ヤン・ファン・リ-ベック 03
Jan van Riebeeck 03
世界分割(デマルカシオン)の最前線 The Front Lines of the War to Divide the World(Demarcation)
17世紀・オランダ・ケ-プ・バタヴィア・トンキン・出島 17th Century, Netherlands, Cape, Batavia, Tonkin, Japan-
世界の海をつないだ航海者たち Navigators who connected the world’s oceans
布野修司
Ⅲ ネーデルラント 1619-39
クレンボルフ
現在のネ-デルラント王国(通称オランダ王国)が位置する,歴史的に「低地」(ネ-デルラント)と呼ばれてきた地方が政治的に統一されるのはハプスブルク家の支配によってである。
フィリップ端麗公(PhilipⅡ the Fair 1478-1506;在位1482-1506)がアラゴン王フェルナンドとカスティリア女王イサベルの娘ファナと結婚して生まれた子シャルルがカ-ルⅤ世(Charles Ⅴ 1500-58,1506-55;スペイン王,1516-56 皇帝1519-55)となる。シャルルはヘント生まれである。カ-ルⅤ世によって成立したハプスブルク帝国において,ネ-デルラントはひとつのまとまりをもった地域として認識されるようになった。「高地」ドイツに対して「低地」の語が生まれるのである。「低地」地方が17州と呼ばれるのはカ-ルⅤ世が個々の地域の支配から得た17の称号に由来する。1555年に統治権を譲られたフェリペⅡ世は,1559年に「低地」地方を去り,再び「低地」諸州の地を踏むことはなかった。そして,「低地」諸州とスペインとの軋轢は次第に高まっていく。ネ-デルラント諸州が独立を求めて反乱を起こしたのが80年戦争(1568-1648)である。
ヤン・ファン・リ-ベック(ヨハン・アンソニスゾ-ン・ファン・リ-ベックJohan Anthoniszoon van Riebeeck)は,この80年戦争の最中,1619年4月21日―モルスベルヘンMolsbergen (1912)もレイポルトLeipoldt (1936)も,リーベックの生年を1618年としているが,教会の洗礼記録によって1619年であることが明らかになっている―現在のネ-デルラント(オランダ)王国,当時の神聖ロ-マ帝国・ネ-デルラント連邦共和国のユトレヒトの南,アムステルダムからユトレヒトを通ってさらに南に向かう街道沿いに位置するクレンボルフ Culemborgで生まれた。
クレンボルフの名の初出は1281 年のCulenburghに遡り,Kulenborch (1305),Culenborgh (1353),Colemborch (1363),Culemborch (1472) などいくつかの綴りが使用されてきたが,クレンは穴,ピットを意味し,ピットの城(ボルグ,ブルクburg,ブ-ルbourg,バラburh)という意味であり,1270 年頃に建てられた城の名に由来する。クレンボルフは,現在,ヘルダ-ランド州の人口3万人ほどの都市であるが,その起源は,神聖ロ-マ帝国の封建領主が1318 年に都市権を獲得した自治都市に遡る。要塞と町は,レク川の川岸に築かれ,その水を引き込んだ運河によって囲われたその形態はいまも確認できる(図Ⅲ①②)。1619年当時,人口は3000人ほどで,その3分の1はカトリック教徒,残りは改革派で,ル-テル派,レモンストラント派,バプテスト派,ユダヤ教徒が少数いた。

| 図Ⅲ① Culemborg in Joan Blaeu’s map Tooneel der Steeden, 1649 |
