ることを心良しとしないんですね。今は,その傾向がもっともっと凄く強くなっているような気がするんですよね
 今チャットに書いたのは。姉歯(耐震偽装問題)の時もそうなんですけど,構造としてどこに問題があるのかという議論にはなかなかならない。法律を守っていないからこれは駄目だと。だから,責任とらせろ,賠償しろ,というお金の問題になって最後は議論が終ってしまう。構造技術者が必ずそこには絡んでいるはずなんだけど,その人がどういう考え方でそういう設計をしたのか,そういう議論にまったくならない。なるべくそういう議論もやらないようにしようみたいな。雰囲気が凄く感じられるんですね。

建築学会の中もどちらかと言うとそういう状況があるんじゃないかなー。要するに,個人と個人が批判し合うというような事になると,あとあとなんとなく顔を合わせにくいとかね,そういうような状況になってしまう。討論が下手というか,本来討論をしてそこから何か生み出されることに討論の価値がある,学術なんて本来そうだろうと思うし。技術だってそういうようなことが凄くあると思うんです。何か社会がそういうものを良しとしない。学会は本来そういう事を一番やらなきゃいけないところなのにやっていない,そんなところがあると思うんです。広い意味ではメディアということだと思うんです。この研究会が突破口になるといいなーと思いました。

クライアントと私有財産

布野:もうひとつ大きな問題は,建築が建築家というか設計者だけのものではないという,ところが本質的にありますね。建築は集団の作品であって,基本的にはクライアントのものですよね。建築家の古典的理念として,クライアントと社会の間に立って,第三者として,公共のための建築を設計するというのがあるんですが,「公共建築」の場合はともかく,民間の場合は,実態は業者ですよね。クライアントの要求には逆らえない。要するにクライアントがいて,設計がある。文学や美術,個人の作品を自由に批評するのとは違う。
神田:そうですね
布野:クライアントが順法精神をもたないと違反建築を強いられたりする。さすがにそれはやらないにしても,建築基準法とかその他法令の隙間というか,ギリギリの線で容積を最大化するとか,通常の業務としてやりますよね。
神田:そういう意味で,建築基準法というのは,基本的に建築を私有財産として位置づけている。それがもの凄く強い。我々が建築基本法の基本とするのは,建築は本来社会資産だということですね。それを前提として,その空間を占有するということは社会にとってどういう意味があるのか,という観点からルールをつくるということですね。もちろん,個人に財産権はある,しかし,社会的空間の構成要素として,その人の全て自由という訳ではないという認識が必要なんですね。それには教育の問題もある。

布野:それはその通りです。景観の問題に随分かかわってきて『景観の作法 殺風景の日本』(2015)という本を描いたんですが,私権の制限は実際には相当難しい。景観法はうまくできていて,いろんな仕組みが活用できるんです。しかし,景観形成地区とか景観保存地区とかを決めて私権を法的根拠をもって制限するとなると,線が引けなくなる。線を引かなければいいんですけど,要するにすべて地区が美しくあるべきということですが,じゃー委員会つくってある地域のこういう景観は推奨ですよ。これは×ですよ,みたいな議論をしていると,×の事例は出せません,となる。僕は,当面,景観条例と景観法を併用していけばいいと思っているんですけどね。

神田:そういう意味では,公共建築とか,それから再開発なんか特にそうだと思うけど,もっと議論できる場をつくる必要がありますね。

布野:もうひとつチャットに書き込みがあります。湯本先生ですが,4時に退出しますということで既に退出されてますので,読みますと,「建築の在り方を主に設計の動向を中心に批評しながら何かしらの方向付け,影響を与えてきた建築ジャーナルというのがほぼ全く見えなくなって久しくなることを,私も正しい姿勢の保ち方を支えてくる伴奏者として消えてしまうことを・・・」。これ長いなー,丸がない。「この研究会には期待します。まだなかなか本題に入らないのは残念ですが。建築の本質を鍛えてくれる,なくてはならない一要素として建築ジャーナリズムが今後どのように,存在するか。具体的な補足も合わせて議論され教えていただければと思います。申し訳ありません・・」ということです。

批評とハラスメント?

布野:種田君が若手としてきているから,一言喋ってくれる。

種田:種田といいます。布野先生とはいつも,いつもと言うか,この会の立ち上げの前にも,これから建築ジャーナリズムがどうなっていくのか考えないといけないね,という話をいただいてるんですが。なかなか動きが鈍くって,お手伝いが出来なくて申し訳ないんですけども・・・。さっきからお話聞いていて思ったのは。僕自身,文化学院大学で教師をやっているんですが,学生に対して,厳しく指導するとハラスメントになっちゃう,という事があります。そういう事と批評するという事が出来ないのがどうも親和性があるような気がします。誰かが嫌な思いをすることはあんまり美しくないということが,そういう風潮がどうもあるんですね。

布野:我がままやったのは駄目というのは当然じゃない。
種田:どうやって怒るかというのにとまどいがあるんですね。簡単に批評できなくって,批評する前に,そのための技術を相当積み重ねないと人のことは喋れない。
布野:だけど教師ってそれを教えるんじゃないの。批評がないといい建築も生まれないんじゃないの?

