成瀬弘 連載01
建築雑誌Vol.104, No.1285 1989年5月号
〈建築家〉というファサード
成瀬弘
僕はこの5年あまり,パリでフランス人の〈建築家〉と共同で〈建築〉事務所を運営しているのだが,その事務所の近くにアラブ人の経営する風呂屋がある。ある日,その風呂屋の主人が改装のため〈建築家〉を探しているという話を耳にし,アラブの風呂屋なら何か面白いことができるかもしれないと,シリアなどで見てきたアラプの風呂など思い浮かべながらさっそくでかけてみた。ところがよく話を聴いてみると,主人は確かに〈建築家〉を探しているのだが,設計してくれる人ではなく自分のアイデアを実現してくれる施工屋さんを探しているのだった。これと似た話は時々あって,近くのインド・レストランでも行きつけの韓国料理店でも,僕を〈建築家〉と知って店の改装を頼んできたが,いずれの場合も施工をしてくれということだった。我々の建築事務所の仕事は,施主から依頼された建物を設計し,施工に必要な図面・書類をつくり(特殊な建物に関してはエンジニアリング事務所に構造・設備ときにはディテールまでも依頼する),施工業者を決め,現場の管理とそれに付随する様々なコーデイネーションをすることである。こんなわかりきったようなことを改めて言うのは,最近2, 3の日本のゼネコンの方々とお付き合いさせていただいているのだが,それら建物の専門家であるはずの人々にも,我々の仕事の内容が理解されていないような気がするからである。ましてや日本の一般的な人たちが,〈建築家〉とエンジニアと現場監督と施工をする人などを一緒くたにするのは日常的なことで,そうでなければ〈建築家〉など何をする人かさっぱりわからないといった有様ではないだろうか。
一方フランス人一般に建築家とは何かと尋ねれば,殆どの人がほぽ正確に答えるにちがいない。店の改装ぐらいに建築家などいらないと考える人はいても,建築家に施工だけを依頼するようなことは決してない。このことはフランスにおいては一般的な人たちにも受け入れられるかたちで〈建築家〉という職能が確立されているが,日本をはじめとする国々ではいまだ確立されていないことを示している。僕はヨーロッパの他の国々についてはよく知らないが,おそらくフランスとあまり違わないかたちで職能が確立しているだろう。ヨーロッパにおいて〈建築家〉という職能が何故,どのように,いつ確立したか,その他の国々においてはいまだに,何故確立しえないのか,確立する必要があるのかどうか,は重要な問題であるが,その前にフランスにおいてはどのようにして〈建築家〉になるのかということに触れておきたい。
フランスでは〈建築家〉になるためには,一部の例外を除いて,政府の指定する建築学校を卒業しなくてはならない(’68年まではエコール・ド・ボザールだけだったが,現在はボザールから別れた10数校の国立建築学校と2~3の
私立建築学校がある)。僕は一度もフランスで建築学校に 行ったことがないので正確なことはわからないが,日本の建築学科とかなり趣きを異にするらしい。まず第一に学校には研究室というものはなく,自ずと教授も助教授もな い。教師の大部分は建築事務所をもっている〈建築家〉で, 週に2回ほど4~5時間教えにやってくるにすぎない。フランスでは建築が学問になると考えている人は非常に少なく,おそらく日本の建築学会に相当するものはないのでは ないか。カリキュラムは,構造・設備・材料などは少しずつふえてきてはいるが, 日本に比べたら格段に少ない。そ れでは建築史などの講義が多いかといえば,不真面目な学 生であった僕などより西洋建築史を知らない者が多くいる ことからみて,そうでもないらしい。それでは日本より長い期間(’68年以降短縮されて最低で5年間だが,多くの学生はそれ以上通う)何をしているかが僕の長い間の疑問であったが,おそらくその間おしゃべりの勉強をしているのである。学問にもなり得ない建築を〈職能〉として確立するためには言葉で埋めつくすしかないのだ。フランスはまた,楽器をつくる人よりも澳奏者の方が偉く,演奏者よりも指揮者が,指揮者よりも作曲家が偉いという・ヒエラルキーをつくる国でもある。建物をつくるプロセスの中にも同じようなヒエラルキーはあり,〈建築家〉はコンセプトを 言葉でしゃべる人なのである。また〈建築家〉という職能が成立し得る理由の一つとして,社会的階層の中でエリートであるという点を見過ごしてはならない。事実,僕の友人のフランス人建築家はある建築家を批判するときに「彼の家は自動車修理工場で,〈建築家〉になる家柄じゃない」と言って僕を驚かした。そこでまわりの〈建築家〉たちを見回レてみれば,弁護士・医者・建築家・教師・エンジニア等いわゆるプチプル・インテレクテュエルの息子・娘たちなのである。建築学校に入るためには高校卒業資格さえあればいいので,社会的エリートになれる可能性がある〈建築家〉になろうとして多くの学生が押しかけてもよさそうなものだが,不思議なことにそうはならない。
