ヤン・ファン・リ-ベック 04

Jan van Riebeeck 04

世界分割(デマルカシオン)の最前線 The Front Lines of the War to Divide the World(Demarcation)

17世紀・オランダ・ケ-プ・バタヴィア・トンキン・出島 17th Century, Netherlands, Cape, Batavia, Tonkin, Japan-

世界の海をつないだ航海者たち Navigators who connected the world’s oceans

布野修司

Ⅳ バタヴィア 1639-1643

 

バタヴィアへ

 1639年4月19日,デルフト・カ-メルのホフ・ファン・ホラントHof van Holland号はバタヴィアへ向けてフレ-港を出港した。ホフ・ファン・ホラント号は,1629年建造で,長さ約 150 フィ-ト,幅 40 フィ-ト,排水量 300 トン,船員・兵士合わせて乗組員総数は 240 名であった。Dam, Pieter van(1927)に依れば,VOCの船舶の装備については細かい規定があり,マスト,桁,帆,ロ-プのサイズまで詳細に決められていた。ヤン・ファン・リーベックの乗船した船は 12 万ギルダー-相当の貨物を積んでおり,カルバリン砲(弾丸重量18ポンドクラスの中口径前装式大砲)14 門,大型砲 (24 ポンド砲弾) 6 門,小型砲 (18 ポンド砲弾) 4 門を搭載していた。小火器,武器は,サ-ベル,カットラス(舶刀),フリントロック式銃,マスケット銃が積み込まれていた。ヤン・バウウェンス船長は経験豊富で,東インドを幾度も往復しており,熟練した大胆な船乗りとして名声を得ていたという。

ヤン・ファン・リーベックは外科医助手で下級職員の扱いである。総督Governor-Generalに率いられるVOCの乗組員・職員は大きく3層に分かれていた。 (1) 商務官僚  •商務員koopman  •副商務員onderkoopman •助手 assistent ,(2) 航海部門 • 船長schipper  • 航海士stuurman  •水夫 matroos, (3) 医療部門  •外科医 chirurgijn  •助手 onderchirurgijnである。兵士soldatenは,軍事労働力であり,独立した意思決定層ではなかった。通常,船員・水夫は乗組員の3割,兵士は3~4割を占めた。

ヤン・ファン・リーベックの乗船した船長の給与は月額 80 ギルダー-,一等航海士50ギルダー-,主任大工42ギルダー-,副大工と外科医は40ギルダー-,甲板長26ギルダー-,コック23ギルダー-,外科医助手は25ギルダー-であった。会社は総じて従業員に前払い金を出すことを前提にしており,前払い金を給与から差し引くことが一般的に行われていた。

船内生活は様々な規定によってコントロ-ルされていたが,外科医および外科医助手には,第一に,積み込まれた薬箱の厳重な管理が求められた。薬の使用について記録し,東インドに到着したら,使用状況を届け出ることが義務づけられていた。使用状況を届けられない,あるいは届けない場合は不足分を給料から支払わなければならなかった。問題になったのが医療用と称するブランデ-である。外科医たちは,しばしば,医療目的よりも飲酒を目的としてブランデ-を処方していた。その結果,当時航海では,規律違反の酔っぱらい事案が頻発していたのである。ブランデ-樽が燃え,船 1 隻と積荷一切を火災で失う事件も起こっている。「17 人会」は,一旦,医療用ブランデ-の積み込みを禁止したのであるが,厳密に遵守されることはなかった。帰国船に,医療用ブランデ-と同じくらい高価なアラック(ヤシ酒)が大量に積まれるのは一般的であった。結局,ブランデ-は搭載され,医薬品の備蓄品ではなく,週に1,2回,小さなグラス1杯ほど乗組員に配給されるようになった。乗船員は,薄いビ-ルは飲んでいた。飲料水は,船尾にロ-プでつないだ大きな樽で運んでいたが,雨水が頼りであった。防水シ-ト,洗面器,容器にできるものなら何でも雨水を貯めた。船内に新鮮な水がないために,体調不良で動けない乗組員は少なくなかった。

 しかし,長い航海で栄養不足はつきものである。ワインやビ-ルは航海中に乗組員が得た唯一のビタミンだった。新鮮な野菜はすぐに底をつき,乾燥した野菜以外はほとんど何も積んでいない。アミノ酸の合成に必須のビタミンC不足が数週間から数ヶ月続くと発症するのが壊血病である。脱力,体重減少,筋肉痛,関節痛の症状が現れ,皮膚や粘膜,歯肉から出血し,歯が抜ける。最も苦痛で悲惨な病気の 1 つである。治療薬とされていたのは「油 2/3 匙,蜂蜜 1/3匙,マスタ-ド 1 滴」で,これをよく混ぜてパンと一緒に食べるというだけであった。

