『竹山聖 建築思想集――都市・身体・可能世界』04
建築のモダニズムについて、そしてポストモダニズムについて
On architectural modernism, and on postmodernism.
竹山聖
Sei Takeyama
モダニズムの世界
建築におけるモダニズムについて振り返ってみたい。しかもこれをポストモダニズムという思想を介して振り返ってみたい。なぜなら、私が建築教育を受けた1970年代が、ちょうどモダニズムからポストモダニズムへと大きく転換を遂げつつあった時代であり、その転換期を私がじかに経験していて、現場の生の状況や雰囲気を証言しうるからである。
しかもポストモダニズムという状況を開く契機となった、と当時すでに語られ、いまにしてあらためてそのことが確認できる書物、『Complexity and Contradiction in Architecture』(1966)の著者、ロバート・ヴェンチューリが2018年9月にその93年の生涯を閉じ、彼の開いた思想と建築の世界を振り返りうるようになったからである。
ポストモダニズム、あるいはポストモダンという言葉は、その後さまざまなプロパガンダの種となり、あるいは毀誉褒貶を蒙りつつも、基本的におおむね時代を語る言葉として了解され、それに続くハイテクデザイン(いまやほとんど死語に近い)、さらにはディコンストラクショニズムやパラメトリックデザインなど、諸々のムーヴメントも、大きく括ればポストモダニズム——つまり、モダニズムのあと——の試みたちと言えるからである。
さらにいうなら、我々はいまだモダニズムの枠組みのなかにあるとさえ言えるだろう。そもそもポストモダニズムという命名がモダニズムのアンチテーゼであり、モダニズム無しに成立しない。しかも、モダニズムが開いた技術——鉄とコンクリートとガラス——を用いた新たな美学の探求、および今日的な生活機能の要求——機能主義——という世俗的な思考、そして経済性の追求という合理主義思想から、我々は解放されてはいない。もちろんこれらから解放されるべきかどうかは問われなければならないけれども。
言い換えるなら、新たな美学の追求、という新しさへの信仰、これが一つ。崇高さや記念性などかつての建築が有した超越的な価値や表現でなく、日常生活の、いわば施主要望を満たす、という世俗的価値の優先、これが一つ。コストを追求し無駄を省く、いわば丹精込めたり文化的価値を高めたりすることの切り捨て、これが一つ。こうしたことどもを我々は当たり前のこととして受け入れている。例えばお金がかかりすぎるから、全館空調の美術館の上にスタジアムが乗っかったようなスポーツ文化の殿堂など不要なのである。こうした社会からは、パルテノンもパンテオンもハギアソフィアも生まれるはずがない。そしてそれでいいのである。原理的に我々はそうした価値観を受け入れている。
革命としてのモダニズム
モダニズムはいまや世俗の価値観、スノビズムや経済合理性と結びついて、都市の風景を変えた。ただし、モダニズムの運動自体は、そもそも社会変革の運動としてあった。革命としてあった、と言ってもいい。
ル・コルビュジエは、緑と光と綺麗な空気に溢れた「輝く都市la ville radieuse」を構想し、このアイディアによってパリを大改造する提案を行った。ル・コルビュジエもまた、生前は毀誉褒貶を蒙った建築家であって、遺言のようなテクスト「思想のほかに伝えうるものはない」のなかにも、静かな自負と満足のなかに恨み言が散りばめられる。
私はいまや77歳であり、名前も世界中に知られている。私の発見やアイディアはときに受け入れられもしているが、進むべき道筋には、いまだ足を引っ張ろうとする者が絶えず、妨害も絶えない。(訳は筆者による)
そして革命ということについては、こうも述べている。
