SLAB

 SLABとは床板のことである。床板がなければ,2階以上の建物は使えない。基礎foundationは,大地の上に据えられるが,SLABは抜け落ちたりすることがある。

 カリフォルニアの南,サンディエゴの東にSLAB CITYと呼ばれる,SLABの瓦礫の上に建てられた街がある。

 

低地・社会住宅・スーパーダッチ

H.P.ベルラーヘからOMAへ

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近代建築のグローバルヒストリー

2-3 国際と土着の近代-オランダ 

 布野修司

  

オランダ海洋帝国

 オランダ(ネーデルラントNederland)がスペイン・ハプスブルグ朝(1516~1700)から独立したのは80年戦争(1568~1648)中の1588年とされる。周辺諸国に承認されるのは1648年のウエストファリア条約によってであるが,カルロスⅠ世(1516~1556)そしてフェリペⅡ世(1556~1598)の時代に最盛期を迎え「太陽の没することのない帝国」と呼ばれるスペイン王国の無敵艦隊がイギリスに敗れたのが1588年である。スペイン帝国は,17世紀以降,徐々に弱体化していくことになる。そのスペインに代わって世界史の主役に躍り出たのがオランダである。

図2-3① シモン・ステヴィンの「理想都市」モデル Royal Library The Hague 

オランダは,独立を宣言すると,すぐさま海外進出を開始し(遠国会社1595など先駆諸会社),先行するポルトガルとスペインのデマルカシオン(世界分割)戦に割って入った。デマルカシオンとは,クリストバル・コロン(1451~1506)がグアナハニ(サン・サルバドル)島を発見した2年後の1494年,ローマ教皇アレクサンデルⅥ世(1431~1503 位1492~1503)の仲介でトルデシーリャス条約を締結,ヴェルデ岬諸島の西370レグア(約2000km)を通る子午線(西経46度37分)の東をポルトガル,西をスペインの領域とすることを決めたことをいう。この時,日本は標準時子午線(東経135度)が通る明石付近より東はスペイン領,西はポルトガル領に分割されたことになる。

オランダは,ポルトガル・スペイン両国の植民拠点をも襲いながら,世界最初の株式会社である連合オランダ東インド会社VOC(1602~1799),また,続いて設立されたオランダ西インド会社WIC(1621~1791)によって,ジャワ,モルッカ諸島,マラッカ,台湾,ギニア,ケープ,そしてブラジルなどに次々植民拠点を築いて一大海洋帝国を形成する。アメリカ合衆国のニューヨークも,その起源はオランダが植民拠点としたニューアムステルダムである。「近代世界システム」(I. ウォーラーステイン)の最初のヘゲモニーを握ったのはオランダであり,17世紀はオランダの時代である。

植民都市拠点を建設するために,ライデン大学にオラニエ公マウリッツ公によって,ネーデルダッチ・マテマティークというエンジニア養成機関が設けられたのは1600年である。中心となったのは,当時,要塞技術や建築技術のみならず,あらゆる科学技術に通じ,オランダ科学技術の祖とされるのがシモン・ステヴィン(1598~1620)である。その理想港湾都市計画(図2-3①)は,実際,「東洋の女王」と呼ばれたバタヴィア(ジャカルタ)建設のモデルとされている。

オランダと日本との関係は深く,リーフデ号の臼杵湾漂着(1600),平戸オランダ商館開設(1609)以降,徳川幕府の海禁政策下のもとでも出島のオランダ商館(1641~1860)は幕末まで存続した。西欧世界の情報はバタヴィアから出島を通じてもたらされ,科学技術の知見は蘭学として受容されていった。

オランダは,しかし,18世紀になると,英仏にヘゲモニーを奪われていく。そして,フランス革命(1789)によって革命軍にネーデルラント一帯を占領され(1793),イギリス軍にケープ植民地(1795),東インド(1811~15)を占拠される。今日のネーデルラント王国(当初ベルギー・ルクセンブルグを含む)が成立するのは1815年のウィーン会議においてである。

 こうして,オランダは19世紀前半には海外植民地のほとんどを失う。1975年に独立する南米のスリナムと現在もオランダの自治領として残るカリブ海のアルバ,キュラソーなどの小島を除けば,オランダ領東インド(インドネシア)のみがオランダの植民地となる。「近代世界システム」のヘゲモニーは,大英帝国,そしてアメリカ合衆国へ移行していくことになる。

