都市という密室、住宅という街路

山本至

第2章 江戸の都市から東京の都市へ

近年、東京と江戸の類似性を再発見し、それを楽しむような言説が広く浸透している。東京の地形や水系、街路構造などが現在の都市の骨格に影響を与えていることを指摘し、地形や歴史的痕跡を読み解くことで都市を理解しようとする試みは、都市史や建築史の分野に限らず一般にも広く共有されるようになった。

こうした議論は、東京と江戸があたかも一つの都市として連続的に発展してきたかのような印象を与える。例えば「江戸しぐさ」に代表されるように、実際には歴史的根拠が乏しいにもかかわらず、江戸の生活文化や価値観が現代人にとっても継承すべき規範であるかのように語られることがある。そこには、江戸という都市の持っていた感覚や身体性が、そのまま現在の東京にも受け継がれているという暗黙の前提が存在している。

もちろん、地形が都市の形成に大きな影響を与えること自体は否定できない。人類の歴史を振り返れば、道は地形に沿って形成されてきたのであり、建築家がしばしば重視する等高線も、見方を変えれば人間の移動経路を抽象化したものと捉えることができる。その意味では、江戸時代から続く街路や坂道、地名などに一定の連続性を見出すことは可能であろう。

しかし、こうした表層的な類似性にもかかわらず、より根本的な次元において、江戸と東京の間には看過できない断絶が存在しているのではないだろうか。両者は同じ土地の上に築かれているとはいえ、人々の生活様式、労働のあり方、住宅に求められる機能、さらには都市そのものに対する身体感覚に至るまで、その前提条件は大きく異なっている。本章では、単なる形態的な連続性ではなく、都市と生活の関係性という観点から、江戸と東京の間に存在する断絶について考察していきたい。

1. 都市構造の変化

江戸の都市構造は、大きく山の手と下町という二つの領域によって構成されていた。長谷川玲央の「認知地図に基づく東京の山の手と下町の範囲」によれば、武家文化を象徴する山の手と町人文化を象徴する下町という対比は、江戸時代前期にはすでに定着していたという。

同研究によれば、江戸時代の下町は、日本橋・京橋・神田を中心とし、北は浅草、南は芝付近までの隅田川西岸に加え、本所・深川などの川向こうを含む領域であった。一方、山の手は本郷、小石川、牛込、赤坂など、現在の山手線内側に位置する高台であり、武家地として利用されていた地域を指す。

この区分は地形図を見れば明らかである。江戸城を囲む複数の台地は、縄文時代の海岸線の痕跡を色濃く残しており、日比谷入江に代表されるように、現在の下町と呼ばれる地域の多くは江戸期以降に埋め立てられた低地である。一方、山の手は文字通り台地上の高所に位置し、多くの武家屋敷が配置されていた。

武家屋敷が高台に集中的に配置された背景には、江戸城の防衛上の理由があった。武士という軍事的役割を担う人々を尾根筋に配置することで高台からの侵入を防ぎ、あえて低地側の守りを薄くすることによって敵を誘導する構造が採用されていたのである。江戸城が海と台地の境界付近に築かれていることも、このような軍事的な都市計画と無関係ではない。

こうして形成された山の手と下町の対比は、明治以降の東京にも引き継がれていく。武家屋敷であった山の手は一筆ごとの敷地規模が大きく、地盤も良好であったことから、高級住宅地や公共建築、要人の邸宅など、広い敷地を必要とする用途へ転用されていった。実際に東京府成立後も、官庁や主要施設、要人の邸宅の多くは旧武家地に立地している。

また、都市が西側へ拡大した後も、この構造は繰り返し現れている。高台には比較的大きな敷地を持つ住宅地や公共施設が立地し、低地には細分化された敷地と密集した住宅地が形成されるという構図は、まるで江戸時代の山の手と下町の関係がサンプリングされるかのように、東京各地に見出すことができる。