私自身は革命的な人間ではない。すなわち私は物怖じするタイプであって、自分に関わりのないことに干渉したりはしない。しかし原理というものは革命的であり、出来事もまた革命的なのであって、こういったことどもは冷静に考慮されねばならないのだ、距離を置いて・・・。(訳は筆者による)
こういったことども、とは、前の文脈を受ければ、建築と都市計画のことだ。都市も建築も建設には時間がかかるから、確かに革命的な変化を、すぐさま期待することはできない。しかしル・コルビュジエはインドのパンジャブ州都、シャンディガールを設計し、中心施設群はル・コルビュジエ存命中に建設された。彼の弟子たちも多くの新しい都市を構想し、ブラジリアのように実現もした。都市は一気に、性急に、建設することもできることを示したのである。そしてそれがモダニズムのヴィジョンであった。まったく新たな出発、過去からの決別、である。
モダニズムが最も嫌った言葉はスタイル、だった。日本の建築用語に直せば、様式。つまり、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、といった様式である。モダニズムはこの様式、という考え方を否定した。建築の歴史は時代ごとに身にまとった様式によって記述される。しかしモダニズムは、モダニズムこそは、そうした身にまとった様式などではなく、過去に一切とらわれず、根本的に原理的で理性的で新しい、建築の本質、裸の建築そのものである。これがモダニズムの建築家たちの主張であり志であった。
モダニズムが勃興しつつあった19世紀は折衷様式の時代であり、例えばグリーク・リバイバルやゴシック・リバイバルが唱えられ、銀行はルネサンス、学校はゴシック、美術館はギリシア、あるいは様式のまぜこぜが花開いた。プラン、つまり平面図は、これは誰がやっても同じシンメトリーでクラシックな形式がボザール——フランス古典主義の牙城である——の教科書に載っていてこれに準じ、そこに装飾として立面が「デザイン」される。アップリケのように。こうした、新たな美学も機能も合理も関係ない、繰り返しと代入のデザインに、根底的な反旗を翻したのがモダニズムであった。
たとえばモダニズム思想を切り開く上で大きな役割を果たしたウィーンの建築家、アドルフ・ロースは、「装飾は罪悪である」と1908年の著書で宣言している。未開人ほど装飾を好む、近代人は装飾から解放されるべきである、というのが彼の主張であった。
ル・コルビュジエは、アメデ・オザンファンとともに企画編集執筆者として『エスプリ・ヌーボー』誌を刊行し、書き綴った新しい建築の理念を『建築をめざしてVers une architecture』(1923)にまとめ、「住宅は住むための機械である」という言葉を残した。文字通り、機械のように機能的で合理的な建築を彼はめざした。船や飛行機のデザインを、彼はこよなく愛した。船や飛行機は合理と機能でできており、しかも新しかったのである。Vers une architectureについて補足するなら、そもそもarchitectureは不可算名詞であり、本来uneもaもつかない。しかしル・コルビュジエはあえて「もうひとつの」「新しい」という意味を込めて不定冠詞をつけた。英訳はこれを正確に写し取って、「もうひとつの新しい建築をめざして」(Toward a New Architecture/英訳書タイトル)、としたのだった。過去から切れた新しさを求める志が、そこに満ちている。これまでの歴史の手垢にまみれたarchitectureではないのだ、と。
とはいえ、ル・コルビュジエは、歴史的建造物の中でも、パルテノンだけは別扱いにして、特権的な地位に祭り上げている。スタイルを超越した普遍的な美を体現している、と言うのである。数学的秩序を有した、歴史を超えた建築。これは、新しい建築を標榜するにしても、過去への郷愁を禁じえない人々も含め、万人に文句を言わせぬ戦略的な評価であった。船と飛行機とパルテノン、これがル・コルビュジエのめざす普遍の美の具体例であり、大方の心を掴む言説の説得力であった。