一般に,ネ-デルラント連邦共和国の成立は,マウリッツ(ナッサウ伯Maurits of Nassau 1567-1625,1618年からオランイェ公)がホラントとゼ-ラントの州総督に任命(1585)され,北部7州をまとめることに成功した1588年とされるが,国際的に独立が認められたのは80年戦争(1568-1648)が終結した1648年である。ネ-デルラント連邦共和国は,ホラント,ゼ-ラント,ユトレヒト,フリ-スラント,ヘルダ-ラント,オ-フェレイセル,フロ-ニンゲンの7州からなっていた。しかし,クレンボルフは,独立した自治都市としての権利を認められ,フランスの占領によって1801年にその権利を放棄するまではネ-デルラントに属していたわけではない。クレンボルフは,自治都市の独立自由の伝統を維持することによって,アムステルダムなどの大都市から避難民を受け入れる,一種のアジ-ルとなっていた。また, 椅子やテ-ブルなど装飾家具の製造で知られた。
ヤン・ファン・リーベックは,クレンボルフの中心部の「デ・フォンテイン(噴水)」と呼ばれるタウンハウスで生まれたとされる。リーベックの祖父ホヴェルト・アントニス・ファン・ハ-スベ-クGovert Anthonisz van Gaasbeekがクレンボルフの市長をつとめていたように,その家系は14世紀に遡る名門で,何人もの市長,議長,判事など指導層を輩出してきた。ヤンの父アンソニー-は,クレンボルフ市長ハ-スベ-クの娘エリザベス・ゴヴェルツドルを妻にし,市では有力者の一員であった。ユトレヒト出身の船乗りで,船主として成功し,勇猛で進取の気概にとんだ船長として北海で活動し,後にはグリ-ンランドさらには南アメリカにも足を延ばした。1639年頃にブラジルで死去,オリンダ(ペルナンブコ)に埋葬されたことが知られる。ただ,その経歴はほとんど不明で,船医で,ヤンは父親の影響をうけてその道を選んだという説もある。

| 図Ⅲ② クレンボルフ 2015 Open Street Map ◎ヤン・ファン・リーベック博物館 |
1621年に設立されたオランダ(勅許)西インド会社WIC(GWC: Geoctrooieerde Westindische Compagnie)は,ポルトガルの植民地拠点,ペルナンブコの首都であったオリンダを 1630年に攻略し,南約7kmのところにレシフェを建設している。アンソニー-は,この攻略戦に関わったと思われる。
オランダは,17世紀の半ばにヨ-ロッパ経済の生産,流通,金融のそれぞれの次元で圧倒的に優位に立つが,漁業も盛んであった。保存を可能にする塩漬けの技術の開発(13世紀),操縦しやすくスピ-ドの出る,またデッキが広く船上で加工が可能となるニシン漁船の発明(c.1400)によって,北海の塩漬ニシン漁を制した。また,タラ漁や捕鯨業もオランダが優位を誇った。ヤン・ファン・リーベックの父アンソニー-は北海漁業の繁栄の渦中にあったということである。
そして,アンソニー-がペルナンブコに埋葬されていることは,西インド交易,さらにオランダ西インド会社WICと関係があったということである。WICは,その設立(1621)とともにブラジルのポルトガル拠点を奪取する一連の戦争行動を開始する。設立2年後にはブラジルのポルトガル拠点バイア(サン・サルヴァドル)を奪取する。バイアはすぐさま奪い返されるが,1629年には,ペルナンブコのオリッサを攻略し,レシフェとマウリッツスタットを建設する。さらに,各地を占拠してニ-ウ・ホラントと名付けた。アンソニー-はこの遠征に関わっていたと思われる。
リーベックは,父が死去した1639年には,VOCの雇員となってバタヴィアに向っていたのであるが,育ったのは祖父の家すなわち市長の家である。父は,航海で家を空けることが多かったし,ヤンが11歳の時に母親が亡くなっている。父は再婚し,妹と二人,継母に育てられたが,その教育に責任を負ったのは祖父である。ヤンは,同世代の子どもたちよりもはるかに恵まれた教育環境で育ったのである。
リーベックの伝記を書いたレイポルトLeipoldt (1936)は,ヤンが育った環境,住居,生活,教育などその幼年時代について,以下のように,想像たくましく書いている。
