川床優・中谷正人・布野修司+岸佑・香月真大 昭島 川床優邸 2021年7月15日

                              記録:佐藤敏宏

流主水(ル・モンド)と建築メディア

 川床優・中谷正人・布野修司+岸佑・香月真大 昭島 川床優邸 2021年7月15日

                             記録:佐藤敏宏

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流主水すなわちル・モンドは,川床優,中谷正人,布野修司,そして故野崎正之が用いた共同ペンネームである。

1979年の1年間,『新建築』誌の「月評」を担当した。「月評」というのは現在も続くが,『新建築』だけではなく,当時刊行されていた建築関係月刊誌を網羅して,前月号に掲載された作品や論考などの記事を論評する欄である。名だたる建築家,批評家が掲載作品を歯に衣着せずに論評する欄として人気があった。当時,『新建築』編集部にいた中谷正人が評者にこと欠いたのか,あるいは覆面への興味を掻き立てようと思ったのか,ペンネーム3人の起用を思い立った。谺炎造,矢田洋と決まったけれど,あと一人足りない。そこで流主水という3人目をつくることにした。

 流石に一人じゃまずいということで,3人に声をかけた。『建築文化』編集部の野崎正之,『ジャパン・インテリア』編集部の川床優,そして東大から東洋大に移ったばかりの布野修司である。こうして明かさなければ,知られずに済んだかもしれない。谺炎造(こだまえんぞう)は神戸大学の向井正也先生,矢田洋(やだよう)は道具学の山口昌伴さんである。

 

 戦中・戦後 

布野:今日は,流主水の頃ということで,昔話をしようということなんだけど,まあ,40年振りの飲み会かな。平良敬一さんが亡くなって,いよいよ何かが終わった感じがある。平良さんに,遺言のように言われたことがあった。それと最近若い人たちが平良敬一論とか,宮内嘉久論とかを書くのに触発されて,若い連中と何かできないかと相談し始めたんだけど,なかなか動かない。それで,とにかく初めたのがインタビュー・シリーズで,田尻裕彦さんに2回,この間は神子忠久さんにA-Forumで話を聞いた。今日は第三弾ということかな。若者代表として岸佑くんを連れてきた。

岸田日出刀論

岸:僕は国際基督教大学ICUで歴史を勉強したんです。美術史に関心があって,日本の美術を調べていたアメリカ人の先生についたんです。

布野:何という先生?

岸:リチャード・ウイルソン。

布野:まだ居るの。

岸:もう定年になりました。リチャード・ウイルソン先生は陶芸が専門なんです。何でも教えるんですが,建築のコマ数はそんなに無かったんです。東工大に居たデビット・スチアートが何回か話に来て,坂本一成,篠原一男について英語で教えてくれたんです。で面白いと思って,建築のことを調べようと思ったんです。歴史にそもそも関心はあったんで,建築物というよりも,建築家あるいは建築が,日本の文化とか社会にどう影響して来たのかっという関心だったんですね。なので,アイデンティティとか,そういう横文字を使いながら,日本の建築学とか建築史というものよりも,建築が社会の中でどういうふうに存在し得たのか,それで帝冠様式とか,岸田日出刀に興味をもったんです。

布野:ウイルソン先生は,日本の戦中とか戦後に興味があったわけでしょう?

岸:そうです。明治のことはそんなに興味が無かった。僕は大学に1999年に入ったんですが,2000年前半は,1930年代,40年代というのが何となく歴史になりつつある時期だったんです。なんとなくイデオロギー的な解釈からも距離が取り始められたし,かといって全部をイデオロギー解釈だと切り捨てる訳でもない,という議論がちょっと何か面白いなーと思ったんですね。それで,建物はあんまりつくって無さそうな,建築史に出て来る人で,岸田日出刀という人に興味を持ったんですね。

布野:なんで岸田日出刀だったの?

岸:コンペの審査員ずーとやっていた。

布野:確かに,東京オリンピックもそうだしね。

岸:彼が選ぶ建築家,彼がイニシアティブをとって日本の建築デザインをどの方向に持っていこうとしたのか,何でその方向に行こうとしたのか,もっと言えばそれが現在までどう影響しているのか,あるいはしてないのか,ということに最初は関心がありました。

布野:結論はどうなの? 僕は吉武泰水研究室の出身だから,言って見れば孫弟子なんだよね。岸田さんは吉武先生の先生だったわけ。研究室には岸田さん関連のいろんなものがまだ残っていたけど直接は知らない。ただ,いろいろ読んだよ。岸田日出刀の伊東忠太論とかね。ただ,吉武先生から岸田さんについて聞いたことはない。磯崎さんは同郷だったのかな,随分呼び出されたらしいよね。まあ,講座制ということじゃないから,岸田さんが吉武さんを起用したわけじゃないと思う。吉武さんは丹下さんに比べれば学者肌で,当時でいえば計画原論,丹下さんは建築経済論を書いているんだけど,国家の仕事全体に関心があった。岸田さんは,丹下さんを使っていたわけだよね。

岸:おそらくですけど,彼は,翻訳とローカライゼーションを同時に実現しようとした。つまり近代建築をそのまま輸入してくると同時にそれを日本に定着実現するということを考えていた。

布野:オットーワグナー論でしょう,彼の学位論文は。

岸:そうです。ただ自分ではそれをやろうとしなかった。周りの人を使いながら,ローカライズをしていこうとしたというのがポイントで,権力的に振舞わざるを得なかった。

布野:なるほどね。前川國男は,近代建築をそのまま輸入しようとしただけだけど,岸田は同時にローカライズ,日本化しようとしたわけだ。それは主に戦後?戦中含めて?

岸:戦中含めて,一度挫折してるんですよね,やろうとして。

布野:僕が知っているのは,1920年に分離派(日本分離派建築会)が出来て,その後,山口文象さんの創宇社など小会派がいろいろ出て来るんだけど,東大はラトー(裸闘)と言った,裸で闘う。裸闘というグループを作った張本人でしょう,岸田日出刀って。早稲田はメテオール(隕石)だった。今井兼次さんなんかですね。新興建築家連盟が設立即解体するのが1930年,教授たちからプレッシャーがあって,即手を引いた。その事を挫折っていうわけ?

岸:いや,その後ですね。

布野:その後も挫折があるの。

岸:昭和12年から15年の1940年のオリンピックの時ですね。

布野:おもしろそうだね。丁度東京オリンピック2020が始まることだし。

川床:茶々入れると,同じような事が僕らの世代にもあったんですよ。というのは,コンペの審査員長とか,審査員になると応募できないでしょう。審査員ばかり頼まれちゃうと設計できないよね。だから弟子筋を選ぶ。なぜ断らないかというと,その時代のイデオローグになるということなんだ。審査委員長になるということは。現代建築の潮流をつくっていく,それに関わる立場になる。

学生も,先生が何人か居て,仕事を初めてやるようになって,段々力をつけて,どっかの教職についたり,要するに階級移動してくわけですよ,歳とともにね。大学の教授とか,学会長とか,だんだん勲章付けて階級移動していくパターンが一つある。岸田さんはそういうのを吹っ飛ばしてしまって,まだヨチヨチの日本の現代建築を,後藤新平とかじゃないけど,しっかりと根付かせたかった。和洋折衷であれ,なんであれ,日本の建築イデオロギーをね,ちゃんと仕立てたい,というそういう意識があったんじゃないの。

布野:岸君の学位論文をちゃんと読まなきゃいけないね。

岸:学位論文はあんまり巧くいかなかったんですよ。岸田日出刀の戦争中のこと,そのポイントを知りたかったんですが。

布野:あんまり分らないかもね。

岸:いろいろ聞いても分らなかった。資料が出て来ないんです。なので,あんまり好い論文じゃなかったんです。日中戦争が始まった後から敗戦までのあの7年間に何をしようとしてたのか,そのままそっくり戦後に60年代ぐらいまでつながるんじゃないか,というのが仮説だったんです。何もできない状態になって,実質空白の期間が3,4年ぐらい続いて,占領期を含めて10年ぐらい空白がある。38年から58年ぐらいまでの20年のうちの10年です。そうすると,「東京オリンピック1964」ぐらいまでスライドして来る。

布野:我々が理解しているのは,佐野利器のあと内田祥三がボス教授となる。東京帝国大学の学長となって,学徒出陣の演説をぶつことになる。その内田祥三が全て割り振ったと言われてる。高山英華さんにじかに聞いたけど,お前は都市計画やんなさいと言われた。高山先生は帝大サッカー部で,オリンピックがあったら出てたんだよね。岸田さんは,伊東忠太についていたんだよね。

吉武さんについてはいろいろ聞く機会があったんだけど,彼は命令されて,飛行場の計画とか,毒ガスの研究とかするんですよね。さっき言った計画原論という世界で,煙草の煙を模型の箱に入れて,空気の流れを調べた。戦時研究と言ったんだけど,みんなそういうのはやらされてるわけ。たぶん,岸田さんは命令していたと思うんだけどね。

僕が岸田先生について知っているのは,書かれたもので,今のNTTファシリティーかな,逓信省営繕にいた小原英雄さんだったかな,『戦後建築論ノート』に書いたけど,敗戦後,ガラッと変わったと言うわけ,岸田日出刀は。黒板に,Democracy!と書いて,これからはデモクラシーだと言ったんだそうだ。宮内嘉久さんも,教授の変貌についてはどこかに書いている。嘉久さんは,反動教授の例みたいに思ってたというけどあんまり追求してないかな。オットーワグナーは読んだと思うけどね。学位論文は,岸君が言うように,横文字を縦にしたみたいな論文だと,言っていたかな。

岸田日出刀は,学位論文のあともたくさん本を書きますよね。『伊東忠太』っていうのを一冊だしている。伊東忠太は文化勲章もらうんですね,戦時中,昭和18年に。建築分野で初めて文化勲章です。それで,昭和天皇に御進講なんかしている。水戸藩の藩士が当時の東埔寨,アンコールワットへ行って,祇園精舎だと思って図面を描いて来た。それは違うという御進講なんですね。

伊東忠太は建築史の世界では,いい加減だということになっている,関野貞の方が実証的だということになっているけど,読むと,伊東忠太が圧倒的に面白い。日本の建築はこういう方向でいくべきだという指針を示してる。文化勲章をもらった伊東に,岸田日出刀は明らかに胡麻摺っているような感じなんですが,定年で最後の教室にやってきた伊東忠太に聞き書きして一冊書いているんです。相模書房だったかな。

岸:そうです。相模書房

布野:先日の神子さんの話では ,相模書房と岸田さんが親密な関係だったことがわかった。

岸:岸田日出刀の方がたぶんつくったみたいな。

布野:相模書房は1936(昭和11)年創業で,箱根強羅の環翠楼のオーナーの鈴木二六で,初代社長は小林美一,編集は引頭百合太郎がやったんだけど,引頭が岸田と懇意だったんだそうだよ。