もっとも、ヨーロッパに生まれた建築のモダニズムが本当に広まったのはアメリカに移植されてからであって、しかもそれが「スタイル」として受け取られたのは皮肉であった。1932年にニューヨーク近代美術館(MOMA)で開催された展覧会を機に刊行された書籍のタイトルが「インターナショナル・スタイル」であり、その結果、モダニズムの美学は、それがもっとも唾棄すべきとした「スタイル」として、世界中に広まったのだった。白いシンプルな箱、装飾を廃した抽象的な物体、透明感に溢れ重力のくびきから逃れたオブジェ、機能と構造をそのまま素直に表した造形、という「スタイル」として。
周囲と切れた単独なオブジェ
モダニズムの建築は白い矩形の建築として、周囲の環境から切り離されて、いわば浮き上がった形で出現していった。掃き溜めに鶴、といえばイメージが美しすぎるが、周辺環境になじませようなどとは微塵も考えず、むしろ周りは皆敵だ、とでもいった挑戦的な態度で、都市に挑んでいった。そして新しい世代はその姿勢に快哉を叫んだのである。古い世代の愛好した石積みの壁に小さな窓のあいた暗く汚い建築でなく、鉄とコンクリートとガラスによる白く清潔感にあふれた透明で重力からも自由であるような、そんな建築の新しい「スタイル」に、世界の若い世代の建築家は熱狂した。歴史を超越するパルテノンの孤高の姿がそこに投影されていなかったともいえまい。機能や構造さえも超越する純粋な造形への憧憬。
日本での熱狂は1920年代後半に大いに高まり、前川國男(1905-1986)は1928年に、坂倉準三(1901-1969)は1931年に、ル・コルビュジエのアトリエに飛び込んでいった。彼らがやがて日本のモダニズムをリードする建築家となっていく。ル・コルビュジエが死んだ1965年以降、彼の新作を見たければ日本に行け、とささやかれていたほどに、前川國男の東京文化会館や京都会館、あるいは坂倉準三の一連の美しいプロポーションの作品群は、ル・コルビュジエの志をまっすぐに継ぐものだった。また、ヨーロッパではなかなか受け入れられなかったコンクリート打ち放しの美学も、日本では素直に受け入れられた。どちらかといえば装飾を廃した簡素な美を尊ぶ、生成りの文化の故もあろう。また、ファサード(建築を代表する顔としての正面性を意識した立面)を基本的に持たない、構造を素直に表現する傾向のある日本建築と馴染みが良かったせいもあろう。これらがモダニズムの美学とも響きあったのだ。
ル・コルビュジエは、そして前川も坂倉も、過去の因襲的な建築的枠組みと戦う戦士であった。モダニズムはそもそも過去の様式や美学を否定し、それらと戦うものだったから、単独者として、屹立する形の建築となっていった。街並みの形成には寄与しない、いわば単独のオブジェとしての建築である。コンテクストは、読まない。むしろ関係を切る。
モダニズム建築が賞賛されたのも、過去との決別の姿勢の故であり、批判されたのも過去との連続性を持たぬが故であった。
単純さの否定、複雑なものへの好み
さて、ようやくロバート・ヴェンチューリの話をしよう。ロバート・ヴェンチューリは建築家であり批評家であり、建築の歴史に明るく、過去をさまざまな意味で愛した。その批判精神の故に、そしてユーモアやアイロニーといった操作を加えたやや屈折した形であったにせよ、歴史的様式をそのまま踏襲することこそなかったが、過去を振り切ることは決してしなかった。むしろ寄り添おうとした、といっていい。
また現在の状況に対しても、否定的であると同時に肯定的に捉えた。そしてまた来るべき未来像についても、過去から切断し一気に、そしてまったく新たに、描きだすことはしなかった。このあたりがモダニズムをリードした建築家、ワルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ(3巨匠とも称される)たちとは決定的に異なっていた。未来は過去との連続の中にある。一気に描き出されるべきものでなく、少しずつ変化していくプロセスとして。これがヴェンチューリの認識であった。