 今日の知見からすればビタミンCを摂取するしかない。ホフ・ファン・ホラント号は,ポルトガルが押さえているギニア湾沿海を避ける航路をとり,ナポレオンⅠ世が幽閉され,死去したことで知られるセントヘラナ島(現英国領),そしてケ-プを補給基地とするのみであった。河川水を水樽に補充し,野菜を補給したが,特にケ-プでは,ビタミンが豊富に含まれているスイバ(酸葉)が入手できた。壊血病患者を救ったのはスイバという。

 食料の管理はコックの責任であったが,リーベックは,毎日の食料を記録しており,肉は塩漬けで,塩水で茹でたものが週に2 回,塩漬けの魚も週に2 回だった。航海中,ヤンは決まった量のオ-ト麦,乾燥豆,エンドウ豆,米,チ-ズ,バタ-,そして週に1回少量の酢,油,レモンまたはライムジュ-スを自らの分として要求することができた。上級職員たちは自家製の食料を持ち込むことが許されており,ハム,ソ-セ-デ,ピクルス,ドライフル-ツが特別な食料箱で支給されていた。

 船内生活でさらに問題は入浴である。身体を洗い,清潔に保つのは難しい。外科医助手は1つ以上の小タンスを持ち込むことは許されず,その寸法は決められており,予備のシャツ,予備のストッキング,コ-ト,ズボンが1着ずつ入るだけであった。乗組員のほとんどは,航海中に1度着替えるだけで,海水で体を洗い,ひどい日焼けを防ぐために肌に油を塗る程度だった。

船内では,様々な便宜をめぐってお金のやり取りが行われたが,外科医は乗組員の誰にもお金を貸すことは許されなかった。月給を担保にした金貸しは結構儲かる商売だったが,「職務規則」では「私的商取引」とされ,犯罪行為とされていた。また,物々交換や販売,手紙の持ち帰り,オランダの友人への宝石や金や銀の送付,あるいは,会社が直接利益を得られない取引を行うものは「私的商取引」の罪に問われた。ヤンが後にトンキンから本国に強制送還されたのも「私的商取引」による蓄財の罪に問われたからである。

当時の東インドへの航海は何事もなく終わることはほとんどなかった。ホフ・ファン・ホラント号も例外ではなかった。出航して3ヶ月経った1639年7月,ギニア湾に近づきすぎ,シエラレオネの沿海で難破してしまう。ヤンは,岸に泳ぎ着いた同乗者とともに,西アフリカ沿岸で最もマラリアが蔓延している極めて不健康な場所で,丸一年もの間,耐乏生活を送ることになったのである。

ホフ・ファン・ホラント号が非常に貴重な貨物を搭載していたのと通常より多くの乗組員を乗せていたことから,「17人会」は,生存者の救援に通常よりも迅速に取り組んだ。貨物を失うのも重大であるが,船員1名を失うことも,その補償金が必要であった。外科医が片腕を失った場合,800ギルダー-,両足を失った場合1,200ギルダー-,片目を失った場合400ギルダー-という補償規定があった。 海外勤務中に死亡した従業員は,死亡後,恩給によって増額された給与総額が未亡人や親族に支払われたのである。

それでも,デルフト・カ-メルの派遣したアンボイナ号,アッカ-スロ-トAckersloodt号,ス-トフェンSutphenが救援に来るまで1年を要した。ヤンが乗船したのはス-トフェン号である。ス-トフェン号はケ-プに寄港せず,直接ジャワに向かった。そして,バタヴィアについたのは出航して18ヶ月後であった。

ヤン・ピ-テルスゾ-ン・ク-ン

ヤン・ファン・リーベックがバタヴィアに上陸したのは1640年の7月末である。

オランダ東インド総督は,第9代の,上述したヤンの家族とは知己であったアントニ-・ファン・ディ-メン(位:1636-1645)であった。ス-トフェン号でもヤンは外科医助手の仕事を続けたが,バタヴィアに着いてからヤンは外科医の仕事はしていない。私的な診療は禁じられていたのである。契約は最低5年間であり,取締役会の許可なしに辞職することはできないし,他のいかなる役職にも就くことができなかった。許可なく辞職することは不当な退職や脱走であり,厳しく罰せられたのである。帰国後も会社の従業員であり,特別の許可なしにはいかなる貿易や職業にも従事できなかった。ヤンがバタヴィアからティモ-ルなどへの遠征隊に同行した可能性はある。