「祖父ハ-スベ-クの家は,クレンボルフの中心部,レック川と運河,そして牧草地を見下ろす高台に建っており,ニレの木が木陰をつくる広々とした庭のある邸宅であった。広く,天井の高い部屋には当時の裕福な住宅でしか見られなかったしっかりした家具が置かれており,風雨や寒さに対する造作もなされていた。しかし,窓にはガラスがなく,浴室もトイレもない。週に一度程度,庭で水浴びするのが一般的であった。伯爵や侯爵と同格というほどではないが,市長であり,食糧は豊富で不自由はなかった。」
しかし,この想像はかなり怪しい。2021年12月に「ヤン・ファン・リーベック博物館」(アフテル通り38-4101)がオープンしたのであるが,元はリーベックの生家だという。確かにレック川に近いクレンボルフの中心部,官庁街に位置しているが,高台ではない。オランダの都市で一般的に見られるロウハウスである。当時流行したステップ・ゲイブル(段々状切妻)である(図Ⅲ③)。裏庭はそれなりに広いが,ヤン・ファン・リーベックが育った当時の地図(図Ⅲ①)を見ると,街区の中心はかなりの広さの中庭がある。「ニレの木が木陰をつくる広々とした庭のある邸宅」というのはそう間違いはないかもしれない。ヤン・ファン・リーベック博物館に問い合わせたところ,学芸員のスタム・ホルダイクStan Hordijkさんから以下のような回答があった。
「ヤン・ファン・リーベックは1619年,クレンボルグでアンソニー・ヤンスゾーン・ファン・リーベックAnthony Janszoon van Riebeeckとエリザベート・ホファツェン・ファン・ハースベックElisabeth Govertsen van Gaesbeeckの息子として生まれました。「デ・フォンテイン」(「噴水」という意味)という名の家で生まれたというご指摘は正しいのですが,一次資料による確証はありません。そのため,この点については慎重にご説明いただく方が良いでしょう。
この建物についてですが,残念ながら正確な建築年を特定することはできません。一般的には16世紀の2棟構成の建物とされており,その起源は古いと考えられますが,現存する資料からは正確な建築年を明確に特定することは困難です。


| 図Ⅲ③ ヤン・ファン・リーベックの生家(ヤン・ファン・リーベック博物館) Google Earth Street View図Ⅲ④ ヤン・ファン・リーベックの生家 20世紀初頭? Jan van Riebeeck Museum |
分かっているのは,1622年に当時の所有者で著名な弁護士兼公証人であったホーヴェルト・アントニスGovert Anthoniszによって大規模な改修が行われたことです。この改修工事では,元の角地にある建物と隣接する建物が近代化され,建物は増築され,ルネサンス様式の階段状の切妻屋根が取り付けられました。これらの改修によって建物の歴史的な外観は大きく形作られ,中世と17世紀の要素は今日でもはっきりと見て取ることができます。
さらに,20世紀にも大規模な修復が行われました。長年にわたり,建物の外観は大きく変化しました(添付写真 図Ⅲ④)。 1966年,自治体はこの建物をオランダの財団法人Stichting Jan van Riebeeckhuisに譲渡し,同財団は1968年から1971年にかけて大規模な修復工事を実施しました。この修復工事は主に南アフリカの支援によって資金提供され,プレトリアのV.G.ヒームストラ判事がクレンボルフを訪れ,161,088ギルダーの小切手を手渡しました。この修復工事のおかげで,建物は現在の状態を保っています。その後,この建物は自治体の公文書館(1985~2008)として使用され,現在はヤン・ファン・リーベック博物館となっています。」
