アジテーターとしての編集者 その4
日大建築学科
神子久忠
(敬称略)
*「構造の日大」
先述したが連合設計市谷事務所でのアルバイトはドラフトマンだったが、それなりに頑張り、役立ったかと思う。でも建築家にはなれないこともわかった。では大学でなにをするか。予備校通いをすれば建築系大学の様子はわかるが、行かずに1963年4月、日本大学理工学部建築学科に入った。
そしてまもなく日大が「建築の日大」ではなく、「構造の日大」といわれていることを知った。これには少し驚いたが、歴史を概観すると納得できた。
日大建築学科の前身は、1920年創設の日本大学高等工学校で、今年で106年になる。初代校長は佐野利器(1880-1956 76歳)。佐野は東京帝国大学建築学科で辰野金吾に学ぶ。1906年同大学助教授、1915年教授。「家屋耐震構造論」で工学博士。わが国の耐震構造学の基礎を築いた祖である。こうした佐野の偉業の上に、わが国構造学は発展していく。
現代では、丹下健三の「国立代々木競技場」や「東京カテドラル聖マリア大聖堂」の坪井善勝(1907-1990、83歳)、原広司の連結超高層の「梅田スカイビル」の木村俊彦(1926-2009、83歳)、坪井の下で「国立代々木競技場」を担当した川口衞(1932-2019,86歳)、さらに川口と同じように在学中「国立代々木競技場」に従事、「構造の日大」を、さらに発展させたのが現在88歳の斎藤公男(1938-)である。
斎藤は1961年日大理工学部卒、1973年助教授、1991教授。2007年日大で第8代日本大学総長を務めた木下茂徳(1924-1999、学会長(1989-90)に次いで二人目の日本建築学会会長に。在学中に坪井善勝に学び、バックミンスター・フラーに魅かれる。空間構造や構造デザインへの関心をもち、さまざまな構造システムを開発、空間構造デザイナーという新たな領域を開いた。現在は、A―forum代表、コアメンバーに和田章、神田順、金田勝徳、神田順などと一緒に積極的な活動を続けている。布野の新メディア・SLABの拠点でもある。
*小林文次(建築史研究会)のこと
建築家になるための研究室ではなく、建築史を選んだ。連合設計市谷事務所での経験で、建築家になれないことがわかったこと、吉本隆明や鶴見俊輔に大きな影響を受け、自立学校でも学んだこと、そんなことからである。
正式名は「建築史・建築論研究室」、通常は建築史研究会、そして正式名ではないが、建築ジャーナリズム研究室(ジャー研)もあった。当時は2部屋あって、左が教授になったばかりの小林文次研究室、右が助教授の近江栄研究室(ジャー研)。1945年生まれの山本理顕は、私より2年早く1964年に日大に入っているが、とにかく1日でも早く建築家になりたかったといっている。その後大活躍をして、2024年プリツカー賞を受賞した(『建築士』2025年12月号)。そうした人に、建築家になったとしても敵うわけはない。
小林文次(1918-1983、65歳)は1941年東京帝国大学(現・東大)工学部建築学科卒、大学院を経て1944年慶応義塾大学予科教授、1952年フルブライト留学生で米国・オレゴン大学留学。1949年日本大学工学部助教授、1961年同大学教授。
主に西洋建築史を教え、それらの訳書もある。学位論文「建築の誕生」で、1960年日本建築学会論文賞受賞。これで教授になったといっていい。研究範囲も広かったが、なんといっても小林の名前を今日まで有名にしたのが「さざえ堂の研究」で、朝日学術奨学金をもらう。
正式名は「旧正宗寺三匝堂」(1796年)、会津若松市にある。中に四国33の札所観音像を安置。堂内を上がり下がりの2つの斜道を組み合わせている。つまりスパイラル(螺旋階段)で、参拝者は頂上で違う階段で下りてくる。この時代にスパイラルは世界的にも珍しい。