現状への否定と肯定についてさらに具体的に述べてみよう。ヴェンチューリは一方で、モダニズムを極めて単純化して、仮想敵と捉え、戦略的なやり方で徹底的に否定したのだったが、他方、ラスベガスのような、ともすれば大衆的で商業的で、およそまともな都市計画家や建築家なら相手にしないような街並みを、オールモースト・オーライ、と肯定した。
ただ、モダニズム建築への否定といっても、自虐的なポースも交えた誉め殺し的なものであり、大衆的な好みの肯定も、どこまで本気か訝しまれるような文体であって、両義的なやり方で表明されたから、態度は一筋縄でいかぬ曖昧なものに見えた。というより、そうした曖昧こそが、彼の態度の根底をなす美学であった。そもそも、白か黒かという態度そのものを批判する、というのが彼の基本姿勢である。彼の論理でいうなら、モダニズムは白か黒かの美学。つまり単純なのである。シンプルなのである。その故に断罪される必要があった。
ヴェンチューリの有名な言葉に、「簡素なものは退屈だ」というのがある。「Less is a bore」。これはミース・ファン・デル・ローエ(ル・コルビュジエと並ぶモダニズムの巨匠。もし20世紀で偉大かつ影響力のある建築家を二人と言われれば、ミースとコルを挙げておけば良い。さしたる異論は出まい)の標榜した「Less is more」のパロディである。簡素なものほど豊かである、という逆説。モダニズムは確かに、削ぎ落とし、抽象化して、純粋な形式に建築を還元しようとした。ヴェンチューリの「Less is a bore」は、これを逆手に取っての言い回しである。
ところで、日本ではレス・イズ・ボア、とboreを形容詞のように使う言い方が蔓延している。しかし、boreは本来動詞か名詞である。だからboringあるいはa bore(退屈なもの)となる。ヴェンチューリはmoreと語呂を合わせるためにboringでなくa boreとした。日本語訳書がわざわざ「レス・イズ・ボア」とルビを振ったことも、この間違った言い回しを助長した。
衒学的な脱線をしてしまったが、ともかくlessであることをヴェンチューリは嫌った。複雑で曖昧で多様で複合して対立するものたちの間の関係、緊張を孕んだ建築、そうした美学を持つ建築を愛したのである。
『Complexity and Contradiction in Architecture』は1966年にMOMAから出版された。イェール大学の文化史家であり建築批評の論陣を張るヴィンセント・スカーリーが序文を寄せ、「建築設計において1923年のル・コルビュジエの『建築をめざしてVers une architecture』以来もっとも重要な著作である」と書きつけた。1977年の再版の序文で、彼は自らの慧眼を誇り、この言辞を繰り返している。どうだ、自分の言った通りだっただろう、というわけだ。
ヴェンチューリのこの一冊は、その後1972年に出版された『Learning from Las Vegas』とともに、ほんの10年かそこらで、建築シーンを大きく転換させる起爆剤となった。1973年から77年という私の大学学部時代はぴったりここに重なってくる。ヴェンチューリ自身は決してポストモダンを称したわけではなかったが、時代は大きくモダニズムから、いわゆるポストモダニズムへと振れていったのだった。
意味の復権
ヴェンチューリはモダニズムを、過去からの決別という潔い態度の故に豊かな意味の世界を失った、と批判する。すべてを刷新する革命への熱狂が、建築の歴史がこれまで積み重ねてきた豊かな空間的手法のすべてを捨て去る道を選んでしまった。その中には捨て去るべきでなかったものが多く含まれている。様々なニュアンスや、曖昧さ、両義性、など、本来建築が有していたはずの多彩な意味の世界を。意味を消去し、合理的形式へと還元するモダニズムの姿勢が切り捨てた物語性。都市的な文脈との関わり、過去の建築への敬意、など、他者への配慮も含めて。