ライホルトLeipoldt, C. Louis(1936)は,バタヴィアへの航海において,外科医として奉仕し続けることで富,名誉,名声が得られる可能性は低いと思い,商務員として仕事をしたいと思った違いないと推測している。ヤンは航海中詳細な日記をつけており,上級職員にはその義務があった。その能力があり,周囲も認めるものがあったのであろう。ヤンが商務員に昇格するのであるが,加えて,ディ-メンの推しがあったと思われる。

 VOC設立後,東インド評議会が設置され,ロ-デ・レ-ウ・メット・ペイレン号とグリフィウ-ン号が平戸と長崎を訪れ,家康から朱印状を受けた1609年の段階で,VOCの拠点はマルク諸島のアンボイナAmboina(アンボン),テルナテTernate,ティド-レ Tidore,バンダ諸島(バンダネイラ),バンテン(バンタム)の5ヶ所にすぎなかった。

オランダの商館および城塞建設が本格化するのは第4代総督ヤン・ピ-テルス・ク-ンの時代からである。初代総督ピ-テルス・ボ-トが帰国(途中遭難死)した後,第2代総督として任務に就いたのがヘラルト・レインストGerard Reyenst(在位1614-15)であり,その事務総長Directeur Generalだったのがク-ンである。彼は1607年に1度東インドに渡航し,1611年に帰国,翌年2船の司令官として再度渡航し,ピーテルス・ボートの指揮下にあった。第3代ロウレンス・レア-ルLaurence Reael(在位1616-19)にも就き,実質的に1617年には総督であった。以後,1623年に辞任するまで東インドを指揮した。さらに1627-29年には第6代総督も務める。VOCの基礎は彼によって固められたといっていい。

ク-ンは正式に総督に就任すると,スンダ・クラパでチリウン川を挟んで対峙していた英国商館を焼き払う挙に出る。「17人会」の意向で,このオランダのジャワ島における最初の占領地は,オランダのラテン名,「低地」地方の先住民族名に因んでバタヴィアと名づけられた。このバタヴィアを本拠地として,VOCは,アジア内貿易に本格的に乗り出すとともに次々に拠点を拡大していくことになる。

バタヴィアの建設過程については布野修司編(2005)「第Ⅲ章4-2 バタヴィア」で詳述したが,1619年に建設が開始され,第7代総督ヤックス・スペックスの時代(1629-32)に,チリウン川の東(右)岸オ-スタ-スタットが完成している。そして,1650年には城壁が完成しその骨格はほぼ完成した(図Ⅳ①)。ヤンがバタヴィアに居た1642年にバタヴィア法が施行されており,建設監督(ロ-イメ-スタ-)による建築許可制の内容をみると,当時の建設ラッシュの状況がわかる。ヨ-ロッパ人が住んだのはオ-スタ-スタットである。

バタヴィアの日本人

フランシスコ・ザビエルの日本伝導(1549-51)から16世紀末までに,日本人が「東インド」方面へ渡航していたことは,いくつかの記録から明らかにされている。ジャワ島への移住が本格化するのは,オランダがスンダ・クラパを拠点として,バタヴィア建設を開始して以降である。

バタヴィアにおける日本人の生活については,教会に残された『婚姻簿』『洗礼簿』,土地建物の賃貸借契約書や建築契約書,遺言状,裁判記録,その他公正証書などによって推測されるが,オランダに雇用されてバタヴィアに移送された日本人は主として軍務に従事した。すなわち,侍(サムライ)であった。他に,VOCの事務員や船員として雇用された者,また,土木建設工事に当たる労務者となったものもいる。さらに,オランダとの雇用契約を解除され,自由市民となるものもいた。自由市民の中には,バタヴィア市の内外に土地を取得した果樹園の経営者,不動産業を営む者,商業,貿易に従事する者もいた。

図Ⅳ① バタヴィア 1650 BAT K12

岩生成一(1987)によれば,バタヴィア在住の日本人として資料で裏づけられるのは,1620年,総人口2000人のうち71人(VOC社員),1623年,総人口2195人のうち159人(自由市民),1632年,総人口8058人のうち108人(内自由市民83人)である。一方,日本人の海外移住が禁止される1621年までに集団的契約移民としてバタヴィアに送致された日本人の総数は少なくとも241名以上が記録されているから,1920年代にはおよそ300人の日本人が居住していたと岩生成一は推定している。