近代建築運動は,19世紀半ば以降,20世紀にかけて展開されることになるが,オランダは,イギリス,フランス,ドイツに互して,近代建築運動の核のひとつとなる。以下に見るように,オランダ近代建築の父とされるH.P.ベルラーへ以降,アムステルダム・スクール,デ・ステイル,ロッテルダム・スクールなどの集団を組織した建築家たちは,ル・コルビュジェ,ミース・v.d.ローエ,F.L.ライト,W.グロピウスなど近代建築の巨匠たちに勝るとも劣らない近代建築を代表する建築を残している。そして,熱帯のオランダ領東インド(トロピカル・オランダ)でも多くのオランダ建築家が活躍する。その代表がデルフト工科大学卒業の同級生H.M.ポント(1884~1971)とH.Th.カールステン(1884~1945)である。オランダ近代建築の父とされるH.P.ベルラーへもいくつかの作品の設計に関わり,1923年にはオランダ領東インドを訪れて『私の印度旅行―文化と芸術に関する考察―』(Berlage 1931)を書いている。

 近代建築をリードしてきたオランダが世界建築の最前線で再び大きな注目を浴びるようになるのは,近代建築の批判が顕在化し,「ポストモダン建築」が称揚される流れにおいてである。戦後ジャカルタで幼年期(8~11歳)を過ごしたレム・コールハウス(1944~)OMA(1975)の登場以降, 意欲的なオランダ人建築家たちが次々に表れて,17世紀に世界の海を股にかけたように,世界各地に注目すべき建築を建設していくのである。

オランダ近代建築

オランダの近代建築の父とされるのがH.P.ベルラーへ(1856~1934)である。日本の近代建築の父とされる辰野金吾(1854~1919)とほぼ同い年,ル・コルビュジェ(1887~1965),ミース・ファンデル・ローエ(1886~1969),ワルター・グロピウス(1883~1969)など近代建築の英雄たちの親の世代である。

ベルラーヘに先行するオランダ(ネーデルラント王国)の19世紀を代表する建築家はピエール・カイペルス(1827~1921)である。ネオ・ゴシック様式のアムステルダム国立美術館(1885),アムステルダム中央駅(1889)が代表作であるが,教会建築を中心に100以上の建築を設計している。オランダ南部のロールモントで生まれ,アントワープの王立美術アカデミーで,ベルギーのネオ・ゴシックの建築家たちに建築を学んだ。1851年以降,ロールモントのタウン・アーキテクトを務めている。ノートルダム大聖堂など数々のゴシック建築の修復で知られるフランスの建築家・理論家ヴィオレ・ル・デュック(1814~79)とも交流があったという。

ピエール・カイペルスのアトリエでは多くの若い建築家が訓練を受け,後継者となった息子のヨセフ・カイペルス(1861–1949)の他,多くの建築家が育っていったピエール・カイペルスは,アムステルダム工芸学校でも建築工芸教育に当たった。後述するアムステルダム・スクールの主導者P.クラマー(1881~1961),M.d.クレルク(1884~1923),J.v.d.メイ(1879~1949)はカイペルス事務所の出身である。

オランダで最初の建築団体「建築振興協会MBB」が,王立建築家のJ.D.ゾッヘル (1791–1870)らによって,アムステルダムに設立されたのは1842年である。ただ,王立英国建築家協会RIBA(1832)のように建築家の職能団体でははなく,建築家,エンジニア,建設業者を含む団体であった。カトリックであったカイペルスは,以後も建築家の団体には加わらなかったが,19世紀における建築家養成の中心となったのはピエール・カイペルスであった。H.P.ベルラーヘは,初代会長となるK. d.バゼルとともにオランダ建築家団体BNAを設立する(1908)。MBBは1919年にBNAに統合される。

