天翔ける屋根職 :ピョートル・テルーシキン

坂内知子

サンクト・ペテルブルグの誕生

 ロシアを帝国にしたロマノフ王家と江戸幕府を開いた徳川将軍家は交わることもなく、全く互いに関係のない存在のように見える。実際、ほんの束の間の幕府の迷走期を除き、何の関りも持たずに、両雄とも命運が尽きてしまうのだが、二つの王家は時代的にパラレルな存在(徳川王権の方が約40年早く消滅)で、ロシアの歴史年表を見ると、江戸期ではいつ?とつい思ってしまうのだ。

 徳川家康による江戸開府は1603年であり、大貴族ロマノフ家の16歳の青年ミハイルが貴族会議によって全ルーシのツァーリに選出されたのが1613年である。ロシアの方は約100年後、ロマノフ朝の始祖ミハイル帝の孫であるピョートル一世(在位1682-1723:大帝)が首都をモスクワからペテルブルグに移してしまう。旧弊な大貴族たちが跋扈するモスクワを嫌ったのである。宮廷内の闘争を勝ち抜き、全ロシアの実権を掌握したのち、一途にヨーロッパ化へと走っていく。そのための必然の遷都であった。徳川幕府の5,6代将軍のころである。

 ちょうど1700年からロシアはスウェーデンを相手に戦争を始めた。周辺の国々も巻き込んでの大北方戦争である。ロシアの西方進出を阻む近隣諸国との勢力争いに決着をつけておかねばならなかった。

 露暦(ユリウス暦;以下文中同)でいう1703年5月16日(グレゴリオ暦で27日)、ネヴァ川河口近くのフィンランド湾に浮かぶ、あたりに住むフィン人たちが「ウサギ島」と呼ぶ小さい島に要塞の建設が始まった。将来の首都、都市サンクト・ペテルブルグの種が播かれたということで、この日が当市開基の日となっている。工事は驚くべき速さで進んでいった。ピョートル一世が要塞着工の次に取り掛かったのは新しい都市の精神的な核としての教会の建築であり、木造の教会は一年足らずで完成した。次第に人の住む区域が広がっていった。ツァーリ自身が対岸に自分用の小さい二部屋の小屋を建てていた。建築現場を起点として、集落が増え、町らしき様子を呈するようになってきた。1709年、ウクライナのポルタヴァでスウェーデン軍に圧勝し、スウェーデン国王カール十二世を手負いにしてトルコ領に追い出したピョートル一世は北方戦争に勝利した実感を得た。首都となるべきペテルブルグの建設を急がなくてはならない。1712年までにモスクワから宮廷を移し、政府諸機関や軍を移動し、皇族や有力貴族たちに荒れ地のようなところに屋敷を建てさせて住まわせ、嫌がる商人たちを無理に移住させ、遷都を実現した。

ペトロパウロ大聖堂鐘楼の尖塔

 ペテルブルグの起点となったウサギ島には六つの稜堡を備えた立派な星形要塞が出来上がったが、この要塞は実はほとんど戦火を浴びることもなく、砲塁からは現在まで時報と祝砲しか揚げてこなかった。帝都となった1712年の5月30日、ピョートル一世の誕生日に木造教会の場所に石造となるペトロパウロ大寺院の起工式が行われた。スイス人建築家ドメニコ・トレジーニによる、ロシアで言うところのピョートル期バロック様式の建造物である。建設で何よりも急がれたのは教会本体よりも鐘楼であった。ピョートル一世の意図はロシアで一番高い美しい建物を立てて、新しいヨーロッパの一員であるロシア帝国の首都を飾り、バルト海をやってくるヨーロッパからの船舶に見せつけることであった。鐘楼の上に金色の尖塔を置き、その上端は一層華やかに輝く黄金の十字架と天使の風見で飾られた。1724年も終わりの頃、120メートル余の金色の尖塔に輝く鐘楼は完成し、ピョートル大帝は不慮の死を遂げる数カ月前に自分の夢を目にすることが出来たのである。

 ちなみにペトロパウロ大寺院はピョートル一世以降のロマノフ家の菩提寺としての教会であり、十八世紀から二十世紀初頭までピョートル二世とイヴァン六世を除く全皇帝と皇后が教会内に葬られてきた。1998年、本堂内の脇祭壇前の棺に、革命軍によって殺害された最後の皇帝ニコライ二世とその家族の遺骸が納められた。

農奴屋根職人テルーシキン

 ペテルブルグのファースト・シンボルが出現して100年余過ぎた頃の話である。ロマノフ朝はピョートル一世没後の数々の宮廷クーデターをくぐり抜けて、帝位継承も男子優先(男系オンリーではない)が明文化されて安定し、エカテリーナ二世の孫、謹厳なニコライ一世(1825-1855)の君臨する時代(江戸期11、12代将軍の頃)であった。