種田:教師は批評精神を備えてなければならない。だから教師たちがむしろ批評されることを恐れてはいけないと思いつつ,どうやって学生たちを押えるかと言うのは常に悩ましいなと思う。学生の言っていることは間違っていても,おまえもっとこうしなきゃおかしいだろうと思っても,おかしいだろうとは言えない。おかしいだろうという言い方はできない,どういうふうな言い方をするか,選ばなきゃいけない・・・
布野:おかしいのはおかしいと言うべき,僕なんか罵倒したり,ほとんどハラスメントし続けたことになるね。でも30人ぐらい教師が育ったよ。怒鳴ってただけだけどね。確かに,最近の若い先生は,講評なんかでも褒め上手だよね。みんな滔滔とよく褒める。
種田:そういうやり方しないと,他の人と比較しながら,どこがいいかという議論はできるけど,何が間違っているかとは議論しにくい。そういう場で。どうやったらいいのかちょっと悩ましい。

布野:褒め殺しというのもある。植田実さんなんか褒め上手でしたよ。僕なんかがこんなのよく褒めるなあ,と思った作品でも,どこかいいところがないかと探して褒める。褒め方の差異で,それはそれで伝わることはある。植田実さんも,採点という場面になると,結構ばっさばっさと厳しかったですよ。種田君は建築の基礎教育に興味があるわけでしょう。基礎が間違っていたら,まずいよね。
種田:はっきり教えるものが決まっていれば,教えられるかもしれない。だけど建築がどうあるべきかというと答えが一つで決まらないものにはなかなか難しい。主義主張のぶつかり合い
布野:コンペの審査なんか考えてみればわかると思うけど,批評言語を鍛えておかないと勝てないよね。40年ぐらい教師やっているけどね,ポストモダンが出てきて,教師が自信なくなったということがある。これもあり,これもありみたいな,状況になった。僕らは,芦原義信先生に習った。最初の課題は美術館だったんですけど,まず,6m置きに柱を建てろ,梁背はスパンの10分の1,柱梁をグリッドに建てておいて,床のレヴェル,光の入れ方,つまり開口部それを考えて,動線を考える・・・という調子でした。まあ,芦原流の近代建築手法の手ほどき受けてきたんですが。これ面白くないってポストモダンが出てきた,我々の世代からザハみたいなのが出るわけです。これ悪いといえない。構造の先生に聞いても,それはなんでも出来るよと言う。

ブログの世界―閉じたコミュニティ?

種田:今は,各自で自由にブログで言いたいことを書けるわけじゃないですか。そうすると各自で,みんなが批評家になって,それぞれで言いたいことを言っていると思うんですよ。
布野: 140字で批評ならないんじゃない。
種田:140字じゃなくって,ノートNoteとかいろんな頁を持っていて,人気の記事はお金を払ってくれる時代なんです。それが権威ある媒体が無くっても人気の書き手はそれだけで,個人でやれる。そうすると,何か権威があって場を作ってそこで議論しようというような場になると,その集団のスタンスが問われるとか問題になってきて。色々足枷手枷になるだけだと思っている人もいるんじゃないか。だから,批評がまったく無いわけじゃなくって,分散して一杯あって,総じて建築界全体でこうありますって,動きをまとめてないだけなのかもしれない。僕らがやることかもしれない。

神子:批評は分散して一杯あるんですか?

今村:ある程度あると思います。ただ一方で不便なのは,それが一定のコミュニティ内に閉じていることですね。例えば,アウレル・シュナベルという凄い優れた世界でも何本指に入る優れた書き手がいるんですが,彼の本『パンデミック後の建築における意味の構築』がちょっと前に刊行されたんです。その本について,すごい理論書なんですが,全部きちんと読んで,大学院生がノートNoteに書いている。本当に力がある。僕は知らなかったんですが,学生たちはアウレル・シュナベルに興味あってみな知っているんです。彼のノートNoteは凄いんですが,依頼されて書いているんではなくって,書きたい事を書くということで自由に書いている。私もアウレルに興味あると公言している割にはそのことを知らなかった。結構,ちっちゃなバブルみたいな集まりがいくつかある。そこにうまく入ると分るんだけど,そうじゃないと全然知らない。
 今の若い人たちは,自分の知りたいことはよく知っている,反面,それ以外には興味をむけない。SNS自体が知りたいこと以外に入りにくいシステムになっている。自分の興味あるものを検索すると,それと関連ありそうなサイトにのみ誘導される。幅広くいろんなものを探しにくいという問題があります。

要するに共通の情報基盤がない。僕が建築をやりたいと思った頃は,みんな『新建築』とか読んでいる,最新号はだいたい見てるから,話が通じるんですけど,今なんか全然通じない。最新の情報に興味ないし,最新号読んでない。そもそもそういう建築雑誌が無くなったんですけどね。

講評会とかで,例えばキンベル美術館といっても知らない人がいるから,先生方ばかりで話をしても通じない。そういう言い方だとまずいかな。僕なんか古いなーと思うんですが,日本ではジャーナルたくさんあって,それを,みんながむさぼるように読んでいる,一つのコミュニティと称するんですね。そういうことは外国にはない。そんな熱い知識でつながっている。それがあるがために,逆に,そうじゃない人は批判ができない。社会とつながってないということがあります。

建築界の人間はすごいたくさん知識もって議論しているつもりなんだけど伝わっていない。自分たちのコミュニティではすごい議論をしているんだけど社会に伝わらない。30ぐらいたくさんメディアがあった時代というのが,ユートピア的に,何かあれすごいなーという反面,あれは一回解体されたことがけっこう幸せというか。解体されないと次出て来ないんじゃないか。もしあれが全部続いていたら,お宅世代とかに継がれていったかもしれない。それこそ社会と関係ない,閉じた議論ばっかりが行われている。
布野:誰でも勝手に自由に書いているんだからいいじゃないか,というけれど,誰も読んでないかもしれない。批評しているというけれど,誰も受け止めていないかもしれない。ものすごい議論をしているんだけど,オタク的コミュニティの中でのみ閉じているかもしれない。建築界そのものがそういう閉じたコミュニティになっているということですね。