岸:本が出ていることは知ってましたが,環翠楼内に本館とは別に離れ4棟をつくった。岸田に私淑した郭茂林が設計したんだそうですね。

布野:郭茂林は霞が関ビルの設計にも関わるんだけど,吉武泰水研究室で51Cの図面

も引いてるんだよね。1970年代半ばに「同時代建築研究会」というのを始めるんだけど,当時,1920年代と1960年代を重ね,1930年代と1970年代を重ねる見方があった。建築界でそれを仕掛けたのは磯崎さん(『建築における1930年代』)で,「同時代建築研究会」も『悲喜劇 1930年代の建築と文化』(1981年)を出すんだけれど,一般にも,ふたたび戦争に向かう前夜みたいな言説が出てきていた。

当時,山口文象さんとか,高山英華先生とか,戦時中の話は結構聞いたんです。坂倉さんが酷かった,「皇(すめら)の会」を組織してあっちの方へ行ってたとか,丹下さんもその時はおかしくなっていた,とかね。坂倉事務所にいた西澤文隆さんもフィリピンに文化工作に行くんです。その頃,岸田さんがどうだったかという話は聞かなかった。高山さんはNAUの初代委員長でしょう。丹下さんも池辺さんもNAUに参加している。ある種の黒幕的存在になっていったのかもね。これ磯崎さんに聞けばいいと思う。かなり知っている

川床:戦中の資料が無いということでここまで来たんだけど,例えば,終戦の時に高校を出たばっかりとかだとどうなの。皇国少年だったんだけれど,私はある日突然に・・になりましたと言わなきゃいけない。画家で言えば藤田嗣治,いろんな人が巻き込まれて,いろんな事するわけですよ。

布野:芦原義信さんのおじさんですね。彼は,戦争画を描く。従軍画家をかなり上の方で組織したんだよね。

川床:戦中の事を調べる事によって,どれだけ意味があるかなーと何時も思うんですよ。吉本みたいに簡単に言っちゃえばね,俺もしょうがなかったんだよ,馬鹿だからってさーって言っちゃえば終わり。だけど,そう簡単な問題じゃなくってね。建築だけじゃなくって,いろんな人が戦中を経験したわけでしょう。戦後なんですよね,俺たちね。

布野:オヤジさんは違ったでしょう。

川床:僕の親父はシンガポールまでいった。だけどその後,戦後という概念で言うと,反戦後。反(戦後),これは三島(由紀夫)ですよね。で,布野さんは反戦後なの。

布野:反戦後,反・戦後ね。戦後派だよ。戦後の初心に拘る。反戦の後?反省の後か?

川床:敗戦からだって70年以上経ってるから,そこで大きく分かれているわけ。俺なんかただの洟垂れ小僧だからね。結構,日本人の意識に,そういう流れが大きくあると思うんだよ。だけどそれを,戦中まで辿ろうとするとね,そう簡単には言えないって言うかなー。

中谷:微妙な問題もありそうな気がするよね。要するにさ,ときの権力にしようがなく従っちゃて生き延びて,なくなった途端に実はこうだったみたいなこと,たくさんある訳じゃない。

布野:上野千鶴子たちが集まって,東京オリンピック2020には反対だ,今表明しなければ,戦時体制下で何も言わなかったことと同じことになると言ったでしょう。説明なくオリンピックに突き進むのは,戦争に突き進んでいった戦前と構造だと。

中谷:岸田が何やったかは分らないんだけどね,丹下さんの在バンコク日本館なんかは岸田さんの力がだいぶあったんじゃないかという気がするんだよね。

布野:大東亜建設記念造営計画のコンペは岸田日出刀が審査委員長だった。丹下健三案を選んだということは,プロデュースをしたことになる。だから,戦前戦中一貫して丹下を連続的にプロデュースしたのは岸田さんということになる。

ポストメモリー 記憶と沈黙

川床:布野のお嬢さんが書いた論文があるんですよ,晶子さんの。あれ読んでね,凄い面白いんですよ。

布野:谷尾(布野)晶子の『記憶と沈黙 日本のアーティストは日本の近い過去にどう応答したのか?Memory and Silence in Japan How do Japanese artists respond to Japanese recent past?』というロンドン大のゴールドスミス・カレッジの美術史修士論文。川床さんに送ったんだけど,ちゃんとよんでくれたんだ。もうじき『都市美』2号がでそうで,その下が辛うじて乗る筈。そんなに長くないんだけど,紙面の都合で上下2回に編集部が分けたんだ。

川床:ポイントだけ言うと,彼女はポストメモリーという概念を使うんだよね。

布野:僕も新鮮だった。訳す気になったのは,ポストメモリーという概念を知ったからといっていい。ホロコーストの記憶をめぐってマリアンヌ・ヒルシュMarianne Hirsch が言い出したらしい。ポストメモリーとは,実際には「●●」を体験していない人が,さまざまな媒体を通して「●●」を「追体験」することで,その記憶を自らのものとして獲得し,内面化してゆくことによって生成する記憶をいうというのが定義なんだけどね。

川床:だけど,日本の場合,ポストメモリーの行為は制限されているというわけでしょう。日本人の戦争の記憶は,われわれの眼を罪悪感から逸らす様々なやり方で沈黙化されている。フーコーを引いて,「何も言わないで沈黙を強いる無言の実例」 と言ってる。

布野:南京大虐殺や慰安婦などの残虐行為を否定する歴史教科書の問題とか,天皇の戦争責任の問題とか,そんなこと議論したそれこそ記憶はないんだけど,いつのまにこんな問題意識を持ったんだろうと思った。

川床:僕に言わせるとね,共同幻想論の問題なんですよ。美術家がどういうふうに,知識とか情報を自分の中に取り込んでいるのか,その中に本当の自分のオリジナル思考はあるの?と言うような事を彼女は切っちゃっているかな。

布野:切っちゃってるというより,ヒロシマ・ナガサキをテーマにする殿敷侃 とか,長崎で原爆に被爆した柿の木の種を苗木に育て,展覧会場などで配り,世界中の子供たちと植えていく「『時の蘇生』柿の木プロジェクト」を展開している宮島達夫 ,戦争の痕跡をフロッタージュする岡部昌生 とか,彼は,広島の原爆跡地を作品化するんだけど,パリのユダヤ人街で拉致の史実を刻む銘板を擦りとった作品を制作しているけど,評価してると思う。

原爆投下後の長崎を採った東松照明 ,有名な村上隆にも,原爆を扱う作品がある,大東亜共栄圏を問う柳幸典 ,戦争画Returnsという会田誠 などポストメモリアル・アートとして東松照明,村上隆は知っているけど,知らなかったから非常に興味をもった。戦争画の問題,藤田嗣治については問い詰めてるけどね。

川床:とにかくすごいヒントをもらったわけ。それで面白くなって,柳田國男をもう一回読み直したりしたんですよ。いろんな問題がちょっと見えてきたことがある。お上が言っているから,しょうがねーなーという,日本的構造ってさー,2000年ぐらい植えつけられて,これがいまだに続いているところあるでしょう。

いい悪いは別として,この島国の独特の構造だと思いますよ。罰が当たるとかね,昔からそうなんだからとか,お上が言っているからみたいな,それは要するに共同幻想ですよ。共同幻想のつくり方みたいな事を,晶子さんは,美術の方からばさっと切った。これは凄く面白かったですね。そうすると,さっきイデオローグとか,階級移動の話にしても,自分でその場で転向したとかじゃなくって。何割かは分らないけど,冷静な思考を始める前に入っちゃっているということがあって,もそれを動員するんだよね。

布野:あのね,2000年というのは,基本的には近代にでっち上げられるんだよね。B.アンダーソンは「想像の共同体」というんだけど,吉本の共同幻想も基本的同じだと思う。古来,連綿と続いてきたように想像するんだよね,ナショナリズムというのは。

中谷:ちょっとついて行けてないけど。

布野:僕の娘の話は突然出て来たんだけど,2018年の12月に間質性肺炎で死んだんですよ。コロナに感染して死ぬ場合,血液中酸素濃度が90をきると危ないんだけど,最後は70台に下がったかな。それで,葬式が終わって,彼女の修論を読んだ,初めて。もらっていてパラパラとは見てたけど,英文だしね,従軍慰安婦をテーマにした従軍慰安婦を扱う嶋田美子 の作品なんかコンドームを棚に吊るしたような作品で,変な作品扱ってるなあ,という程度の印象だった。でもなんか気になって,死んだ直後に本気で読みだしたんだけど面白い。直ぐ翻訳して,年末には悔やんでもらった人たちに配った。その時に,山本理顕さんにも送ったんだよね。そしたら,理顕さんが学長になった名古屋造形大で『都市美』という雑誌を出すんだけど,それに載せたいという。

2019年8月に創刊号が出て,出版記念会には僕も名古屋に行ったんだ。ただ,娘の論文は長いので,前編,後編に分けることになった。それがなかなか出ない。2号が出るはずで,2号には僕の原稿も書いたんだけど,トラブルがあって,いまだに出てない。

中谷:一号で潰れた?

布野:僕は,その創刊記念パーティで快挙だって言ったんですよ。滋賀県立大学で副学長していた時に,大学出版を考えたことがあるんだけど,難しいことがいろいろある,それを突破したのはすごいと褒めた。しかし,今は,理事長が難色を示しだしたらしい。創刊号は,左右社から出したんだけど,結構建築の本も出している。長谷川逸子の本とかね。社長は昔,太田出版で『デザインの現場』を出していた時に,僕は3回ぐらい書いたことがある編集者だったから知っている。しかし,大学がお金を出さないとなると厳しいという。でも,河出書房新社から出すことになった。2号目は近々出る予定で,彼女の修論も陽の目をみるはずなんだけども。川床さんには『漱石のデザイン論』送ってもらった時に送ったのかなあ。忘れたたんだけど,ちゃんと読んでくれてたんで,ちょっとびっくりした次第。

川床:我田引水的に共同幻想論ということで理解しようとしてきたんだけど,ポストメモリーと言われたらね,これは全然違う共同幻想にずれると分ったわけ。うまいこと言ったなーと思ってさ。それでやめた,先祖のはなしとか戦争の話とかね。

布野:ポストメモリー論,翻訳する時に少し調べたんだけど,ヨーロッパではナチの問題,ユダヤ人の問題はシビアなんだよね。日本の天皇を許せないというのは,連合国側から見たら絶対許せないって話になるんだけど,原爆の全体的不当性について沈黙させられてしまっちゃった。アメリカの占領政策が最も成功した属国が日本ということになってる。横道それたけど・・・なかなか好い出だしだね。

川床:なんでこういうことを言い出したかというと,高校2年の終わりぐらいのときに共同幻想論が出たんですよ。吉本を通じて,なんで柳田國男なんて田舎臭セー話してんだろうと思いながら読んでいたら,何回目か読んだときにね,ちょっと分って来たというかな。何が分ったかと言うと,吉本って何をやってのかなーということだけど,貴方ならどう考えるかっということを問うていると思った。人の受け売りなら幾らでも僕みたいに出来るんだけど。じゃー君はどう考えるの,ってね。それが無い,日本のDNAに育ってなかった,というか,ゼロということなんだ。近代に「日本」がつくられたって布野さんは言うけどね。

布野:今日持ってきたけど,川床はなんで『漱石のデザイン論』を書こうと思ったの?