当時,ネ-デルラントの新生児の生存率は当時20%程度であった。乳児を無数の網状の布でくるんで動きを制限し,肺の拡張を妨げるといった習慣があって,「くる病」も少なくなかった。乳離れは3歳頃で,裕福な家では,母親が自分の子供に乳を飲ませることはめったになく,養母が代わりを務めたが,3歳までの死亡率は高かった。順調に成長したのは,概して強くて健康な子どもである。しかし,麻疹や百日咳,天然痘などに罹患する危険は身近であった。
ヤンの一日は,食卓での朝のお祈りから始まり,祖父ハ-スベ-クが聖書を読んだ。朝食は,オ-ト麦と小麦を混ぜた焼きたてのパン,作りたての純粋なバタ-,カラント(スグリ,干葡萄)を混ぜたオ-トミ-ル粥,卵焼きやポ-チドエッグ,川魚の煮物や揚物など,時には肉料理が出た-肉は安くはなく,上流家庭でしか食べられなかった-。飲み物は水か薄いビ-ルで,コ-ヒ-や紅茶はまだない。砂糖もなく,蜂蜜が甘味料であった。昼食は,ス-プ,野菜,プディング,そして午後5時の夕食が一日の主食で,肉料理と穀類やイモ類,デザ-トとして新鮮な果物,飲み物はワインかビ-ルであった。
乳母から日常生活のル-ルやエチケットなどを厳しくしつけられてきたヤンは,7歳になるとスモックと半ズボン,そして長いストッキングと木底のブ-ツを履いて,村の学校まで歩いて通った。ルタ-の宗教改革以前の修道院の学校では,地域で最も優秀な少年を選び出すエリ-ト教育が行われていたが,ネ-デルラント連邦共和国の各州はそれを廃止し,地方自治体gemeenschapが無料で教育を行う制度を17世紀初頭に確立する。その管理下にない学校の設立を禁止し,教師は,改革派の信者で,聖体拝領者で,読み書きはもとより,聖歌を正しく歌うことができる者でなければならなかった。少しでもカトリックの匂いがするものはすべて厳格に排除されていた。
学校は,教会の礼拝を模した朝の礼拝で始められた。聖書の一章が読み上げられ,解説され,いくつかの詩篇が朗唱された。科目については,当時一般的に使われていたさまざまな教科書が知られるが,算数については『計算(算盤)の仕方』があり,高学年の生徒にはさらに代数,地球儀の使用,初等幾何学のより高度な教科書があった。また,文法と修辞学が教えられた。地理と歴史は各教師の関心によって自由に教えられたが,改革派教会の教義を強化し,支持することは厳格に決められていた。ヤンが手にした教科書は,『小要理問答』『アルデゴンドの質問書』『日曜福音書』『青春の鏡』『ダビデの歴史』などである。
ヤンの時代の少年たちは,学校の教室で勉強する以上の時間を遊び場で過ごした。彼らは,コマ,ビ-玉,ティップキャット(両端が尖った木片を棒で打ち上げる遊び)などの他,各種チ-ムゲ-ム,スケ-ト,そり,釣り,狩り,射撃など,家ではトランプ(オンブルゲ-ム,カジノゲ-ム)で遊んだ。厳格なカルヴァン派のサ-クルではダンスは避けられていたが,より寛容なクレンボルフでは奨励されていたという。
市長の家にはクレンブルグのさまざまな人々,さらには外国人なども訪れた。そうした機会にヤンは社会的な交流と紳士的な振る舞いの基本を学んだと思われる。当時,言語の取得は人生の成功にほぼ不可欠であったが,市長の家では,フランス語,フラマン語,ドイツ語,そしておそらく英語とイタリア語の実用的な知識を身につけたと思われる。ヤンが語学の才能に長けていたことは,後にトンキン(ハノイ)でヴェトナム語(越南語,キン語)を学んで駆使していたことでも推測できる。
理髪外科医-アムステルダム
14歳になって,リーベックは職業を選択する必要に迫られる。彼が選んだのは「医者」の道であった。上述したが,父親のアンソニーが船医だったという説がある。医者といっても当時の医術である。今日の医療とは全く異なる。実践的な「医者」の世界である。「医者」は,「ヒルleech」(寄生虫,高利貸し,搾取者)という蔑称で呼ばれる存在だった。何故「ヒル」と呼ばれたかは続いて書こう。何故,リーベックは,「医者」の道を選んだのか?