建築言語

布野:若い建築家は経験してないからわからないと思うんですが,建築界の閉鎖性を否応なく意識させられるのは,コンペの審査員をやるときですね。建築界のボキャブラリーが通じない。それは,建築界で用いられている,建築教育のなかで使われてきているボキャブラリーですよ。設計製図や卒業設計の講評会で飛び交っている用語です。建築設計にとって言語はものすごく大事です。ロジカルに建築を組み立てるために言語は不可欠です。ただ,言語が非常に感覚的に使われることが多い。最新の哲学用語を使ったりするんだけど意味がわからない,理解していない。あるいは,実にイージーに使われる場合が多い。こういう広場をつくればコミュニティが生まれます,などという。建築言語を研ぎ澄ますのはいいんだけど,その言語が一般の人には伝わんない。批評言語の問題でもありますよね。

本来,建築のトレーニングを受けた人間は複雑な問題をひとつにまとめあげるのが得意な筈です。だから,自治体に建築を学んだひとがもっと沢山いればいい。実際,多くが公務員になっています。巽和夫[23]先生は,「行政建築家」という概念を主張されてきました。首長さんが建築の世界を理解してくれていればラッキーですね。安藤先生や僕の同級生なんですが,長岡市長をやった森民夫は,隈研吾と組んで「アオーレ長岡」はじめいろいろな施策を展開するんですが,自分は建築計画を学んだ,企画力が大事なんだ,とここのA-Forumで言ってました。しかし,営繕にもあんまり建築出身の人が居なくなっている。

そこで,編集者がそのギャップを埋めるような仕事をするケースがありますよね。神子さんもたぶんそういう仕事されている。例えば,中谷正人は,何やったかと言うと,地方の建築家に視点をおいて「土佐派の家」をプロデュースしたんですね,さらにまちづくりのコーディネーターのようなことを続けてますね。馬場章造さんも「建築情報研究所」をつくって,コンペを組織して,審査委員長を務めてきていますね。

環境問題―エコシステム

今村:学生たちは,彼らはいろんな授業を聞いて,設計の講評会に参加するんですが,あまり最新の建築に興味がないといったんですが,環境問題というと凄い敏感ですね。僕たちが学生の頃より,関心が高い。
布野:グローバルには,グレタ・トゥンベル・インパクトかな?
今村:彼らの感覚はものすごく健全ですよね。彼らはボランティアもすごく自然にやる。阪神淡路大震災以降と言われてますけど。自然災害の問題にもみんな関心があるし,反応が返ってきますよね。

安藤:今村さんの方からお話をうかがっていて,エコシステムという言葉が思い浮かんだんですね。生態系。クリエーティブな人たち,それはグローバルに国境超えてエコシステムでつながっている処がありますね。建築もたぶん似たようなものです。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が特にそうなっているんですね。日本は,日本語の限界もあってエコシステムとして閉じている。昔で言うとね,『都市住宅』はそれなりの一つのエコシステムでした。集まってる人たちが。『新建築』もエコシステムだったと思います。いろんなエコシステム,今村さんの言葉でいうとコミュニティですが,それぞれ閉じてあるんだけど,どう社会につながるかということでしたね。自分が生息してエコシステムと言うのが自分の思い通りあるとすればね,それが社会じゃないかという,言い方もできると思うんですね。布野先生が社会というときの言い方が「ザ社会」みたいな響きがあって,それに対してメディアの機能や役割があるというふうに聞こえるので少し通じにくいことはあるけれども,居心地のいいエコシステムをつくるという意味からすると,さっき言ったように,例えば『建築文化』には一つのエコシステムがあった,『都市住宅』にはそれを指示する学生たちのエコシステムがあったとすれば,編集者というのはその生態系を作り出すひとではないか。それを用意するというか,そういう役割がここにあるんではないか,必ずしも社会全体がどうこうということではないんじゃないか・・・,

布野:安藤先生の今の言い方はしっくりしますね。ひとりで思うところを呟くことは日々やっていますし,『建築討論』を立ち上げる時に情報を集める目的で今でもFacebookの友達とは3000人近くつながっています。それとは別に,閉じた形で,布野スクール周辺の友達が200人ぐらい,家族のネットワークと繋がっています。それはそれで幸せなんですが,それでも居心地の悪いシチュエーションに遭遇するんですね。分かりやすくいうと,建築業界の悪口を言われる場面ですね。建築業界ってのは談合システムがあるんですよねえと言われると,そうなんですよね一部そういう人たちがいるんですよねえ,とやり過ごすか,談合システムは,建築業界に限らない,組織,地域社会,・・・社会全体に関わるひとつの仕組の問題があると説明するか,どうしますか?ということなんですよね。コンペにしてもいろんな不愉快な問題がある。安藤先生のいうように,居心地のいいエコシステムを自分の周りにはつくりたい。A-Forumは随分居心地のいい場所なんです。運動体であれば,機関紙とかSNSとかはメディアとして,武器として使うんでしょうが,ベースは,建築をつくることは,楽しいということなんですよね。

建築賞の評価

神子:吉本隆明が,建築家になりたいという学生がどうしらいいかというのに対して,丹下健三さんみたいに建築家が政治に口を出していくことはもうない,もし反体制のまま建築家になるんだったら住宅の専門家になれといっていたことを思い出しました
神子:それは原さんが住宅を最後の砦にするんだといっていた頃ですか。都市から撤退して住宅設計へ。その指摘は,当時ピタッと来てましたよね。今は,若い人たちの身近な仕事はリノベーションですね。最近の若い人はそういう気分はあるのかな,リノベーションとか環境問題を梃にしてやりたい。それは応援したい。

