「中欧から」
ウィーンに居ると見えてくること
三谷克人
承前
近代建築史の恣意性
筆者の来歴、よくありそうな話?
筆者は1979年から今日までオーストリアのウィーンに継続して住み、ちいさな建築設計事務所を主宰する一日本人建築家だ。
私が建築を学んだ1970年代初期の京都は、政治的首都である東京とは異なってまだ学園紛争が燻っていて学生ストと授業ボイコットが頻繁で、それを良いことに勉強はそっちのけで日々を謳歌していた。
でも、月日は容赦なく過ぎ去ってゆく。
学生運動も収束しはじめて興奮も過ぎ、社会は「正常化」へと向かいはじめた。
なんだか馴染めない。
免許はいちおう取得できたし、実業の世界に飛び込むまえに長めの旅をしてヨーロッパを見ておこう。
そしていくつかの日本の在外公館に問合せの手紙を送り、唯一楽観的な返事が返ってきたウィーンに行くことを決めたのが1978年。
知人の輪が拡がって建築界の情報が身近なものとなり、あるコンペで一等入選を果たした建築家が人員拡充を図っていることを知って応募し、面接で即採用となった。実務経験のために務めた建売住宅会社で覚えた現場の知識が役立ったのか一般構造のチーフの補佐に抜擢され、以降、事情があって辞職した1992年までお世話になった。 こうして筆者は、疎かにしていた建築にまつわる知識を拡充する時間を獲得することになる。そして独立した1992年からは、独自の仕事にその成果を試行確認することを続けている。

【写真1】筆者, ガソリンスタンド、Wie City 1990 筆者撮影
設計者としての知識の探求と検証
本稿を読んでおられる諸賢のなかには、長い間ウィーンにいて日常的に建築を探求する生活を羨ましいと思う方が居られるかもしれない。でも実際はそうでもない、というか残念ながらそうでは有り得ない。
歴史主義の建物に建築のユニバーサルなテーマに対する優れた解や、また計画中のプロジェクトに思わぬアクセントを与えてくれる解に出会うのは愉しいが、その背景を探ろうと歴史を検索すると答えが複数の場合もある。
そしてそれは必然的に、ある種の混乱や憤慨といったものにつながるのだ。
一般に認知されていない事項を、いくつか挙げてみよう。
- ルイス・サリバンの „Form follows function” がゴットフリード・ゼムパーの “Nur einen Herrn kennt die Kunst, das Bedrüfnis.”(1863) 「芸術はただ一つの主を知るのみ、それは必要性だ。」をふまえていること。
- アドルフ・ロースの「ミヒャエラ広場の家」の基壇部の意味が正当に理解されていないようなこと。
- ロースがこの建物によって初めて広場を都市空間として成立させたこと。
- ジョゼ・プレチュニックの仕事がゼムパーの論をハイパーに展開したものであるという分析が存在しないこと。
- 歴史主義を無価値として顧みず、オットー・ワグナーの「レンダー・バンク」(1884年、日ウィキは連邦銀行と呼ぶ)の真の意味を認識しないこと。
- キャリアホッパーとしてのコルビュジェが、ベルリンのベーレンスのあとウィーンのホフマンの門戸を叩いて相手にされず、失意の中でロースに出会って諭されたこと(まだ学術的には未検証)。
などなど。
しかし、筆者にとって最大級の驚きと憤慨は、ベルリンで発見したミース・ファン・デル・ローエに関する未知の側面だった。 まず、いわゆる「ガラスの摩天楼」(1921年)について。

【写真2】 ミース, ガラスの摩天楼 1921 MoMA バージョン

【写真3】ミース, ガラスの摩天楼 1921 Bauhaus Archiveオリジナル(部分)
我々が知るのはMoMA(NYのモダンアート博物館)のセピア色バージョンだが、なぜか足元が荒く塗りつぶされている。じつはこのコンペ案のオリジナルはベルリンのバウハウス・アーカイブにあるのだが(2007年にはあった)、それを見て驚いた。消されている足元の部分には20年代の線路沿いの場末的風景が描かれているのだが、それは後日何らかの意図をもって消されたわけだ。
もうひとつはベルリンの「新ナショナル・ギャラリー」(1968年)。

【写真4】ミース, 新ナショナル・ギャラリー ベルリン1968 筆者撮影
写真を撮ろうと外部を廻っている筆者は、ガラス・ファサードの方立と屋根を支える大柱の一本とが、逆光の中にニアミスしているのに気付いた。図面から明らかになったことは、この8本の柱に上細りのテーパーが付いていること。それ自体はギリシャ建築以来の常套手段でとりわけ忌むべきことではないだろうに、それを指摘する書物に出会ったことはなかった。おまけに張出屋根の四隅も柱頭部分より高くなっている。
近代建築史の恣意性
さきに触れたサリバンの例に関して知っておくべきことは、すでに19世紀の中葉から、建築と土木の意匠・構造・設備の諸方面における最先端の動きが雑誌に発表され、世界の建築家たちに参照されていたという事実だ。
サリバンにはアドラーという、ドイツ系の雑誌を船便で定期購読する相棒がいて、けそこから仕入れたテーマについてサリバンと語るのが常だったというから、サリバンがアドラーを介してゼムパーの論考を知っていても不思議はない。
ただ、ここで問題なのは、そういう事実関係が近代建築史の訂正につながらないことだ。ナラティブは一度広まってしまうと手に負えない。建築史の記述が事実に基づいたものばかりではないとすれば、それは大きな問題なのである。
具体的に、たとえば筆者はその被害者だといえる。
というのも、筆者は「均質空間」を始めとするミースにまつわる負の言説のハイプに食傷し、確認する術もなくミースを省みないことにした。もちろん個人的判断により生じた問題だが、不正確な言説のために後進が混乱に陥らないとも限らないだろう。 もう一つ、ウィーンについて言っておかねばならないことがある。