| 図Ⅲ⑤ アムステルダム 1623 Dirk Cornelisse Swart Taverne & Visser(1993) |
リーベックの時代にも,極めて少なかったけれど,大学で医学を修め医学博士と呼ばれる「医者」は存在した。また,今日でもそうであるように,「医学博士」と実際に医療行為を行う免許証を取得した「医者」は別である。ヤンの時代は,内科医と外科医の2つの医師ギルドがあり,そのメンバ-である外交官が医療行為を行うことができた。
1575年にウィレム1世によって設立されたライデン大学の医学部は,当時ヨ-ロッパで最も評判の高い医学校のひとつであった。レイポルトLeipoldt (1936)は,ヤンはライデン大学に入学して3年の学業で学位を取る能力を持っていただろう,カ-ンCaen,モンペリエ,パリ,ボルド-,そしてパドヴァならもっと短期間で学位を取得できただろう,しかし,大学の学位では生計を立てることはできない,それより,小さな地方の退屈な生活から抜け出して首都の活気に飛び込みたいという願望が,医者を職業として選ぶきっかけとなったのだろう,と書いている。
当時の著名な医師のほとんどは大学に通ったことがなかったし,公認ギルドの会員が大学の学位より低い評価を受けるということはなかった。ギルドは極めて閉鎖的で,会員(徒弟)数は一定程度に制限されていた。その会員は主に会員の息子や親戚から募集し,志望者には大学以上の特別な資格を要求していた。その選抜には,7州で最も教養があり,名誉のある人物が当たった。ヤンが徒弟として認められたのは,家系あるいは宮廷と関係ある知人の推薦があったと思われる。
ヤンが入会したのは比較的小規模な「理髪・外科医」のギルドであった。「理髪外科医」とは何か?何故,理髪と外科医が結びつくのか?「医者」が「ヒル」と呼ばれたことに関係がある。「理髪・外科医」は瀉血を行う医者であった。瀉血とは,血液を外部に排出させることで症状の改善を求める治療法である。その起源は,創傷や鬱血で皮下に溜まった膿を出すために切開したことに由来するが,「ヒル」など吸血動物に血液を吸わせる瀉血法も古くから行われてきた。そして,瀉血は,体内にたまった不要物や有害物を血液とともに外部に排出することで健康を回復させるという理論に基づいていて,広く行われてきた。「熱が出れば瀉血」「下痢をしても瀉血」「せきが出ても瀉血」で,頭痛についてはこめかみの血管を切開することが行われてきた。おそらく,その弊害,事故が多発したのであろう。ロ-マ法王が瀉血を禁止する布告も出している(1162)。そこで,床屋が瀉血用の小刀ともなる剃刀を開発して瀉血を引き継ぐことになるのである。現代の床屋の「サインポ-ル」となっている「赤・青・白の縞模様」はもともと「赤・白の縞模様」であり,赤は血,白は止血帯を表し,ポ-ル自体の形は瀉血の際に用いた血の流れを良くするために患者に握らせた棒を表しているという。
ヤンが入会したギルドは,ロ-マ時代,3世紀に病気や怪我に奇跡的な治療を行ったというアラビア生れの双子,コスマスとダミアヌスの伝説医師を守護聖人とした。メディチ家の守護聖人でもあるが,メディチは医師という意味である。カルヴァン主義が支配的となったネ-デルラントでも多くの伝統的な慣習や慣行を保持しており,ギルドは,徒弟に,強くて健康で美しい体,「有名な家族とのつながり,または民間生活での汚点のない評判」,ラテン語の初歩的な知識,そして上司や監視人へのほぼ奴隷的な服従を要求したという。入会式は,聖ダミアヌスと聖コスマスの日(殉教した9月27日)にアムステルダムのダム広場にあるギルドの大ホ-ルで行われた。
当時のアムステルダムは人口10万人を超え,半円形の城壁を建設,その内部に市域をさらに拡大しつつあった(図Ⅲ③)。その中心部に建ち並んだのは切妻屋根の数階建てのタウンハウスである。ギルドは40人程度の徒弟を抱えていたが,ヤンが住み込んだのは親方の家の屋根裏部屋で,何人かの徒弟と部屋を共有した。ほとんどの監督は2,3人の見習いを同じように宿泊させていた。