今村:そういう若手は多いですね。例えばJIAの賞で,新人賞が一番激戦だった。優秀賞は,失礼ながら,本当にこれ今年一番かなーという感じがあったんだけど,新人賞はとってしかるべき作品がゴロゴロ出て来ていて。例えば,去年は新人賞を逃したのが,大賞をとっちゃった,住宅で。それぐらい住宅について,今若い人たちは熱いですね。それはたぶん70年代ぐらいの熱気がありますね。長谷川逸子[24]さんとか,ああいう人たちが出て来た頃の,住宅がすごく花開いたとことに近いような
布野:それはちょっと分る。JIAの場合は審査員が3人ぐらいで決めるでしょう。思い切って選べる。斎藤先生がおっしゃらないかも知れないけど,学会賞は,この20年みると,平均・凡庸になってます。審査員の問題が大きいと思います。委員の選び方,前任者指名制というか,制度にはなっていないんですが,そういうコミュニティが形成されてきた。それは作品賞委員会だけじゃないけどね。それとは別というか,裏腹なんだけど,昔は『新建築』の編集長が豪語していたけど,学会賞は『新建築』が決めてるんだ,これ本当ですよ。

 斎藤先生,この流れで一応のまとめをお願いできますか

斎藤:学会賞については何度か「該当者なし」ということがあって。3度ぐらいあったと思います,つい2,3年前にもあって。その時にはA-Forumで学会賞を再考するというフォーラムをやりました。それは,まさに今日のテーマなんですね。学会では言えないけども,この場では何でも言おうじゃないか,ということなんです。その時には,私は候補作はほとんどの作品を見ていたんですけど,これ絶対いいなーと思った作品もあったんだけれど,「該当なし」になった。候補作になった3,4人の方に来てもらって。ここでプレゼンしてもらって。大勢の方に見てもらったんです。そしたら,翌年,学会賞になった作品がある。1年置くのか,置かないか,審査委員が半数入れ替わる。一年置いたら満票で入った。

そういうことがいろんな場面で起こる。学会賞では作品賞だけなくって,ね。色々問題ありますが,評価というのは難しい。それから評論というのも難しい。評価は基本的に個人的なものであるし,絶対のものではない。そもそもジャーナリズムは日本語で言うとなんなのかなーと思ったりして,・・・評論という言葉が今まではあったんですけども,ちょっと違うのかなーと。

ザハの遺言―新国立競技場問題から

斎藤:さっきから出ている,ザハの作品の評価もそうなんですけども,私は新国立競技場には長く関わったんですが,誰がどう評価したかということが問題だと思うんです。ザハの提案は結局ゼロになったわけですよね。だけど風化させてはいけない。一番インパクトがあったのは,槇さんの主張があって,ああいうふうに論考が立ち上がっていったわけですけども。最初に言われたのは,私はザハのデザインには何も言いません,触れませんと言ってる,そこからスタートしているんですね。結果としてザハの案でないものをやるということになった。僕は,ちょっと遅かったですけども関わって,国際的にあれだけの事をやって,国際コンペをやってイメージをもらったわけですよね,オリンピック招致にも力になったと言われてますよね,あとは時間もたっぷり有ったわけですし,歳費と工期と全てを考えて,実現することが僕らのエンジニアの役割だと考えていたんです。エンジニアの立場からはそうなんです。しかし,実現させない,実現できなかった。何を言いたいかと言うと,単にデザインがいいとか悪いという評論ではなくって,与条件をどういうふうに読み解くかという問題だった。もっと具体的にいろんなオルタネーティブがあった。それを議論すべきだったんですね。内部の人たちは,和田さんは,よく知っているんです。闘わざるを得なかった,白兵戦を。もうちょっと違う,与条件を読み解いて,実現していく方法があったんじゃなかと思って,和田さんと時々呑みながら反省しているんです。

そういう話がまだ生きていることもあるけど,いい悪いという評論よりも,むしろ,これはこういう見方になるという分析だとか,仕組みを解いてあげる,神田さんがさっき言われたように,和田さんも率先してやられているんですけど,ある事件が起きた時に。その読み解き方を専門家がやる。いい悪いは,そういう材料を揃えて,こういう見方があるだということをやる。それでまたそれについて議論する,意見を交換する。まずはものの見方を他に任せないで,一般のジャーナリズムは分らないことが多い。専門家同士で建築ができていく仕組みを議論しているのを一般ジャーナリズムに取材してもらう,そんなことができればいい。そういう場にA-Forumがなっていけばいいと思います。僕はジャーナルの一番の役割は,物が実現していく過程を明らかにしていくことだと思います。教育だって同じことだし,学生とも一緒に,これはどういうふうにやったらいいかと,力学の話から材料の話,施工の話を一緒に議論していくんです。それは普遍なんです。そういう事は共有できる。そういうことをやるような場になればいい。曖昧なんですけども,評論とかジャーナルとかちょっと違う言葉を見つけられればいいかなというのが今日の感想です。

布野:建築のつくられていく仕組みを解明するという,AJ研(建築とジャーナリズム研究会)の明快な方向性をおっしゃっていただいたように思います。ジャーナルは,文章によるメディア(媒体)のことで,新聞・雑誌などの定期刊行物,日報,日記(ブログ)などいろんな形態があるわけですが,語源はジャーニーjourney旅なんだそうです。その日暮らしのジャーニーがジャーナリズムなんですが,大事なことを記録していく大きな意義があります。神子さんの仕事については,今日,初めて聞くことも一杯あったし,歴史として検証すべきこともあります。現在の問題につながる経験も一杯されているので,神子さんもコア・メンバーになっていただいてます,次の企画につなげていきたいと思います。

