アジテーターとしての編集者 その5
卒論『建築家の主体性確立のために』
神子久忠
(敬称略)
*卒論で桜建賞受賞
卒業までのことを、少し多く書きすぎた。了とされたい。
私は1963年4月、日本大学理工学部建築学科に入り、1967年3月同学部卒業。卒業論文で、桜門建築会会長斎藤謙次から桜門建築賞(桜建賞)をもらった。同会は卒業生の同窓会で、毎年全学部から選ばれ、賞状と万年筆をもらった。
当時は卒業設計と卒業論文の両方をやることになっていた。卒計は「エドヴァルト・ムンク美術館」。「叫び」(1893年)や「不安」(1894年)、「思春期」(1895年)など、情緒不安定な絵に魅かれたこともある。それにムンク美術館なら、誰も関心をもたないだろうと思った。もとより建築家の才能がないことはわかっていたが、さんざんな出来栄えで論外。あとで調べると、「ムンク美術館」は1963年ムンク生誕100周年でオープン。その後、新しい美術館が2021年にできたとある。私の卒計は、どちらかといえば最初の階高の低い方に似ている。しかし卒論は卒計と違って、最初から書きたいことがあった。

ムンク 「叫び」

ムンク美術館 オスロ
Frode Inge Helland – Own work, CC BY 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1788891
*アルバイトの原稿書き
卒論の桜建賞受賞は思いもかけなかったことだが、これで少しは物書きでいけるかなという思いをもった。それは当時、『週刊 建設ニュース』という週刊誌があり、そこで書いていたこともある。
同誌は文字通り、建設工事の動向を知らせるのが主である。さらに建築設計事務所年鑑を出していた。だからそれなりの固定部数があり、経営は安定していた。
その編集長が岸川茂美。建設工事の動向のほかに、「竣工5年後」という頁があった。岸川は近江栄と懇意だったから、近江の提案だったかも知れない。有名建築の5年後を見て、竣工時とどう変わったかなどを書いた。大学3年、4年生頃である。

『週刊 建設ニュース』 1977.12
当初は、近江、黒沢隆、私、あとから大川三男などが書いたが、近江と黒沢は多忙になり、私の書く回数が増えた。当時私は連合設計市谷事務所でバイトをしていたから、実名は出せない。そこで、3つばかりのペンネームを使った。
近江が村松貞次郎や長谷川堯、鈴木博之などと『新建築』で、大正建築を軸に論陣を張っていた頃である。ある日、東大生研の村松のところに行ったら、頑張ってるね、読んでるよといわれた。近江が私のペンネームを教えたのだと思う。ずいぶん書いたが、なぜか原稿料は小切手だった。
*卒論「建築家の主体性確立」
卒論名は「建築家の主体性確立のために」で、「指導教授・研究室 近江栄」。当時、主体性の確立という言葉が流行っていた。いうまでもなく吉本隆明や鶴見俊輔などからの影響だが、より吉本の中心テーマである。自己の実現や個性の尊重によって、現代社会での人間のあり方を問うことである。
卒論の冒頭に、次の文章を引用した。
「井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながる」
これは吉本の『自立の思想』(1966年)の「日本のナショナリズム」での言葉である。
吉本は翌1967年に行われた講演「調和への告発」で、次のようにいっている。
「ベトナムに戦争があるっていった場合には、ベトナム人が沸騰し、全部が混乱しているっていうふうに想定したら、まったくのまちがいであって、戦争っていう現状のなかに平和っていうものがあり、ある局面があるってこと、つまり、そういう局面については、現実っていうものは、さまざまな次元の場面っていうのを許すものである。それが、ようするに、現実の実相であるってことは、また日本は平和だというふうに、彼らがいうときに、しかし、日本の平和なるものは、いったんこれを、ある視点をもって、これを眺めてみれば、ちっとも平和ではないわけで、そこには、いわば声をあげずに倒れていく人間もいますし、また、なんの声も発せずに老いさらばえて、そして死んでゆく人間もある。」(略)