ヤンの出で立ちは,ロングテ-ルコ-ト,膝丈ズボン,粗いウ-ルのストッキングである。見習いは,かつらや手袋,杖や剣はまだ身につけてはいけない規則があった。朝は6時に起き,店を片付け,親方の給仕をした後,朝の巡回に同行した。実地研修である。午後はギルドの講義に出席した。時にはライデンの医学校に同行して解剖学を学んだと思われる。親方は,軟膏やエリキシル(塩化カリウム),薬や保存薬の調合,包帯の巻き方,器具の扱い方,応急処置と簡単な傷や骨折の処置について,その基礎を教えた。
ギルドはライデン大学の学生とも交流をもっていたが,ギルドはより厳格で,はるかに実践的であった。徒弟は,監督の監視下で生活し,ギルドの一般的な規則だけでなく,監督の家庭内の規則にも従わなければならなかった。授業料は必要とされたがその額は少額で,親方は助手として使った。ギルドの規則では,「ヒポクラテスの誓い」に従って,貧しい患者から報酬を受け取らないこと,ギルドの息子に教育するために金銭を要求しないこと,結石のために手術をしないこと,職業上の秘密を厳格に守ること,などが決められていた。ギルドの特権は,その規則が厳密に遵守されるかどうかにかかっていたのである。
「理髪外科医」は独占的に瀉血を行ったが,施術には「医師」の認可が必要であった。一方,「医師」は施術を許されなかった。すなわち,この「医師」は,傷や打撲による病症を除く内科全般を診断する要するに内科医であって,別のギルドに属した。「理髪外科医」は,歯科医,整骨医でもあり,灸や,カッピンググラス(吸引機)を使用するのは「理髪外科医」であった。当時,内科医と外科医の実地訓練は並行して行われてはいたが,内科と外科の関係,人体の構造については明らかではなかった。瀉血はいたずらに体力を消耗させるだけで治療効果が疑わしいとして,18世紀以降次第に行われなくなった。
徒弟は,毎年実技試験に合格しなければならなかった。そして,4 年間の終わりにはギルド会員となる最終試験があった。2 人の試験官によって8 日間も続けて行われたという。口頭試問と実技試験があり,試験官から渡された ラテン語で書かれた2つの処方箋の材料を準備する,3つの主要動脈から血液を採取する,化膿した傷を洗浄して包帯を巻く,焼灼器の使い方を実演する,簡単な症例について説明してコメントする,といった課題であった。質問は医療実務分野全体にわたり,ギルドのメンバ-なら誰でも参加して候補者に好きな質問をすることができるのが慣例だった。ヤンは,この最終試験に合格し,ギルドの帽子を戴冠され会員として認められることになった。19歳であった。
ヤンは「理髪外科医」として,どの田舎町でも開業することができた。そして,続いてライデン大学あるいはパリ大学やパドヴァ大学に入学して医学の学位を取得することもできた。また,オランダ,ドイツ,イギリスで軍医として入隊することもできた。すなわち,ヤンは免許を持った「理髪外科医」であり,どこでも生計を立てることができた。
しかし,リーベックは,その道には進まなかった。
VOC入社
ヤンが20歳から21歳にかけて何をしていたのかは,推測の域をでないが,おそらく親方のもとに有給の助手としてとどまったのではないか。実務的な経験をさらにつんだのであろう。しかし,ヤンは,ヨ-ロッパで「理髪外科医」として生計を立てていくよりもっと大きな夢を持っていたと思われる。ヤンの父は船乗りであり,リ-ベックは商人の家系である。クレンボルフの市長,祖父の家で,少年のヤンは海外の出来事や風物に熱心に耳を傾け,多大な関心を抱いていたであろう。
オランダ東インド会社VOCへの入社を志願したのはその証ではないか。20歳となって最終試験に受かり,VOCに入社した。父同様船乗りで,VOCに入社していた叔父のヘリット・ファン・ハ-ンGeritt van Haanの熱心な勧めもあった。また,オランダ東インドの最盛期の第9代オランダ東インド総督アントニ-・ファン・ディ-メンAnthonie(Antonio, Anthony)van Diemen(1593-1645)もクレンボルフ出身で,リーベックの家族とは知己の間柄であった。そうした縁故も働いたのであろう。外科医助手(船中医)として採用されることになるのである。
人生の綾は様々である。後述するが(Ⅷ ケープ),叔父のヘリット・ファン・ハーンは,後に,リーベックの後任としてケープ植民地の司令官に指名される。しかし,その着任のためにケープに向かう航海中に死去したのであった。