【写真5】J.フランク, ヴァイセン・ホフ2戸1住宅1927 2005-10-08 Von Shaqspeare – CC BY-SA 3.0

【写真6】J.フランク, ベー邸 ウィーン 1929/30 (コント:総合改修2026 3月竣工) 筆者撮影
ウィーンの近代建築が1918年のオットー・ワグナーの死と共に終わったのではないという事実だ。
でも日本では仕方ないだろう。日本ではアメリカ主導の建築史が支配的なのだから。
例えば戦間期のウィーンに活動した建築家ヨーゼフ・フランクのことをご存じだろうか?少なくとも名前を目にしたことはお有りのはずだ。なぜなら彼もドイツ工作連盟に招待され、ヴァイセンホフの住宅展覧会に参加したのだから。
ただ、ここでの彼の仕事が写真付きで紹介されることは非常に稀だ。というのもフランクが、ヴァイセンホフで大々的にデビューするモダニズムの行く末を見据え、モダニスト達とは全く異なった「住まい方」を提唱したからだ。
そういう人物の存在は厄介だし、当時の仕掛人たちの意向に沿ぐわない。だから近代建築史のナラティブからは無視され、戦間期のウィーンは市営集合住宅の紹介でお茶を濁されることになる。 戦間期といえば、ウィーンの北方約150kmのところにあるブルノという街の、機能主義建築による旧市街の近代化プロジェクトに言及しなければならない。今ではチェコ共和国に所属するこのチェコ第二の街は、文化的にも経済的にもウィーンの弟分といった位置付けにあり、アドルフ・ロースやヨーゼフ・ホフマンを挙げるまでもなく、「ウィーン建築文化圏」とでも呼ぶべき関係にあった。

【写真7】ブルノ市旧市街地図 (コメント; 旧市街直径約700m, ウィーンに習い市壁取壊, 左城山) Web Map of City Brno

【写真8】B.フックス, カフェ・アヴィヨン 1929 (コメント:狭小敷地8x36m) 筆者撮影
ブルノという街は、かつてある建築家が「水頭症」と喩えたウィーンに立ち代わり、その建築的ゲノムを引き継ぎながらも人に優しく独特で実践的なモダニズムが都市と建築に展開された稀有な街だと思う。
それはあたかも、都市改造の一大テーマパークのような様相を示している。
しかしブルノの業績もまた、「バウハウス」を中心に饐えたナラティブを固守する歴史によって無視され続けており、そのことを日本で知るものは無に等しい。今こそ中欧における戦間期の業績が評価されるべきなのだ。
正史の見直しから始まる新たな建築
もう一度言おう。
日本で知られるモダニズムは、「バウハウス」に竿さして、その主導者たちの招聘先であるアメリカで生まれた産物である。そうしてそこで近代建築は、当初のヨーロッパ的な都市と経済問題へのコミットを捨て、唯一性によって他を凌ごうとする単体としての作家主義的建築に矮小化される。
かつての日本にはそう言う傾向に気付いた建築家がいて、移動の合間に理論書のページを繰ったりしていた。
そして少なくとも筆者が知る限り、ポストモダンが一世を風靡した時期があったとはいえ、個人の生活から遊離して資本の論理のみで動く建築の混乱は、今日まで続いているように思われる。
手を付けるとすれば、色々なことが可能だろう。
しかしまずは日本が、世界を自分の目と手で再検討して本当のところを知る努力をしなければならない。なぜならアメリカもヨーロッパも疲労困憊していて、住まうための街や住宅を探求する力がもう残っていないようだからだ。
まず、近代化というものを一概に否定することを止めねばならない。私見によれば日本における近代の批判は、往々にしてハイパーに展開した結果に射程を定めたものだ。ヒステリー的な反応から次へのヒントは生まれてこない。
どちらかというと、新しく独立したチェコ・スロバキアのモラビアの新首都ブルノの場合のような、楽観的に将来を信じたモダニズムのではないか。都市計画的・社会学的・政治学的そしてもちろん建築的にも。
というわけでこの先思い付くままに、歴史の記述の問題や、ヨーロッパ(ドイツ語圏)における実務の日常などにつき、文化としての建築という観点から無差別にお話しさせていただこうと思う。
こういう時代、結局アジアに役立つことは、アジア自身が音頭を取らなければ始まらないのだから。






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