ヴェンチューリの標榜した「複合と対立」とは、モダニズムの掲げた機能主義のような、技術的、即物的、合理的、構造表現的側面、つまり物質的側面からのアプローチでなく、歴史的、文化的、つまり人間の持つ心理的側面に焦点を合わせて建築を論じる、という態度の表明だと理解していい。すなわち彼は、モダニズムによって純粋な形式へと還元された建築に、意味の世界を復権させようと企てたのである。
さらに注意しておくことがある。ヴェンチューリ自身は、建築表現それ自体が複雑怪奇で混乱したものであるべきだ、などと考えていたわけではない、ということだ。彼はむしろ、建築から受ける印象や心理的状態が、複合と対立に満ちた豊かな意味の世界をもたらすことをめざした。実際、彼の設計した建築は明るく朗らかなもので、決して怪しげで神秘的なものではない。しかし、だからといって一筋縄で行くものではなく、さまざまな暗喩に満ち、連想を呼び覚ますような、意味のゆらぎと多様に満ちている。物質的合理性のみでは語りえない、ただ一つの解答がある、というような真理への意志のようなものとは無縁である。つまり偉そうではない。ただ形や素材の上での複雑怪奇さについていうなら、彼はむしろこれを忌避し、嫌悪したのであって、そうしたことどもについても『Complexity and Construction in Architecture』にも注意深く書き込まれている。
確かに、都市の中心を席巻しつつあった、均質で意味の消去されたガラスのスカイスクレーパー群には、ヴェンチューリは密かな敵意を持っていただろう。しかし同じモダニズムとはいえ、ル・コルビュジエやアルヴァ・アアルトの建築作品の持つ豊かな造形性に、ヴェンチューリは深く敬意とシンパシーを表している。モダニズム批判にあたって、その代表として彼が選んだのは、スマートで洗練された造形力を持つ一人の建築家であった
仮想敵
ヴェンチューリはモダニズム批判にあたって、周到に仮想敵を選んだ。それがポール・ルドルフ(1918-1997)であった。ルドルフはイェール大学のディーンを務め、建築学生が学ぶ美術建築学部の校舎も設計し、多くのプロジェクトを抱える当時のアメリカの花形建築家であった。このルドルフに対するヴェンチューリの戦略は巧妙であった。ルドルフを誉め殺しつつ自らの主張の浸透を促したのである。ルドルフをいわゆる「モダニズム」の代表選手に祭り上げ、これに自身の標榜する、意味に溢れ、複雑性と対立性を持ち、ユーモアとアイロニーと批評性を有し、緊張を孕む建築を対峙させたのである。
ヴェンチューリはこのように論じる。ルドルフの建築はいかにもモダニズムらしく、並外れていてextraordinary(周囲の文脈から切れている)、英雄的でheroic、面白いinteresting、と。それに対してヴェンチューリ自身の建築は、凡庸でordinary、御都合主義でexpedient、退屈だboring、と。この論法は建築界に新鮮な衝撃を与えるとともに、ともすれば一般の人々の目には高踏的に映っていたモダニズム建築を「裸の王様」に見せることに成功した。モダニズム建築はかっこいいけれど近づき難く、あまりに抽象的で無愛想、あまりシンパシーを感じないね、と思っていた人々に対して、だ。
これは近代絵画、とりわけ抽象画に戸惑う人々を連想させる。何が描いてあるかわからないじゃないか、と。しかし近代絵画は、絵画というものはそもそも何かその外にあるものを映し出す表現形式ではない、と教える。絵画はただ色面の構成であれば足る、そこに何が描かれているかは絵画の本質的な問題ではない。こうした了解が一般化したのはそう遠い過去のことではない。小林秀雄は「近代絵画の運動とは、根本のところから言えば、画家が、扱う主題の権威或いは、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或いは独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史を言うのである」(『近代絵画』新潮文庫、1968)と書きつけた。建築のモダニズムもまた同様に、扱う主題の権威や強制から逃れ、様式やドリス、イオニアなどのオーダーから逃れて、自立した固有の建築的秩序をめざしたのだった。機械のように、あるいは音楽のように、そして数学のように。