冒頭(Ⅰ リーフデ号)に述べたように,VOCは各州の先駆諸会社が統合されることによって成立する。アムステルダムでは,まず,「遠国会社Compagnie van Verre」(1594)と「新アムステルダム東インド会社De Nieuwe Compagnie Amsterdam」(1597)が合併して「旧会社Oude Compagnie」が設立され(1598),それに「新ブラバント会社De Nieuwe Brabantse Compagnie」(1599)が合流することによって「連合アムステルダム東インド会社「De Verenigde Compagnie te Amsterdam」が成立した(1600)。並行して,ゼ-ラントでは,「フェ-ル会社Veerse Compagnie(van o.a. De Moucheron)」(1597)と「ミッデルブルフ会社Middelburgse Compagnie」(1598)が合流して「連合ゼ-ラント東インド会社De Verenigde Zeeuwese Compagnie」が成立する(1600)。以上に,ロッテルダム,デルフトグル-プ(Magellaanse of Rotterdamse Compagnie,De Mocheron, Van der Hagen & Compagnie,Delftse Vennootschappe,Een andere Rotterdamse Compagnie),北部諸都市グル-プ(Vennootschappe van Noorder quartiere)が加わって「連合東インド会社VOC」が成立する(1602)のである(図Ⅲ④)。
VOC設立の理念は以下のようである。
「東洋への航海のための貿易商の私的な,地方的な共同組合活動を止め,軍隊および貿易商と国家総督の行政的結合を強化する。また,国家総督はVOCが獲得する海外領土に対するVOCの行政支配を認める」
共和国連合州総督は,1602年3月20日に勅許状を与えるが,その勅許状は46条,20頁にも及ぶ。勅許状には,会社の組織に関するあらゆる種類の規則,管理体制,その権限などが明記されている。最大の点は,勅許会社として独立の権限を与え,要塞建設,総督の任命,軍隊の編成,戦争の遂行,和平交渉を総督の名前において行うことを許可していたことである。
そして,先駆諸会社が当座的企業で一航海毎に資金が集められ,その都度利益配当が行われたのに対して,VOCは永続的企業としての性格を与えられた。最も重要なのは喜望峰以東およびマゼラン海峡を通じての貿易の独占が21年の期限で認められたことである。これ以後ヨ-ロッパにおける株式会社のモデルとなる。VOCについて,大塚久雄の「株式会社発生史論」(大塚久雄著作集1,岩波書店,1969年)は,①取締役及び株主が無限責任制から有限責任制に移行したこと,②直接会社へ出資することによって出資者個人が会社組織に吸収されたこと,③持分としての株式譲渡が自由になったことを新たな点としてあげる。

| 図Ⅲ④ Oost-Indisch Huis VOC本部 1664 Free Wikipedia 現存 |
勅許状はVOCの組織構成についても規定している。いわゆるカ-メル制を基にした取締役会とその上部組織としての「17人会」が会社の中枢となる。まず,先駆諸会社フォールコンパニ-エンに関与していた6都市,アムステルダム,ゼ-ラント(ミッデルブルフ),ロッテルダム,デルフト, ホ-ルン, およびエンクハウゼンEnkhuizenにカ-メルが設立された。そして,各カ-メルから代表者を出して取締役会が組織された。取締役は当初73人であるが,アムステルダムが20,ゼ-ラントが12,他の4つはそれぞれ7,計60が定員とされた。そして,各カ-メルはそれぞれ代表を選び,いわゆる「17人会」を決定機構として組織した。「17人会」の構成は,アムステルダム8,ゼ-ラント4,その他のカ-メルで4,最後の一人はアムステルダムの数を超えるように,アムステルダム以外の都市に順番に与えられるという原則であった。しかし実際には,アムステルダムの支配は強力で,その政策に従うかたちが採られた。