 1830年秋、強風によりペトロパウロ大聖堂鐘楼尖塔上の十字架を覆う金属板が剥がれ、風見の天使の羽根の一方が外れてしまった。建築委員会は万事倹約を旨とする皇帝の顔を思い浮かべて、おおいに困惑していた。足場を建て修理するには多大な費用を要するからである。

鐘楼も同じく建立より100年以上経ち、尖塔上の天使像はトレジーニ作の初代から数えて三代目になっていた。トレジーニは北欧の市議会堂等の風見によく見られる横向きに泳ぐような天使像を作ったのだが、十字架との接合に安定性を欠き、1778年に三体目をつくるとき、イタリア人建築家のアントニオ・リナルディは右手で十字架を抱くような天使をつくり、より小型にして十字架に重心を落とし込んで安定させた。しかしもう50年以上も風見として回り続けてもいたのだ。

1830年の夏、一人の若いヤロスラーヴリからの出稼ぎの屋根職人が建築委員会に赴き請願書を提出した。一人で足場を使わずに、ペトロパウロ大寺院の鐘楼尖塔上の十字架と天使像を修理するというものだった。名をピョートル・テルーシキンと言った。以下、『サンクト・ペテルブルグ三世紀・百科事典 19世紀』 (2008:建都300年記念出版物;同じく2003年には東京でも江戸開府400年のイベントが目白押しであった)、『素晴らしき変人、奇人たち』(M.プィリャーエフ,1898)、『ペトロパウロ大聖堂、ロシア皇帝霊廟』(S.トロフィーモフ,1998)及びその他の資料から事の顛末を追ってゆく。

 テレーシキンは1806(1803?)年にモスクワ北東のヤロスラーヴリ県に農奴の親の元に生まれ、1823年に農民で屋根職人のテレーシキンに売られた。買主は息子たちの代わりに兵士に出そうと思ってのことだった。ところが息子たちがコレラで亡くなり、彼が息子に替わって屋根職を継ぐことになった。1829年3月にテレーシキンはペテルブルグへ出稼ぎに出てきた。首都で屋根職人として登録もしたようである。請願書には、足場も使わず、十字架と天使の破損をすべて一人で修理する、資材購入のため1471ルーブリの支給を願う、彼への労働報酬と褒賞は委員会の評価に任せる、仕事を請け負うための財力がないため、自分の命を担保にする、というものだった。彼の提案は採用された。テルーシキンは己の人並み優れた身体能力と200キログラムを持ち上げる怪力、明敏な判断力、それに何より恐れを知らぬ胆力を自覚し、その能力を発揮するチャンスを待っていたのだった。

 仕事は1830年10月8日から始まった。テレーシキンは尖塔内部の木造構造の上端まで登り、50センチほどの上のハッチをあけて、ロープの端を内部に結び付けて外に出た。そこから尖塔の先端まではまだ30メートルほどあった。尖塔の表面は金色の銅板を溶接して覆っており、溶接部は9センチほど盛り上がっていた。そこから尖塔の上端部に付けられた、十字架(6.4m)と天使(3.6m)の台となっている球体(リンゴ:直径2.8m)まで登るには尖塔にロープを巻き付けなくてはならない。テルーシキンは片手で全重量を支え、他の手で接合部の突起を掴み、常時揺れる尖塔をロープを引きずりながら登って行き、尖塔に螺旋状にロープを巻き付けていった。これが第一日目の作業であった。次の日は最も困難な仕事を成し遂げなくてはならなかった。尖塔の表面に出ているツメ(鉤)を利用して、ロープを強化しながらリンゴの下に到り、そこからロープを投げ縄にして、リンゴの上の十字架に向かって投げるのである。リンゴは直径3m近く、その下からは十字架も天使も窺うことは出来ない。彼は足首をロープで結び、尖塔に縛り付けて、身を空中に泳がせ、地上とほぼ平行になるよう踏ん張って十字架を目に捉え、ロープを投げた。何投目かでうまく海風に煽られたロープは十字架を捉え、テルーシキンはリンゴの上の風見の基部に登っていった。地上から約120メートル余の高所である。第三日目には彼は尖塔とリンゴに固定したロープから尖塔の明かり窓まで50数メートルの縄梯子を渡した。以降6週間、悪天候の日を除いて毎日彼はこの縄梯子を仕事道具と資材を携帯して登っていった。リンゴの上にあがり、十字架の剥落した銅板を修理し、天使像の羽根を元通りに付け直し、十字架を元通りに立て直した。ただし、長年の風見の旋回で十字架は相当擦り減っており、少し落ち込んで低くなった。