 ポルトガル船の入港を禁止した第5次鎖国令(1639)に伴って,バタヴィアに追放された日欧混血家族のなかに,後に「じゃがたらお春」と呼ばれることになる,1625(寛永2)年生まれの14歳の少女がいたことは上述したが(Ⅰ  生存者たち,Ⅱ 商館長群像),記録には姉の「お万」は「マダレナ・マリヌス」「お春」は「ジェロニマ・マリヌス」と記されている。このブレダ号には,リ-フデ号の生存者18人の一人メルキオ-ル・ファン・サントフォ-ルも乗船していたこと(ブレダ号乗船追放人名簿(1640):ハ-グ国立公文書館(ARA)),1640年1月1日にバタヴィアに着き,翌年死亡したことも上述した。リーベックはサントフォ-ルに会った可能性はある。

第1次鎖国令(1633年)で日本を追放された日欧混血児たち,また帰国を禁じられた日本人たちが,故郷に宛てて送った書簡がいわゆる「じゃがたら文」である。「じゃがたら」すなわちジャカトラ(ジャカルタの古名)である。既に触れてきたが,ジャカルタの地はもともとスンダ・クラパと呼ばれていた。スンダは地域名,カラパは椰子である。1527年にイスラ-ム聖人スナン・グヌン・ジャティがスンダ・クラパを征服し,ジャヤカルタと改名し,バンテン(バンタム)王国の支配下に入った。この時(1527年6月22日)がジャカルタ生誕の記念日とされるが,ジャヤカルタは「聖なる勝利」を意味する。ジャヤカルタが訛ってジャカトラJacatraと呼ばれた。ジャカトラすなわち「じゃがたら」であり,「ジャカトラからの手紙」すなわち「じゃがたら文」である。

「お春」が「じゃがたらお春」と呼ばれるようになったのは,西川如見(忠秀)の『長崎夜話草』(1714年)によって,「お春」が送ったとされる「じゃがたら文」が望郷の念をうたう名文として知られるようになったからである。この「千はやふる,神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや,ゆかしや,見たや,見たや」と結ばれるこの名文そのものは,当時も蘭学者大槻玄沢は「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ,大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としており,古詩を交えて書かれるなど,少女が書いたとしては文章が美麗過ぎ,また「じゃがたら文」と後年「お春」によって書かれたとされる手紙との差異も著しいことから,今日では偽作とほぼ結論づけられている。西川の紹介した「しもんす後家お春」の書簡の他,平戸藤川家本2通と平戸木田家本3通,計5通の「じゃがたら文」が確認されている。

実は,ジャガタラ文5通のうちの2通(第一と第三。平戸藤川家本二通)はコルネリアの書簡である。父親はコルネリス・ファン・ナイエンローデ第5代平戸商館長(1623-1633),姉はヘステル,「じゃがたらお春」の2年前にバタヴィアに追放された「おてんばコルネリア」である。

コルネリアは「お春」より5歳年下である。お春,お万の姉妹とヘステル,コルネリアの姉妹は,平戸・長崎在住の時から知合いであり,バタヴィアの日本人・日系人社会でもともに生活することになった。彼らはまずバタヴィアの孤児院に入れられたと思われる。当時,孤児は「バタヴィア条例」(1640)の規定で24歳の成人に達するまで孤児院で監督を受けたのである。1618年から1659年までにバタヴィアで結婚した日本人移民は103人であり(岩生成一 1970),バタヴィアに居住した日本人はその最盛期において300~400人と推定されている。

「お春」は21歳の時(1646),同じく平戸を追放されたシモン・シモンセンの蘭日混血の息子(シモン・シモンセン・ファン・デル・ハイデ)と結婚し,三男四女を儲けた。夫のシモン・シモンセンは,VOCへ入社し,バタヴィアの税関長になるまで出世する。そして,退役後,フライト船(貨物輸送に特化した軽武装船)を所有し私貿易に従事した。大いに設けたとされるが,「お春」が46歳の時(1671)に死去している。「お春」は,夫の仕事を続け,1697年に72歳で死去したとされる。ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており,遺産の分配法などが示されているほか,富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかにされている。