「わたしは、依然として、いっけんすると無事平穏のごとくみえるこの現実のなかに、この日本の国家権力のもとにおける現実のなかに、さまざまな鋭い裂け目があり、そして、そのなかに、それをどうふうにすくい取っていくか、つまり、それをどういうふうに問題として立てていくか、あるいは、思想の問題として組み込んでいくか、そして、それが、国家権力っていうものに対する、どのような戦いの様相というものとして、展開されねばならないかってこと、わたしは、そういうことのなかに、情況があるっていうふうに考えております。」
少し長い引用だが、吉本がいわんとすることは明白である。一見すると無事平穏のようにみえる現実のなかから、思想の問題としてどう組み込んでいくか。それが自立思想の拠点だといっている。
鶴見俊輔は、吉本の〈井の中の蛙〉について、「〈樽〉の中にいるものはゆっくり〈樽〉の中を見回すことによって、〈樽〉の外の世界につながるといった思想家だ」といっている。
*村野藤吾の遺言
この井の中の蛙論は、私はのちに『村野藤吾著作集 全一巻』(1991年)を手伝う時、村野の次の文章に出会い驚いた。
「早大建築学科に入った時の思い出で、入ってから早稲田などといわないで、〈大隈さんの学校〉〈大隈さん学校〉といってましたです。(略)それから、絶えず少数派になれ。多数派になるな。多数派になったら少数派に帰れ。そうでないと良いデザインはできない。少数派になるということは非常に孤独でしょう。それに打ち勝って、勉強しなければならない。少数派になるということは非常にむずかしい。しかしそうでないと大きな仕事はできない。そういうふうにしていままで、私はやってきたんです。そういう気持ちですね。」
村野1973年82歳の時のもの。93歳で亡くなる11年前の文章である。文字通り村野思想の根幹であり、長い建築家人生での遺言とだいっていい。
*建築家の転向
卒論の構成は、序説―問題提起。建築界に於ける『転向』をいかにとらえるか。明治期に於ける建築思潮の推移―主に日本文化論の中にみたときの建築思潮のあり方。建築史にみる個人と集団(組織)との情況―その形成と形態および解体状況。資料NoⅠ,資料」NoⅡである。
いま思うと時代もあるが、なんとも硬直したテーマだったかとも思う。「転向」の問題は、吉本も鶴見も論じているが、それが建築界および建築家に、どう影響を与えたかを考えたのである。
鶴見は1954年東工大助教授の時、思想の科学研究会のメンバーを中心に「転向研究会」を発足、大部な転向論を出した。私は卒論のなかで、
同書について触れ、「その思想性の内部には、当然ながら、建築思潮も加えねばならない。その思想がいかにあいまいで、脆弱で、一貫性がなかったとしても、思想史的にみた転向論は論じられるし、論ぜねばならない。」と書いた。なんとも勇ましい視点で、いま読むと恥ずかしい限りだ。
鶴見は「転向」の定義を「権力によって強制されたためにおこりうる思想の変化」、「転向は権力からの弾圧や知識人の自発的な思想や心情の変化の変化であり、それは国家や体制のあり様やその力が人間の考えや生き様をどこかで左右してしまう。」という。それに対して吉本は「知識人が転向するのは国家のあり様や権力の挿(す)げ替えによるものではなく、もっと階級的で存在論的なものに原因がある。」という。
*丹下健三批判
わが国建築家も、こうしたことがあったのではないか、ということで丹下健三(1913-2005 91歳)に触れた。
「当代の建築界の第一人者として自他ともに許している丹下健三を取り上げれば、日本建築界の大略的な思想は、うかがい知ることができる。丹下健三を〈転向〉思想の中にとらえるとすると、いかなる〈転向〉概念に入るのであろうか。」
そこで「大東亜建設記念営造計画コンペ」(1942年)と「在盤谷日本文化会館」(1943年)の2つのコンペに触れた。そして戦中時の丹下の姿勢と、戦後鮮やかに建築家・都市計画家として「広島平和会館原爆記念陳列館陳」(1952年)で登場する丹下はどうか。転向だったとすれば、なにが要因だったのか。戦争協力と関係あるのか。それを横田喜三郎の「戦争犯罪論」を引用して論じた。横田は戦争犯罪とされる行為は①平和に対する行為、②通常の戦争犯罪、➂人道に対する罪といっている。

大東亜建設記念営造計画 丹下健三 1942
また私は「ファシズム建築の旗頭であった岸田日出刀、そして数多くの学徒を戦陣に送り出した内田祥三に見出したとしても、その態度と創造的な精神は、やはり検討される必要がある。」とも述べた。