このような地形と都市構造の対応関係が大きく変化し始めたのは、2000年代以降の大規模再開発である。それ以前の東京は、オフィス街を除けば、歩くことで地形の変化と街並みの変化を同時に体験できる都市であった。特に港区周辺はその典型であり、縄文海岸線に由来する複雑な起伏と谷地形の中に、低地の小規模な住宅地と高台の大規模建築が共存する独特の都市景観が形成されていた。

しかし、この関係性を大きく変えたのが森ビルによる六本木ヒルズ開発である。六本木ヒルズは、高台に位置する妙祝寺周辺と、低地の日ヶ窪町一帯を一体的に再編することで成立した開発であった。

日ヶ窪町は、北日ヶ窪団地やニッカウヰスキー工場などが存在し、古くからの商店や住宅が混在する、いわば「山手線内の下町」とも呼ぶべき場所であった。しかし、戦後の用途地域変更や地下鉄開通などによって徐々にその性格を変化させ、長年暮らしてきた住民の生活基盤は大きく揺らいでいく。映画評論家の松田政男が1983年の時点で、六本木の「原風景」と呼ぶべきものはすでに失われていたと記していることからも、その変化の激しさをうかがうことができる。

そして六本木ヒルズ開発は、このような下町的な領域を山の手側と一体化することによって、地価や土地利用の論理を高台側へと統合していった。低地と高台の対比そのものを解消し、地域全体を均質な高密度都市へと再編するこの手法は、現代的デベロッパーによる再開発のモデルケースとなった。

その後、虎ノ門ヒルズや麻布台ヒルズなど、森ビルによる一連の開発は同様の手法によって進められていく。かつて愛宕山の麓や神谷町の谷地には木造住宅や小規模な市街地が広がり、地形に応じて建築のスケールが変化していく様子を読み取ることができた。しかし再開発は、それらを一体的に平準化し、高低差や土地の履歴によって生まれていた都市空間の対比を消失させていった。

再開発そのものを否定するつもりはない。しかし、少なくとも森ビル的な都市開発の手法は、江戸以来続いてきた山の手と下町の鮮やかな対比によって成立していた東京固有の都市空間を均質化し、その地形と歴史が生み出してきた多層性を失わせるには十分な影響を持っていたのである。

2. 海との関係の変化

前節で見たように、江戸と東京の間には、地形と都市構造の対応関係において大きな変化が生じている。しかし、その断絶は陸上の空間だけに留まらない。海との関係もまた、両者を分かつ重要な要素である。

「東京湾」という名称は、日本人であれば誰もが知る言葉であり、東京を象徴する風景の一つとして定着している。しかし、実際に東京に暮らす人々が日常的に海と接する機会は驚くほど少ない。東京には自然海岸はほとんど残されておらず、お台場などの人工海浜を除けば、市民が自由に海辺へアクセスできる場所は極めて限定されている。

では、江戸時代において、海はどのような存在だったのだろうか。

徳川家康による江戸開府以降、現在の東京湾は、当時の江戸湾を基盤として埋立が繰り返されてきた。日比谷入江を埋め立てて形成された現在の丸の内周辺をはじめ、深川や木場などの低地も、江戸時代を通じて造成された土地である。すなわち、東京湾の縮小は近代以降に始まった現象ではなく、すでに江戸時代から進行していた。したがって、江戸中心部において市民が自由に海岸線へ接することのできる場所は決して多くなかった。

むしろ、海岸線の多くは大名屋敷や個人の邸宅、倉庫などによって占められていたと考えられる。広重の描いた神奈川宿や保土ヶ谷宿のように、東海道沿いでは海景を楽しむ文化が存在していたものの、江戸の中心部に近づくほど、海は市民の日常生活から切り離された存在であった。

しかし、それは江戸の人々が海と無関係であったことを意味しない。

現代の東京湾と比較すれば、海ははるかに豊かに利用され、市民生活と深く結びついていた。そのことを象徴するのが、洲崎弁天をはじめとする海辺の宗教施設と、潮干狩りや二十六夜待に代表される行楽文化である。