 ベルラーヘは,P.カイペルスと直接の関係はなく,一世代下の息子の世代である。その評価は多様であり,オランダの近代建築の父とすることについては異論もあるが,ベルラーヘを中心に置くことによって,オランダの近代建築の動向はおよそ以下のように理解することができる。すなわち,ベルラーヘは,19世紀中葉に生まれたオットーワグナー(1841~1918)がそうであるように,前近代の様式建築の世界から近代建築の世界への過渡期に位置し,前近代と近代の葛藤の中から,煉瓦造を基本とする「アムステルダム・スクール」と鉄とガラスとコンクリートを基本とする「ロッテルダム・スクール」(「デ・ステイル」グループ・「オプバウ」)が大きな二つの流れとして生まれてくる。それぞれの建築家はその間に位置づけられるが,代表作である「ヒルフェルスム市庁舎」(1931)で知られるW.M.デュドック(1884~1974)のように両派に属さない流れもある。ヒルフェルスム・スクールとも言われるが,日本には大きな影響を与えた。また,ジャワにも「ヒルフェルスム市庁舎」によく似たW.レメイの「東ジャワ総督府庁舎」(スラバヤ)がある。

オランダ建築界は,1920年代以降,全体として,新即物主義,機能主義,合理主義建築の大きな流れに飲み込まれていく,というのが見取図である。

 

H.P.ベルラーヘ

ベルラーへは,アムステルダムに生まれ,オランダ王立美術学校で絵画を学んだ後,チューリッヒ高等技術学院(現スイス連邦工科大学ETHチューリッヒ校)で建築を学んだ(1875~78)。その後3年間,当時の建築家の卵が行ういわゆるグランド・ツアーとして,ドイツ・オーストリアからイタリアなどヨーロッパ各地を旅行している。1881年に帰国,アムステルダムの土木技師T.サンダース (1847~1927)の建築事務所に勤める。そして,アムステルダム市主催の証券取引所国際コンペに応募(一次案)入選(199作品中3位)する(1883)。1884年からはサンダース事務所の共同主催者となる。1885年の証券取引所応募(第二次案)は落選(4位)するが,紆余曲折があって,1898年にアムステルダム証券取引所の実施設計建築家に選ばれることになる。そして独立する。以降,自らの事務所を率いて建築活動を展開することになる。

ベルラーヘの代表作アムステルダム証券取引所が竣工するのは1903年である。インドネシアのスラバヤの生命保険年金協会AMLLビルの竣工(1900)の方が早いことになるが,初期の建築活動のパトロンとなったのは,オランダの保険会社ネーダーランデンのカレル・ヘニーである。ネーダーランデン保険会社の事務所ビルをアムステルダム(1894),ハーグ(1895),ロッテルダム(1910),ネイメーヘン(1911),バタヴィア(1913),ハーグ(1925),ユトレヒト(1930)と立て続けに受注している。オランダ領東インドの仕事もこの保険会社を通じての仕事である。一般に東京駅のモデルになったというアムステルダム駅が竣工したのは1889年である。

図2-3② ハーグ市立美術館 H.P.ベルラーエ 1935

一方,1902年には,アムステルダム市から自治体に義務づけられた市域拡張案作成の指名を受け,第一次案を作成している。1915年にこの市域拡張案のうち南部地区について承認され,実施に移された。このアムステルダム南部地区拡張計画(1917)もベルラーヘの代表的な仕事である。ベルラーヘは,ウィーンのオットー・ワグナー(1841~1918)同様,アムステルダムのシティ・アーキテクトとして,主要な施設の設計や都市計画に関わるのである。

ベルラーヘの作品は,①歴史様式の時代:T.サンダース建築事務所時代(1881~98),②新しい建築の時代:独立からアムステルダム証券取引所の竣工まで(1898~1903),③アムステルダム証券取引所の竣工以降,第一次世界大戦終結まで(1903~1918),④第一次世界大戦終結以降(1918~34)に分けられる(宇田直史2011)。