布野:残ってらっしゃる皆さんで,何かコメント頂ける方いますか?眼の前に田所先生の名前が見えているんですけど。今日,小林文次さんとか近江栄先生,田所先生はその研究室を継承されているわけですが,何かコメントいただけますか

新建築問題の真相

田所:突然の御指名です。今日は神子さんどうもいろいろとありがとうございました。今まで断片的に伺っていた事がすごくつながったような感じで,非常に面白かったです。刺激的なお話を伺えてありがとうございます。この建築とジャーナリズム研究会もお話を伺ってて,色々な論点が出て来てました。斎藤先生がおっしゃられた,批評というかクリティークというか,成立していないような状況があると思うので,いろいろと議論を挙げていただけるといいなーと思います。

神子さんにちょっと伺いたいなーと思ったのは,「新建築問題」なんですけれど。『新建築』で丹下健三が「美しきもののみ機能的である,伝統の創造のために」という文章を書いています,授業で扱ったりもしているんですが,あれと同じ号にですね,川添さんが岩田知夫というペンネームで「丹下健三の日本的性格」というような,そういう批評を書いているんです。もう丹下の時代ではないだみたいな事を書いているんですよね。で,日本の悲劇っていうような,それで我々からすると,要するに丹下健三に伝統の創造のために,ということを書かせながら,編集長として,もう丹下の時代じゃないみたいなことを同じ号の中で書いている。今の雑誌とかジャーナリズムではあり得ないですが,背景にいろんなネットワークがちゃんと作られてて,そういうような事を書いても,支障がないような状況が当時あったと思うんですよね。批評というのが,今の批評と当時の建築家とジャーナリストたちが合わさってちゃんと議論の場がつくられたうえでの批評と,批評ということの意味合いが当時と違うんだろうなーと思うんです。当時の感覚というのが我々は分らないもんですから。当時『新建築』ではどうい状況が作られていたのか。新建築問題というのはボタンが掛け違って,村野は批評しちゃダメだみたいな事になったんじゃいか,そんな感じがするですけどいかがですか

布野:それは,神子さんへの質問ですか。

神子:僕はそこに居ないんです。問題は,四人が首になっちゃったんですよね。それと,部数の問題が一つ。もう一つ,大事なところは,丹下さんの旧都庁舎とそれから村野さんの有楽町のそごうの比較ですね。日本のモダニズムをどう評価するかという,根本がそこにあったんだと思うんですね。建築史的には丹下と村野のどちらを評価するかがやはり大きくて,そういう意味では歴然とするんですけども。あの号には丹下さんの旧都庁舎の鉄骨のきれいな建物があって,それから村野さんのこれは張りぼてだというモダニズムをどう評価するかっていう根本がそこにあったんだと思います。

布野:川添さんは,丹下さんを焚きつけながら,白井さんを評価してたんですよね。伝統論としては。

神子:川添さんたちの伝統論,丹下さんが引っ張っている伝統論を持ちながら,それをどう評価していいのか,ひょっとすると川添さんもその辺まで踏み込んでいくかどうか,分ってなかったんじゃないかという感じがあります,今にしてそう思います。これはモダニズムの境界の話で,今も引き摺っているという感じがありますね。その引きとり方をぐーっと普遍化して拡大したのは長谷川堯さんですけども,それが未だなお残っている。その問題も是非この場で,さっきポストモダンの話も布野さんから出ましたけども,みなんさんも話された方がいい,そんな感じでどうでしょうか
田所:はい。ありがとうございました。
布野:僕が平良さんとか嘉久さんの話を聞いたのは,当時,担当分けていたんですよね。宮内さんではなくて,平良さんは前川番と言ったかな。川添さんが構図を仕掛けてた。川添さんは一方で白井を推しているわけですね。丹下vs白井というのをつくりながら編集してた。しかし,批評自体をオーナーは否定した。そこで,ペンネームで,紙面のわずかなスペースを使いながら,批評のスペースを確保したという面もあるんじゃないかと理解してます。そごう問題については某京大のプロフェッサーからクレームが来たという話も聞いています。
神子:そうですか
布野:それは京都に行ってから聞きましたけど,村田治郎先生です。僕は半分孫弟子のような形になるんで,新建築に興味があったんだとちょっと新鮮でした。オーナーが親しかったし,村野さんとも関係があったのでは。関西ですよね,もともと新建築社は。そういう歴史の根みたいなものも含めてここで,振り返ればいいのではないか,と思います。田所先生は物凄く興味があると思うので,是非,参加ください。日大なら田所だろうなーと斎藤先生もおっしゃっています。
田所:いえいえ,とんでもない。若手で川島さんなんかもいらっしゃるので,ぜひ。

建築界の分裂

布野:日埜(直彦)さんの名前があるけど何か一言?