現在の江東区に位置する洲崎弁天周辺は、江戸後期には潮干狩りや月見、初日の出の名所として賑わい、多くの浮世絵にもその様子が描かれている。広重の《洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図》には、海辺の茶店でくつろぐ人々や、潮干狩りを楽しむ市民の姿が描かれており、その光景は現代のウォーターフロントのオープンカフェと大差ないものに見える。実際、洲崎周辺は月見や潮干狩りの名所として知られていた。

もっとも、陣内秀信が指摘するように、江戸において宗教施設はヨーロッパ都市のように都市中心部に置かれるのではなく、周縁部に配置されることが多かった。神聖性を演出するため、日常生活から一定の距離を保った場所が選ばれていたのである。海辺の岬に建てられた洲崎弁天もまた、そのような都市周縁の存在であった。

また、潮干狩りは江戸市民にとって一大娯楽であった。春の大潮の時期になると、洲崎や品川、高輪などへ舟で繰り出し、アサリやハマグリを採取して楽しんだことが知られている。

さらに、月の出を待ちながら宴を催す二十六夜待も、品川や高輪の海辺を舞台として盛んに行われていた。広重の《東都名所 高輪廿六夜待遊興之図》には、海を眺めながら月を待つ人々の姿が描かれており、海が単なる生産の場ではなく、祝祭や遊興の場としても機能していたことがうかがえる。

興味深いのは、こうした海との接点を最も強く担っていた品川が、必ずしも「江戸」の内部ではなかったことである。

1818年に作成された江戸朱引図では品川は江戸の範囲に含まれるが、それ以前、大木戸によって示されていた実質的な境界は高輪付近にあり、品川は江戸の外側として認識されていた。人口増加に伴って江戸の範囲が拡大した結果、ようやく江戸の領域に組み込まれたのである。

交通手段と身体感覚を考慮すれば、当時の江戸市民にとって品川へ遊びに行くという行為は、現代人が横浜や逗子へ出かけることに近かったのではないだろうか。つまり、江戸市民と海を結びつけていた代表的な場所は、厳密に言えば「江戸の中心」そのものではなかったのである。

この点だけを見れば、江戸市民も現代の東京市民も、日常生活の中で海と密接に接していたわけではないという意味で、両者はむしろ似ている。

しかし、決定的に異なるのは海の役割である。

江戸湾は物流を支える巨大なインフラであった。東京湾から入り込む無数の運河は、ヴェネツィアにも比される水上交通網を形成し、江戸の経済を支えていた。北斎の《富嶽三十六景 江戸日本橋》に描かれるように、海と運河は都市内部へ物資を供給する重要な動脈であり、市民にとって海は都市生活を支える身近な存在であった。

同時に海は、行楽と祝祭の場でもあった。

これに対して現代の東京湾は、その役割の大半を物流施設や倉庫群、一部の高級住宅に占有されている。海辺に建つタワーマンションから海を眺めることのできる人々は限られており、大多数の市民にとって海は遠い存在となった。

すなわち、江戸と東京の断絶とは、市民が海から切り離されたことではない。海が担う機能の多様性が失われたことにこそ、その本質があるのである。

物流、遊興、信仰、祝祭といった複数の意味を持っていた海は、現代においては物流と不動産価値という単一の論理へと収斂しつつある。そのことは、東京という都市が失ったものの大きさを示しているように思われる。

3. 住宅観の変化

ここまで見てきたように、山の手と下町の構造や海との関係において、江戸と東京の間には大きな断絶が存在している。しかし、その断絶は都市の形態や自然環境との関係だけではない。人々が住宅に求める役割そのものもまた、大きく変化している。