結果的にそうした姿勢の物質的な結実が、鉄とコンクリートとガラスの抽象的な構成体となって、人々の生活実感や思い出や日常的愛着などを受けつけぬものとなっていったのは否めない。過去の否定、様式の否定、装飾の否定。そうした高踏的な姿勢に対して、ヴェンチューリはあえて「凡庸で醜いordinary and ugly」建築を標榜した。『Leaning from Las Vegas』において、彼は自身の建築をそのように位置づけたのである。
このアイロニーは当時の建築界に大きな影響を与えることになる。ヴェンチューリは、意図したかどうかは別にして、封じ込まれていたポピュリズムを解き放つパンドラの箱を開けたのだった。
多くの人々はやはり、意味の消えた抽象的な世界には耐えられなかった。意味を、象徴を、物語を、必要とした。ヴェンチューリの論考はそうした大衆的嗜好にも響くものを持っていたのである。のちにポストモダニズムと呼ばれる動向が大きく波打つ運動となっていった理由のひとつは、この大衆性にもあった。
豊かさの消費形態
ポストモダニズムはこうしたヴェンチューリの問題提起にはじまり、1970年代以降の建築界の雰囲気を大きく塗り替えた。
建築のモダニズムを生み出した建築家の多くは社会主義的な思想を持ち(ル・コルビュジエもサンディカリズムにシンパシーを持っていた)、社会の改革を夢み、その革命を志向した。旧態依然とした様式建築を破壊して新しい時代の機能と美学にふさわしい建築を建設し、都市を改造あるいは創造して清潔で合理的な生活を支える建築群とする。建築は特権階級のものではない。都市に住む一般の人々の生活を変えるものだ。生活は機能的で合理的で純粋なものとなされねばならない。と、このように、建築のモダニズムはきわめて理想主義的な側面を持っていた。
ところが、人々の生活を機能的、合理的、抽象的に捉えて、その再編を企てるこの姿勢は、社会を変革し人々の生活を変える、という彼らの思惑とは離れて、独自の美的テイストを形成し、その抽象性のゆえに一般の人々には理解されず、むしろ高踏的な美学サークルを形成したといっていいだろう。デスティルやバウハウスを経てさらに磨き上げられたモダニズムの美学は、ガラスのスカイスクレーパーとなって20世紀の都市の中心部を席巻し、建築文化を牽引した。とはいえ決してポピュラーなアイコンとはならなかった。アイコンには意味や象徴が必要だからである。
ニューヨークのパークアヴェニューに立つミースのシーグラムビル(1958)はモダニズム美学の結晶だが、アール・デコのクライスラービル(1930)のような大衆的アイコンとはなりえなかった。純粋で透明な四角いガラスの箱は、尖塔の象徴性に、ポピュラリティーにおいて、かなわない。
クライスラービルはモダニズムとは正反対のテイストであり、といってポストモダニズムとも時代的に何の関係もないが、尖塔、といった、人類に歴史的に馴染まれた形を有すると言う点で、通じてもいる。事実、三角屋根のペディメントをスカイスクレーパーのてっぺんにくっつけたフィリップ・ジョンソンのAT&Tビル(1984)は、ポストモダンを代表する建物として認知され大衆的な人気を博している。これもペディメント(三角破風)というわかりやすい歴史的なモチーフを頂部に冠しているためだ。