1984年教え子たちによって『小林文次博士追悼文集 心たくみへの哩標(マイルストーン)』(限定300部)が出版された。兄は歴史学者の角田文衛。小林は子どもの頃から体が弱く、最後のガン闘病の様子を書いている。

*隠れたベストセラー、英文並記の『日本建築図集』
私は1971年に相模書房に入社したが、そこで出したのが小林文次の『日本建築図集』(1958年)、『建築の誕生』(1959年)、『古代ギリシャの都市構成』(1980年)の3冊。前2著はすでに刊行されていた。
なかでもあまり知られてないベストセラーが、『日本建築図集』。これまでの日本建築を独自の視点で選択、簡潔な日本語と英文並記。改訂のたびに大幅な改定をした。海外にも輸出、来日する建築好きのバイブルとなった。当時、重版のたびに奥付に貼る収入印紙を届けた。そこに印鑑を押してもらう。それが支払う部数の印税である。吉阪隆正の最初の『住居論』などもそうだった。
2016年に死去した相模書房社長・佐藤弘が、当時のこと書いている。
活字の大きさも含め、すべて自分で全130頁割付をしたこと。そのための割付用紙を届けたこと。しかし病気のため作業ができず、「今度は本の大きさを、少し変えてみようと思っているんだよ」といったが実現しなかった。それにしても130頁とはいえ、全頁原寸で割り付ける著者は聞いたことがない。それだけ強い思いがあったのである。
とにかく厳しい学者だった。研究室でみんなが雑談していても、小林が戻ると一言も話せず、一瞬にしてピリッとなった。学者とはこういうことかと思ったが、追悼文集には思いもかけぬ茶目っ気があったこともわかった。山本理顕は歴史研顧問だった小林のもとで卒論「装飾論」を書いた。修士もと思ったがその年は一人しか枠がなく、東京芸大の山本学治に紹介してもらい芸大へ行き、修論「住居の意味論的構造」を書いた。「装飾論」は難解だが、小林はそれを見抜いたのである。

*近江栄のこと
近江栄(1925-2005、79歳)は私の恩師だから、少し長く書く。先述したが近代建築史を教えながら、建築ジャーナリズム研究室(ジャー研)を主導した。しかし建築ジャーナリズムという講義があったわけではない。またデザイン研究会もあった。しかし後述するが、近江の業績はそれらを含んだ大学内外での活動である。『新建築』を中心に論陣を張った。学外の活動が派手なため、名誉教授にすぐになれなかった。やっかみである。
1950年日本大学工学部(現、理工学部建築学科)卒、1951年同学部助手、1970年理工学部教授、1990年日本大学総合科学研究所教授。1986年日本建築学会副会長。小林文次の輝かしい経歴と比べると派手なところはない。この苦労は生涯つきまとい、それが近江の頑張りとなった。

*明治、大正期の近代建築史へ
近江のあとを継いだ大川三雄が、追悼文で次のように述べている。
日大理工学部では3年次科目として「近代建築史」が設けられた。「日本建築史」と「西洋建築史」の二本立てカリキュラムをもつ大学が多いなか、1965年代から「近代建築史」が設置された例は珍しかった。当時、アメリカ建築史に関心をもっていた小林文次先生の進言で設置された。
このように近江は小林のように緻密な学問よりも、常時動いていた建築界の動向に強い関心をもち活動した。その成果の一つが『建築設計競技』(1986年)である。
「あとがき」で、大略、次のようにいう。