アムステルダム証券取引所の第一次案,第二次案そして実施案を見ていくと,①②の推移はおよそ理解できる。折衷様式の第一次案,オランダ・ルネサンス様式の第二次案,いずれも建築様式の選択がテーマとされている。当時は,ネオ・ゴシック様式が支配的であり,ネオ・ルネサンス様式が提起される状況にあった。ベルラーヘは,そうした中で新たな試みを始めるのであるが,大きな方向として,様式に関わる要素をそぎ落としていく過程である。ダイヤモンド労働組合本部(1900)が既にその方向を示している。③は,社会不況そして第一次世界大戦の時代であり,ベルラーヘ事務所は仕事の受注に苦しんでいる。1913年には,オランダの大財閥夫人H.C.ミュラーのお抱え建築家となり(~1919),ハーグに移り住んでいる。一方,公共住宅建設や都市計画の仕事は契約外とされ,この時期,上述のようにアムステルダム南部地区拡張計画に取り組んでいる。ベルラーヘの建築は1910年代末までは全て煉瓦造である。1911年に「流し込みコンクリート工法」による2階建ての実験住宅を試みているが,現場打ちの一体成形型コンクリート構造による新たな表現を試みるのは1920年代に入ってからである。従って,③④の区別は建築構造の変化にも対応している。A.ペレー(1874~1954)による鉄筋コンクリート造の最初期の近代建築とされるフランクリン街のアパートが1903年,シャンゼリゼ劇場が1913年,ノートル・ダム・デュ・ランシーが1923年,鉄筋コンクリート造が一般化していく,その過程の最前線に位置したのがベルラーヘである。そして,新たな方向を示すに至ったのが遺作となった「ハーグ市立美術館」(1935)(図2-3②)である。 

ベルラーヘ事務所,そしてその周辺には数多くのすぐれた建築家たちが蝟集した。そうした中から,いくつかのグループが生れてくる。ベルラーヘ事務所に所属した建築家には,J.F.スタール(1879~1940),C.J.ブラーウ(1885-1947),P.ツヴァルト(1885~1977),J.ウィルス(1891~1972)などがいる。

アムステルダム・スクール

アムステルダムは,その黄金時代,17世紀の半ばから後半にかけての人口はおよそ20万人と推計されている。その後,英仏に追い上げられて衰退していくが,19世紀初頭にもほぼ同程度の人口を維持していた。ところが,産業革命が及び,20世紀初頭には,人口は2.5倍となり,50万人に膨れ上がるのである。流入する労働者の住宅が不足し,過密住宅,衛生悪化,コレラ流行など深刻な住宅問題,都市問題が起こったのは他のヨーロッパ都市同様である。

オランダ政府が逸早く制定したのは,「住宅法」1901)である。自治体は建築条例を制定し,不良住宅を撤去する権限を得た。人口1万人以上の都市には都市拡張計画の策定義務が課された。当時のヨーロッパで最も進んだ諸政策とされる。さらに,国が低利融資をし,労働者住宅を建設する非営利団体の住宅協会制度が創設された。これがオランダ社会住宅制度の起源となるが,アムステルダムでは,1901年以降,社会住宅が大量に建設された。この建設に関わったのがアムステルダム・スクールの建築家たちである。

アムステルダム・スクールは,その建築理念や理論についてのマニフェストを掲げたグループではない。その名は,ベルラーヘの還暦記念論文集『ベルラーヘ博士とその作品』(1916)で初めて用いられる。中心的指導者もいないとされるが,実質的に主導したのはクレルクであり,クラマー (1881~1961)である。他に,「アムステルダム・スクール」を代表する「海運協会ビル」(1913~16)をクラマー,クレルクと設計したメイ,1918年に創刊した機関誌『ウェンディンヘン(転回)』の編集長を務めたH.ウェイデフェルト (1885~1987),ベルラーヘ事務所のJ.F.スタール(1879~1940),ベルラーヘと共同したことのあるJ.グラタマ(1877~1947)が中心人物としてあげられる。実は,クレルク,クラマーがそうであるように,「アムステルダム・スクール」に加わった建築家には,ピエール・カイペルス事務所出身者が多い。G.F.l.クロアCroix(1877~1923),N.ランスドルプ,J.M.ルートマン,P.フレイネルらかなりの数が参加している。