特に町人が生活していた町家や長屋に着目すると、江戸時代の住宅には二つの特徴があった。

第一に、職住一体であったこと。第二に、借家社会であったことである。

まず職住関係について見てみたい。

江戸時代の町家は商人の住まいであり、一般的には店舗を併設した都市型住居であった(伊藤毅『町屋と町並み』)。表通りに面する「表店」は人通りの多い立地を生かした商業空間であり、その分家賃も高く、建物も比較的豪華であった。

しかし、商業活動は表通りだけで完結していたわけではない。路地の奥には「裏店」が形成され、そこには行商人や下級武士、大工、鍛冶屋、家具職人、雑貨職人、絵師など、多様な職能を持つ人々が暮らしていた。特に居職と呼ばれる職人たちにとって、住宅はそのまま仕事場でもあった。

すなわち、家で働くということは特別なことではなく、ごく当たり前の生活の一部であったのである。

こうした住まい方は住宅の構成にも現れていた。

表店には通りに面して「店」と呼ばれる商業空間が設けられていた。そこでは商品の売買や職人の作業が行われ、住宅の内部にありながら誰もが出入りできる半公共的な空間として機能していた。

また、裏店においても程度の差こそあれ、土間が作業場や売買の場として用いられていた。

つまり、下町を歩けば表通りであれ裏通りであれ、いたるところから商売の気配が感じられる都市空間が形成されていたのである。

しかし、このような住宅像は近代以降、大きく変化していく。

近代的なサラリーマン像が社会の標準となるにつれ、住宅は典型的な都市型労働者のための空間として定義されるようになった。職は住宅内部から切り離され、住む場所と働く場所を分離することが理想とされるようになる。

さらに、このような住宅観の変化を制度的に後押ししたものとして、都市計画制度の存在を挙げることができる。

1919年に旧都市計画法が制定され、その後1923年の関東大震災を契機として用途地域制度が本格的に整備されていく。当初の用途区分は「住居地域」「商業地域」「準工業地域」「工業地域」の四種類のみであり、その区分も比較的緩やかなものであった。そのため住居地域の内部においても、商店や小規模な工房が共存し、多くの人々は依然として職住一体の生活を送っていた。

しかし高度経済成長期以降、この状況は大きく変化する。1968年の新都市計画法によって用途地域は八種類に細分化され、さらに1992年の改正では十二種類へと拡大された。そこでは「良好な住環境の保護」が重視され、住宅地から商業や生産活動を分離する方向性が強化されていく。

もちろん用途地域制度は公害対策や生活環境の向上に一定の役割を果たしてきた。しかしその一方で、住宅は住宅、商業は商業、オフィスはオフィスという機能分離の思想を都市空間の中に定着させることとなった。用途地域は単に建築可能な用途を規定するだけではない。建蔽率や容積率、高さ制限などと組み合わさることによって、建物の規模や形態にも大きな影響を与え、結果として用途地域の境界そのものが都市空間の境界として現れることとなった。

かつて江戸の町人地に見られたような、住まいと商いが連続し、表店と裏店が混在する都市の風景は徐々に失われていく。住宅の内部から仕事が切り離され、街路に開かれていた半公共的な空間も姿を消していったのである。