「師・吉田鉄郎の影響を受け、一時は建築家への道を志しながらはたせず、早々に挫折して後、建築史研究室の助手の席を得る。卒業研究に選んだ日本近代建築思想史の研究を続けながらも、師・小林文次先生の多彩な研究遍歴に瞠目し、一時は師に倣い、アメリカ近代史に手を染める。しかし語学の壁は意外に厚く、隔靴搔痒の感は耐え難く、明治・大正期の日本近代史に回帰した。小林先生から得た貴重なアドバイスは、「研究テーマの選択は、自分のセンスと個性によるべきで、先学の未開拓な領域に挑戦することが望ましい」という厳しいものであった。(略)ひたすら設計競技の正常化と、中・小規模の設計競技の日常化を願うあまりに、文章表現に過剰な部分が目につき、表現上のニュアンスを書き替えた部分も少なくない。(略)「設計競技」という行為そのものが、人間と社会のしがらみに関わる史実だからであり、創作や演出では生まれないドラマだからであろう。」
ここで近江がいっている重要なことは、吉田鉄郎とのこと、明治・大正期の日本近代建築史に回帰し業績をあげたこと、そして設計競技の正常化を生涯願ったことなどである。
公開コンペの少なさ、疑似コンペに近いプロポーザルコンペの横行、それに対する建築家および建築団体の無関心などが、いまの現状である。
近江が明治・大正期の日本近代建築史へ回帰し、大きな業績をあげたのは後述するが、それは「新建築問題」で川添登たちが解雇され、次を引き継いだ馬場璋造体制になってからである。村松貞次郎、鈴木博之、藤森照信、長谷川堯などの多用で、日本の近代建築史研究が大きく進展した。私がのちに長谷川堯の著書を手伝うことになるのも、そうした流れからである。長谷川は私が新建築社を辞めたと時、心配して長文の手紙をくれたが、これは後述する。
近江は建築家が日常的に関わっているコンペがあまりにもひどく、それを大声で異を唱え続けた。新建築社を追い出されるように辞めた馬場は、1990年銀座に「建築情報システム研究所」を設立。そこで理想的なコンペを、いくつも実現させた。
*吉田鉄郎と膨大な資料のこと
吉田鉄郎(1894-1956、62歳)は1919年東京帝国大学卒後、逓信省営繕課入省。山田守(1894-1966,72歳)と逓信省建築の全盛を築いた。1931年ドイツ留学。「東京中央郵便局」(1933年)、「大阪中央郵便局」(1939年)などがある。
1946年日大教授、1949年脳腫瘍で寝たきりで『スウェーデンの建築』を口述出版。そのほかにドイツで出版された『日本の住宅』(1935年)、『日本の住宅』(1952年)、『日本の庭園』(1957年)3部作がある。「師・吉田鉄郎」の影響を受け近江栄は、吉田が寝たきりで出した『スウェーデンの建築』を手伝うが、語学が得意でなく助っ人できなかった。先の三部作は独語のできた向井覚・大川三男・田所辰之助の共訳で出版されている。
近江と同時期に、吉田鉄郎の身の回りを手伝ったのが矢作英雄(1924-2010、86歳)である。吉田の死後資料を保管、それをもとに吉田鉄郎論の学位論文を書き、最後は日大・郡山の助教授になった。近江の尽力である。
ある時、矢作夫人から私に電話。吉田鉄郎資料が多くて困る。5月の連休明けにゴミ処理業者に一括処分を決めたという。それからが大変で、大慌てで日大の大川三男、NTTファシリティーズ(NTTF)の吉岡康浩らで急遽保存することになった。
2トントラックで何度も矢作宅へ。1回目は2010年5月3日、2回目は5月15日、3回目は8月7日、吉岡の配慮でNTTF関連倉庫へ。調査の受託期間は2010年11月25日―2011年3月11日。2011年3月9日、大川三男、田所辰之助、観音克平、安永三郎、私らで最終リストを作成。
私は矢作とは昔から懇意だったから、これら一連の作業は最初から最後まで関わったが、最終的には吉岡の尽力による。その後国立近現代建築史料館や日大での吉田鉄郎展は、この資料による。考えてみれば吉田鉄郎は逓信省、それから戦後に電電公社の流れが現在のNTTFとなる。だから今度の膨大な資料も、落ち着くところに収まったことになる。