後述するが、この問題を真正面からとらえたのが、井上章一の『アート・キッチュ・ジャパネスク―大東亜のポストモダン』(1987年)である。そこで井上はナチス・ドイツでのヒトラーの建築・都市づくりと、イタリアのファッシストたちのそれとは違うといっている。
*長谷川堯の丹下批判
のちに長谷川は『神殿か獄舎か』(1972年)の冒頭で、次のように述べている。
「戦後建築の具体的な恣意のためのメルクマールが、あのヒロシマの悲劇の一つの建築的決着としての広島平和センターであったことは、すでにそのこと自体においてモニュメンタルなできごとであったと私は思う。その設計者である丹下健三氏は、戦果はなやかな昭和17年、他でもない、有能な若き神殿づくりとして、建築界に召し出され、そこであの厳粛な神殿空間を支える軸線的構成の効果を私たちのまえに最初に披露していた。そして戦争がゲンバクによって終わった後、その同じ軸線を延長した位置において、ゲンバクの死者の葬祭のための神殿域として、広島の空間を完成させたのである。かくて戦後の建築作品の旅は、再び確固とした神殿建築の追跡として定位され、その志向の中で丹下氏は常に指導的立場を失うことがなかった。(略)かつて二十代後半の初々しい建築家のタマゴが、昭和17年の時点において颯爽と、清潔な軸線的構成の神殿計画に具現していたものは、いうまでもなくファシズムに駆られる国家の民族的拡大意志の建築的表明であった。」
長谷川がこれを書いたのは1971年11月・12月号、1972年3月号の『デザイン』で、34歳の時。私がそれを収録した『神殿か獄舎か』を手伝ったのが1972年8月。5か月しか経っていないが、私はすでに『デザイン』を読んでいたからできたのである。
私が卒論で丹下批判を書いたのは4年生の1967年で、長谷川のこの文章は世の中にはまだないにもかかわらず、こうした視点が持てたのは、いま思うと不思議な気がする。
後年、丹下は自伝『一本の鉛筆から』(1997年)で、建築学会コンペ「国民住居」で最優秀、翌年の同じ学会の「大東亜建設記念造営計画」で1等、日タイ文化会館でも1等で、「東大大学院に変なのがいるぞと方々で話題され、丹下の名が知られるようになった。当時30歳だった」といっている。
*井上章一の仕事
井上章一(1955―)は京大建築学科卒、同大学院修了建築史が専門。業績が求められて何回も定年が伸び、現在も国際日本文化研究センター所長。建築関連書も多いが、建築家の戦争責任論を書いた『アート・キッチュ・ジャパネスク―大東亜のポストモダン』(1987年)が秀逸。これを読むと、わが国建築家の転向を含んだ戦争責任論の問題点が論じられている。私は同書を読んだ時、苦労して書いた建築家の戦争責任論が陳腐なものに思えた。
井上は「むすびに」で、本書について西山夘三や布野修司、藤原惠洋などから「私は反動的で右よりで好戦的な、どうしようもない論客だとされた。」といって、大略、次のようにのべている。
「戦前、昭和初期以後、建築界では伝統的な日本建築の意匠を取り入れたスタイルが流行した。そして、これらは従来より、建築家による戦争協力として位置付けられてきた。〈日本ファシズム〉への加担と評されることもある。伝統的なデザインの採用により国体明徴の意を表わし、戦時体制に迎合したというのである。そして、こうした議論は主として進歩的と目される人々によって唱えられてきた。」
「だが、こうした考え方はまちがっている。当時の建築は、国体明徴などという観念とはほとんど関係ない。戦時体制とのつながりも、希薄である。いわゆる〈日本的〉様式はそうした潮流からはある程度切り離して考えなければならない。むろん、私の意図は〈日本的〉様式の復権にあったわけではない。歴史的事実を、諸資料の調査を通じて、生起したままに叙述する。ただそれだけを目差していた。」(略)
「繰り返すが、〈日本的な〉様式は戦争協力云々とはほとんど無関係であった。にもかかわらず、〈日本的な〉様式はファッショ的だとする議論が横行する。いったいなぜか。邪推すれば、それは、本当の戦争協力を隠して置きたいための工作かもしれない。建築界が具体的に行った戦争協力の実態を隠ぺいする。例えば旧植民地での活動、技術者としての積極的な体制参加の意欲などである。こうしたものを目立たせないためにこそ、ありもしない〈日本的な〉様式のファンション性が喧伝されている。だが従来の一般通念は、結果的には戦争協力の実態を覆い隠す役割を果たしている。それこそ、反動的な機能を担っているのである。最近は若手建築史研究者、旧植民地での建築家たちの活動が明るみに出てきた。当然、戦争協力の実態も浮き彫りされていく。本書が、そのために露払いになればいい。」