もう一つ重要なのが、住宅の所有形態である。

江戸の町人地において、町の運営に関わる「家持」は少数であり、大多数は「店借」と呼ばれる借家人であった。借家率は八割程度に達していたとされている。

これに対して現代の東京都では、2023年住宅・土地統計調査によれば借家率は約55%であり、江戸の町人地とは大きく異なる。

借家文化は、人々に高い流動性をもたらしていた。

住む場所だけでなく働く場所も含めて、その土地が自分に合わなければ移動することができたのである。

しかし持ち家社会の成立によって、人々は土地に固定されるようになる。

これは単なる所有形態の変化ではない。地域との関わり方そのものを変えることになった。

横浜・野毛で行われていた「野毛ジャズde盆踊り」が、近年建設された分譲マンション住民からの騒音苦情によって中止に追い込まれた事例は、その象徴的な例であろう。

賃貸社会であれば、街の文化に馴染めなければ人が移動する。しかし持ち家社会では、人が土地から離れることが困難であるため、時として土地の側が変化を迫られる。

さらに槇文彦が『見えがくれする都市』で指摘したように、戦後の日本人は武家屋敷的な空間に対する憧憬を抱き、塀に囲まれた閉鎖的な住宅を志向するようになった。

その影響がどこまで都市空間に作用したかを定量的に示すことは難しい。しかし、用途地域制度による機能分離、商業活動を猥雑なものとみなす価値観、出勤を前提とした近代的労働観、そして持ち家志向が複合的に作用した結果、日本の都市には閉鎖的な戸建て住宅地が大量に生み出されることになった。

このように考えるならば、現代の東京に生きる私たちは、住宅の形態においてもまた、江戸の町人たちが生きていた世界とは根本的に異なる環境の中で暮らしていると言わざるを得ない。

江戸と東京は同じ土地の上に築かれている。しかし、人々の住まい方、働き方、そして都市との関わり方は決定的に変化しており、両者の間には連続性よりもむしろ深い断絶を見出すべきなのである。

4. 働き方の変化

前項で見てきたように、住宅の変化は都市空間の変化と表裏一体であった。そして両者を結びつけていたものこそ、人々の働き方である。

第一章でも触れたように、近代以降の日本では、住宅地からオフィス街へ通勤するという生活様式が一般化した。閉鎖的な住宅と経済活動に特化した都心とを往復するこの構造は、現代人の生活の基盤となっている。しかし、このような働き方は決して普遍的なものではない。

江戸時代の町人社会においても、人々がすべて独立した商人であったわけではない。多くの人々は商家に雇われた奉公人であり、必ずしも自らの店を持っていたわけではなかった。しかし、彼らの多くは主人の家に住み込みで生活しており、職場と住居は分離されていなかった。奉公人にとって、働く場と暮らす場は同一であり、その関係は現代のような労働力の売買というよりも、擬似家族的な共同体として成立していた。

また、そのような関係性の中で、労働者は商家を介して町内社会の一員となっていた。店は単なる経済活動の場ではなく、地域と接続する窓口でもあったのである。

これに対して、現代の通勤型労働者は、商空間から切り離された住宅に帰宅する。住宅地には住居だけが並び、労働者は職場と住居を往復するだけの存在となる。その結果、地域社会との接点は希薄になり、人々は町から切り離されていくことになる。

この変化は、個人事業主の減少という形にも表れている。ILOの統計によれば、日本における自営業率は1980年には約30%であったが、2023年には9.5%まで低下している。これは統計対象となる185か国中170位に位置する水準であり、日本が世界的に見ても極めて雇用労働者中心の社会であることを示している。

もちろん、この減少は都市型労働者の増加だけによるものではない。農業や漁業など第一次産業の衰退も大きく影響している。しかし、それを考慮したとしても、江戸時代においてごく当たり前であった「自ら仕事を営む」という感覚が、現代においては例外的なものになっていることは確かである。

近年ではスタートアップ企業や起業文化の広がりによって、個人が独立して事業を始める動きも見られる。しかし、そこで目指されているものの多くは、資本主義市場の中で成長する企業体であり、資本家と労働者という近代的な構図を再生産する側面が強い。かつて町場に存在していた小規模な商い、すなわち地域社会の一部として営まれる個人事業は、むしろ希少な存在となっている。

しばしば、このような状況は大規模小売店舗法の廃止や大型商業施設の進出によって説明される。しかし、その背景にはより長期的な構造変化が存在している。

海との関係の変化によって都市から水辺の公共性が失われ、住宅観の変化によって職住一体の住まいが消滅し、用途地域制度によって都市空間そのものが機能ごとに分離され、さらに通勤を前提とする労働観が定着した。その結果として、かつて江戸の町場に見られたような、住まいと仕事、地域社会と経済活動が緩やかに重なり合う世界は解体されていったのである。

