都市という密室、住宅という街路

山本至

序章 住宅形式が作る都市という仮説

日本の都市空間は、しばしば「どこも似ていて個性がない」と評される。実際、多くの駅前空間には共通した構造が見られる。中核都市の駅前には、高層建築群と大規模商業施設が立ち並び、それらを交通結節点や広場が接続する風景が反復されている。地方都市においても、その構成は東京型都市空間の縮小版のようであり、巨大な駅前ロータリーを中心として、高容積型の建築が周囲を囲む形式が広く見受けられる。

また近年の再開発事業においても、その傾向はより顕著になっている。公開空地の整備と引き換えに高層化を進め、容積率を最大限活用する開発手法は全国的に反復されている。整備された広場や歩行者空間は一定の公共性を担保しているように見えるが、その空間構成には強い類似性があり、都市固有の歴史や文脈との関係性はしばしば希薄である。

このような状況の背景として、一般にはデベロッパー主導の開発手法や資本主義的合理性が指摘される。確かにそれらは重要な要因である。しかし、それだけで現在の都市空間の均質化を説明できるだろうか。むしろこうした都市像が広く受容され、再生産され続けている背景には、より深層的な社会構造や価値観が存在しているのではないか。

本論では、その根底に日本の住宅形式、さらに言えば日本人が共有してきた住宅観が存在するという仮説を立てる。都市空間の問題は都市計画だけの問題ではない。むしろ我々が住まいに求めてきた理想像そのものが、現在の都市像を形成しているのではないか。本章では、その関係について検討を行いたい。

第1章:住宅が作り上げた日本の都市像

nLDKモデルとデベロッパー主体の都市構造が、いかに「丸の内」的な均質空間を増殖させたか。

丸の内はなぜ理想の都市となったのか

丸の内は、日本の都市空間において最も成功した都市モデルの一つとして位置づけられている。大正期に「丸の内ビルヂング」を象徴として開発が進められたこの地区は、現在では日本を代表するオフィス街として認識されている。そこには住空間はほとんど存在せず、ホワイトカラー労働者が経済活動に従事するための空間として徹底的に構成されている。いわば丸の内は、近代資本主義が提示したオフィス都市の理想像であり、経済活動の効率性を最大化するために形成された都市空間である。

しかし、ここで注目すべき点は、この都市空間が行政主導によって形成されたものではないという事実である。丸の内の開発は、明治政府による都市計画と、それを受けた民間企業の事業戦略が強く結びつく形で進められた。

明治政府は1888(明治21)年に東京市区改正条例を公布し、翌1889(明治22)年には具体的な計画を公示した。その中で丸の内は、新たな東京の経済中心地として位置づけられていた。

一方、実際の空間形成を担ったのは行政ではなく、明治政府から土地の払い下げを受けた三菱社であった。当時、草原に近い状態であったこの土地に対し、三菱社は独自のマスタープランを構想し、西洋型オフィス街の建設を推し進めていく。ここで展開されたのは、公共主体による都市計画ではなく、一企業による包括的かつ独占的な都市形成であった。

この点について、松山巌は『群衆―機械のなかの難民』の中で、東京駅の出入口が当初丸の内側にのみ設置されていたことを指摘している。鉄道駅は本来公共交通の結節点であるはずだが、その計画にまで一企業の意図が及んでいたことは、丸の内開発が単なる民間不動産事業ではなく、都市の骨格そのものに影響を与えていたことを示している。

戦後になると、高度経済成長を背景に、オフィス需要の増大と都市の高密度化が求められるようになる。1959年には「丸ノ内総合改造計画」が策定され、従来の低層街区から高層化への転換が進められた。当時の日本には31m高度制限が存在していたが、経済成長や建築技術の発展を背景として、1963年の建築基準法改正によって容積率制度が導入され、高さ規制中心の都市計画から大きく転換することになる。これにより高度制限が撤廃され、日本でも霞が関ビルに代表される超高層建築の建設が可能となった。

その後も都市政策は高容積化を推進していく。1971年には総合設計制度が導入され、一定の公開空地を設けた建築物に対し、容積率や高さ制限の緩和が認められるようになった。さらに空中権や容積移転の制度が整備され、2000年の特例容積率適用制度では、東京駅周辺の未利用容積率を丸ビルなどへ移転することで、超高層開発を実現する仕組みが構築された。