ちなみに設計者のフィリップ・ジョンソン(1906-2005)は、すでに触れた1932年のMOMAのインターナショナル・スタイル展の企画者であり、シーグラムビルの設計ではミースと協働している。モダニズム美学の極致、コネティカットにある「ガラスの家」(1949)の設計者でありオーナーでもある。そんなモダニズムの代表的建築家と目されていたフィリップ・ジョンソンがポストモダニズムへと舵を切った。それは彼が大衆のテイストに敏感な建築家であったからであり、この場合の大衆は、ますます力を増していた商業資本が媒介者であって、ポストモダニズムの大衆的側面とは、ヴェンチューリがもともとシンパシーを抱いた一般大衆のみならず、大衆のテイストに敏感な商業資本でもあった。ポストモダニズムは、ともすれば歴史主義的な形態に引っ張られ、ポストモダン•ヒストリシズムの側面が強調されがちだが、その底にあるのは、経済的な効果を見越した商業資本による豊かさの消費形態でもあった。
モダニズムは、大衆へ、という姿勢を持っていたはずが、いつしか高踏的な趣味の世界へと囲い込まれていった。そんなモダニズムがあえて縁を切ったはずの貴族趣味のヴォキャブラリーを、ポストモダニズムは採用する。当初はモダニズムの抽象的で高踏的な表現に、よりわかりやすい意味を復権させるために。たとえばイタリアの都市や建築の持っている歴史的手法を参照しながら。これが、ヴェンチューリたちによる、知的操作としてのモダニズム批判であった。
ところがやがて商業資本がこの潜在的な大衆性、これは人気が出るぞ、という直観を通してそのスタイルに飛びつき、世界中に飛び火していった。
イメージを消費するにはイメージそのものがわかりやすくなければならない。ヴェンチューリの両義的で曖昧な建築への志向は、その姿勢の賛同者、追随者たちによってムーヴメントとなり、やがてわかりやすい歴史的モチーフを配した、「いわゆるポストモダニズム(すなわち、ポストモダン・ヒストリシズム)」、へとシフトして行く。装飾の復権と豊かさの消費形態は加速されて行くのだが、それは必ずしもヴェンチューリがモダニズムを批判しつつ意図していた方向とは一致しなかった。
コンテクスチュアリズム
ポストモダン的状況の中から並行して興ってきたのが、コンテクスチュアリズムという動きだ。これは、モダニズムが切り捨てた都市との関係、他者との関係を再び視野に入れつつ建築のデザインを考える、つまり他者との関係の中に建築を置いてそのあり方を評価する、という方法であり、姿勢だ。当然のこととして歴史との関係、都市の文脈との関係を問うて行くことになる。文章を形成する単語のように、建築は単独では意味を成しえない。文脈に即して初めてその意味が明らかとなる。言語への関心、統辞論や意味論、記号論への関心の高まりとも同調していた。
モダニズムは屹立した単独のオブジェとして構想された、と述べた。建築は、まずは過去と決別したヒロイックなオブジェでなければならなかった。まわり中が過去の建築スタイルで満ちているのだから、しようがないという面もあった。ただ、そうしたヒロイックなスタンスを、これはル・コルビュジエも含めて多くのモダニズムの建築家がとっていたせいもあった。建築家は闘士であり戦士でなければならなかった。
点として現れたモダニズム建築がやがて線となり、あるいは面となる。すると、モダニズム建築の持つ孤高性が、弊害となって現れる。なにしろ近隣を否定するのだ。モダニズム建築が隣り合えば、不協和音が鳴り響く。互いが互いを打ち消しあう。四番バッターばかりが並ぶ打線のようなものだ。ホームランを打つのは俺、なのである。
都市の中でモダニズム建築がある程度、線となり面となって、こうした問題が露呈してきたときに、街並みや、都市の広場を囲む建築の連続性、スケールなどにあらためて注意が集まってきたのは当然だろう。敵対しあうのでなく、汝の隣人を愛せ、というわけである。
ヴェンチューリのめざした意味の復権にあわせて、都市というテクストの中の建築という視点が現れてきた。都市は意味の織物である。建築はその一つの構成要素、いわば単語である。文脈に即して単語は選ばれねばならない。あるいは単語は文脈によってその意味が決定される。コンテクスチュアリズムは、意味の復権をめざしたポストモダンの思想にとって、分かち難い並走者であった。ポストモダンを意識した建築家たちにとって、コンテクスチュアリズムは当然の帰結であった。建築は決して単独では存立しえない。都市の文脈の中でその価値が決定される。隣人は敵から、愛すべき、しかしながら油断のならない、他者となった。