コルネリアは,孤児財産管理室の監督から解放されるとすぐに,ピ-テル・クノル(1638-1672)と結婚,1653年から70年までの間に10人の子供を産んでいる。ピ-テル・クノルは,1647年にバタヴィアに着任し,1663年にVOCの首席上級商務員となる。VOCの金庫番となった能吏であり,バタヴィアで最も裕福な市民の一人であった。レオナルド・ブリュッセイ(1988)の緻密な考証に依れば,クノルの周辺には,ニコラス・ク-ケバッケル(第7代平戸商館長(1633-1638)の娘や平戸で二人の息子をもうけたカレル・ハルツィンクCarel Hartsinck (1633-1680)など日本滞在経験者の社交圏が形成されていた。

コルネリアにとって不幸なことに,クノルは病に倒れ,35歳にして死去する(1672)。40人もの奴隷を使用していたクノルがコルネリアに残した遺産は膨大なものであった。コルネリアは,46歳でヨハン・ビッタ-(1638-1714)と再婚(1676)する。1638年にア-ネム(ヘルダ-ラント)の裕福な家庭に生まれたヨハン・ピッタ-は,法律学を学んで学位を取得し弁護士業を営むが失敗,VOC勤務の法律家に転進,1675年にバタヴィアに上陸する。航海は難航し,妻と娘を亡くし,4人の子どもを抱えての着任であった。妻を亡くしたクノルと同い年の38歳のピッタ-とクノルと死別した46歳の寡婦が結婚したのは,ピッタ-上陸後,半年たたない1676年である。しかし,結婚直後から大喧嘩が始まる。その争いの具体的な内容,その後の経緯はレオナルド・ブリュッセイ(1988)に委ねるが,コルネリアは,1687年にバタヴィアを出航,ヘルデルラント州裁判所で起こした裁判のために,オランダに行く。そして,1691年に判決が下る。判決は,復縁し,仲良く暮らせ,というものであった。コルネリアは納得しなかったけれど,以降裁判記録はなく,死去したと考えられている。ビッタ-の方は長生きして,ウェイク・ベイ・デュ-ルステ-デという田舎町で市参事会に加わり,2度にわたって市長を務めた。

岩生成一(1987)は,幾人かの日本人の住所について明らかにしている。長崎出身のキリスト教徒,ヤン・浜田助右衛門は,バタヴィアで二度妻と死別し,三度結婚したことが知られ,1664年頃死亡しているが,その宅地はバタヴィアの東区,市庁舎東を南北に走るタイヘルス堀通りにあり,隣接して檳榔樹の果樹園を所有しており,中国人に貸付けていた。このタイヘルス堀通りには,1615年に高級船員として32歳で渡航し,1625年に結婚した日本人カピタン(甲必丹)ミヒ-ル・市右衛門の住宅もあった。市右衛門は,1651年頃,市外東部の森を借り受けて,伐木(材木業)したことが知られる。タイヘルス堀通りには,また,第8代平戸商館長であったフランソワ・カロンの住宅もあった。そして,このカロン宅には,第15代(第7代長崎)商館長ウィレム・フルステ-ヘン一家が住んだが,その妻スザンナは,以下に見る,リ-フデ号の生き残り組のファン・サントフォ-ルの娘である。そして,ファン・サントフォ-ルとともにバタヴィアに追放された「お万(マダレナ・マリヌス)」と「お春(ジェロニマ・マリヌス)」の母マリアの家もタイヘルス堀通りにあった。「お春」自身は,東インド会社の商務院補であったシモン・シモンセンと結婚するが,当初,ニ-ウ通りに住み,西区のヨンケル堀通りに引っ越している。

リーベックが,ケ-プタウン離れ,バタヴィアに異動したのは1662年である。マラッカ勤務(1662-65)を経てバタヴィアに戻るのは1665年である。そして,結局帰国を果たせず,1677年に死去する。最後の12年間は,「お春」,コルネリアと同じ空間で生活していたことになる。

アチェ

1642年5月,インド評議会(バタヴィア政庁)は,副総督であったピ-テル・ス-リ-を大使(提督)とする艦隊をアチェに派遣する。評議員ヨハン・マ-ツァイケルとヨスト・スホ-テンが随行したが,首席秘書官として書記官に指名されたのがリーベックであった。バタヴィアに着いて2年,ヤンは外科医助手から商務員に昇格したのである。そして,その後のVOC職員としての立場を得たことがわかる。ス-リ-とスホ-テンはまもなく死去するが,マ-ツァイケルは,後に,四半世紀にわたって東インド総督(第12代1653-78)を務めることになる。歴史のめぐりあわせというべきか,彼の在任中にヤンはバタヴィアで死去するのである。