私は2011年3月、NTTFの吉岡からNTTF創立20周年を機に「逓信建築から電電公社へ」の原稿依頼を受けた。400字詰め60枚が、それを超えて書いてしまった。そうした経緯があって、吉岡とは頻繁に連絡をとっていた。上記の保存経緯はそうしたことからである。その後吉岡はそれらの調査保存について、いろいろなところで情報発信している。吉岡しかできない仕事である。
*近江栄夫妻の死去
近江マサ夫人は、東京芸大出身のピアニスト。その指導を受け、近江は「初恋」をテノール独唱で卒業式や結婚式などの集まりで唄ったから、聴いた人は多いだろう。
近江夫妻の死去については、大川三男が次のように書いている。
「亡くなる数年前、肝臓がんの手術を受けた。その後転移にも悩まされた。亡くなる2005年の正月元旦の翌日不調になり、自力で日大板橋病院へ行き、そのまま入院。検査の結果、大動脈瘤と診断。以後は人工呼吸器で一進一退。
看病にあたったマサ夫人は、近江より9歳年上。自分も病を抱えての看病生活だった。1月17日体調を崩し、大泉生協病院に入院。検査の結果、すい臓がんと判明。夫婦揃って別々の病院に入院という異状事態になってしまった。のちに建築家になった子息哲郎は、日夜ふたつの病院を行き来するなか、1月31日0時52分先にマサ夫人、同日15時05分近江が死去。仲のよかった2人は、同じ日に亡くなってしまった。」
私は黒沢隆の死に立ち会えなかったが、人間の不可抗力の死に、いまでもただおろおろするばかりだ。先に村上一郎や吉本隆明、鶴見俊輔などの死に触れた。そしていまも鮮明に記憶しているのが、伊藤ていじである。
私はなにかと、多く会っていた方だと思う。単なる建築史家ではなく、つねに文明論文化論まで踏み込んだ論考を展開したのは周知だ。
伊藤が入院していた病院に、伊藤から大きな影響を受けた建築家・本間利雄と一緒に行った。家族など身内だけがいた。本間と私が先生!先生!と、これまでのお礼の声をかけたが、もはや反応はない。それから伊藤家近所の病院に転院して、まもなく亡くなった。
*黒沢隆のこと
黒沢隆(1941―2014、72歳)は名門・神奈川県立湘南高等学校卒。建築家に池田武邦、仙田満、團紀彦、重村力、内藤廣、塚本由晴などがいる。これほど建築家を輩出した高校は珍しい。
1965年日大理工学部経営工学科専攻。生田勉のところに少しいて、1971年日大大学院博士課程修了。1973年黒沢隆研究室設立。日大生産工学部などで教える。山本理顕と歴史研究会をつくる。顧問は小林文次。鎌倉・早見芸術学園など、実に多くの大学で「近代建築史」「建築論」「住居論」「設計製図」などを教えた。大学の人事は外部にはわからないが、生涯非常勤だった。実に残念だが、それでも黒沢ゼミをもって授業もして、後輩を育てみんなに慕われた。
黒沢が最初に世に問うたのが、『個室群住居』(1997年)であり、さらに『個室の計画学』(2016年)などである。個人単位の居住空間を集合させ、従来の家族形態に依存せず、社会との関係を重視した住宅のあり方を問い、戦後住宅の2DKの幻想を打ち破るもの。少し無理していえば、のちに山本理顕が東京芸大の修論で提案した閾論にも、吉本隆明の対幻想にもつながる。また日本建築にも早くから関心をもち通暁していた。それを遺著『CONCEPTUAL 日本建築』(2016年)で縦横に論じた。

*黒沢隆の死
