SLAB

 SLABとは床板のことである。床板がなければ,2階以上の建物は使えない。基礎foundationは,大地の上に据えられるが,SLABは抜け落ちたりすることがある。

 カリフォルニアの南,サンディエゴの東にSLAB CITYと呼ばれる,SLABの瓦礫の上に建てられた街がある。

 

ヤン・ファン・リ-ベック   プロローグ

ヤン・ファン・リ-ベック

Jan van Riebeeck

世界分割(デマルカシオン)の最前線

The Front Lines of the War to Divide the WorldDemarcation

-17世紀・オランダ・ケ-プ・バタヴィア・トンキン・出島-

-17th Century, Netherlands, Cape, Batavia, Tonkin, Japan-

世界の海をつないだ航海者たち

Navigators who connected the world’s oceans

プロローグ

クリストバル・コロンのグアナハニ(サンサルバトル)島到達(1492)以降,日本がヨ-ロッパ世界と初めて接触したのは,よく知られるように,中国のジャンク船に乗った3人のポルトガル人が種子島に漂着した1543年9月とされる。種子島の領主,時堯はこの招かれざる来訪者を手厚くもてなし,火縄銃(マッチロック式マスケット銃)と黒色火薬の製造法を学んだ。この火器の伝来が織田信長の天下統一に大きな役割を果たすことになる。

同じ年,ニュルンベルグでコペルニクス(1473-1543)の地動説(『回転論(天球の回転)』De Revolutionibus Orbium Caelestium)が出版されるが,日本の歴史のコペルニクス転回もまさに1543年に始まったといっていい。鉄砲伝来に加えて,キリスト教の伝来がある。日本へのグロ-バリゼ-ションの波の最初の到達であった。

コロンの「新世界」の「発見」によって,ポルトガルとスペインは,ローマ教皇アレクサンデルⅥ世を仲介として,トルデシーリャス条約(1494)を結ぶ。すなわち,ベルデ岬諸島から西370レグア(リーグ)の子午線(西経46度37分・東経133度23分)を境界線として東をポルトガル領,西をスペイン領とするデマルカシオン(世界分割)協定を結んだ。日本の標準時子午線は東経135度(明石)だから,この時,日本は子午線の東はスペイン,西はポルトガルの領分となったわけである。16世紀の「世界」の歴史は,ヨーロッパでは両国の世界分割戦として記述されることになる。

17世紀に入って,この両国に割って入ることになるのが,トルデシーリャス条約の埒外に置かれたオランダ,イギリス,フランスなど他のヨーロッパ諸国である。その先駆けとなるのがイギリス東インド会社EIC(1600年設立)であり,オランダ東インド会社VOC(1602年成立)である。各国が「東インド会社」を設立するが,最初のヘゲモニーを握ったのは,スペインからの独立戦争を勝ち取ったオランダ(ネーデルラント連邦共和国)である。17世紀はオランダの世紀である。オランダ船リ-フデde Liefde(慈愛)号が豊後の臼杵湾黒島に漂着したのは1600年である。本書が起点とするのは1600年である。

ポルトガル船の種子島漂着からちょうど100年後の1643(寛永20)年,平戸オランダ商館が閉鎖され,出島に移転した直後,第10代オランダ商館長(第2代(実質初代)長崎オランダ商館長 1641年11月1日-1642年10月29日),そして第12代(第4代長崎)オランダ商館長(1643年8月1日-1644年11月24日)を務めるヤン・ファン・エルセラックJan van Elseracq / Elzerachの2度目の着任に随行して赴任したヤン・ファン・リ-ベックJan van Riebeeck(1619-1677)というオランダ人がいる。本書は,「オランダの世紀」をアジア海域に生きたこのヤン・ファン・リ-ベックというひとりのオランダ人をめぐる「物語」である。

リーベックは,ユトレヒトの南に位置するクレンボルフ Culemborgで1619年に生まれ,21歳でVOC職員となって外科医の助手としてバタヴィアに赴任した。その能力を評価され,商務員に昇任,出島に滞在したのは1年に満たないが,東京(トンキン)(ハノイ)で商務員としてて交易に従事した(1643-48)。トンキン交易の確立にリーベックは大いに貢献するが,不正蓄財を問われて解雇され,オランダに強制送還される。詳細は本論に委ねるが,その東インドでの「経験」を買われて再び東インドへ向かうことになる。その「経験」とは,バタヴィア・出島・東京でのVOC商務員としての実績と,強制送還の途次にテーブル湾で遭難したハーレム号の救出に当たった際の現地探索の「経験」である。VOCは,ケ-プに中継基地を建設する責任者にリーベックを選任するのである。

ケープタウンの建設は本書の大きな焦点である。農耕を知らない先住民の土地に植民拠点をいかに構築するかについて,その最初の10年,その最前線で指揮を執ったのがリーベックである。彼は,日誌,報告書の形で,その過程について膨大な記録を残している。如何に食糧を調達するか,先住民との関係を如何に構築していったのか,自給自足世界の構築は何故挫折したのか,何故奴隷を導入せざるを得なかったのか,都市の起源,そしてそのグローバルなネットワーク形成をめぐる基本的な問題を知ることができる。

そして,東西交易と海禁,「海洋自由論」(フーゴー・グロティス)vs「海洋閉鎖論」(ジョン・セルデン),国際法(万民法)と自国法をめぐる様々な出来事は,まるで,世界分割の帝国主義時代に戻るかのような今日の国際関係の起源を思い起させる本書のテーマである。

ケ-プタウン建設の任務を果たしたリーベックは,その後,マラッカに赴任,最後は1677年にバタヴィアで死んだ。その墓石は,現在,ケープタウンの南アフリカ博物館に,妻マリアの墓石とともに収蔵されている。

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