井上章一『戦時下日本の建築家』1995
*帝冠様式論への視点
井上は同書刊行から8年後に、書名を『戦時下日本の建築家―アート・キッチュ・ジャパネスク』(1995年)に変えて、違う出版社から出した。よりわかりやすい書名にしたのである。本文はそのままだが「むすび」をなんと25頁も書き、「索引」もつけた。
そこで京大建築学科地域計画研究室に入ってから、本書のテーマで書くようになった経緯を詳しく述べている。
修論で帝冠様式をファッショだとする一般通念の否定を当初からめざしていた。その後、京大人文研助手になり、そこの紀要に1982年帝冠様式論をまとめた。その続編が「大東亜建設記念営造計画」である。1930年代の帝冠様式が、よりファッショ的にエスカレートしてここに至る。建築界ではそれが一般的な位置づけだったが、果たしてそうか。そのためにあらゆる史料に当たった。
ところが、その紀要について布野が『建築文化』1984年5月号で「国家とポスト・モダニズム建築」で書いた。「井上論文は、ファシズム思想との無縁性のみを強調するバランスを欠いたものと言っていい。そのことにおいて、露骨なイデオロギーのみを浮かび上がらせるにとどまっている。取るに足らない、粗雑な歴史観として無視すればいいと言えるであろうか。」ということだった。
これに対して井上氏は「正直言って、つらかった。また、くやしいとも思った」。布野は私がなぜそうした結論へ達したのか、文献考証の手続きや、私の論拠に目をつぶってしまい、私の結論だけを「取るに足らない粗雑な歴史観だ」と述べている。
*布野の見解
上記の文章を布野に送付し、いつものようにチェックを受けたら、次の資料が添付されてきた。それについて触れる。
布野が書評したのは井上の最初の著書でなく、改題して違う出版社から出した著書である。
『文学史を読みかえる4 木村一信責任編集 「文学史を読みかえる」研究会・編」 戦時下文学 拡大する戦争空間」(2000年4月)、「この時代を読みかえるために―必読文献ガイド」である。
布野の批判は「ファシズム期における建築様式についての戦後の評価を転倒させようとする意識が先行するあまり、ファシズム思想との無縁性のみを強調するバランスを欠いたものといっていい。また、そのことにおいて、露骨なイデオロギーのみを浮かび上がらせるにとどまっている。」というものである。
続けて、次のように述べる。
ファシズム期の日本の建築家をめぐっては、なお検討すべき問題がある。新興建築家連盟の結成即解散(1930年)から建築新体制の確立(1940年)への過程は、建築家の活動を大きく規定するものであった。その体制全体の孕む問題は、拙著『戦後建築の終焉』(1995年)でも触れるように、建築技術、建築知識、建築学の編成、植民地の都市計画など、単に「帝冠様式」だけの問題ではないのである。
それ以前に、「帝冠様式」の問題が残されている。戦時体制下において開催された設計競技の多くは「日本趣味」「東洋趣味」を規定するものであった。この強制力は、果たしてとりにたらぬものなのか。具体的に、今日、公共建築の設計競技や景観条例において勾配屋根が求められたりする。これは景観ファッシズムというべきではないか。「帝冠様式」の位相とどう異なるのか。
明解な指摘である。景観ファッシズムともいうべき状況がある、という指摘にも驚く。しかし布野は井上のすべてを否定しているのではなく、例えば「〈帝冠様式〉をキッチュとして捉えるのは慧眼だ」と評価している。
*その後の方向
布野は1949年生まれ、井上は1955年生まれだから同世代だといっていい。その2人が、このテーマに関わったのである。
布野は『戦後建築論ノート』を書いたベースは、『建築文化』1977年10月号の「近代の呪縛を撃て」だといっている。26歳大学院修士課程を終えたばかりで、これが布野の建築ジャーナリズムへのデビューである。こうしてみていくと、両者とも1930年代が論述の中心だったこと、そしてこれが最初の著書でもあった。