日埜:どういったらいいでしょうね。
布野:かなり積極的にこの会を盛り立ててください。

日埜:建築メディアが消失しているんじゃないかという事を大きな問題として考えようとしていると思うんですが,問題は建築を議論するベースについての認識が揃ってないということ,かなり分裂的な状況にあることが一番大きな問題だと思うんです。例えば,今の学会の話とか学会賞の話が出てたんですけど。たぶんこのメンバーの構成を反映していて,建築業,建築メディアを支える全体の話とちょっと違うところに居るんじゃないかと思うんですよ。世代によって違う動きもあるでしょうし,それから,デベロッパーみたいな仕事をしている人と,フリーランスでやっている人で全然ベースが違ってしまっている。そうは言っても建築だから,これはベースにあるだろうと問わなくちゃいけないんだけど,そこにメディアが無いというのが,現在の本当の問題じゃないかと思うんですよね。まずは,分断みたいなもの,分断というものが実際あるとおもいますけど。それをちゃんと見てみることが必要だろうし,その分断を繋ぐものはなんだろう,僕は問わなくちゃいけないだろうと思います。かつては建築業界がちっちゃかったと思います。今,そういう包摂できるような状態じゃないんじゃないでしょうかね。それともう一つ言うと,私,本書いてみて分ったんですけど,リアクション見てて思うのは,建築業界って何かあまり意見言わないんだなーということですね。一般紙,こないだ私の本に対する書評は読売新聞の書評欄に出ていて,とてもちゃんと読んでくれているんですよね。建築の言葉が通じないということはないんだと思うんですよ。通じているんだけど,我々の方がもじもじしてて,ちゃんと言ってないんじゃないか,ということす。そんなところで

市民とアジアとの連帯

布野:徳島の新居さんの顔が今見えているんですが,一言いただけますか。新居さんはアジアのアルカディアARCADIAにも日本を代表して参加されていますよね。

新居:私は徳島の四国で実務をやっています。正直に言いますと,最初は少し遠い世界だなーというふうに思って聞いていました。もちろん,興味はあるんです。布野先生の隈さんの批評を最近読ませていただいたんですが,ああいうような議論が出て来ない時代というのはとても寂しいと思います。もう少し地域社会のこと,それから地球環境のこと,いろんな事に対して,少し建築論が肉薄するような,論が出て来て欲しいなーと思います。

市民の方々の中にも建築やまちづくりについて意識をもっている方はけっこういらっしゃるんです。そういう意味で言えば,日本の建築論はあまりにも小さな世界の中に入ってしまっている処があって。もう少し市民に広げていただきたいと思います。建築空間とか生活空間にいろんな意味で関心持っている層,そういう層に届くような論が何か起こって欲しいと思います。それともう一つは,アジアの建築人たちと付き合っておりますと,インフラをこれから造らなければいけないというところがあって,建築家の人たちは元気だなーと感じます。日本の場合,設計者というと何か悪いことをするんじゃないかとか,建築のかたちだけが問題にされる寂しさがありますね。バングラデシュに行きましたら,建築家協会の大会だったんですが,我々各国から来た人たちはレッドカーペットの上を歩けるんですね。いろんな外国人の人たちが沢山来て,これからしっかり国造りをたのみますよ,というふうなことを言われるんですよね。日本では,せいぜい国交省の課長か,課長代理の人が挨拶する程度ですよね。アジアには結構若い元気なかたがたくさんいるんです。その人たちと共通に議論ができるんです。海外で訓練した建築家もいますし,我が国で勉強した人もいます。そういった中での議論によって共通の問題意識を感じます。環境問題含めて,同時性の問題がほとんどなんですね。ところが日本の場合,私たちは,どこかで狭い世界に入っている。ずーっと言われて来た閉塞感も,感じないわけではないですね。そういうとりとめも無い事を感じています

地域からの発信

斎藤:女性の方にもお願いできますか?北海道の登尾さん

登尾:私は端のほうから見てようと思っていましたが,北海道,札幌を拠点に建築の話題を中心にしたフリーラスで編集をやっているものです。専門誌に記事を書かせていただいたことも最近はあるんですが,こちらの方から何か問題提起とかはありません,感想にすらなるのかなーと思います。建築メディアの流れというか,歴史的なことからして,私は勉強しなければいけない立場なんですけど,北海道の状況で考えますと皆さんが今お話されていたような問題のような,建築メディアというきちんとしたものがあるのかと言われると心もとないですね。一般ユーザー向けの雑誌類はありますけれども,アカデミックな場で議論されるような事は,北海道大学周辺ではあるでしょうけれども,みなさんも仰っていたように内輪の話になっているのかなーという印象はあります。北海道は,気候風土的に寒冷地ですから,技術的な面で本州の状況と違う,独自の展開もしてきているようにも思います。建築の理論とか意匠設計も,テクニカルな部分の意識をもちながら理論を構築していくとう側面が強いかもしれません。北海道支部,建築学会では古くから建築作品発表会というものが,開かれていて,その場では建築家の方,設計する方,建築家の方とはかぎらす,ゼネコンの設計部の方とかも織り交ざって割と幅広く,作品を発表して,フォーラムのようかたちで議論をするとか,その後,懇親会でさらに議論を深めるとか,そういう場はあるんですよね。なんとなく北海道の状況を言いながらも,私もかなり勉強をしなきゃいけないと思って今日は勉強させていただきました。 布野:ありがとうございました。よろしいでしょうか? 今日はとにかくいろんな声を聞きたいということで,だらだらと続けましたが,かなり重要な問題を確認することができました。以上を持ちまして,建築とジャーナリズム研究会,AFのAJ研究会ということになりますけど,キックオフ・


[1] 桑沢洋子によって1954年によって東京都港区青山北町(現在の北青山)に設立され,1958年に渋谷区神南に移った。バウハウスのデザイン理論を継承し,時代をリードするデザイナーを育成することをうたう日本で最初のデザイン教育機関である。東京造形大学(1966年設置)は姉妹校(学校法人桑沢学園)。