こうした容積率緩和について、元東京都副知事の青山佾は論文「容積率と都市景観」の中で、「えげつない表現をすれば、容積率の緩和について査定する権限を有する行政庁が寄ってたかって、本来は税でつくるべき広場、公園、道路を民間につくらせて、その分のコストを容積率緩和で賄っていると言えなくもない。」と指摘している。この批判は極めて示唆的である。公開空地制度は、公共性を創出する仕組みとして機能した一方で、公共空間整備の責任を民間開発へ委ねる契機ともなった。

結果として丸の内は、日本の再開発における理想的モデルとして位置づけられていく。もともと日本の都市計画行政は、一貫した都市空間像を提示することに必ずしも成功してきたとは言い難い。その中で、三菱という一企業が長期的視点のもと統一的に整備した丸の内は、31m時代の名残を残す基壇部を重視した街並み形成や、公道にも関わらず三菱地所設計が自らデザインを手がけた仲通りなど、高い都市的評価を獲得してきた。

丸の内が美しいか否かという評価そのものは、本論において本質的ではない。ここで重要なのは、一企業が行政に代わって形成した公共性の方が、結果として多くの人々に支持され、都市の理想像として広く受容されるに至ったという事実である。そしてそのモデルは、後の再開発や都市形成に繰り返し参照されることとなる。

丸の内的理想像が作り出す住空間

このように形成された丸の内は、多くの労働者にとって理想的な経済空間として機能し、近代的生活を志向する若年層にとって憧憬の対象となっていった。しかしここで重要なのは、丸の内のような都市空間が成立したとき、それを理想の労働空間として享受する人々が、同時にどのような住環境を必要としたのかという点である。

近代以降、日本社会では都市中心部に出勤し、業務を遂行した後に帰宅するという生活様式が一般化していく。この通勤を前提とした生活モデルは戦後に突然出現したものではない。原田勝正「通勤・通学の歴史的文化的考察」によれば、すでに明治期には政府職員の勤務時間や出退勤時刻が制度化され、通勤とは住宅と職場を往復する移動行為として定義されていた。1900年代以降、路面電車網はこうした移動を支えるインフラとして発展し、1919年には満員電車を揶揄する歌まで登場していることからも、この時点で都市部への通勤は社会的現象として定着していたことがわかる。

さらに興味深いのは、丸の内の発展に関与した渋沢栄一自身が代表を務めた田園都市株式会社の存在である。同社は「田園都市構想」の名の下、都心の経済中枢へ郊外から人々を輸送する交通網の整備を推進した。つまりオフィス街の発展と郊外住宅地の形成は独立した現象ではなく、相互補完的な関係として構想されていたのである。

しかし、この田園都市構想は、本来エベネザー・ハワードが提唱した田園都市論とは大きく異なるものであった。ハワードの構想は、過密化した都市の代替として、住居機能のみならず経済活動も包含する自律的な衛星都市を形成することにあった。対して日本において実践されたものは、都市中心部へ労働力を供給するための郊外住宅地開発であり、その機能は極めて限定的であった。もっとも、この問題は日本固有の現象ではない。本国イギリスにおいても、レッチワースのような事例は、結果として単なる住宅地へと変質しており、ハワードの理念が十分に実現された例は少ない。

ここで戦前と戦後の通勤文化を比較した際、決定的に異なる点が存在する。それは住宅計画そのものの変化である。

戦前においても労働者向け住宅の供給は行われていた。林直弘の研究(「同潤会と戦前・戦中期の東京郊外住宅地形成―工業都市・川崎における「官」「公」「民」の住宅供給とその政策史的背景―」)が示すように、1930年代後半には同潤会によって東京郊外住宅地の開発が進められ、川崎などの工業都市では工場労働者向け住宅が建設されていた。しかし、それらは一般的な戸建住宅や独身寮の延長線上にあり、「都市型労働者」のための生活モデルを明確に空間化したものではなかった。(ちなみにこの川崎などで展開された住宅供給も、丸の内と同様に市営住宅を建設する余裕のない市が住宅供給を委託する形式で開始されており、この頃から行政が都市開発、住宅地開発を民間に丸投げするという構図は変わっていない。)

その転換点となったのが、戦後に登場する51C型住宅である。

51C型の特徴は、「食寝分離」と「就寝分離」に要約される。戦後の住宅不足を背景として、吉武泰水らによって提案されたこの住宅形式は、低廉な家賃で大量供給可能な住宅モデルとして構想された。しかし重要なのは、その成立過程において吉武研究室が「一般の零細住宅や労働者住宅」の生活調査を実施していた点である。つまり51Cは、都市へ通勤する労働者を前提とした住宅モデルとして構想されていた。