私が相模書房を辞めたのが1984年。布野が『戦後建築論ノート』を出したのが1981年。相模書房では、佐藤弘社長のもとで自由に本づくりができて感謝しかない。しかし最後の方は出したい刺激的な著者がいなくなってしまった。そうしたなかで驚いたのが布野修司の存在で、こんな筆者がいるのかと驚いた。それで相模書房最後の仕事として手伝った。
その後の布野の活躍はいうまでない。士会連合会の『この人に聞く』2024年7月号をご覧願いたい。日本建築学会大賞受賞直前のものだが、布野がどのように歩んできたのかが、とてもよくわかる。
*長谷川堯の存在
私が卒論「建築家の主体性確立のために」を書いたのは1967年で、布野の『戦後建築論ノート』(1981年)の14年前、井上章一の『アート・キッチュ・ジャパネスク』(1987年)の20年前だから、むろんこれらの論考は知らず、ただ戦争犯罪論や転向論の視点でしか見られなかった。
卒論で戦中の2つのコンペに触れ、そこでの丹下のコンペと戦後の広島ピースンターについて、「これは明らかに戦後転向の好例である。そしてそれは権力への〈屈服〉であるよりも、むしろ〈行き詰まりの打開〉であったり、あるいは〈成長〉であったり、とする受けとり方の方が多い。ここに戦後転向の難しさや特殊性がある。」と書いたが、井上がおこなった徹底した文献調査をしなかった。指導教官の近江栄は、私には荷が重いということで、指示しなかったのかも知れない。私の怠慢である。
その後、布野と井上はこの問題に決着をつけず、方向を変える。井上は自分の仕事だけでなく、国際に日本文化センター所長としてもいろいろな仕事をし、布野は2025年日本建築学会大賞を「アジアの視座からの世界住居・都市研究の飛躍的発展並びにタウンアーキテクトの研究・実装に関する多大な貢献」で受賞した。ただ建築ジャーナリズムでは、建築学会でのWEB「建築討論」に貢献しているが、それはうたわれていない。

長谷川尭 『神殿か獄舎か』 1972
ということで、私は卒論を書いてからだいぶ経ってから、布野や井上の論述に出会い、ただアタフタするばかりだった。とても桜建賞受賞などに値する内容ではないことがわかった。
そうしたなかで、その後の方向性を打ち出せたのは、長谷川堯との出会いである。
長谷川は先述したように、戦後の丹下のピースセンターが戦前のコンペからの延長にあるとしている。それは井上も指摘している。しかし長谷川がその後展開する丹下批判は、そのことよりも、建築作品としてはどうかということにある。
長谷川は1972年に『神殿か獄舎』を出したが、「大正建築の史的素描」「日本の表現派」が中心で、後藤慶二の豊多摩監獄などを高く評価した。
本のカバーは、豊多摩監獄中央正面建築中のスケッチである。この圧倒的な後藤のスケッチが、大正建築の重要性を決定づけた。
しかしここではまだ十分に村野には触れてなく、「大正建築の盛んであった頃に学生生活をおくったような建築家、今日、すでに長老的な位置にいる設計者にも依然として獄舎的思惟が生きているのは興味深い。たとえば村野藤吾氏の近作「日本ルーテル神学大学(1969年)などは、まさに日常性のなかに実現した獄舎空間として、実にヒューマンな空間を実現しているのを見ることができる。」と述べている。
その後、丹下の〈オス〉思想に対して、村野藤吾の〈メス〉思想を対極に置く。そのことで村野の戦後復権の大きな仕事になっていく。こうして長谷川の丹下批判は、より深化していくことになる。のちに私が村野の聞き書きをまとめることできたのも、長谷川の秀逸な村野論があったからである。
『神殿か獄舎か』については、内藤廣の『内藤廣対談2』(2010年)に詳しい。巻末の年表作成などに協力した大川三男との対談も参考になる。『神殿か獄舎か』は、近代建築史研究者だけでなく、多くの読者に空前の反響を起こした。その後、『建築―雌の視角』(1973年)、『都市廻廊―あるいは建築の中世主義』(1975年)への三部作へ向かう。特に大正期の文学者たちの活動や中世都市への考察をした『都市廻廊』は大きな反響を呼び、毎日出版文化賞(1975年)を受賞した。




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