川床:なんで漱石を書こうと思ったかというのも同じなんですよ。漱石にね,自己本位論というのがあるんですよ。これもね,共同幻想論の先取りというかね,何に言いてんだーだと思ったら,元々もちろんマルクスですけどね,そういう流れで読んだもの,ほとんど受け売りで生きて来た,という思いがあった。

布野:自立の思想かな。共同幻想というより。

川床:そんだけなの。たまたま晶子さんのね,ちょっと読んだら,美術について書いてるんだけど,ほとんど本質的な切り口だなーと思った。ポストメモリー,これ使える~みたいなね。

布野:それで僕ねー,美術評論の椹木野衣の本全部買って積んであるんだけど,読む暇がない。高島直之に聞いたら,よく知っていて彼は『美術手帳』の編集部にいたんだそうだ。高島は今武蔵野美術大学に居るんだよね。元『読書新聞』編集長。知ってるでしょう。彼女が修論書いたのは2003年ぐらいかな。その時の状況まで遡ろうと思ったけど時間とれない。そしたらね,理顕さんは,お前は別のやつ書けって言うから,ちょうど『スラバヤーコスモスとしてのカンポンー』というのをまとめていて,カンポンという都市村落(アーバン・ヴィレッジ)をめぐって書いた。

タイトルは「ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会」2号には,僕の原稿もあるんだけどなかなか出ない。最近,理顕さんから電話があって,出ますとは言ってました。河出書房新社から。3号以降もやると言うから,布野も編集に入ってと言われた。学長も結構大変なんですよ。

僕も,管理職(副学長)やったんだけど,文科省の,特に安倍内閣以降の保守派の締め付けつけは酷いよ。選択と集中といって,研究費もろくにない。学術会議問題とかね。学術会議も一方で問題はあるけどね。若い先生は大変なんだよね。岸君も今,専任でないから大変だよね。

岸:仕事ください。

『都市美』

布野:『都市美』の話は今日の集まりにも関係あって,メディアをどうにかしたいという,中谷さんだって,Facebookでずーっと連載したやつをどうやって本にするの。「建築一期一会」だっけ?

中谷:語呂合わせ。字は「一語一絵」。一枚の写真にひとくさりつける。100回続けた。

布野:Facebookもいずれ消えるじゃない。紙媒体としてだせば,何部でも,国会図書館に入る。電子媒体でもね。僕が出す本は,研究公開促進助成(出版助成)って言うんだけど,学術振興会(文科省)の助成金を獲ると,200万円とか300万円,出版社は出してくれるんです。分厚い本で,1000部,5000円から8000円の学術書。軽いというか,2~3時間もあれば読めちゃう本,それで出た瞬間に何十万部という世界はある。読んでいるのかどうかわからないけど,手短に情報が欲しいのかなあ。SNSでは足りない。なんかいるんじゃないかという気がしてるんだけど,若い人は乗らない。

岸君なんかと半年話してみたんだけど,自分たちでなんかやろうという雰囲気はないんだよね。アクティブな人はどんどん発信する,できちゃう。だけど,一緒になんかやろうという動きがない。ディジタル・ファブリケーションを展開して盛んに発信しているVUILDの秋吉浩気くんは,いろんな方面から注目されている。

全く知らなかったんだけど,『建築雑誌』で会う機会があって,年商15億円とかいうんでびっくりしたんだけど,『群居』についてしゃべった。アーキテクトビルダーということを考えていた集団があったよということなんだけど,そしたら,「いま,「建てる」とは──新しい建築の運動体をつくる 秋吉浩気×佐藤研吾×市川紘司×辻琢磨 現代の群居を考えるというトーク・イベントをやったんだけど,その後が続かない。

ひとつは,さっきも言ったけど大学の教員は全然余裕がない。メディアをもつ,つくるというのは何かを訴えたいからなんだけど,それもないのかな。みんな防御なんだよね。今はオンラインZOOMでもやらないといけない。僕なんかもGoogle Classroomなんか使うんだから大したことないんだけどね。30人ぐらいの大学院授業だけどね。

中谷:えらい。

岸:……始めますか。

布野:はいはい,始めましょう。

流主水顛末

布野:二人は凄い人脈を持っているんだよね。これまで,編集者として,仕掛け人としていろいろやってきたから。略歴書いてと言ったら,すごい詳しいのをもらった。

中谷さん,まず自己紹介兼これまでのやってきたことを振り返ってもらえますか?

中谷:考えたらね,俺がやろうと思ってやったこと,ひとつもないような気がする。

布野:そうなの?

中谷:状況で,あれやれこれやれで,結局やることになった。

布野:そう言えば僕だってそうだ。

中谷:だからリスト作ってみて,えーこんだけやってたのーみたいなことがある。僕がやったのは,せいぜい地方を掘り起こしたことかなあ。土佐派の家とかだね。

月評

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布野:流主水の頃というのは, 1979年だから、中谷さんの仕事の最初の5行目ぐらいの時に3人出会って1年間呑んでいたということなんだ。

中谷:元々さー。流主水の仕掛けは野崎だよね。野崎がね,凄い事書く奴いるぜって言うので布野を紹介してくれた。で,たまたまあん時ね,月評の欄が,谺炎造と矢田洋が決まってた。

布野:谺炎造の向井正也は毛綱さんの先生だよね。

中谷:矢田洋は知っているよね。

布野:もちろん山口昌伴さんでしょ。僕は結構付き合ったよ。

中谷:あんときはね,月評は,普通4人なんだけど3人でやった。もう一人分は投稿で埋めようと思ってた。結構月評に対するコメントが寄せられていたから。最終的に評者を決めようという時に,布野フィーチャーしようと思ったわけ。野崎からも強烈に推薦があったからさ。野崎が布野を呼んで一緒に呑んでたら,布野が言い出したんだよな,みんなでしゃべればって。

布野:えーそうだっけ。

川床:流主水は中谷が付けたの。

中谷:そう,主水(モンド)に流れを付けたの,ル・モンド。「世界」

布野:矢田洋はヤダヨウでしょう。

中谷:谺炎造はサエンゾウと読んでいたの。冴えないぞーかなと思っていた。

布野:八田利也(はったり屋)の延長じゃない。磯崎と伊藤ていじ,川上秀光。ル・モンドは断然恰好いいね。世界を批評するっていうので,みんな乗ったんだよ。

中谷:だれも知らないよそんなこと。

布野:それを今からフレームアップする。コピーをもってきたよ。流主水のとこだけだけど。

川床:余計なお世話だ。

中谷:月に一回呑んで喋ったのを布野が原稿でまとめるという話だった。

布野:僕の記憶だとね,最初の2回ぐらいは僕が書いた記憶があるけど,あとはみんな中谷さん書いた。

中谷:俺,書いてないよ。

川床:俺,けっこう書いたけど全部忘れた。

布野:文体で誰が書いたか分る。

岸:これ矢田洋も偽名というか,全員匿名なんですね。

布野:ペンネーム。矢田洋は何冊も出してるよ。編集長は馬場さんだったよね。

中谷:馬場さんには一言も相談してないよ。考えてごらん,あのね。布野はいいとしても俺と野崎と川床でしょう。当時,川床はジャパン・インテリアに居たよ。野崎は『建築文化』の編集部でさー。俺,『新建築』でしょう。この三人がつるんでね,布野を祀り上げるなんて,どうみたっておかしいんだよ。

布野:前代未聞だね。それを話題にしたらどうかとか,そういうメディアのあり方って一体なんだったのだろう。というのが今日のテーマなんだけどね。これ全部読み返したけど,面白い時代だったね。70年代末でしょう,第二次オイルショックがあったでしょう。全然ものが上がって来ない。多分,1979年1月号の月評は僕が書いている。渡辺豊和さんの「テラスハウスロマネスク桃山台」。これは建売住宅ですよ。建売住宅を『新建築』が扱ったのは初めてだと思う。建築家が住宅メーカーやディベロッパーの住宅に手を出すのはタブーだったそんな時代ですよ。その後,宮脇壇さんあたりも住宅メーカーの団地を手掛けるようになる。僕が『群居』を始めるのも建築家がもっと住宅市場に介入しようという,そうしないと食べられないというのが背景にあった。「群馬県立図書館」というのは,誰だっけ。

中谷:大高さんじゃないかな。

布野:大高さんだ。磯崎さんの近代美術館の奥に建ったのかな。「甲南大学図書館」,彼かな。永田祐三さん。白浜の「ホテル川久」やった。79年を振り返るのは別にやるとして,なんで『新建築』に入ったの。

中谷:たまたま。というのは…。

布野:建築を勉強したんだよね,

中谷:勉強してねーよほとんど。

中谷:40年前。42年前か。

布野:してないんだよね,我らが世代は。それで次の月は。

川床:今日はみんな無理だよ

中谷:全部布野が書いてるんだよ

布野:違うちがう,川床さんが相当書いている。「しょせん,建築文化の上澄みのあぶく,その皮膚表皮にまとい,・・・垢の浮遊する領域のたわごと戯言,世迷言・・・一番最後いいね,文化主義者に乾杯って。

中谷:合作だねたぶん

布野:まとめたのは中谷さん

中谷:俺じゃーねーよ。

布野:俺こんな文章力あるかなー。

中谷:あるある。

布野:一応全部カバーしている。新建築で扱ったやつすべてにコメントしている。

中谷:月評って,始まったのは71年だよ。俺が入った年なんだけども。月評の日は,書く人をぜんぶ新建築社に集めたんだよ。

布野:刷りあがったやつを見せて書けとやっていた。中谷さんはおかしいと言っていた,見ずに書けるのかと言っていた。

川床:行けないもんな。

布野:行けないし,それはおかしいから。

中谷:見ないと書かない,それを元々言い始めたのは宮脇壇なんだよ。初めはね,とにかく読者と同じ目線で書く。読者は本しか見ていない。皆本を見て書くというのが原則。しかもさー,締め切りぎりぎりだ,次の号だから,書かないと帰さないっていう状況で編集室にカンヅメ。