神を畏れよ、と、汝の隣人を愛せ、がキリスト教の基本テーゼだとすれば、モダニズムは、神を畏れよ、とその理想主義を掲げ、普遍的、数学的、幾何学的秩序を基底に、理性の建築をめざしたのだったが、ポストモダニズムは、汝の隣人を愛せ、と告げたのだった。隣人を愛していては、革命はなかなか成り立たない。
革命でなく、ピースミール
大衆は、革命を、実は好まない。大きな、そして急激な変革を、嫌う。モダニズム、そしてその底にあるテクノロジーによる、急激な都市の変貌にやや気後れを感じていた人々が、親近感のある歴史的なヴォキャブラリーの復活や、心地よいスケールをもつ広場の再評価を喜ばぬはずもない。モダニズム建築家による革命は、歴史の惰性によって徐々にスピードを緩められ、理想主義は現実主義に置き換わっていった。
モダニズムの牽引者は、革命をめざした。建築を、さらには都市を、丸ごと造り変え、創造することをめざした。政治的と言うより美学的であったが、多くの場合、政治的側面を必要とした。政治的側面がいまだ強い地域では、すべてを刷新して新しくしていく都市改革がいまも進行している。民主主義はそうした理想主義的で革命的な変革になじまない。むしろブレーキをかける。美しい街並みや偉大な建造物は、歴史的に言っても、強大な権力によってのみ形成されてきた。日本においても、数少ない地主の街は、街並みが整っているが、一軒一軒が30坪程度の土地が連なって各々その地域への愛着も薄い場合に、美しい街並みが形成されることはない。街並みが美しくあるべきかどうかは、議論が必要であり、さらに美しいとはどういうことか、ということはさらなる議論が必要であるのだが。
話を戻そう。モダニズムは大衆のための建築を標榜しながら、その理想主義と革命性によって、大衆からは距離を置かれた。一方のポストモダンは、大衆の好み、というパンドラの箱を開けたことにより、初期の志とはずれていったものの、大きな人気を博することとなった。少なくとも、建築を人々の身近なものとした。建築は誰か特権的な連中が、知らぬ間に裏で権謀術数をこらしながらいつのまにか都市を変えていくものだ、という諦めにも似た認識から、いやいや我々にも意見を言う余地はありそうだ、という個人的嗜好の対象へと変えていった。
こうなるともはや革命は不可能である。ポストモダンは革命を不可能にした。というより、カール・ポパーの言うピースミール、すなわち、一口ずつ、少しずつ、漸進的改変を求める傾向を強めた。過去を一気に否定するのでなく、継承しつつ、少しずつ、これを改変して行く。ヴェンチューリの姿勢はまさしくこうした現実主義である。
ヴェンチューリ自身はきわめて高い知性と豊富な歴史的建築の知識を持つ人物であるが、彼の開いたポストモダンへの道は、結果的に、多くの一般大衆の建築批評への参入を促した。過去によく見知った形やわかりやすいアイコンが現れたりするからである。過去との一気の決別を行わず、アイロニーとウィットをまぶしながら、穏やかな新しさを求めて行く。
ポストモダニズムとモダニズムの一番の違いは、一口に言えば、他者を認めるか否か、だ。モダニズムは他者を認めない、という構えを取る。歴史という他者も、隣人という他者も。モダニズムは孤高であり革命である。
ヴェンチューリの主張は、単純化すれば、他者を認めましょう、ということになる。歴史を無視しない。隣人に配慮する。一気に物事を進めない。そして同時に、モダニズムの理想主義———神への畏怖———をも、あわせて取り除いたのであった。




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