もちろん、江戸の都市を理想化することはできない。そこには身分制度や衛生環境の問題など、現代社会とは比較できない多くの制約が存在していた。しかし少なくとも、江戸から東京への移行は、単なる都市の拡大や近代化ではなく、人々の暮らし方そのものの変容を伴う断絶であったと言えるだろう。

こうして見てくると、今日しばしば語られる「地域性」や「コンテクスト」とは、一体何を指しているのだろうか。地形や歴史的建造物だけを手掛かりにして都市を理解することはできるのだろうか。

次章では、こうした断絶を経た都市において、建築が依拠すべき「コンテクスト」とは何かについて改めて考えてみたい。

【第1部:構造の確立と歴史の断絶】

第1章:住宅が作り上げた日本の都市像

nLDKモデルとデベロッパー主体の都市構造が、いかに「丸の内」的な均質空間を増殖させたか。

第2章:江戸の都市から東京の都市へ:破壊された連続性

東京という巨大都市が、いかに江戸的な身体感覚や場所の範囲を破壊し、コンテクストを上書きしてきたか。

第3章:コンテクストを失った都市における「コンテクスト」の再定義

歴史や土地の文脈が消えた場所で、建築は何を根拠に立ち上がるべきかという問い。

【第2部:身体性の排除と隔離の構造】

第4章:孤独の系譜学:隔離を促す住形式

都市化が「自由」の代償として「個」をいかに隔離・閉鎖し、家族やコミュニティを解体したか。

第5章:住宅論が忌避した「性愛論」が生んだ日本の住宅構造

家族という記号の裏で「身体性・性愛」を排斥し続けた結果、いかに不自然な生活空間が形成されたか。

【第3部:都市空間の欺瞞と階層化】

第6章:パブリックスペース神話が生んだ偽りの公共性

企業が管理・演出する「公共性」がいかに人々の生の営みを排除し、真の「公」を奪っているか。

第7章:祝祭と日常という詭弁:二項対立が生んだ生活の欠落

「イベント(都市)」と「安息(住宅)」を切り分けたことで、日々の生活からリアリティが失われた現状。

第8章:階層化される都市:タワーマンションと雑居ビルに通ずる欺瞞

垂直の隔離(タワマン)と水平の混濁(雑居ビル)。一見対極な両者に通底する経済至上主義の視線。

【第4部:経済理想と現実の摩擦】

第9章:小商い推進という「建築的理想」と現実の乖離

建築家が理想視する「小商い」は、本当に経済の核となれるのか。マーケットの論理との絶望的な距離。

第10章:ジェントリフィケーション:街の「洗練」が奪う居住権

都市再生の名の下で行われる「排除」の構造。魅力的な街ほど、多様な居住者が住めなくなる皮肉。

第11章:都市一極集中の再肯定:地方分散がもたらす弊害とコスト

郊外・地方移住推進がインフラを希薄化させる。あえて「都市の密度」を選択することのレジリエンス。

【第5部:職能の分断とこれからの姿】

第12章:シェア文化の台頭と日本の不動産モデルとの矛盾

シェアを求める新しい生活者と、所有を前提とした金融・不動産システムがいかに衝突しているか。

第13章:建築業界の分断:区分された業界がもたらす住宅の崩壊

ハウスメーカー、工務店、組織、アトリエ。この分断がいかに「住生活の全体性」を損なっているか。

第14章:職能論:社会を変えるとは何か、建築家が変えられる対象

空間だけではなく、制度や経済にどう介入するか。建築家という職能の限界と可能性。

第15章:結論:経済モデルを越えた、これからの住宅と都市の姿

経済合理性ではない「生の生活」を支えるために、都市と住宅をどう統合的に再編すべきか。

    

SLAB – Global Criticism of Architecture & City & Housing


SLABをもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。

コメントを残す

現在の人気

SLABをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む

SLABをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む