布野:今どうなっているんだろう。

岸:月評あります。誰がやっているのかは興味ない。一つ聞きたいのはル・モンドの原稿に文句は言われなかったんですか

中谷:だれから。

岸:編集部から。中谷さんが。

中谷:基本的に,雑誌屋さんは署名記事に関してはクレーム付けません。

布野:雑誌屋さんてどういう事。

中谷:出版みんなそうだと思うよ。署名記事というのはその人に責任全部ある。逆に言うと勝手に原稿内容を変えちゃいけないんだよ。あるいは,全く没にするかどっちか。

岸:原稿は誰がつくったの。

布野:4人居たんだよもう一人死んだ野崎正之。

岸:でも,パソコンじゃないですよね,手書きですよね。

川床;たぶん布野ちゃんと俺で,適当にやっていた,書いてふくらませたり。

中谷:ほとんど二人だよ。

川床:二人で書いたり,俺が一人で書いたり,適当にやっていた。

布野:文体みれば分るよ。

岸:取り上げるものは,一晩掛けて。

布野:飲み屋で中谷さんが『新建築』持って来て,こうだああだ,喋った。これはいいとかなんとか。一晩ということはないよ。あとは別の話をしてたと思う。

中谷:ばれたら,おれはこれだよ。

布野:だけど結構ー,いい事書いている。こういうのをどっかでやるべきだって言うのがある。毎月,『新建築』だけじゃなくって,今年,この月,こういう作品がアーキテクトフォトで扱われている。それをコメントしておく。学生はそういうことやってると思うんだけど。

川床:役割分担は布野ちゃんがクリティークで,俺はお笑いですよ。

ペンネーム

川床:建築家に頼まれて,お前作品見て書け,という話はけっこうあったんですよ。俺,ジャパン・インテリアの現役編集者だったので,全部ペンネームなんですよ。白井晟一の爺さんが,静岡の石水館とか,あれ出来たから観に行って書けと,電話かかってきた。

布野:そんな緊密だったのか。

川床:『近代建築』とか『ジャパン・インテリア』に書くんですよ。編集者がペンネームでね,他の媒体で書くってことはあんまり無かったけど,『建築文化』でもペンネームで何度も書いているんですよ,野崎さんに言われて。島耕助,したから読むと,すけこまし。

布野:誰も読んでなかったと思う。

川床:読まない,読まない。

中谷:それが建築専門誌の弱点でもあったと思う。

布野:そう。

中谷:読まねえーんだよ。逆に言えば一つの建物取材してね,『新建築』の場合,要するに文章なんかどうでもいいわけ。むしろ物さえちゃんと見せればいいわけ。

布野:川床さんが白井晟一に可愛がられていたっていうのを今日確認したんだけど,僕は,悠木一也というペンネームで,サンタキアラ館について書いたんだよ。僕の最初の建築評論。振り返ると白井晟一の作品の中ではたいしたことない作品かもしれないけれど,一生懸命書いたんだよ。20枚書いた。書かせたのが田尻さんで一緒に見に行って,和木通さんというカメラマンいて。田尻さんはここから撮れとか指示してた。大学院の時に書いた。もう全体が白井晟一へのオマージュなんだけど,書いたら白井晟一が5万円もする中央公論から出した『白井晟一全集』をくれたの。僕が建築ジャーナリズムと係わる最初のきっかけは白井晟一なんだ。だから田尻さんのインタビューと神子さんは僕の『戦後建築論ノート』を書かせた張本人だからまずインタビューする,そしてル・モンドと来るわけ。

岸:お二人のキャリアの最初にル・モンドがある。編集者として若手だった頃ですね,79年。このル・モンドっていう経験は,その後何かに活かされたということはあるんですか?

川床:全くないですね

岸:編集業の仕事よしてある種のチームとして回していたと言うか。

川床:ゲームみたいなもんですね。短時間のね。中谷さんの『新建築』という大店からずーっと広がってくるんだけど,貧乏出版社はとにかく金稼がないといけないんですよ。次のものを出そうと思うと,自分で金とって来て作るしかないんですね。とにかく会社を維持するというか,ピーチクパーチク子供のいる社員に喰わせるために,社長としてはね。

岸:話聞いてて,面白かったのは,ル・モンドは誰も読んでない。

布野:読んでないよ。

岸:読んでないからこそ,勝手な事が書けるっていうか。

布野:月評,読んでいたのはたぶん100人ぐらいじゃない。でもそこに取り上げられた人は気になるわけで。前号の建築家たちは全部読んでいた。ほんんど読んでないから,ある種,悪口みたいなことも書けるという,その構造はTwitter(X)っぽい。

岸:時間としては,圧倒的に月評の方が遅い。けどその分瞬間風速が強い。Twitterは早いけど,一時間前の事も忘れてしまう。

新たなメディアの夢想

川床:建築とジャーナリズム研究会って最初に話があったときにね。

布野:A-ForumのAJ研究会。

川床:なんだ,布野ちゃんがやって来たことじゃんと思った。『群居』だけじゃなくってね,『都市美』とかね。『白井晟一研究』もかな,そういうものを編集してきてる。なんで布野さんがそうなっていったか。今でもそうだよ,こんな事やっているのは,編集が面白からですよ。それで何で面白いかったら,人を根掘り葉掘りお節介したいわけ。編集者とはお節介屋である。まったくそうなんですよ。頼まれもしねーのに,本,書かねーかとかさ。あれ取材しようかとさ,余計な事ばっかりやるのが編集者なんですよ。だけど,編集者が居なければ,新しい刷り物とか,表現とか,話題とか生まれないんですよ。それを産まないと編集者とは言わないでしょう。と言っていいのね。

布野:確かにね。お節介屋かもね。『都市美』は山本理顕さん。『白井晟一研究』は,白井昱磨さんだけどね。

居心地のいいメディア

川床:そうするとね,俺なんかより遥かに布野さんの方が編集者やってるわけ。さらに今ほじくり返して,またやろうとしている。そういう立場の人からの話なんで,はい分りましたという感じ。

布野:頼もしいけど,どういう形なら成立するのか確信がないんだよね。若い人は,活字は読まない。

川床:新聞って生まれてから一回もとったことない。

布野:え!そうなの。新聞は全部は読まないけど,見出しと頁の配置で何となく全体のフレームがあるよね。若い人たちはもう新聞はとらない。スマホで情報を得ている。一般に言われるけど,そうすると自分の関心のあることだけに興味をもつ。この間の神子さんの会の時に,今村創平さんが言っていたけど,あることについてはディープなコミュニティができてるんだけど,その横のつながりがない。

中谷:かつては『建築文化』『新建築』『SD』『都市住宅』というメディア自身が一つの力を持っていた時期があった。ところがね,今,メディアが無くなっちゃったじゃない。

布野:それが出発点なんだよ。この間,安藤正雄先生がうまいこといったけど,『新建築』も『建築文化』も,『SD』も『都市住宅』も,今のニッチなコミュニティだった,彼はそれをエコシステム(生態系)というんだけど,紙媒体メディアがなくなったというけど,失われたのは居心地のいいエコシステムが無くなったということじゃないの,というわけ。なるほどと思った。中谷さんが,『新建築』が同人誌じゃないか,と言ったのはある違和感があったんだよね。それで地方に眼を向けたいと思って居心地よい誌面にしようとした。馬場さんは馬場さんで,ゼネコンや大手組織事務所をトップに置いた方がいいと思ってたんだよね。『建築文化』では,野崎さんが専らアヴァンギャルドに焦点をあてたがっていたわけだ。

そういう新メディアが今どういうかたちで可能かどうか,僕は今考え中。若い人たちに期待してるんだけど,ちょっと動きが見えない。若い先生なんか,学生の作品を批評するとハラスメントになるなんていう。

ただ,絶対必要だと思うのは,建築家に何らかのインパクトあるメッセージ,要するに批評,評論,議論がいる。勝手に作って,かっこいいでしょうというのはまだいいかもしれないけど,凡庸で,何も考えない建築がつくられ続けていくのは嫌なんだよね。

東日本大震災後の復興ということで,いかに凡庸な建築が大量につくられたことか。知らないうちに,著名な建築家も仕事をこなしちゃってる。新国立競技場にしても,木一杯使ってますーっていうレヴェルでいいの。まじで議論できるメディアが何かできないかなーということ。

個人メディア

中谷:メディアに居た人間は今まで無名性でやってきたわけじゃない。メディアの名前で仕事してきた。自分の名前で有名性をもってやっていくというのも一つの方法かなーと思った。

布野:それいつ頃。

中谷:もう10年ぐらい前かな。

布野:それは僕もあると思う。平良さんは,布野,ひとりでもやれ!というんだよ。実際,長島昭夫さんの個人雑誌『建築と日常』という,ひとりでやっている例もある。僕の場合,ひとりでこれまで書いたものをまとめるとか,まだまだ書いておきたいことがあるから,それを続けるのは問題ない。

ただ,メディアを発想する場合は,宮内嘉久さんの『廃墟から』を批判してきた経緯があるから,商業的というか,経済的には自立したいんだよね。まあ,サロン,同人誌と言われても力を持てばいいと思うけどね。吉本隆明の『試行』は,水準の高い原稿をひたすら書くことで,それが売れたんだよね。

川床:言われるといろいろ思い出すんだけど,池袋の汚い喫茶店に連れてかれて,嘉久さんと話したことあるんだよ。それは『建築』の復刊問題。難しい人だなーと思ったね。

布野:『廃墟から』からやはり拡げたかったんだと思う。僕の場合は,『地平線』というのを立ち上げるという話だった。

川床:俺らは遅れて来たイデオロギー好き少年たちなんだけど,ゴリゴリの人たちも残っていたわけで,宮内康さんとかいろんな人も居た。デザイン雑誌の馬鹿編集者がさー,何か意見言うのは可笑しいような気もあったりして。

布野:僕は,福井駿(2021)さんの『編集者宮内嘉久の思想と実践について』修士論文(京都工業繊維大学)に収録されているんだけど,宮内さんの『地平線』の顛末についてインタビューを受けた,最近ね。

それは吉本の「自立」の思想とも関係するだけど,要するに嘉久さんはスポンサーを前提にしていた。今で言うとメセナを当てにする感覚だった。好い事をやているんだから,お金出して欲しいという無心が先だった。

自前で出すというのが基本だという僕と決裂して,日本の住宅どうするか,という事をテーマに『群居』を始めてることにしたのは,『地平線』が潰れたこともかなり関係がある。豊和さんとか,大野勝彦さんとか,石山修武と『群居』を始めたのは1980年頃で,1982年12月に創刊準備号を出した。時間の前後がわからないけど。川床に期待したんじゃないの。

川床:俺はやめた方がいいと言ったんですよ。せっかく連れて行ってくれたのに,いろんな総合的な状況から見て,君はどう思うかって言うから,いろいろごちゃごちゃ言ってけど。結論としてはやめた方がいい,と言って二度と嘉久さんから声掛からない。

布野:係わった方がよかったの。

川床:俺けっこう好きだったの。本読み込んでいたから。

布野:この修論書いた福井くんの結論は,自立メディアの可能性があるっていうことなんだけどね。嘉久さんは,当時は前川(國男)大明神で,一方で理解ある企業に無心をしているというかたちだった。要するにスポンサー,パトロネージであってのメディアっていうかたちが前提だった。

川床:要するにすべて業者だからね。建築家もメディアもデザイナーも。会社作ったときに何でもやる編集会社と言ったのはいいんけど,喰っていかなきゃいけないから,一番金になるところったらリクルートだったのよ。

布野:それは編集会社としては当然だよ。

川床:糞みたいな仕事でもやろうと。だって皆,会社で口開けてぴーぴー待っているわけね。編集者ってそういうもんだと思う。だけど一人でやる事は別だ。俺がやらなかったのは,非常勤とか,奴隷みたいな仕事。

布野:『建築ジャーナル』が頑張っているけど,設計事務所の写真広告がベースになってる。本文と写真広告頁が分かれている。隈研吾建築都市設計事務所の広告が入っていたりする。ゼネコンが出すんだよね。紙媒体は,それなりに配りがいがあるんだろうか? 新建築の建報社はどうなってるんだろう。

川床:だって金なきゃ雑誌出せないじゃないじゃん。

布野:今はネットだとバナー広告とかがある。課金のシステムもある。これからは有料ですとかね。きついこと書いたら金は入らない?