 図2-3③ 船の家  J.F.スタール パーク・ミーアウェイク ベルヘン      筆者撮影

「アムステルダム・スクール」の名前を国際的に知らしめることになったのはベルヘンの戸建住宅団地計画パーク・ミーアウェイクプロジェクトである(図2-3③)。スタールが組織し,クラマー,メイ,ブラーウの他,A.J.クロプホラー(1877~1923)とその妻M.スタール・クロポホラー(1891~1933)が参加している。そして,一連のアムステルダム市の公営住宅の設計が「アムステルダム・スクール」の代表作となる(図2-3④)。「アムステルダム・スクール」には,アムステルダム市公共事業局に勤める多くのイン・ハウスの建築家たちが参加している。その建築を特徴づけるのは,煉瓦造であり,個性的なファサード表現を基本としていることである。

オランダの近代建築については,日本の近代建築運動の嚆矢とされる「分離派建築会」の創設メンバーである堀口捨己(1895~1984)の『現代オランダ建築』(1924)がある。日本の近代建築の草創期を代表する堀口捨己が,同時代のオランダ建築の動向に大きな関心を寄せていたことは,当時の日本の建築界では,グロピウス,コルビュジェあるいはロシア構成主義への関心が支配的であったなかで,日本の近代建築史にとっても興味深い。『現代オランダ建築』には,アムステルダム・スクールの建築が豊富に取り上げられている。

デ・ステイル

雑誌『デ・ステイル』がライデンで創刊されるのは1917年である。P.モンドリアン(1872~1944),T.v.ドゥースブルフ (1883~1931),B.v.d.レック (1876~1958)が開始した総合芸術運動であり,画家,彫刻家らとともに,建築家が加わった。主な建築家には,J.J.P.アウト(1890~1963),R.ファン・ト・ ホフ (1887~1976), G.リートフェルト(1888~1964),C.v.エーステレン(1897~1981),J.ウィルスらがいる。

図2-3④ デ・ダヘラート・アムステルダム市営住宅 ミシェル・デ・クレルク    筆者撮影

「デ・ステイル」の造形理念の中核に置かれたのは,モンドリアンの「新造形主義」である。シンメトリー,自然の形態,自然色を排除し,青,赤,黄の三原色と無彩色(白,灰色,黒)の平面と直交する直線による構成のみを造形の基本とするその方法は,抽象的

図2-3⑤ シュレーダー邸 G.T. リートフェルト 1924              筆者撮影

な純粋造形論であり,必ずしも,建築の設計方法となるわけではない。それ故,「デ・ステイル」を代表する建築を挙げるのは難しいが,ドゥースブルフが「芸術家の家」(1923)と題する建築のイメージを描いている。あくまでもイメージに過ぎないが,このイメージを現実化したとされるのが,世界文化遺産に登録(2000)されたG.T. リートフェルト(1888~1964)の「シュレーダー邸」(1924)(図2-3⑤)である。小住宅が単独で登録されるのは珍しいが,近代建築史上のインパクトは大きかったということであろう。 

新即物主義-デ・アフト・エン・オプバウ

機関誌『デ・ステイル』は,1928年まで刊行され,グループはドースブルフの死(1931)まで続いたが,アウト,リートフェルトは,1920年に離脱している。また,モンドリアンも,ドゥースブルフが垂直と水平だけでなく,対角線を導入した要素主義(エレメンタリズム)を主張したことから,グループを脱退する(1925)。1920年代に入ると,オランダの建築家たちは,ワイマール期のドイツの建築家と同様,大きく「新即物(ノイエ・ザッハリッヒカイト)」すなわち機能主義,合理主義の方向へ傾斜していくことになる。その受け皿となったのが,ロッテルダムで,W.クロムホウト(1864~1940)の主唱によって,J.A.ブリンクマン(1902~1949)らに,J.J.P.アウト,エーステルンも加わって結成された「オプバウ (建設,構造)」である。エーステルンは,CIAMの議長を長年(1930~1947)にわたって務めた建築家である。

アムステルダムでは,1927年にB.メルケルバッハ (1901~1961),J.H.フローネヴェーへン (1901~59),J.ダイカー(1890~1935)らによって「デ・アフト (8)」が結成される。そして,2つのグループは1932年に合併して,「デ・アフト・エン・オプバウ」が結成される。