偉業のあと

 テルーシキンの仕事はペテルブルグ全市から見られていた。にもかかわらず当時の唯一のメディアである新聞は長く彼について触れようとしなかった。対岸のクトゥーゾフ川岸通りの自宅から望遠鏡で彼の仕事を凝視している人物がいた。芸術アカデミー総裁で帝立公共図書館館長のアレクセイ・オレーニン(1763‐1841)という、ナルヴァ門、イサク大寺院、カザン大寺院等々ペテルブルグの歴史的建造物に深く関わってきた高級官僚である。芸術家、建築家の庇護者を自認するオレーニンはテルーシキンの仕事に感動し、目撃者として彼のことを広く知らしめるべしと決心し、テルーシキンを呼んで、本人から詳しく仕事の内容を聴取した。彼はアカデミーの絵画教師であるフョードル・ソーンツェフに尖塔修理の作業工程を作画するよう命じた。テルーシキンと同じヤロスラーヴリ県のモログスキー郡出身であるソーンツェフは彼から直接作業の仔細を聞き、尖塔登攀の図解を作成している。ソーンツェフの作った図版はオレーニンの文に添えられて雑誌「祖国の息子」(1831,№14)に掲載され、小冊子としても印刷された。

 オレーニンの記事の出版後は「サンクト・ペテルブルグ報知」、「モスクワ報知」、「ヤロスラーヴリ県報知」等各紙の報道により、ロシア全土がテルーシキンを知るところとなり、巷間はテルーシキン話題に沸いた。民衆の言葉を収集するため当時各地を調査していた言語学者のダーリは「この世の隅々までその知恵と勇気で驚嘆させたテルーシキンを知らない者などいない」と言っている。民衆は彼に「天空の屋根職」という名を捧げたのである。

 オレーニンはテルーシキンを皇帝ニコライ一世に謁見させ、皇帝より彼に褒賞として紙幣5000ルーブリ(3000とも;ゴーゴリの書いたロシア文学の名作『外套』の主人公である小役人の年俸が400ルーブリである)が与えられた。翌1831年3月には彼の「勇気と精励」に対して、アンナ勲章の綬が付けられた銀メダルが授与された。記念の酒杯も皇帝手ずから下賜されたとも伝えられ、酒杯にはその杯の所有者にはどこでも無限に酒が与えられると記されていたと言う・・・

 1831年の5月、テルーシキンはイライダ・フョードロヴァという農奴の女性と市内のニコーリスキー大寺院で結婚式を挙げた。彼のペテルブルグでの挑戦には、長く思い続けてきたイライダを地主から買って、農奴身分から解放したいという動機があったとも言われている。テルーシキンは一躍有名人になり、彼のもとには大家より屋根や高所修理の依頼が殺到した。街の雀たちは彼の稼ぎの莫大さを吹聴しあった。

1837年に完成したチェルネツォフの大作群像画『1831年10月6日の后妃が原におけるポーランド王国和睦記念パレード』に小柄な彼の姿が見いだせる。この絵の中には233人のペテルブルグのあらゆる出自の有名人が描きこまれており、この絵ためにテルーシキン本人から写生したエスキスも残されている。群像画の中では髭をたくわえ、裾長の古風なコートを着たテルーシキンの近くには大作家プーシキンも見える。その後の彼の人生は不明で、ソーンツェフの回想によれば酒で身を滅ぼしたということである。1833年の秋に亡くなった。 

伝説と尖塔風見のその後

 当人が早々と不在となって、テレーシキンの伝説化は凄まじいものだった。実際、ペトロパウロ大寺院の尖塔修理以降、彼のところには有力な依頼者からの注文が殺到したが、実際に手掛けたアドミラルテイストヴォ(海軍省)の尖塔の船の風見だけでなく、どこそこの有名教会の十字架や何某邸の屋根もそうだとか・・・彼の仕事とされるものが無数に出てきた。1875年のアルハンゲリスクの新聞が彼を同県人としてアドミラルテイストヴォの尖塔修理を報じてもいるのだ。ペトロパウロ大寺院の鐘楼尖塔は全体的な老朽化のため、1857年に解体され、木造の尖塔は鉄製となり、すべて新しく造り直されたが、ソビエト時代、テルーシキンの修理の110年後になって、ペトロパウロ大寺院鐘楼内で高所作業を行っていた時、オーク材に彼が絵具で描いた絵を発見したという話が流れてもいる。

ソビエト政権の時代には鐘楼尖塔を飾る十字架と天使を赤い星にかえるべしという圧力もあった。スターリン像になりかけたこともありや、とか・・・20世紀が終わるころ、ロシアがソビエト社会主義共和国連邦のペレストロイカ期からロシア連邦となり、混迷する経済の中で苦しんでいた時分、経年で酷く傷んだ十字架と天使は塔から降ろされ、ペテルブルグの空は何カ月も寂しいままであった。やがて人々はテレビを通して募金を呼びかけ資金を集めた。再び風見は修復され、人々は日々その姿を目にしている。

民衆はテルーシキンと共に!