川床:いや,金集めるのと,きついこと書くのと別。

布野:きつい事書いて,誰が金を払う?

川床:読者はどうでもいいと言えばどうでもいいんで,情報としてのデザインが問題。まず,徹底的に金集めたわけ,関係者に紹介してもらって。BPから何から全部紹介してもらってさ。金,集めて,あれだけ人集めて,原稿料払った。版元だから,金を集めなきゃ作れないじゃん。

布野:原稿料は払いたいんだよね。『群居』は会員制,会費で20年もった。何とかやりたいことはほぼ一致しているような気はするけどね。だいたい基礎認識は一致してる。

川床:一致一致。それは分っている。

川床:『群居』とか一番いいなー。

布野:『群居』は純粋だったよ。

川床:純粋というか,王道だけど,どういうメディアが必要なのかという事を考える必要がある。

布野:しかし,若い人は自分のことで精一杯なんだよね。

川床:建築ジャーナルと言ったときに,電波なのか紙なのか,クリティークなのか,幾つか柱がいるわけさ。3本柱ぐらかな。紙と電波と言うと必ず金が絡む。だけど,逆に言うとそれ以外絡まない。それを表出する・・基本構造がある。テキヤみたいなもんだからさー。

布野:最後の仕事になる,布野の。

川床:だから面白いから付き合うわけ。死にかけの老学者にさー,何を付き合えばいいのかなーと最初心配だったんだけど。布野ちゃんが言うんだらしょうがねーなーっていう感じだよ。

布野:学者ではないんだけど,やることは決まっていて,これまでいろんな経験をして考えてきたことを書き残すということね。未来の一人の読者に向けてね。僕は,思いもかけず,学会とか,大学の世界で生きることになったんだけど,中谷,川床は民間で生きてきたから逞しいよな。

だけど,この間数えたら,29人かな,海外含めて大学に居るわけ,布野研究室を出た学生が,京大に教授と准教授2人,筑波大,群馬大,奈良女子大,京都工繊,京都府大,大阪工業大学,明治大,近畿大,関西学院,福山大,宮城大,滋賀県立大学・・・・いわゆる弟子がいる。国公私立5大学渡り歩いてきたのは,喧嘩早いからなんだけど,学会の副会長にまでなったのは,どこかで身体張ってないと,大学の人事でも弟子たちがイジメられるからなんだよね。孫弟子もできているから,そこから拡げていけば,何かやれる事があると思っているけどね。論文とか,学位とか,この国の文科行政は,学術会議問題でもわかると思うけど,不愉快なことが山ほどある。

川床:分るわかる,分かる。言う奴がいないといけないのよ。俺は誰に対しても,それで?としか言ってこなかった,はい分りましたと,日和ってない。編集ってね,喧嘩性分なんだよ。金もないのにさ~,何か良いメディアをつくろうと思って。喧嘩してきたわけ。

布野:お金でしょう,基本的には

広告とカタログ

川床:もうちょっと正確に言うと,『新建築』って,昔1.5kgぐらいあった。50%以上広告載せちゃいけないんですよ。雑誌は。

布野:郵送料の規定だ。(第三種郵便物です)

川床:必死になって集めるんだけどね。リクルート,電通で勉強したのは,脅迫方式で,あそこが出てます,ここが出てます,広告はそうやって集めるわけ。ところが『新建築』が1.5kgもあると広告は見ません。目次をぱーっと見て,新しい製品をバラバラバラっと見ますよ。建築なんて誰も見ない。要するに,読者が見たいのは,一番新しい『新建築』が取り上げている建築,どんな物が出来ているかを見たい,だけなの。広告は半分あるけど,広告は誰も見ませんよ。

中谷:それに関しては異論があるんですよ。極端なのはね,本文要らない,というのがいる。今ほどね,情報が流れてないから,一番新しい材料が知りたい。地方に行くとね,『新建築』がずらーっと並んでるんですよ。ありがとうございます,どうですかーと聞くとね,うん,これ役に立ってますよと言うわけね。どういうふうにと聞いたら,お客さん来るとね,見せるの,どれで行きますと。

布野:それわかる。親父が,工業高校の建築学科出て松江市役所に勤めていたんだけど,『新建築』は本棚に並んでいた。『建築文化』なんて知らなかった。松江というか出雲は,菊竹さんが県知事の田辺長右エ門と親しかったし,作品集を親父に送ってきてた。芦原さんもやってきて,お前のこと話したよ,なんてこともあった。

川床:俺もいろんな会社とつきあったけど,総合カタログって有るでしょう。設備屋さんの陶器の総合カタログって毎年3億円なんですよ,それを受た。毎年そんなに新製品が出るわけじゃないんで,一部修正をしていくだけなんだけど。それを何万部もこんなに厚いの作って,設計事務所に全部送るんですよ。ただのカタログでしょう,それが3億円,今もっと安いかも知れないけど,各社がやっているわけ。写真撮ったり,スタジオで撮ったり,めちゃくちゃ金掛けて作るんだけど,それって何の意味があるのかなーってなるよね。その時に全部ネットで分るようにしちゃえばいいじゃんという人が居たのよ。

布野:最近の話。

川床:うん。だけど駄目なのよ。やっぱりパラパラ見て,事務所に置いておくわけ,そこが大事なのね。だから印刷物の貨幣価値というか交換価値というのはある。新聞だって全部そうでしょう。だから,新聞だって広告なきゃ潰れちゃいます。

最後のメディア

川床:お節介やきって言ったけど。布野ちゃんってねー,何かあると,呼ばれるタイプですよ。俺もそう,ちょっとこんなの考えてるんだけど,考えてくんないかーってやったのが山ほどある。一番向いているのは編集者なんだよ。間違いない。

布野:平良さんに言われた最後のメディアは荷が重い。で,お二人に声かけしてる。

川床:それがまだ甘いんだよな。優秀な人を。

中谷:いまさら俺たちの出番ねーかも知ねーよね。

布野:知恵を借りたいというか。

川床:野心があるからまだまだ偉そうにやりたいんだと思う。俺は本当にないけど,手伝ってもいい。

中谷:俺,今なー中国ででっかいプロジェクトやってるんだ。

川床:金とっていろんな建築家にやったりする。

中谷:建築家を使おうとしてんだ。

布野:中国については,そんな話一杯あったよ。僕にも。

川床:今でも一杯あるの。俺の親しい建築家,京都のTとか。Aとか,みんな,北京の郊外の何10haをどうしたとか言ってる。例えばね,ベトナムでもミャンマーでも,どこでも好いけど,布野ちゃんぐらいだったら政府レヴェルで国家プロジェクトの話つけて来れるわけよ。そうした時に今進撃にいるような,若手といっても30,40歳くらいかな。そいつらに,アートポリスみたいにバーンと仕事配れるようなね,そういう事をするのが布野ちゃんの仕事じゃん。

布野:それはない。わりと最近,エジプトに日本式学校を100校建てるというプロジェクトに巻き込まれたんだけど,一銭ももらっていない。旅費ぐらい出せよ,という感じ。仕事を配るとなると,命がけになる。よく知っているの今ベトナムに居る建築家は,ベトナムから建設労働者を建設現場に送っているよ。中谷さんが土佐派の家をプッシュするんだけど,後継者どうなっていますかと言われると大問題だ。構造的にはみんなつながってる。

川床:そんなにはずさないでいいよ。僕が言っているのは簡単に言うとODAだよ。編集者からプロデューサーやっている訳だから,若い奴をどうやって支援するかでしょう。仕事とって来なきゃ。

布野:それが今日の。

川床:最大の問題。

布野:それができれば,苦労はないな。公共建築の設計者選定を若い層に開放するということは一貫して主張し,話があれば実践したきたけどね。今度も隠岐の島町でやる(「西郷港周辺地区デザインコンペ」)。

試行錯誤

川床:俺,こういうのやってる。こういうの作って遊んでんる。

布野:やる気あるんだ。

川床:Fasebookで出したやつ,ぱらぱらと遊んで,まとめたわけ

布野:こういうのをさー,読めるようにしておくだけでも,意味あるんじゃないかと思うわけ。それで出版社が,これは本に出せると思ったら,本にしてもらう。

川床:これが売れなかった見本です

布野:皆やっているんだよこういうこと。

中谷:これはねー,ある知り合いが俺のフェイスブックを見て勝手につくってくれた本なの。

岸:開き癖ついちゃいます,大丈夫ですか。これをスキャンしようとすると開いちゃうので。

川床:これはぜんぜん構わない。これは中谷さんのだから。

布野:素晴らしい。

布野:みんなやってるじゃない。この世代は,やっぱりハードコピーなんだ,

川床:こんなの作った

中谷:次から次となー

川床:この辺見せると,酔いが回るから

布野:岸君がこれ預かって責任もって返す。岸君が今日来てくれて,よかった。

中谷:よかったねー

川床:編集者の病み上がりのなれの果てがね,個人的なメディアをちょこっと作って遊んでいるみたいな事はやっているんですよ。だからジャーナルって話も,面白いなーと。一杯試行錯誤してやっていく事になるんだけど。仕舞いにはね,見えてくるときは来ると思うんだよ。布野ちゃんが頑張ろうとしている,だからすごい応援しようと思うわけ。

布野:うれしいね。

川床:昔ね,ぼこぼこにやられて苦労して経営やっていたんでね。だから,そうすると。

布野:凄い同志ができた。でも年寄りばかりじゃねえ,若い子が欲しんんだよね。

川床:若い子を探すのは考えればいいじゃない。

布野:ここを編集事務所にというのはありかな。

中谷:むかし,川床と俺と野崎の三人で編集事務所やるなら,事務所渡すぜと言われたことがある。

布野:誰。

中谷:竹山実だよ

布野:先生か,だから。

川床:建築の三馬鹿って言われたんですよ。

布野:確かに言っていた。僕も,真に受けなかったけど,文化の編集長に来いって言われた事あるんだよ。田尻さんじゃなかった,後藤武さんだったと思う。ばかなーって一蹴したんだけどね。僕は,何個か特集をやったからね。