その主張は,「デ・アフトは非美学的であり,悲劇的であり,非ロマン主義的であり,非立体的である」「美しく建てることはできる。だがここしばらくは,劣悪なプランを誤魔化すファサード建築を建てるよりも,格好は悪いが機能的なものを建てるほうが遙かにましなのだ」という「デ・アフト」のマニフェストに端的に示されている。すなわち,様式建築を否定し,「アムステルダム・スクール」や「デ・ステイル」の造形主義,クラフトマンシップを否定し,機能主義,合理主義を全面的に打ち出すのである。「格好は悪いが機能的なもの」というのは謙遜である。「デ・アフト・エン・オプバウ」に結集した建築家たちは,「美しい」「機能的な」一群の建築を残している。

「デ・アフト・エン・オプバウ」すなわちオランダ近代建築を代表する建築とされるのがブリンクマンそしてレーンデル・ファン・デル・フルフト(1894~1936)によるロッテルダムの「ファン・ネレ工場」(1931)である。カーテンウォールの原理を大規模に活用し,外部に開放され,日光を利用して快適な労働環境を提供しており,戦間期のモダニズムかつ機能主義文化の象徴となった新しいタイプの工場の完成度を体現しているとして世界文化遺産に登録されている(2014)。

この「ファン・ネレ工場」の設計に携わったとされるのがマルト・スタム(1899~1986)である。ワイセンホーフ・ジードルングの住宅で知られるが,出展したキャンチレバー構造椅子の特許をめぐってミースv.d.ローエと争ったというエピソードも残している。さまざまな運動グループとつながりを持ったことが知られ,1922年にベルリンのマックス・タウト(1884~1967)の事務所に入所し,ドイツ工作連盟(1907~33)に関わ,その後バーゼルに移り,エル・リシツキー,ハンネス・マイヤーらによって1924年に結成された前衛建築グループ ABC に参加している。また,1928年の近代建築国際会議CIAMの創設にも関与し,ソ連に渡ってマグニトゴルスクなどの都市計画に関っている。

J.J.P.アウトは,デ・ステイル派の理論家として知られるが,造形理論に留まることなく,1918年にロッテルダム市の都市計画主任となり都市計画に関わりながら,建築家として多くの建築を設計している。近代集合住宅の先駆となるロッテルダムのフーク・ファン・ホランドの集合住宅(1924)やワイセンホフ・ジードルングの住宅(1927)など一連の低層集合住宅で知られる。W.グロピウスにも評価され,バウハウス叢書に『オランダの建築』(1926)を書いている。

「ロッテルダム・スクール」という呼称は当時あったわけではない。「デ・アフト」がロッテルダムを拠点としたこと,戦災を免れ,煉瓦造の建築が都市の骨格として残ったアムステルダムに対して,第二次世界大戦の空爆によって徹底的に破壊され,戦後,近代都市として生まれ変わったロッテルダムとの対比から,「デ・アフト・エン・オプバウ」に象徴されるモダニズム建築の流れを「ロッテルダム・スクール」と呼ぶようになるのである。

当時「デルフト・スクール」と呼ばれる,伝統的様式建築を基本とするグループも存在した。「オプバウ」の創立メンバーでありながら,転じたM.J.G.モリエールのような建築家もいる。

ベルラーヘ事務所に所属したことのある建築家にも,「アムステルダム・スクール」に加わったものもいれば,「ロッテルダム・スクール」に加わったものもいる。両派に与することなく,独立して設計活動を展開した建築家ももちろん存在する。そうした中にいるのがW.M.デュドック(1884~1974)である。デュドックは,アルクマールの士官候補学校(HBS),ブレダのロイヤルミリタリーアカデミー(KMA)に学んだ,すなわち軍隊でキャリアを積んだ土木技師である。1914年に退役し,ライデンで公共事業を担当,翌年ヒルフェルスムの土木技師に就任,以降,ヒルフェルスムのタウンプランナー,タウン・アーキテクトとして活動した。都市計画と建築を全体として適合させるべく,ヒルフェルスムの労働者住宅,学校などほとんどの公共建築をデュドックは設計した。代表作がヒルフェルスム市庁舎である。

新建設(ニーウ・バウウェン)ーチームX-構造主義

ネーデルラント王国は,第一次世界大戦は中立を維持したが,第二次世界大戦の勃発翌1940年5月のナチス・ドイツの空爆でロッテルダムは市中心部が消失,壊滅的被害を受けた。政府は降伏,女王とともにロンドンに亡命,全土は占領された。そして,太平洋戦争勃発によって東インドも日本軍に占領された(1942)。アムステルダムは,物理的戦災はほとんど受けなかったが,ユダヤ人迫害で8万人以上の市民が強制収容所に送られたことはよく知られる。