[2] 1921~2004。建築史,デザイン史。元桑沢デザイン研究所・デザイン理論講師武蔵野美術大学,筑波大学名誉教授,元東京造形大学学長。沖縄県立芸術大学学長。「中心の喪失 -危機に立つ近代芸術-」(ハンス・ゼードルマイヤー著 / 訳者:石川公一・阿部公正,1965年:美術出版社)「生きのびるためのデザイン」(ヴィクター・J. パパネック / 阿部公正,1974年:晶文社)「生ける建築のために <美術選書>」(ユルゲン・イェ−ディケ / 阿部公正,1975年:美術出版社)「デザイン思考 阿部公正評論集」(阿部公正,1978年:美術出版社)「人間のためのデザイン」(ヴィクター・J. パパネック / 阿部公正,1985年:晶文社)「色の形視覚的要素の相互作用」(カール・ゲルストナー / 阿部公正,1989年:朝倉書店)

[3] 家具デザイナー。1947年吉村順三設計事務所で,新宿「風月堂」の内装を担当する(1954年)。1956年に渡辺力,渡辺優とともにQデザイナーズを設立するも,1958年に松村勝男デザイン室を設立・独立。

[4] 1920~1975。文芸評論家,歌人,小説家。『村上一郎著作集』全12巻,国文社,1977-82。吉本隆明・金子兜太・桶谷秀昭監修。

[5] 1923~1995年。詩人,評論家。

[6] 1924~2012年。米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)卒業,東京工業大学電気化学科卒業。漫画家ハルノ宵子は長女。作家吉本ばななは長女。

[7]「試行」創刊号の吉本による編集後記には「試行はここに,いかなる既成の秩序,文化運動からも自立したところで創刊される。・・・同人はもちろん,寄稿者も,自己にとってもっとも本質的な,もっとも力をこめた作品を続けるという作業をつづけながら,叙々に結晶するという方策のほかに出発点をもとめないしもとめることにあまり意味を認めない。」とその理念が述べられている。発行部数500部。『試行』は,最初谷川雁,村上一郎,吉本隆明三同人により編集,11号以降吉本の単独編集で1997年12月19日付発行の74号終刊まで,36年間継続された。70年後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸ばした。吉本は,既成のメディア・ジャーナリズムによらず,「自立の思想」を標榜,ライフワークと目される『言語にとって美とは何か』,『心的現象論』を執筆・連載した。

[8] 1962年参加。他に,松田政男,山口健二,川仁宏らが参加。

[9] 東京出身。1954年学習院大学法学部政治学科卒業,1965年スタンフォード大学大学院コミュニケーション専攻修士課程修了,1972年カルフォルニアスタンフォード大学大学院社会学専攻博士課程修了,社会学博士。カリフォルニア州立大学助教授を経て,上智大学教授。『日本の政治エリート 近代化の数量分析』(1976)『創造の方法学』(1979)『知的競争社会のすすめ』(1980)など。

[10] 1957年に,石井恭二が創業。現在は現代思潮新社として存続。「良俗や進歩派と逆行する『悪い』本を出す」をモットーに,東大文学部でマルキ・ド・サド論を卒業論文として書いてアカデミズムから疎外されていた渋沢龍彦を起用し,サドの『悲惨物語 ユージェニー・ド・フランヴァル』を最初の一冊目として刊行した。その後も「既存左翼」にとってタブーとされてきたレフ・トロツキー全集やニコライ・ブハーリンやローザ・ルクセンブルグらの著書,反スターリン主義の古典などを刊行した。また,澁澤の他,埴谷,吉本,武井昭夫ら著作を刊行した。1961年には,清水幾太郎の責任編集で,現代思想研究会の機関誌『現代思想』を刊行した。

[11] 1917大連生れ~1991。二葉積算を創設。元日本積算協会会長。昭和30年代から積算業を日本に根付かせ,また英国の積算士(QS:Quantity Surveyorの業務を日本に広く紹介した人物。

[12] 1925~2005年。1950年日本大学旧工学部(現理工学部)建築学科卒業。1951年,助手,1970年工学博士。同年理工学部教授。1996年から日本大学名誉教授。『建築設計競技』『近代建築史概説』 (共著)『建築を教える者と学ぶ者』 (共著) 『建築通論』 『建築への誘い』(共著)『近代日本の異色建築家』『建築画像大系 建築設計競技』 『日本建築学会100年史 』(共著)『建築業界は今 』(編著)『光と影-蘇る近代建築史の先駆者たち』

[13] 1918福島県桑折町生れ~1983年。1941年,東京帝国大学卒業,同大学院。フルブライト制度でアメリカ合衆国に留学。アメリカ合衆国近代建築史を研究。京王技術大学予科教授を経て,1949年日本大学旧工学部(現理工学部)教授。1961年日本建築学会賞論文賞受賞。『アメリカ建築』『建築の誕生 メソポタミヤにおける古拙建築の成立と展開』ニコラス・ペヴスナー『ヨーロッパ建築序説』(共訳)ウィッチャーリー『ギリシャ都市はどうつくられたか』『古代ギリシャの都市構成』

[14] 1913福島県桑折町生れ~2008。仙台第一中学から1934年成城高等学校卒業。 1937年京都帝国大学史学科考古学専攻卒業。副手。1949年,大阪市立大学助教授,1953年,教授,1967年古代学協会・平安博物館館長。1990年,古代学協会理事長。『古代史通論 第1分冊』『ポンペイの遺跡』『古代学序説』『古代北方文化の研究』『原始社会』『西洋文化の誕生』『ヨーロッパ古代史論考』『角田文衞著作集』全7巻『角田文衞の古代学』全4巻,