川床:編集好きだからさ。

布野:ほんと,そうなの。見抜いているね。編集者的センスは自分でもあると思う。

川床:お節介なの。

布野:お節介だけど,何のためにお節介してるかという話があって,なんかうずうずするんだよね。

川床:簡単なんだよ,布野ちゃん考えた事をね,若い優秀なやつにDNA埋め込みたいわけ。で国家でも何でも国土でもね,とにかく物事はこういうふうに考えなきゃいけないんだぞーって,脅迫の方法を一杯もっているくせに,ろくな子供がいないもんだいから,いらいらしているわけよ。

布野:なるほどね。イライラはしてないけどね。

テープ起こし

布野:『新建築』で一年間,巻頭インタビューをやったことあるんだよ。有名どころをインタビューして原稿にするという。

中谷:いつ頃。

布野:石堂さんの時だと思うけど,僕が覚えているのは千葉大のインテリアの小原二郎先生,それから岩城造園の岩城仙太郎さん。各分野の大御所に僕がインタビューして,テープ起こしもして,原稿にするの1年やった 。

川床:編集長も幾つもやっているからね,

布野:テープ起こしして原稿にするって物凄く勉強になるんだよね。そういうことを若い人たちに言いたい。知らないことは調べないといけないし,要約する力もいるし大変なんだけど,ものすごく面白い。自分の思うようにストーリー組んで,言いたいことはこうでしょう,とまとめる。もちろん,本人が原稿チェックしてくれるから,訂正されれば真意がわかる。最後に(文責 布野修司)としか出てないけどね。

川床:やってね,著者から文句は付かない。

布野:著者はチェックするわけで,公表されてからは付かない。ただ,実際はしゃべっていないことをつけ加えることはよくやった。その方が主張が通りやすいから。こんなこと喋ったことはない,なんてことはなかったよ。

中谷:俺ね,インタビューを起こした,絶対真っ赤になるぞと言われたのは,大江宏さん。大江宏と鈴木博之の対談だった。普段なら大江宏さんから赤が一杯入るんだけど,ひとつも入らなかった。あれで自信もったね。

布野:僕は大江さんとは結構親しかった。タクシーの中でいろんな話を聞いたよ。彰国社の新建築体系の第1巻『建築概論』の編集を1年ぐらい一緒にやった。博之さんもメンバーだった。。一ヶ月一度ぐらい会議があって,帰りが同じ方角だったのでタクシーに同乗させてもらったんだ。大江先生が学会賞の選考委員長で該当者無しの時があったんだけど,何で学会賞出さなかったんですかと聞いたことがあって,彼にはは絶対やりたくなかった,「人入れ家業」で,スタッフによって作品が変わるような建築家は認めない。

中谷:まさに今の話はさ,ゼネコンの談合みたいな世界じゃない。それを何とかしない限りはね,建築は一般的意味での文化レヴェルにならないと思うよ。

川床:当時,多木浩二と山口昌伴の二人は他の雑誌の生原稿をよこすんですよ。僕はあの二人は頼むのやめたんです。

布野:ゴーストライターね。

川床:汚い字でした生原稿。

中谷:文字を読めるという話ね。

川床:他の編集者は読まないんですよ。

中谷:そういうのはあった。俺が完璧に読めたのは宮脇壇だ。

布野:このテープを起こしてくれる佐藤さんはね,そのまま起こすのがいいって言っているわけ。Youtubeで流すだけだとね,同じ時間が掛る。だけど文字になっていれば斜め読みでも出来るからってって。僕は,編集というのは必須だと思ってるんだけどね。それがないと聞きっぱなし,斜め読みっぱなしで,何が共有されるのかわからない。

中谷:それは俺たちじゃなくって,むしろ若い人の話?

布野:若い人たちに期待してやろうと思ったけど,なかなか出発できないでいるから,今,試行錯誤中。コンテンツを貯めようと思ってるところ。まって,今日もその一つなんだけど。

中谷:ところで,お前いつまで働く気。

布野:そうだよね。動ける限りやるんじゃない。中谷さんだって,Facebookの連載は本にしようと思っているでしょう。どういうメディアに載せるか,どういう受け手を想定するかって言う辺りが,問題。

中谷:ピックアップする内容が違うかもしんない。それをどういう形でね,どこに伝えていくか,っていう問題があるのよ。ターゲットは,建築じゃない所なんだよね。建築を技術論だとか,建築家の勝手なコンセプトの話じゃなくって,文化としてどう取りあげられるかいう事の方が重要じゃないかと俺は思っている。それと,俺,土佐派の家みたいなのやっているけど,伝統的な構法をいかに,今のいろんな基準法だとか,法律とかね,そういう問題に対してアジャストしていくかという問題がある。そういう事を考えると,建築というジャンルの中で誰が何をやったという話じゃなくって,それがどういう歴史的な文脈のなかで,どういう意味があるか,どう見たらいいのか,というような事が無いと,いつまで経っても,社会面では建築家の名前出ない。出るのはせいぜい犯罪者ぐらい。

布野:全く異議なし。そういうことをやりたいね。その前に死ぬかもしんないし。

地方に眼を向けてー中谷正人の軌跡

中谷:たまたま俺が大学の芝生に寝転がっていたら,服部岑生先生(当時は助手だったような記憶が?)が来て,こんな募集があるぞと『新建築』見せられた。編集部員募集。やってみっかと思ってよく見たら締め切りがその日なんだよ。昼ぐらいだったかなー。泡食って教務に行って,卒業見込み証明書出して,いつまで,今,って言って出してもらった。

顔写真も貼ってなきゃ判子だって押してない,それ持って新建築に行ったんだよ。そしたらさー道に迷ってさ。5時までというのを遅れて5時半ぐらいになったのかなー。着いたら事務の女性が,置いてったらーというので置いて帰った。

ダメだと思ってた。しばらくしたら連絡が来て,何月何日に六本木の文化会館に鉛筆持って来いという。そしたいきなり試験された。英文和訳,和文英訳,論文。

覚えているのは横文字なんて全くダメで,やってもしょうがないから適当にやって論文だけ書いた。論文で覚えているのは,雑誌の編集者っていうのは下請けじゃねーはず,と書いた。

布野:へえ,しっかりしてるね。

中谷:建築ジャーナリズムをどう思うかみたいなテーマだった。

布野:入った時は神子さんと被ってる。

中谷:被ってない。

布野:出て行ったから新人募集したわけだ,多分。

中谷:そうかもしれん。

布野:神子さんの話だと,組合つくって弾かれた。それで自分は『SD』に行こうと思ったけど組合作ったことがあってダメだった,それで相模書房に行ったんだ。小川格さんもほぼ一緒に辞めてるから,編集部員が空いた。

中谷:格さんはいったん,『a+u』に行っているんだよね。

布野:神子さんが『新建築』辞めたのは1971年2月だよ。

中谷:俺が入ったのはその年の4月。編集がどうのこうのとそういう夢は全くなかった。入る前,71年の1月号,今でも覚えてる。篠原一男の「未完の家」と「篠さんの家」が出てた。多木浩二の写真だった。

布野:多木さんは写真撮ったんだ。

中谷:あの人はもともとカメラマンだもん。コンポラ写真とかいうグループのメンバーの一人だ。中平卓馬とか東松照明とか。『新建築』はこんな粒子を荒らした写真も載せるんだーと思った記憶があるな。

入ってしばらくしたら,なんだよ!同人誌じゃないかい,てな感じがあった。

布野:ああそう。

中谷:有名な建築家ばかり出てるんじゃないかって。

布野:今日も持って来たんだけど,『新建築』に関係した編集者,写真家がまとめた『建築21世紀はこれからだ―編集者・写真家 三〇〇年の視点』 ,これ,神子さんが仕掛けたんでしょう。これ,中谷さんに送ってもらった。しかし,入った突端にそんな生意気なこと言ったの。同人誌だと。同人誌というのは仲間内ということでしょう。

中谷:そうそう。

布野:『建築文化』の方が同人誌的で,『新建築』は,一応,組織事務所とかゼネコン設計部も扱うから,あまり同人誌的じゃないんじゃないかと思ってたけど,入った瞬間に同人誌的だと思ったの?

中谷:入った瞬間でもないけどね。

布野:でしょう

「土佐派の家」

中谷:で,後で知ったことだけども,川添さんたちの第一次新建築事件の背景には,発行部数がダウンしたということがあったわけよ。

布野:それは神子さんも言っていたよ。

中谷:それを回復していったのは馬場だった。馬場は売れるためにどうしたかと言うと,彼は天辺を押さえれば全部抑えられるんだという言い方をしてた,それが馬場の持論。『SD』や『都市住宅』は建築界という全体のピラミッドの中では,ちょっとズレてる,トップではない。

当時の新建築には,確かにゼネコンも出てたし,大手事務所出ていたけれどもね。でも,もっと地方にね,ちゃんとした連中が居るはずだって言ったら,じゃお前探せということになった。

布野:そういう議論があったの? 中谷さんだけに聞いても一晩も二晩も掛りそうなんだけど。地方の建築家を連れて来い,探してこいと言われたんだ。その前に,これじゃあ同人誌じゃないかと言った。だけど,売れないとだめだよ,みたいなことはあったの?

中谷:売れないとだめとは聞いてない。

布野:地方の建築家をつれて来いっていうのは,いつ頃の話なの。編集長になるのは1991年,入ったのが1971年,74~75年にはヨーロッパへ行ったり,いろんな所へ行って見聞を広めてるよね。Facebookの「一期一絵?」はそういうときの写真でしょう。それはちゃんと本にして欲しい。

中谷:おそらく入ってから3~4年目じゃないかな。早い話が俺はそれで,地方に眼が行ったわけよ。もう一つこの時代に有難かったのは,伊藤ていじさんの高山サマーセミナー。

布野:入社二年目から参加したんだよね。

中谷:あれで日本中から集まって来たいろんな人たちのネットワークが出来た。その内の一人が高知の上田尭世さんだつた。そのネットワークが今だに全部つながっていて,地方に足繁く通うような切っ掛けができたわけ。

布野:上田さんの息子さんは,神戸大の建築を卒業したんだよね。僕も高知とは別の脈絡で縁があって・・・

中谷:上田博史くん。

布野:高知にある若竹まちづくり研究所の大谷英人さんが東洋大出ているんだよね。僕を東洋大に呼んだ内田雄造さんというのは東大闘争の闘志なんだけど,国の同和対策審議会の会長をしていた当時の磯村英一学長と親しくて,被差別部落の居住環境改善に取り組んでいた。その弟子が大谷さんで,先鋭的な所が高知県でそのまま拠点としたんだ。俺と同じ歳だ。

だから僕は「坂本竜馬記念館」の時の裏の仕掛けとか学会でサポートしてた。それで,山本長水さんとか,上田さんとか昔から知っているの,その頃から。だから中谷さんがやっている事はよく知っていて,高知とは関わってたから,上田さんとは今でも年賀状やりとりしているし。文旦か何か送って来る。

中谷さんは『新建築』の中で,そういう層を掘り起こしていこうとしたわけだ。東京の有名建築家の同人誌じゃなくってね。

中谷:結局ね,『新建築』に載る建物は,ほとんど東京と大阪じゃない。もっとそれ以外の都市でもいろんな人がいるはずだよ。新建築の情報ネットワークに引っ掛かって来ないだけじないか。そういう感じがあった。

『建築20世紀』

中谷:新建築でね,『建築20世紀』という別冊だしたんだよ。何人かの歴史家,鈴木博之も含めて集めてね。

布野:貴方の編集長時代?