食寝分離の概念自体は、西山夘三が1942年に「住居空間の用途構成に於ける食寝分離論」によって提唱していたが、その背景には衛生上の理由だけでなく、家族内で異なる生活時間に対応するという目的が存在した。深夜帰宅する父親、家事を担う母親、学校へ通う子どもたち。それぞれ異なる時間軸を生きる家族を収容するためには、生活空間の機能分化が必要とされたのである。

ここで注目すべきは、51C型が単なる住宅供給モデルではなく、通勤を前提とした近代的労働様式と極めて強く連動していた点である。食寝分離や就寝分離は、一見すると衛生性や生活効率の改善を目的とした空間技術に見える。しかし実際には、それらは都市型労働者の生活構造そのものを前提として成立していた。

都市中心部のオフィスへ出勤し、労働を終えると郊外の住宅へ帰宅する。そして家族成員それぞれが異なる生活時間を送りながら、個別に分化された空間を利用する。この生活モデルは、戦後日本において一般化していく通勤型労働者の姿と完全に一致している。

言い換えれば、51C型の間取りは単に生活を収容する器ではなく、都市構造そのものを住宅内部に縮図化したものであったとも考えられる。都市において職場・住宅・商業機能が分離されていくのと同様に、住宅内部においても食事、就寝、団欒といった機能が明確に分節される。住宅平面は都市構造の論理を反復していたのである。

逆に言えば、このモデルの外側に位置する生活様式は、あらかじめ想定されていなかった。住宅と職場を往復する被雇用労働者こそが標準的人間像として設定され、それ以外の働き方は例外的存在として扱われることになる。

そのことは、戦後の住宅不足の中で51C型が標準的住宅供給モデルとして採用されたことからも読み取ることができる。自営業、小商い、あるいは住居と仕事場が重なり合うような生活形式は、住宅計画上の主題とはされなかった。本来、ハンナ・アーレント的な労働概念に従えば、小規模な商いや生活の維持活動もまた労働の一形態として理解されうる。しかし戦後日本の住宅計画は、そのような多様な労働のあり方を空間の中に位置づけることはなかった。

その結果、従来の日本住宅が有していた土間やミセに代表される半公共的空間は不要なものとみなされる。これらの空間は、本来であれば住居と仕事、家族と他者、私的領域と公共領域を接続する媒介的な役割を担っていた。しかし通勤型労働者を前提とする住宅モデルにおいて、それらは機能的合理性を持たない空間として次第に排除されていく。

こうして住宅は、都市型労働者がプライバシーを確保し、家族単位で閉鎖的に生活を営むための空間へと変化していったのである。さらに51C型は、空間構成だけではなく構造形式とも結びついていた。当時の復興院総裁であった阿部美樹志は、アメリカ留学経験を持ち、不燃都市の実現を重視していた。その結果、壁式RC造による集合住宅形式が戦後住宅の原型として定着していくことになる。(「マンション間取りの原点「51C型」の住宅が背負ったもの」井出武 マンション図書館より)

この構造は、吉武が否定し続けた日本住宅が本来有していた部屋の融通性や転用性とは相性が良いものではなかった。むしろ住宅を、都市型労働者が私的領域を確保し、家族生活を営む閉鎖的空間として定義することに寄与したと言える。

そして、この51C型が生み出した空間構成は、その後の日本住宅における原型として広く継承されていくこととなる。もっとも、吉武研究室に在籍していた鈴木成文は『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』の中で、51C型を直接nLDKの起源とみなす見解については慎重な立場を取っている。しかし、ダイニングキッチンを中心とし、複数の就寝空間を分節するという基本構成が、その後の都市型住宅の標準形式へと発展していったことは否定しがたい。

実際、今日一般化しているnLDK住宅は、リビング空間の有無という差異こそ存在するものの、ダイニングキッチンと複数の寝室を組み合わせる構成という点において、51C型との連続性を指摘することができる。少なくとも、都市型労働者のための標準住宅を定義しようとした51C型の思想は、その後の住宅計画に大きな影響を与えたと考えられる。

nLDKという表記自体の初出を特定することは容易ではない。しかし、布野修司『nLDKの誕生―近代日本の都市住宅事情―』によれば、1960年代前半にはすでにこの表記が確認されている。また、井出武「マンション間取りの原点『51C型』の住宅が背負ったもの」によれば、日本住宅公団による1964年竣工の芝白金団地では、間取り図に「3LDK」という表記が用いられていたことが確認されている。