東南アジアでイスラ-ムを最初に受け入れたのは,スマトラ島北端に位置するに位置するサムドラ・パサイ(蘇門答臘)王国(1267-1521)である。このサムドラ・パサイ王国は,インド洋と南シナ海,ジャワ海を繋ぐ港市として,東西交流に大きな役割を果たした。サムドラ・パサイには,マルコ・ポ-ロがその帰路風待ちのために5ヶ月滞在したとされ(1292),また,イブン・バットゥ-タもその半世紀後,インドのデリ-から中国に向かう途中15日ほど王都を訪ねている(1345)。また,帰路にも泉州からインドに向かう途次,立寄っている(1346)。そして,15世紀初頭の鄭和の大航海に参加した馬歓(『瀛涯勝覧』)は,「蘇問答刺国(スマトラ)」について,国名はアチェ(啞斉)に代わっており,首都もコタ・ラジャに移っていたと書いているが,サムドラ・パサイが衰退し,アチェ王国(1496-1903)がとって代わるのは15世紀末である。レイポルトLeipoldt (1936)は「アチェの人々の起源を知る者はいない」と書いているが,王国の起源は,チャンパ王国ヴィジャヤ朝(1000-1471)の王族が黎朝の圧力によって移住してきたこととされている。アチェ王国を建国したアリ・ムガヤット・シャ-は,16世紀初頭に急成長を遂げ,北スマトラ全域に領土を拡大し,グジャラ-ト,マラバ-ル,コロマンデル,ベンガルからの交易商人の窓口となり,マラッカ海峡の港市と交易活動を展開した。

オランダがジャワに到達した当時,またその後も,アチェ王国は,野蛮で残忍,獰猛で傲慢,極めて好戦的な王国として知られる。先行してマラッカを占拠した(1511)ポルトガルも,アチェ王国を攻撃して反撃され,大砲を奪われたりしている(1521)。ポルトガルは,やがて一定の良好な関係を築くことに成功したが,オランダはそこへ介入することになるのである。

ライバルの出現にポルトガルの敵対は当然であった。オランダの東インドへの最初の航海(1595-97)となる「遠国会社」のコルネリス・デ・ハウトマンの艦隊がアチェを訪れた際には,ポルトガルの介入で,弟フレデリック・デ・ハウトマン(c.1570-1627)が26ヶ月間捕虜として拘留される事件が起こっている。コルネリスが次の航海(1598-1600)でマウリッツ総督の親書を持って再来して国交が成立すると,アチェ王国の大使2人がマウリッツ総督への表敬のためにネ-デルラントを訪れている。しかし,アチェとオランダの友好関係は長くは続かなかった。

イスカンダル・ムダ(c.1593-1636)が王位につくと(1607),バンダ・アチェのオランダ・ロッジ(宿所)は閉鎖されてしまう(1616)。また,西スマトラのパダンのロッジから商務員は追い払われた(1621)。イスカンダルはアレクサンダ-,ムダは若い,を意味する。実際はペルカサ・アラムなどいくつかの名前や称号で知られるが,自らは,アレクサンダ-大王の子孫だとして「若きアレクサンダ-」と名乗った。アレクサンドロス大王の東征,その「史実」は,また「伝説」は,スマトラ島北端には伝わっていたのである。

イスカンデル・ムダは,アレクサンダ-大王の長征を意識するかのように,各地に遠征し,領土の拡大に勤めた。イスカンダル・ムダの治世中,アチェ王国はムガル帝国と外交関係を結んでおり,第5代シャ-・ジャハ-ンには12頭の象,第6代アウラングゼ-ブには8頭の象を贈ったという記録が残っている。

イスカンダル・ムダの軍隊は,600~800 人の兵士乗船の海軍(ガレ-船),ペルシア馬を使った騎兵隊,象軍団,歩兵部隊,2000 門以上の大砲と銃で構成されていた。彼は,まずスマトラ北部の支配を強化した上で,1612年にデリDeliを征服し(1612),アルAruとジョホ-ルJohorを征服した(1613)。そして続いて,ビンタン島でポルトガル艦隊を破った(1614)。1617年にはタイ湾側のパハンPahanを征服し,1619年にケダ,1620年にペラを占領,1623年に再びジョホ-ルを奪取し,1625年にニアス島を占領した。

そして,イスカンデル・ムダは,ポルトガルが拠点を置くマラッカを総攻撃したが,壊滅的な敗北を喫した(1628)。この敗北の後,イスカンデル・ムダは,スマトラ島北部の支配は維持したが,海峡で覇権を握ることも,インドラプラ王国や,バンテン王国の支配下にあったスマトラ島南部のランプン地方を支配することはできなかった。