各カ-メルには,船の建造,商品の保管,財務,会計などの下部組織がつくられたが,「17人会」は常設の管理組織を持たず,会計帳簿管理,賃貸借表の作成,通信などを担当する委員会によって運営された。会社には弁護士がおかれ,投票権はもたないが重要な会議には出席した。各カ-メルについて,船舶の建造,装備,商品の売買といった仕事の分担が細々と決められ,利益については,全体で必要とされる出資金の半分以上を賄っていたアムステルダムが1 / 2,ゼ-ラントが1 / 4,残りがそれぞれ1 / 16と定められた。
「17人会」の定例会議は,東インドとの航海スケジュ-ルに合わせて,1年に3回,数週間にわたって開催された。当初,アムステルダムで6年連続開かれ,続いてゼーラントで2年連続開かれている。
オランダ本国における以上のようなVOCの組織の骨格はその解散に至るまで大きな変化はない。しかし,東インドにおける貿易活動が活発化するとともにその組織もまた膨大なものとなる。東インドにおけるその組織は総督Gouverneur-Generaalおよびインド評議会Raad van Indie(バタヴィア政庁)によって運営された。オランダ東インド総督は最高決定者ではなく評議会の議決を基にしたが第1人者として東インド政庁を主導した。総督の制度が設けられたのは1609年であり,初代ピ-テル・ボ-トPieter Both(在位1609-14)以下,絶えることなく派遣されてその任に当たった。VOC解散時のペトルス・ヘラルドゥス・ファン・オ-フェルストラ-テンPetrus Gerardus van Overstraten(1796-1801)が33代となる。東インド総督が毎年本国に当てて送った年次報告は,1614年から1794年まで1年も欠けずに残されている。
レイポルトLeipoldt (1936)は,ここでも想像たくましく,外科医助手の申請を検討する「17人会」の様子を描いている。外科医助手の人事も「17人会」マタ-であった。ヤンの申請はデルフト・カ-メルの動議である。
各カ-メルを代表する17人が磨かれたテ-ブルを囲むなかで,パウPaauw議長は,秘書官がまとめた申請者に関する書類を手元に置いて,推薦状をざっと見たうえで,ヤン・ファン・リーベックという若者の申請を受けていること,アンソニー-・ファン・リ-ベックの息子で,正直で評判の良い中流家庭の出身であること,アムステルダム在住でクレンボルフ出身であること,親方誰それの弟子で,資格を持った外科医で推薦状もきちんとしていること,その若者には何の欠点も汚点もなく,主任外科医が肉体的にも知的にも任務に適していると認定したことを報告した。
理事たちは主任外科医の評価を直接聞きたいとして,主任外科医が招き入れられ質問に応じた。議論になったのは,航海経験がないこと,また,宗教的背景,さらに経済(財務)状態である。主任外科医は,ヤンがギルド会員の資格を得たこと,航海をしたことはないが,身体は健全で適切な免許を所持しており外科医助手として適任であると答え,退席を許された。
問題は信仰で,1606 年の決議は「カトリックに属する者は,決して雇用されない」,また「任命後,公然と,あるいは私的にカトリックの信仰やカトリックの儀式にふけることが発覚した者は,即座に解雇される」としていた。ヤンはどうも明快に改革派ということではなかったらしい。議長は,本人については知らないが,申請者の祖父は改革派信者であり,クレンボルフの市長でもあったと擁護した。秘書は,公然とカトリック信者であることを公言し,長年にわたり会社の最高責任者の1人として貢献してきたファン・ハ-ゲンVan Haghen のような例をあげ,また,ヤンの書類に,彼の正統性を証明するクレンボルフの牧師からの手紙が含まれていることを指摘した。そして,ヤンの経済状況について,秘書は,1603年10月に取締役会で可決された返済できない負債を抱えた者との契約を禁じた決議を持ち出し,書類に申請者の財務状況に関する書類がないことを指摘した上で,ゼ-ラント・カ-メルがさらに若い破産者を任命したケ-スを例に挙げ,より高い地位に就くことは難しいが,軽々に却下されるものではないとした。結果は,採用であった。のオランダ商館はその31年の歴史の幕を閉じたのであった。





コメントを残す