このことは重要である。なぜなら、ここでnLDKは単なる住宅業界上の表記ではなく、生活形式そのものを制度化し、標準化する装置として機能し始めたからである。住宅はもはや多様な生活を受け止める空間ではなく、都市部へ通勤する核家族世帯の生活を前提として設計されるものとなっていく。そしてその枠組みが普及するにつれ、人々は住宅とは本来このようなものであるという認識を自然なものとして受容していくことになる。

すなわち、前節で述べた丸の内的都市モデルと戦後住宅供給システムは表裏一体の関係にあった。都市中心部で働き、郊外へ帰宅するという生活様式は、住宅平面の内部にまで組み込まれていった。そしてnLDKの一般化によって、その生活モデル自体が住宅の前提条件として社会に膾炙し、人々はそれを自明のものとして受容していくことになる。

住宅と都市

ここまで述べてきたように、住宅のあり方と都市のあり方は相互に連動している。時間的な前後関係のみを問えば、経済活動を中心として形成された都市構造が、通勤を前提とする閉鎖的な住宅形式を生み出したといえる。しかし同時に、戦後構築された標準的住宅モデルもまた、その都市構造を補完する形で形成されてきたことは重要である。すなわち都市が住宅を規定しただけでなく、住宅もまた都市のあり方を固定化する装置として機能してきたのである。

一方で近年、建築学の領域では、この戦後的住宅モデルが現代社会の実態と乖離しつつあり、すでに限界を迎えているという議論が繰り返し提起されている。しかし前述したように、住宅の変革は住宅単体の更新によって成立するものではない。住宅と都市は表裏一体の関係にあり、住宅形式の更新には、その前提条件である都市構造の変革が不可欠である。

ただし、この都市構造自体もまた、日本社会においては行政による一元的計画の結果ではなく、歴史的には私企業の論理と密接に結びつきながら形成されてきた。したがって住宅の更新可能性を検討するためには、現代の住空間論と都市構造の双方を整理する必要がある。

その変化はすでに統計的にも確認できる。東京都によれば、東京都の1世帯あたり人員は2020年時点で1.92人であり、2045年には1.79人まで減少すると推計されている。また同年時点において、単独世帯の割合は50.2%に達しており、すでに東京都では世帯の半数以上が一人暮らしとなっている。この状況を踏まえれば、戦後住宅が前提としてきた核家族像は、少なくとも都市部において現実との乖離を生じているといえる。

こうした家族構成の変化と並行して、住宅に求められる役割も変化している。1989年にレイ・オルデンバーグが『The Great Good Place』で提唱した「サードプレイス」は、家庭と職場以外の居場所を重視する概念として広く浸透した。また2000年代以降には、シェアハウス、シェアオフィス、コワーキングスペース、コレクティブハウスなど、空間を共有する文化が広く普及していくこととなる。

さらに近年では、過度な職住分離への反動として職住近接的な住宅論も活発化している。例えば建築家・山本理顕 は、東雲キャナルコートにおいてSOHO的な住まい方を実践し、その後の地域社会圏構想においても、住宅を都市や仕事と再接続する試みを展開している。こうした潮流は一部若手建築家の住宅論にも継承され、小商いや半公共的空間を住宅内部に組み込む提案は住宅設計活動と不可分なものとなっている。

加えて、首都圏では2025年時点でも27.9%がリモートワークを実施しているという調査結果(HRテクノロジー総研)が存在している。コロナ禍以降減少傾向にあるとはいえ、出勤のみを前提とする労働観はもはや唯一のモデルではないことを示している。

しかしながら、これらの試みを単純な解決策と捉えることはできない。なぜなら、住宅形式の変化だけでは都市構造全体の更新には至らないからである。用途地域制度による機能分離、通勤型労働を前提とする社会構造、不動産の金融商品化、さらには都市空間の公共性を私企業が代替する現在の状況など、多層的な要因が依然として存在している。

特に近年では、民間主導の都市再生事業が積極的に肯定される傾向がある。しかし、本来都市計画とは、資本の論理を制御し、公共性を担保するために行政が主体となるべき事業である。公共空間の形成主体が私企業へ置き換わる現状は、都市空間の柔軟性を奪うだけでなく、その更新可能性自体を硬直化させる危険性を内包している。

前述した現代住宅論については、そのユートピア性も含め、別章で改めて整理したい。あえてここでユートピア的と呼ぶのは、住宅だけを変革しても根本的な問題の解決には至らないと考えるからである。これまで見てきたように、住宅の構成と都市構造は不可分な関係にある。