そろそろ,フランスで確立していると言われている〈建築家〉という職能は一体なのかという問いに言及しなければならない。フランス人は確かに確固とした〈建築家〉像をもっているかのように見えるが,〈建築家〉とは何かと尋ねられたら「建築をつくる人」としか答えられない'だろう。そして建築とは何かという問いに対しては,はっぎりとした答は返ってこないにちがいない。となると〈建築家〉像なるものもあやふやなものにならざるを得ない。だいたい職能などというものは,社会制度を守るために人間が勝手につくりだしたものであり,確固とした何かがあるはずがない。僕の意見としては,アートをつくる人をアーティストというのではなくアーティストによってつくられたものをアートというように,〈建築家〉によってつくられたもの(正確にはコンセプトされたもの)を建築というのであって,建築をつくる人を〈建築家〉というのではない。そうすると〈建築家〉というものから一気に社会性が剥ぎ取られ,〈建築家〉像は単に個人的であやふやなものにおとしめられる。そうした〈建築家〉像を再び社会の枠組みに組み込むためにこそ,フランスの〈建築家〉がもっている言葉と階級制が必要とされたのではないだろうか。しかし何故こんなしち面倒臭いことまでして〈建築家〉をつくりだしたり,〈建築家〉像なるものをうちたてたりしなければならなかったのだろうか。おそらくそれは近代的自我の確立とともに登場してきた現象なのだ。最初に触れたように,ヨーロッパ以外の国々では〈建築家〉像やその職能はいまだ確立されていない。日本では最近ファッションのレヴェルで〈建築家〉像が定着しつつあるようだが,ヨーロッパ型のそれに比べてはるかに軽やか(軽薄)であるし,僕のおふくろのレヴェルまで浸透し得るものではない。そうしてみるとヨーロッパの特殊性が〈建築家〉をつくりだしたと言わざるを得ない。ヨーロッパ人がキリスト教という共同幻想をぶち壊し個の意識に目覚めたときに,その脆い個の不安をおし隠すものとして〈個〉という新たな幻想をつくりだすと同時に様々な活動が始まったわけだが,建築活動もそのうちの一っとしてフェティシズムとナルシズムの投影として登場してきたのではないだろうか。それ以前につくられながら名建築といえるものは数多くあるという反論があるかもしれないが,それは近代人がそれをつくった人たちを勝手に〈建築家〉と呼んだり,できたものを〈建築〉と呼んでいるにすぎず,それが建った当時はそうした意識に支えられてはいなかっただろう。それは単に神殿であり,教会であり,王宮であり,住居であり,市場であったにちがいない。実際僕はパリに来た当初,あちこちの建物のファサードに「建築家 某某」と書かれているのをみて,殆どがつまらない建物であるだけに驚いたものだ。一方パリのノートル・ダムのファサードにそんなはしたない名前など書いてない。その当時の人々は名前を残す必要などなかったのだろう。このことは音楽を見てみればもっとはっきりするように思う。自己幻想を拡大・普遍化するために平均律を編み出し,音を細切れにし,名を残すために採譜法を極度に発達させたクラシック音楽の成立以後,ヨーロッパには民族音楽がなくなってしまった。建築のように確固としてあるわけではない音楽(民族音楽の多くは神や自然に捧げられていて一回性で消えてなくなる)ですら固定化し得たのだから,建築においてはなおさらである。僕はヨーロッパの特殊性と言ったが,これは多かれ少なかれ人類が皆もっているものであり,このヨーロッパ的問題を避けて通ることはできないだろう。ことにヨーロッパ以外で最もヨーロッパ的な世界を具現化しつつある日本では,個性や才能,あるいは真理・美・アイデンテイティー,あるいは「大衆のため」といった論理に拠り所を求めるはた迷惑な建物が
〈建築〉と呼ばれて登場してくるだろう。
さて結論をまとめなくてはならないが不可能に近い。〈建築家〉をなくしてしまえと言うのは簡単だが,〈建築家〉が誕生した所以を明らかにしその構造を解体しない限り,建築家が〈建築家〉と呼ばれなくなっても同じことだと言える。さらに人類は生活するためにだけでなく建物を必要としている(たとえ人類の病としても)し,経済という幻想にもとりつかれている。そんなときに建築家のしなくてはならない仕事とは,外からの解体に抗しつつ内側から建築を解体してゆくことといえよう。そのためには何者でもないことの不安と闘いつつ一切の既成の価値観にとらわれずに, もの・スペースをつくる行為をとおして,今まで見えなかった世界を見えるものにしてゆくしかないようだ。


























































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