黒沢自邸は、鎌倉駅から鶴岡八幡宮に向かうと中央に若宮大路ある。そこから50mほど行き右に折れ、さらに10mほど行くと幅1mもない導入部があり、その奥が玄関。入ると右側が黒沢夫妻の部屋、その隣が藤棚の見える広いスペース。ここがコモンスペース?これが個室群住居?と意地悪をいった。和室から見える庭の藤が咲く頃、皆を読んで花見をした。この辺りは小町といって昔は海で、そこを埋め立てから少し掘っただけで水がでる。海抜ゼロメートルだろう。そこに住む人たちは長い間、それとうまく付き合いながら住んできたのである。
黒沢は2014年3月15日、徳洲会大船病院で死去。黒沢自邸の近所に黒沢設計の住宅があり、オーナーが2、3日経っても明かりが点かないことに気づき、当時骨折で大船病院に入院していた弘子夫人の身の回り品を取りに行ったら、廊下で倒れていた黒沢を見つけ、弘子さんと同じ病院に入院、死去。死因は腎不全。喘息あり肝臓も悪く、満身創痍だった。最後に人工透析をやれば延命できるといわれたが拒否。自宅で倒れたのも含め、意識的な自殺といっていい。

昔は黒沢邸の前に住宅があったから表の道路から見えず、幅1mほどの入口しか見えなかった。死後、その家が取り壊され黒沢邸が見えたが、それもいまは取り壊され更地になってしまった。その状態があまりにも悲しくて、それから私は行っていない。
*遺著のこと
黒沢とは多く会った。そして、よく飲んだ。世界状況の分析から最近の芸能界まで実によく知っていた。博覧強記どころではなく、教えられることばかりだった。建築家としては多くをつくらなかったが、本格的な集合住宅をつくり、黒沢を慕う卒業生が住んでいる。
墓は著名人で有名な北鎌倉・東慶寺。入口から入って坂を上りながら行くと、一番奥にある。墓石はなく、わずかに「黒沢」とあるだけ。気づかないと、それが墓とはわからない。命日に行くと、いつもきれいな花が添えられていた。弟子たちがくるのだろう。
黒沢は何冊もの本を書いたが、遺著は『CONCEPTUAL 日本建築』(2016年)。死去2年前である。ゲラが出るたびに会って、説明を受けた。
前書きに、次のようにいう。
「モダニズムの洗礼をうけたひとは、誰でも、言語化しえたことをもって〈認識〉としてきました。とはいえ、〈私〉を言語化しきれた例はありえず、同時に言語化の手法も精神分析から構造主義にまで進化もしています。しかし、モダニズムの先達の後に続いた我々は、言葉の方から先に学び、これを実践に結びつけています。モダンデザインもまさにそうでした。近代社会における〈教育〉とは、このようなことなのでしょう。でも、日本文化の言語化には、国民的に手こずっています。(略)私の場合、モダニズムの推進者だった半面、日本建築をつくれる最後の世代だという自負もあります。しかし、これが言語化できない。ですが、〈真・行・草〉というデザインコードが、日本の住文化に沈潜していることに、やがて気付きます。まさに記号論や意味論など先端課題そのものなのです。これを手掛かりに、日本建築の言語化のみちがあるのではないか、本気で取りくむことになります。
さらに「追補」で、次のように書く。
「この連載は、〈コンセプチュアル〉を標榜、その鍵のひとつを記号論におきながら、終章では、それに触れじまいでした。筆者として、これは気になるところです。」
大川三男など黒沢隆研究室の11名が連名で「編集付記」を書いている。「連載終了後まもなく著者は書籍化の作業に着手したが、果たすことなく2014年3月に逝去。書籍化は黒沢の意志を継ぎ、作業を再開したとある」。目を見張る著書となった。
以上が、私が建築ジャーナリストになる過程での恩師・近江栄と友・黒沢隆への思いなどである。
近江からは1部への転部を何度もいわれたが、研究室に自由に出入りできたし、貴重本も含めいろいろな資料を自由に使えたので、それで十分だった。




コメントを残す