しかし,従わない臣民の処刑や残虐行為,財産没収など強権政治で知られたイスカンダル・ムダが死去し,その義理の息子イスカンダル・ツァニがその跡を継ぐと(1636),オランダとの関係は復活する。イスカンダル・ツァニの治世中,オランダ人はスマトラ島西海岸沿いの貿易の独占権を獲得するのである。そして,アチェ王国は,ジョホ-ル王国,そしてVOCは,連合してマラッカのポルトガル拠点を奪取することに成功する。リーベックがバタヴィアに着いた翌年1641年のことである。出島にオランダ商館が平戸から移転した年だ。

そして,翌年,改めてバンダ・アチェに向かったのがピ-タ-・ス-リ-の艦隊である。ハ-グ国立公文書館にピ-タ-・ス-リ-の日記が所蔵されていて,モルスベルヘンMolsbergen(1912)は,ス-リ-の日記をもとにアチェ訪問について,1章を割いて詳述している(第Ⅲ章 アチェのリーベック 第Ⅱ章 アチェにて)。

5月15日にバタヴィアを出港,マラッカに着いたのが6月2日,8日間滞在した後,マラッカを出発した。ス-リ-号,ファン・リ-ベック号,オッタ--号,アンナ号の4隻編成である。6月26日にアチェ市の約3マイル下流に停泊し,合流を待ったが,上陸にはやや時間を要した。実は,マラッカ攻略を果たした前年,イスカンデル・ツァニが死去していたのである。

後を継いだのは,ツァニの妻でイスカンダル・ムダの娘タジョ-・ダラム・ツァフィアトエディンである。イスラ-ム王国で女王は珍しいが,その王位継承は妥協の産物であり,その再婚が条件であった。ところが,彼女が40歳になってオランダ人と結婚したいといい,周辺貴族も,バタヴィア政庁もそれに強く反対したというエピソ-ドが残っている。ジョ-・ダラム・ツァフィアトエディンの後を継いだのも娘のノ-ロエ・ダラム王女で,ノ-ロエはリーベックと同じ年に死去するのであった(1677)。

タジョ-・ダラム女王は,マラッカ征服後のオランダの勢力拡大を警戒したようである。当時,アチェにはム-ア船,ベンガル船,ペグ-,マスリパトナム,ス-ラトなどから多くの船舶が来航していた。イギリス船も入港しており,アチェを本拠地とし,ペグ-やベンガルと貿易することを狙っていた。

当時のバンダ・アチェについて,モルスベルヘンMolsbergen(1912)は次のように書いている。

「ファン・リ-ベックの時代には,アチェの街は川の両岸に建設されていた。ほとんどの家は竹で作られており,石造はほんの少しだけである。地面から5〜6フィ-トの高さの高床式住居であった。城壁のないこの都市には要塞や堡塁はなく,郊外にあちこちに廃墟となった要塞があり,砲車の横の砂の中にポルトガル軍の捕獲した大砲が横たわっているだけだった。2つの市場があり,インド人,アラブ人,中国人の商人が,適度な権利を通じて,彼らの商品は販売されていた。大きな建物の中で,ム-ア人の寺院は特に注目に値する。異教の仏塔,王宮,ピラミッド,亡くなった王子の墓などがあり,噴水や水道で飾られた美しい庭園の中にあった。」

図Ⅳ② アチェのVOCロッジ 17世紀 Molsbergen 1912

王都バンダ・アチェは,スマトラ島の先端へ流れ込むアチェ川の河口から5kmほど遡った左(西)岸に位置していた。王都に市壁はなく,王宮は河岸から離れた市街地の南西部に位置し,北門の前にアルン・アルン(広場)があり,その北にモスクがあった。アルン・アルンを中心とする構成はジャワの諸都市と同じであるが,ジャワでは,モスクはアルン・アルンの西にあるのが基本である。ただ,キブラ壁はマッカ(メッカ)の方を向くのが原則であり,バンダ・アチェで北にモスクが置かれたのはこれに則っている。アルン・アルンには,王が外国使節など公的賓客を謁見するバライ(東屋),裁判が行われるバライなどいくつかのバライがあった。馬場のバライと呼ばれるものもあり,アルン・アルンは馬場としても用いられていた。