 若い屋根職の偉業に歓呼した人々は今も常に彼を追慕している。彼がツァーリから賜った酒杯は民衆に無限の歓喜をもたらした。一説に、彼はそれを賞状として渡されたのだが、失くしてしまい、その代りに右顎の下に烙印をつけてもらったという。酒を求めて店に入るときはそれを指すように指をパチンと鳴らせばよいのだ。そうすれば、好きなだけ酒が飲めるのだ。ここからロシア人なら知らぬ者はいない、「飲もう!」を示すゼスチュアが出来たのだという。

 「天空の屋根職」と呼ばれたテルーシキンは幸運であった。無事に尖塔から生還し、己の快挙で得た酒福に殉じてしまったが、人々の日常にあって不可欠なゼスチュアでその名が不滅のものとなっているのだから。文化史家のアルカジーとミハイル・ゴールジンの父子はその共著『プーシキンの時代』(サンクト・ペテルブルグ、1999)において、その時代の建築労働者の厳しい労働環境の実際を書いている。ペテルブルグでは家は迅速に建てられた。その要因は、安価な労働力と春と夏の労働時間の異常な長さにあった。ペテルブルグの建築労働者の一日は苛酷であった。日の長い春と夏は未明の4時から晩の9、10時まで仕事は続いた。建築用の足場はこの上なく簡単に作られ、安全性はほとんど顧みられていなかった。「足場は厳寒時には滑りやすいので、労働者の落下なしには済ますことはできない」とはある監視官の事故の多さへの言及である。宿舎の保証はなく、労働者たちは建てかけの家に住んだり、ベッドを時間で借りたりしていた。 

テルーシキンの仕事期間はペテルブルグの天候の最悪の時期であった。8月後半より空は曇り、白夜の明るさは消えて雨が降ってじめじめと寒くなり、10月にはもう雪も舞う。直下のネヴァ川からの冷たい川風にさらされ、秋の海からの強風も吹き、秋の日はすぐ沈む。11月はもう冬である。この間6週間を裸足で尖塔に登り続け、常に揺れている危うい高所で彼は屋根仕事に没頭したのだ。

テルーシキンと同時代の1834年に出版された『サンクト・ペテルブルグのパノラマ』の中で著者のA・バシュツキーは高所で働くペンキ職人や左官について次のように書いている。

「彼が仕事をしている時、どんな状態なのか見るのも恐ろしい。時に空中の仕事場で、その一部に膝を曲げてつかまっている彼は、いわば空中にぶら下がり、そこを泳いでいるのだ。そこで彼は雨に降られ、冷たい風が吹きすさぶなか、大声で歌を歌い続けて見事仕事をこなしてゆく。しかも、手の届く場所での作業を終えて次の個所へと移動し始めると、見る者の心は思わず震えてくる。とんでもなく高いところで丸太に跨り、片手で端をしっかりつかんで、彼は両足で壁を強く突く。自分を乗せた木材は反動で壁を滑ってゆく。身体をピンと緊張させ、大胆な動きで彼は半サージェン(一メートル余)以上も脇  に飛ぶのである。力や空間を少しでも読み違えれば、必然的に死が待っている。」

 まさにテルーシキンと同じ「天空を翔ける職人」は当たり前のようにいたのであ る。テルーシキンは奇想天外なロシアの農奴職人の代表(典型)なのだ。

帝都建設を始めた人々 外国人建築家と軍人捕虜たち

『サンクトペテルブルグ 建築の3世紀』(1999年)

労働者と建築・設計家3名

同時代の登攀図解 ; 「飲もうぜ、飲もうよ、飲ませろ!のゼスチュア」

著者紹介

坂内知子(ばんない ともこ)
愛媛県生まれ、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了、ロシア庭園論、貴族屋敷研究
著書 『ロシア庭園めぐり』(東洋書店、2005年)
共著 『岩倉使節団の再発見』(思文閣出版、2003年)
   『スラヴャンスキイ・バザール』(水声社、2002年)
訳書 ドミトリイ・リハチョフ『庭園の詩学』(平凡社、1987年)
   アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち』(平凡社、1992年)
共訳 『ブーニン作品集1、3』(群像社、2014年、2003年)
   『宣教師ニコライの全日記9』(教文館、2007年)


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