用途地域制度による機能分離、通勤型労働を前提とした社会構造、不動産の金融商品化、さらには都市空間の公共性が私企業によって代替される現在の状況など、住宅を取り巻く条件は依然として強固に存在している。住宅内部に職を持ち込むことや、半公共的空間を住宅に組み込むことは重要な試みである。しかし、それらが社会全体の標準的なモデルへ転換し得るかといえば、依然として大きな疑問が残る。

さらに問題は空間構造だけではない。日本では過度に避けられてきた性愛空間としての住宅の問題や、建築業界の分断、不動産業界への従属によって、社会的なモデルや哲学が住宅供給に反映されにくい構造も存在している。結果として、新しい住宅像が提案されながらも、社会全体としては依然としてnLDKモデルを基盤とした空間構成から大きく逸脱できていない。

本連載では、こうした問題を住宅だけの課題としてではなく、都市・経済・労働・制度を横断する構造的問題として捉えていきたい。第一部では、まず歴史と現実から現在の状況を整理し、その後、建築家たちが提示してきたある種ユートピア的な住宅像と、暴走し始めた都市の現実がどのように接続し得るのかを検討していく予定である。

後半では経済学的視点や、日本人の労働観・職能観にも視野を広げながら、住宅と都市をどのように再統合し得るのか、その可能性を模索していきたい。

【第1部:構造の確立と歴史の断絶】

第1章:住宅が作り上げた日本の都市像

nLDKモデルとデベロッパー主体の都市構造が、いかに「丸の内」的な均質空間を増殖させたか。

第2章:江戸の都市から東京の都市へ:破壊された連続性

東京という巨大都市が、いかに江戸的な身体感覚や場所の範囲を破壊し、コンテクストを上書きしてきたか。

第3章:コンテクストを失った都市における「コンテクスト」の再定義

歴史や土地の文脈が消えた場所で、建築は何を根拠に立ち上がるべきかという問い。

【第2部:身体性の排除と隔離の構造】

第4章:孤独の系譜学:隔離を促す住形式

都市化が「自由」の代償として「個」をいかに隔離・閉鎖し、家族やコミュニティを解体したか。

第5章:住宅論が忌避した「性愛論」が生んだ日本の住宅構造

家族という記号の裏で「身体性・性愛」を排斥し続けた結果、いかに不自然な生活空間が形成されたか。

【第3部:都市空間の欺瞞と階層化】

第6章:パブリックスペース神話が生んだ偽りの公共性

企業が管理・演出する「公共性」がいかに人々の生の営みを排除し、真の「公」を奪っているか。

第7章:祝祭と日常という詭弁:二項対立が生んだ生活の欠落

「イベント(都市)」と「安息(住宅)」を切り分けたことで、日々の生活からリアリティが失われた現状。

第8章:階層化される都市:タワーマンションと雑居ビルに通ずる欺瞞

垂直の隔離(タワマン)と水平の混濁(雑居ビル)。一見対極な両者に通底する経済至上主義の視線。

【第4部:経済理想と現実の摩擦】

第9章:小商い推進という「建築的理想」と現実の乖離

建築家が理想視する「小商い」は、本当に経済の核となれるのか。マーケットの論理との絶望的な距離。

第10章:ジェントリフィケーション:街の「洗練」が奪う居住権

都市再生の名の下で行われる「排除」の構造。魅力的な街ほど、多様な居住者が住めなくなる皮肉。

第11章:都市一極集中の再肯定:地方分散がもたらす弊害とコスト

郊外・地方移住推進がインフラを希薄化させる。あえて「都市の密度」を選択することのレジリエンス。

【第5部:職能の分断とこれからの姿】

第12章:シェア文化の台頭と日本の不動産モデルとの矛盾

シェアを求める新しい生活者と、所有を前提とした金融・不動産システムがいかに衝突しているか。

第13章:建築業界の分断:区分された業界がもたらす住宅の崩壊

ハウスメーカー、工務店、組織、アトリエ。この分断がいかに「住生活の全体性」を損なっているか。

第14章:職能論:社会を変えるとは何か、建築家が変えられる対象

空間だけではなく、制度や経済にどう介入するか。建築家という職能の限界と可能性。

第15章:結論:経済モデルを越えた、これからの住宅と都市の姿

経済合理性ではない「生の生活」を支えるために、都市と住宅をどう統合的に再編すべきか。

    

SLAB – Global Criticism of Architecture & City & Housing


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