中谷:いや,あの時は『住宅特集』の編集長だった。だから俺は取材だけした。編集はタッチしてない。で,あれを見てね,どれを面白いと思ったかっていうことを岸くんたちにお聞きしたいのね。というのは,我々はいろんな建築を見て来て,現代建築のストーリーが頭の中に入っているから,これはいいはずだと,これは大事なもんだと思い込んでる部分が多分にあるよな。

布野:もちろん,

中谷:ところがさー,そうでない見方がある,文化として見た時に,どうだっていうのをね,岸くんや世間に聞いてみたい。

布野:そういうことはやりたい。『建築20世紀』は,僕も何か書いたよ。鈴木博之・中川武・藤森照信・隈研吾 編だった。1991年だから編集長になる頃だよ。

中谷:取材していたころはまだ住宅特集にいた。あれは幕の内弁当なんだよ。

布野:確かに,総花的だった。だけど,そういう事をやって見せる,まとめて見せるメディアは必要なんですよ。編者として係わった時にはいい加減に選んでいるかも知れない。しかし,誰かが整理してみせるのは必要で,そこでなんでこれが入るの?と異論がでてくる。

『虚構の崩壊』は,パラダイム変換をうたったから,すごいインパクトがあったよ。それから,『日本の様式建築』ね。仕掛けたのは,たぶん石堂さんだよね。違うの,貴方もいたはずだよ。

中谷:『虚構の崩壊」は企画段階から居た。俺が入って数年後。

布野:1974年10月臨時増刊,創業50周年記念特別号『日本近代建築史再考―虚構の崩壊―』。いまでも持ってる。村野藤吾,谷口吉郎,西山夘三,浦辺鎮太郎,吉村順三,丹下健三,岡田孝雄,安田清,小場晴夫,田口正生,角田栄,尚明,吉武泰水,一文字文三郎,一文字というのは建報社の会長,そして清家清,渡辺力,三輪正弘,川添登,芦原初子,佐藤正己,最後に吉田義雄社長が巻頭に回想を書いている。それで建築作品101を選んでるんだけど,編集と論文は,村松貞次郎,近江栄,山口廣,長谷川堯で,編集後記代わりの座談は座談は馬場さんが司会して石堂さんが入ってる。

中谷:あれは面白かった。建築作品や論文の数を101と謳ってるけど,実は100なんだよ。数を勘定する読者がいて,もし数が足りないと言って来たら,101番目はあなたです,と答えることになっていた。

布野:面白いし,インパクトあった。「デザインの刻印」という磯崎新・鈴木博之による全作品の分析,分類もあるんだよね。その後,佐々木宏さんの『建築昭和史』(1975/12),村松貞次郎の『日本の様式建築』(1976/6)があって,横山正さんの『昭和住宅史』(1976/11)がある。

『建築20世紀』もだけど,僕は建築文化派と思われてたけど,ちょこちょこ原稿は頼まれてる。1年間巻頭言のインタビューもやったよ。

川床:建築は,どう情報化されるかっていう問題だよね。テレビ,新聞,雑誌,広告,俺の場合,そこから電通との付き合いが始まったんだけどね。一般紙と専門誌の関係ね,30数年前に『新建築』の事をちょっと書いているんですよ。

要するに,記録をきっちりやるのは『新建築』だけあればいいので,他のメディアは役割を持っていなけえば淘汰され無くなると。その通りになった。で,記録というのは一番強い。

『住宅特集』

布野:88年に『住宅特集』の編集長になるじゃない。住宅を専門にした雑誌は,それが契機ではないの。

中谷:『住宅特集』の創刊は1985年で俺は関係ない。あれは,石堂(威)がやった。季刊で始めたんだけど5冊目ぐらいから,月刊に切り替えた。あれは建築界ですごい反発があった。

布野:何で。

中谷:『新建築』で年に二回の住宅特集を組んでいた。『新建築』誌上に一般建築と住宅とが一緒に出ることによって,住宅も一般建築と同じレヴェルで考えていたんだね。『住宅特集』は住宅専門誌で,掲載されると住宅建築家になってしまうのではないかと。

布野:『住宅特集』には建築家の側から批判があったわけですね。

中谷:うん。一番頑強に抵抗したのは篠原一男。俺のは建築だ!住宅じゃない。

布野:それは分る。住宅は芸術である!だからね。

中谷:で,創刊してしばらくして馬場が『新建築』の編集長から外れた。大病したんです。胆石をこじらせて,全快するのに1年半ぐらい掛ったのかなー。その間,名目上編集長は変わらなかったけれど,石堂が代行していた。俺は副編だったけど,社長と石堂に呼ばれて,入院中の馬場に相談するな,われわれに相談すればいいと言われた。もちろん,バックレて病院通い。

布野:当時,『新建築』は何万部ぐらい出てたの?

中谷:4万部前後だと思う。

布野:実質ですね。『建築文化』は公称3万部とか言って1万いっていないぐらいな感じの時かな。そんな中で『住宅特集』もできる。『SD』もある『都市住宅』もある。80年代後半からバブルになるんだけど,1991年に編集長になって,4年後に辞めちゃうでしょう。なんで?

中谷:編集長になって,俺,なにもやってねーんじゃないかなー。

布野:石堂さんが新建築辞めるのはいつだっけ?

中谷:あれはねー,1999年かな?

布野:それでGAへ行くでしょう。行くタイミングには間があるの。

中谷:そこらへん,彼に聞かないと分らない

布野:編集長になったときには居なかった。

中谷:いた。馬場と石堂が入れ替わったときに,馬場は辞めたんだよ。で,俺が編集長になった。

布野:入れ替わったのは。

中谷:入れ替わったのは91年。

布野:貴方は88年に住宅特集の編集長になって,91年に新建築編集長になる

中谷:馬場が建築情報システム研究所を立ち上げたのは1988年で,建築社内に在った。

布野:そうなの!知らなかった。

中谷:それで,馬場が60歳になって,一応定年で出たんだ。1995年。

中谷:新建築の編集長をやれと言われた時に,条件付けたんだ,社長に対して,今までの編集長だった石堂をなんらかのちゃんとした役につけてくれと。編集長を辞めたときには,会社を辞めるというパターンにするなというつもりだったわけ。結局,石堂さんは部長という形になった。ところが本人は気にくわなくって辞めたということかな。1年かそこら居て。で,結局俺が編集長を3年やって,編集長から部長になれと言われて,何すりゃあいいんだって言ったら経営の事考えろと言われて。具体的に何やろうかと。経理なんか分りっこねーし。

布野:そうなんだだよなーその辺を川床さんに聞かないといけない。それで建築ガイドブックやった。

中谷:ガイドブックが10何年改訂版が出てなかった。だから安藤忠雄や伊東豊雄の作品はほとんど載ってない。

布野:更新されてなかった。古かったわけね。それはやりがいがある。

中谷:俺が一人でやるわいと言って。1000何軒かを一人でほとんど原稿を書いた。

布野:それは凄い,

中谷:普通はいろんな大学にぶん撒いてさー,歴史研に渡すんだけども。俺が書けばさー,余計な金いらねーだろうとか。社長はほいほい喜んでOKしたわけ。

面白かったし勉強になったのは,1863年から1993年まで,竣工年順に原稿を書いた。そうすると明治から現代までの建築のうねりが見えるんだ。

サッポロビールのマーク,覚えてるか? あれは南軍のマークなんだよ。南北戦争で負けた連中が北海道にやってきて,札幌農学校第2農場つくったりビールを造ったりした。一方でロシアからニコライという坊主がやってきて函館から東北を重奏してお茶の水にニコライ堂をつくる。お国ではイギリスからコンドルを呼んで辰野金吾や伊東忠太などを育て,官の系譜は新古典主義に染まっていく。ドラマチックだよ~。

中谷ネットワーク

布野:新建築を辞めて,中谷ネットワークが設立して95年から四半世紀経っているんだけど,この間やって来たことはどうなるの?

中谷:辞めた後は,土佐派から始まって,林業の方にいっちゃう。土佐派って木造じゃん。2年間,高知通いして,山もずーっと歩いたよ。ほとんど高知中を歩きまわた。そうすると,山の状況が酷いっていうのがよく分った。手入れされてない,産廃の不法投棄の場になっている。どうもこれは木造建築だけじゃなくって,林業そして国土保全の問題になると大げさに考えたわけですよ。

調べ始めたら林業にだんだん首突っ込んでいって,製材屋さんの本を一冊書いたり,2年ぐらい前かな,森林組合長で高知県の面白い人がいて,その人の半生記を本にするという,これは俺は原稿書かなかったけど,ほとんど取材に同行して編集した。

布野:そうすると,この四半世紀のベースは高知で,木造で,林業で,というのでずーっと来た。すごく一貫しているよね。

中谷:それで,その間に4年ぐらいか近代建築に連載したんだ。

布野:それ本にしなくちゃ。

中谷:何時の間にか,『近代建築』はPDFでアップしているみたいだけどね。誰でも見れるみたいよ。

布野:そういうのも,新メディアではアレンジして使おう。それを例えば岸君がコメントするとかね。

コチコチの編集気質・川床優

川床:武蔵美で,長谷川堯さんに近代建築論を教わったんですよ,直に。助教だったかかなー,その後教授に。

布野:非常勤だと思うよ 。

川床:それで,建築って文学とくっ付いちゃってもいいんだとか,そういうことが初めて分ったわけ。それから堯さんとは長いお付き合いになって。2年の時に坂本一成さん,当時28才に図学,3年から竹山実さんに設計計画,織本匠さんに構造力学を教わりました。

布野:磯崎さんはいなかった。

川床:ちょうど入れ替わったところだった。

布野:川床さんも図学やったんだ。

川床:必修だもん,構造も。途中は省くけど,いよいよ卒業しなければいけなくなるじゃん。その時に卒制ってあるんですよ。

布野:優秀賞をとったと書いてある。

白井晟一論

川床:竹山ゼミだったんだけど,先生ねー卒制って論文だけでやらしてくださいよと言ったら,例がないって・・・。

布野:武蔵美だと,珍しいよね。

川床:そう,そしたら,ちょっと教授会で相談すると言って,何とかそれでもいいことにした,例外でということになった。その時に初めて図書館に行って世界建築家全集とか日本建築家全集とか,幾つかの全集を全部見た。面白かったのがガウディと白井晟一だけだった。ガウディは行く金がない。

布野:旅費がない。

川床:白井だったらヒッチハイクでも行けるじゃん。で実際見て回った。それで白井晟一論を書いたわけ。そしたら,たまたま大学賞になっちゃった。

布野:それまだある,持っている?