[15] 1938年秋田県生れ。東京大学工学部建築学科卒,建築史専攻。東京大学助手,大阪市立大学工学部講師,助教授,九州大学大学院教授,西日本工業大学教授などを経て,九州大学名誉教授

[16] 横山正1939年岐阜生れ。1963年東京大学工学部建築学科卒業,67年同大学院博士課程中退。1984年東京大学工学博士。1976年東京大学教養学部助教授,78年より工学系研究科建築学専攻担当。87年教授[1],94年より総合文化研究科に所属。2000年定年退官,名誉教授,情報科学芸術大学院大学教授,2003年学長。09年退職,名誉教授。

[17] 東京大学工学部建築学科,同大学院卒業。建築・地域計画専攻。東京大学助手,(財)余暇開発センター客員研究員等を経て,1991年より,(株)生活構造研究所代表取締役。現在,同研究所取締役特別顧問。一級建築士。コミュニティのあり方の視点から,全国各地域の生活調査,構想,計画づくりなどに携わる。1995年阪神淡路大震災以来,トルコ,台湾,中国四川,中越,東日本など,国内外の自然災害被災地支援,防災・減災活動に継続的に取り組んでいる。国際女性建築家会議日本支部会長を経て,現在相談役。2003年よりIAWA(国際女性建築家アーカイブ)オフ・キャンパス・アドバイザー。

[18] 相模書房は,2015(平成27)年9月廃業。79年の幕を閉じた。入舟町の再開発に伴い,銀座・松屋百貨店裏に移転,1階と地下(地下は倉庫)。いまはホテルとなっている。

[19] 1904~1989。青森県出身。戦前よりキリスト教社会主義運動,農民運動の指導に携わる。1950年,参議院選挙に全国区から立候補し初当選。日本社会党に属し,4期務めた。この間,参議院建設委員長,参議院決算委員長,参議院逓信委員長を歴任。また,電気労連の顧問を長く務めた。1966年から1978年まで日刊建設通信新社代表取締役会長を務める。

[20] 周縁から1~66,産経新聞文化欄,1989年6月5日から1991年1月28日まで連載。

[21] 1949年群馬県生まれ。一橋大学経済学部卒業。1973年共同通信社入社。川崎支局,横浜支局,社会部などを経て,1984年から文化部。共同通信社編集委員兼論説委員。この間,2009年まで文字文化研究所理事,村上春樹に対しての単独インタビューを含む一連の著作活動により日本記者クラブ賞受賞(2013年)。『文学者追跡 1990年1月~1992年3月』『白川静さんに学ぶ漢字は楽しい』『村上春樹を読みつくす』『白川静 文字学入門 なるほど漢字物語』『空想読解 なるほど,村上春樹』『あのとき,文学があった-「文学者追跡」完全版』『大変を生きる 日本の災害と文学』『白川静入門 真・狂・遊』『白川静さんに学ぶこれが日本語』

[22] 「フェイクとオーセンティシティ:建築の虚偽構造」驟雨異論❶,雨のみちデザインウェブマガジン「驟雨異論(しゅうういろん)」http://amenomichi.com/shuuiron/funo1.html,2021 05 20 


[1] AF-Forum 建築とジャーナリズム研究会 

建築の評価をめぐっては,一般ジャーナリズムと建築ジャーナリズムの間に大きなギャップがある。そして,それぞれが大きな分裂をそのうちに含んでいる。

一般ジャーナリズムにおける建築の評価は大きく二分されている。一方で,建築・建築家は,芸術・芸術家として扱われ,美術,文学,映画,演劇,などと同様「文化」として「文化欄」で扱われるが,他方,「政治」「経済」「社会」「家庭」「教育」欄では,建築家は建築業者であって,その個人名が記されることは(悪いことをしない限り)ない。建築家・建築作品と業者・建造物が暗黙のうちに区別されている。

建築ジャーナリズムのあり方の違いは,建築の評価の基準,軸,指標などに関わり,それ故,建築アカデミズム(建築学会)における建築の評価とも密接にかかわる。建築アカデミズムにおける評価の違いは,建築学の専門分化に根をもっている。日本の建築学会が学術・技術・芸術の統合をうたい,斎藤公男先生がArchi-neeringという概念と領域の設定を主唱するのは,その有様を深く認識するからである。

建築ジャーナリズムについては,1950年代から1960年代にかけて,さらに電子媒体が全面化する以前,1990年代までは,建築の評価をめぐる媒体として機能してきた。「新建築問題」以降,建築批評はしないということを方針とした『新建築』と「この先の建築」をめぐって議論を仕掛けてきた『建築文化』が対照的であったが,そうした建築ジャーナリズムが失われて久しい。そして,建築ジャーナリズム上の建築の評価をめぐる議論と一般ジャーナリズムの間の分裂も解消されたわけではない。『Casa BLUTAS』のようなメディアがその間を埋めてきたかのようであるが,その関心は,建築家それも「スター建築家」の「新たなデザイン」に集中しているように思える。

本研究会では,「建築の評価」は如何にあるべきか?という問いを根底に,建築技術を含めた建築とジャーナリズムのあり方を中心に議論したい。建築のメディアに関わる編集者を招いて,建築の評価をめぐって議論したい。また,戦後建築ジャーナリズムに関わってきた編集者を招いて,オーラルヒストリーを作成しながら,歴史を振り返りたい。さらに,建築のメディアに関心をもつ若手建築家,研究者を招いて議論したい。そして,一般のジャーナリストを招いて,建築の評価をめぐる議論を展開したい。

幹事:斎藤公男,和田章,神子久忠,布野修司,磯達雄,今村創平,青井哲人

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