王宮は,幅10m,深さ10mの堀で囲われており,大きく3つに区画されていた。北門から入ると広大な内庭があり,戦時には4,000人の戦士と300頭の象が集結でき,左右の一辺には40m以上の土壇の上に煉瓦造の武器庫が置かれ,他辺には4つの大きな石造の建物があって城壁の役割をした。内庭から第2,第3の区画が続くが,スルタンの私的な居住区となっており,数千人の妻妾,宦官,奴隷が居住し,パサ-ル(市場)もあった。アチェ川河口の東岸には土塁と砲台を備えた堡塁があり,王都への途中にも設けられていた。王都へ向かうアチェ川の両岸に,外来の商人たちはそれぞれカンポンを形成していた。16世紀末には,ペグ-人,ベンガル人,パサイなどが居住し,さらにインド各地,中国人,ジャワ人,ヨ-ロッパ人のカンポンも形成された。「それぞれの商人たちはアチェに到着すると,すぐに現地住民と契約を結び,通常通りに川に近い便利の良いところに竹の家を建設した。その川には彼らの8-10トンの船が容易に近づけた。カンポンは横木を渡した柵で囲われて,夜には泥棒を恐れて閉められた。ヨ-ロッパ人も川の近くの一本の長い通りに相互に接近して商館を建てた。」(鈴木恒之 2006)。

市域は,雨季にはしばしば水につかる低地であり,住居は,木造,竹造,ニッパ椰子や葦で葺かれた高床式住居であった。周囲にバナナや椰子の樹を植えて垣根をめぐらしているのが一般的で,密集しているのは一角にすぎなかった。A.リ-ドは最盛期(17世紀前半)のバンダ・アチェの人口を10万人としている。

アチェのロッジ(図Ⅳ②)に滞在していたのはヤコブ・コンポステル商務長と8人助手であったが,ス-リ-は,コンポステルらから情報を収集し,事前に女王への贈り物などのチェックを行っている。女王が前年訪れたスホ-テンに所望したのは金のエナメル加工のビンロウの箱,金の指輪数個などである。もちろん,側近への贈答品もある。事前にオラン・カヤ(貴族)の表敬訪問もあり,贈答品の交換も行われた。女王からの返礼は,馬,牛,水牛であった。

7月1日が公式行事の日であった。モルスベルヘンMolsbergen(1912)の記述はおよそ以下のようである。

税関職員,書記官は,持ち込まれた贈り物確認し,記録した。その後,高官たちが金の皿を持って現れ,その中に総督の書状が入れられた。金の皿に入れられた総督の書状は大きな象に乗せられて宮廷に持ち込まれた。その後を55人のム-ア人苦力が広い距離をとって続いた。そして6人のオランダ人が堂々とした足取りで続いた。ピ-テル・ス-リ-大使,アチェのロッジの商務長ヤコブ・コンポステル,商人長ピ-テル・ウィレムス(コンポステルの後任としてバタヴィアから使節団とともにやって来た),首席秘書官ヤン・ファン・リーベック,下請商人のヤン・ル-カス・レ-ベンディヒ,ヤン・ヤコブス・パ-スである。ス-リ-の日誌は,観客の数は 3 -4,000 人と推定している。オランダ船の乗組員がマスケット銃やその他の火器を持ち行列を迎え,彼らは宮殿に到着した。

生憎の雨模様であったが,女王は外で一行を迎えた。着席したオランダ人に女王は豪華な襟に3つの金章のついたアチェのロ-ブを与えた。その後,使節団を称えるために,闘象(象同士の戦い)が行われた。雄牛,水牛,ヤギ同士の戦いも行われた。

 女王が宮殿に戻ると宴会が行われた。使節団には金の皿で,オラン・カヤは銀の皿で料理が振舞われた。宴会が終わると,2頭の象にのってオランダ使節団はロッジに戻った。

 2週間後の7月14日,一行は,「コニンギンの遊園地」に招待され,大歓待を受けている。女王の夫より父親のイスカンダル・ムダを偲ぶアチェ人の多いことをス-リ-は書き残している。一行は半年滞在するが,専ら,ダイヤモンドなど宝石類の取引を行っている。ただ,宝石類は過剰供給気味で,また,アチェ向けにオランダでカットされた宝石が流行遅れだったというエピソ-ドも記されている。しかし,ス-リ-が持ち込んだ宝石は依然として大部分がよく売れ,さらに,1637年にVOCに与えられた貿易権が再び確認された。11月 26 日,ス-リ-はリーベックとともにオッタ-号でマラッカを経由してバタヴィアに帰航したのであった。
あった。

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