川床:図書館にあるけど,黒表紙の金文字で製本されてる。竹山先生が,アルバイトしてたジャパン・インテリアの編集部に電話してきて。君の論文,大学賞になったよって言うから,賞金は?って直ぐ聞いた。だけど,賞金なし,メダルと賞状だけだった。

布野:大学では,普通出ないよ。

川床:図書館がそれを製本するというけど一冊だけで,俺にもくれないわけ。それをオマケにもう一冊作ってくださいって二冊作ってもらった。もう一冊の方を先輩の柿沼さんという白井晟一さんの大番頭がいたんだけど,柿沼さんに送ったら,2,3日したら,ジャパン・インテリアに白井さんから電話が入って,川床さん白井さんよと言うから,はいはいって出たら,「中野の白井じゃがー」と言う。「白井晟一じゃがー」って言って。

布野:直接掛ってきたの。すごいなあ。

川床:それで頭真っ白になっちゃった。「あれ読ませてもらった,なかなか面白いじゃないか,だけどまだ勉強が足らんねと,一度遊びにきなさい」と言われた。

それから,なかなか行けなくってね,行ったってよしよしで終わりだからね,それから2年後に初めて会ったんですよ。その間にインドに行ったりしてた。

『ジャパン・インテリア』

布野:それまだインテリアに入る前?

川床:アルバイトの時に卒論が通ったのね。それで,なし崩しに入っちゃった。なんでジャパン・インテリアに入ったかと言うと,竹山実先生が,よく何とかの本読んだか?とかと言うんだ。何か俺を,なんていうかな。編集に引っ張ってやろうという感じだった。

布野:やっぱり先生なんだ。

川床:『ジャパン・インテリア』なんて俺全く知らなかった。デザインの雑誌なんだけどアルバイトに行ってくれって竹山さんに言われた。

編集長の森山っていうのに頼まれたから,ちょっと行って来てと言われて,電話かけて,六本木という所に初めて行ったんだよ。何で行ったかと言うと,卒論書くのにね,小さな出版社だけど。建築雑誌とか関連書籍とかが有るんですよ。あとね,コピーがただだったんですよ。

布野:コピーただ!

川床:これはものすごいよ,俺にとってはさー。ありがたい事で。

布野:我々の世代は学費払っているんだから,コピー代で取り戻そうという時代だったよ。

川床:夜中コピーとりまくり。

布野:とりまくる世代なんだよ。僕も図書館に入ってコピーしまくっていた。

川床:それで卒論を書いたわけ。

布野:俺も一緒だよ。コピー取って修論書いて。

岸:1975年より前から月刊インテリアに。

川床:4年生の時から卒論のために行ったわけ。車で配達してこいとか,そんな事ばっかりやっていた。編集部に入れという事になって。ちょっとお使いに行ってこいと倉俣史朗とかね,そういう所にいくようになった。直ぐ近くだから写真借りに行ってこいとか,いろんな人に会うことになるんですよ。だけど,インテリア・デザインって全く興味なかったんですよ。建築も白井晟一以外まったく興味なかった。

布野:初めて聞いた。

川床:インテリア・デザイン,そういう世界があるんだーと分って,それもまーいいか,雇ってくれるならと思って入ったんですよ。それが運の尽きなんですよね。

編集長の森山和彦さんというのが,桑沢で倉俣さんと同期なんですけど建築家嫌いなんですよ。ジャパン・インテリアって建築一切扱わない事にしてた。

毎号月刊で100頁も出せる,建築もいいよねと思って,いろいろ考えて,編集長を説得して,建築家の作品のシリーズを出し始めたんですよ。それが10人ぐらいやったかな。硬派と軟派に分けて,硬派は全部多木浩二さんに書いてもらって,軟派は全部植田実さんに書いてもらいました。

野武士たちとの出会い

布野:中谷さんに会ったのは?

川床:それ始めた頃。

中谷:竹山さんの取材で打ち合わせに行くという時に,何時に来いというので行ったんよ。普通はね設計者はね,編集者は全部ずらすんだよ。ところがねー行ったら川床と野崎が居て。

布野:そういう事か。なるほど,流主水成立の出会いは。この辺だな。

川床:そこで初めて伊東豊雄とか毛綱毅曠(当時はモン太)とか六角鬼丈(当時は正廣)とかいろんな人たちに会ってさ。インタビューみんな面白くってさー。

布野:そうだったんだよなー。みんな面白かった。

川床:ジャパン・インテリアなくなって。いろいろあって。それで82年に編集会社を作ろうと思ったんですよ。それは何でも編集しますという会社。

布野:メディア・ギルドでしょう,これいい名前だなーと思ってた。

メディア・ギルド

川床:英語とドイツ語の変な名前なんだけど。何でも編集します。建築雑誌とかデザイン雑誌は喰えないんですよ。

たまたまリクルートとのコネが出来たので,電通とか,手当り次第に編集しますと言って営業した。ただ社員は10人以上に絶対しないと決めたんですよ。責任とれないので。だけど10人喰わせなきゃいけないんで。何でも編集しますというのを方針にした。

何でも編集しますと言っていたら,要するにコンサル業務みたいなのが凄く増えていくんですよ。行政からいろんな相談が来るようになった。分りました,大丈夫ですよって言って,とにかく頼まれたらやったこと無い仕事でも,絶対受けるんですよ。

これ前にやったと思ったら,断るんですよ。例えば,日経アーキテクチュアの久留宮編集長が,新しいデザイン雑誌をつくるんで,ちょっとやってくんないかーと言ってきた。『日経デザイン』っていうんだけど。

布野:できたの?

川床:いろいろ事情があって,お断りしました。まだあるのかなあ。

情報デザイン研究所

布野:一番バブリーな時かなあ。1988年,I.D.L.情報デザイン研究所設立とある。この辺じゃない。1989年,電通・環境設計室コンサルタント,フランス行ったり。

川床:その前かな,『情報としてのデザイン』(1986年)というの作った。

要するに,何でも編集会社やっていたら。メディア・ギルド渋いっていう感じになって来て。情報デザイン研究所ってたら,変な話が一杯来るようになった。それで何でもかんでもやっていたら,疲れちゃって,何やっているんだろうなーと・・・。

ぽーんと飛ばすと,6年ぐらい前に,突然癌であと3ヶ月から6ヶ月ですとか言われたんだ。

布野:何歳だった,何癌?

川床:喉頭癌,65歳。それで記憶がほとんど無くなって。

布野:十分,鮮明だよ。

川床:都合の悪い記憶は全部忘れた。

布野:レジェンドはそれでいいんだけど。

川床:ヨーロッパと電通の関係でヨーロッパのなんだのかんだのとか,いろいろやっていたけど,病院に入った時に,会社とか全部整理してね,みなさん後は自力でお願いしますと。

松葉一清

川床:それで,一切お仕舞いと思っていたら,ここからまた松葉一清が出て来るんだよね。

布野:松葉一清が亡くなったのは,去年の2月だよね(2020年2月)。

川床:なんかあると,俺に仕事もってくるわけ。『世界のニュータウン』(1994~96年)だとか,『日本の都市景観100選』(2001年)だとか。また武蔵美の芦原義信の大展覧会やるからね,監修図録やってくれと言って,『芦原義信建築アーカイブ展』(2017年)は戸田ツトムと作ったの。

布野:松葉と知り合ったのはいつ頃なの?朝日新聞から武蔵美(2008年)に移ってから?

川床:朝日の頃,ガリガリの新聞屋さんだったよね。

布野:松葉一清というのは京大建築科卒。朝日の美術系担当は大西若人,今,彼が一人で書いている感じがあるね。

川床:松葉の話になると長いのでやめて,あいつが亡くなる一年半ぐらい前に,安藤さんの本を持ってきたわけ。『安藤忠雄 建築家と建築作品』(安藤忠雄・松葉一清共著,鹿島出版会)。松葉から。それで,話聞いたときに断ったのは,体力的に無理なので,やめておくと,言ったら,1ヶ月ぐらい経ってまた頼んできて,何とかしてよ,となって。

布野:編集者として見られるるってことだね,基本的に。

川床:そこで条件を付けて,病み上がりだしね,大阪にはもちろん行かないし,出来る範囲なら手伝うということにしたわけ。そしたら,もうメールと郵便物が山ほど来ちゃってさ,えらいことになった。めんどくさいから飛ばすと,安藤さんの新国立美術館の展覧会に間に合うように妥協してくれって,それが2年ぐらい前。

布野:黒川紀章の遺作ね,新国立美術館。

川床:ゲラ見たら,いつの間にか俺は責任編集になっていて。それで,新国立の展覧会の前の晩に納品したんですよ。

並河萬里

岸:一番苦労してつくった本は何ですか?

川床:しいて言えば,並河萬里の写真集(『神々の座 出雲』六耀社,2014年)かなあ。並河は10年ぐらい住んでいたの,あの辺に,隠岐にも。

布野:僕は,出雲だから並河萬里は知っている。川床が企画編集したことは今認識した。

川床:長い事編集やったけど,これは本気で作りました。

並河さんの奥さんから今まで書いた原稿,ビデオ全部預かって,全て目を通したわけ。並河自身が書いた言葉を,時々写真に載っけてもいいかって許しを得て,作ったわけ。写真の上にナレーション入れるというね。

中谷:高松伸作品集『王国』もあるね。

川床:編集者が何をするかという話をひとつだけすると,高松の写真を撮るのに村井修さんに通ってもらったんだけど,最初に頼んだのは4×5(シノゴ)使わないでってこと。4×5使うと新建築になっちゃう。

岸:4×5使わないで何で撮ったんですか。

川床:35(サンゴ)。

岸:35で撮る,へーえ。

川床:村井さんて,ずーっと新建築のね,4×5王国を作った人なんだけど。俺はそれを全部やめてくださいと言った。すごい写真ができました。おかげで村井さんとは中野の寿司屋でずいぶん打ち合わせ?ができました。最近で言うと,たまたま日本橋の高島屋デパートから年間企画を頼まれたときに,5人のデレクターを僕が選んで。その人たちがまた4,5人,ゲストを選ぶんだよ。

僕が真っ先に長谷川堯さんを選んだんですよ。直ぐメールして,そしたらかなり状況が悪くって。それで,松隈君にやらしてくれって堯さんが言ってくれたんですよ。で,松隈さんに,俺の企画通りに藤森さんとか陣内さんとか,全部入れてもらって。

その後は,柏木博さん,北川フラムさん,近藤康夫さん,橋爪紳也さんにお願いして。

高島屋の仕事を1年半ぐらいやらせていただいて,ずいぶん楽しませていただきました。それで,その後は一切仕事はしてないですよ,無職無収入です。

  

                            文責 布野修司


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