ロッテルダムの戦後復興については,ヴァン・トラールト市都市計画局長などによる提案が知られるが,建築家としてリードしたのは,ブリンクマン社を引き継いだファン・デン・ブローク・アンド・バケマ社(現ブロークバケマ)であり,アルド・ファン・アイク(1918~1999)である。

ファン・デン・ブローク(1898~1978)は,デルフト工科大学教授(1948~)となるが,デ・アフト・エン・オプバウを引き継ぐオランダの近代建築運動ニーウ・バウエン(新建設)の創始者として知られる。

J.B.バケマ (1914~1981)は,アムステルダム建築アカデミーでマルト・スタムに建築を学び,ロッテルダム以前に,アムステルダムの都市計画局に勤務している。チームXのメンバーであり,雑誌フォーラムの編集者としても知られる。2人が協働した作品にはロッテルダムのラインバーン(1953),デルフト工科大学講堂(1958~66),パンパス計画(1965)などがある。

アルド・ファン・アイクは,スイス連邦工科大学チューリッヒ校を1942年に卒業している。戦後まもなく1946~1950年,バケマ同様,アムステルダム市の都市開発部で「スペールプラーツ(子供の遊び場)」計画を担当した後,独立する。アムステルダムの孤児院「子供の家」(1960)が代表作とされる。彼もまた,チームXメンバーで雑誌「フォーラム」の編集委員(1959~1963,1967)をつとめた。また,アムステルダム建築アカデミー(1954~59),デルフト工科大学(1966~84)で教鞭をとった。

バケマそしてアイクにリードされるオランダの戦後建築は,CIAMの機能主義批判に向かう。アルド・ファン・アイクはその方向を「構造主義」と称した(Forum. 1959.07)。建築要素の単純な機能関係ではなく,基本的構成単位を積み重ねることで複合的かつ秩序だった全体性をつくり出す方法を問題とするのである。変化や成長のプロセスを許容しうるダイナミックな新陳代謝の構造を追求したのが日本のメタボリズム・グループであるが,オランダ構造主義の建築家とされるヘルマン・ヘルツベルハー (1932~)は,「構造主義はライフサイクルの長い構造物とライフサイクルの短い充填剤を区別する」というメイジャー・ストラクチャーとマイナー・ストラクチャーを分ける同様な主張していた。

OMA

アルド・ファン・アイクが「構造主義」を主張し, メタボリズム・グループが「新陳代謝」建築論を展開する一方,ロバート・ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』(1966)以降,1960年代後半から1970年代にかけて「ポストモダニズム建築」論が展開される。そうした中でレム・コールハウスRem Koolhaas(1944~)が設立したのがOMA(The Office for Metropolitan Architecture)(1975)である。

コールハウスはロッテルダムで生まれ,アムステルダムで育ったが,小説家,批評家,脚本家で父親の仕事に従って,8歳から11歳までジャカルダで暮らしている。19歳で新聞社につとめるが,1968年,24歳になってロンドンのAAスクールに入学する。母方の祖父ダーク・ルーゼンブルク(1887~1962)は,デルフト工科大学,エコール・ド・ボザールで学んだベルラーヘ事務所出身の建築家であり,その影響も大きかったのであろう。AAスクールを終えると,続いて,コーネル大学のO.M.ウンガ―ス (1926~ 2007)研究室(1972~),続いてピーター・アイゼンマン(1932~)が初代所長を務めた都市建築研究所IAUS(1967~)に学んでいる。そして,いきなりの独立である。3人の建築家と共同で,まもなくザハ・ハディド(1950~2016)が加わった(1977~1980)。

OMAという事務所名が示すのは,メトロポリスの建築をターゲットとするということである。コールハウスの名が建築界で最初に知られるようになったのは,均質なグリッド街区に分割されたマンハッタンがどのような原理で存在しているのかを読み解く『錯乱のニューヨーク』(1978)である。抽象的な概念や枠組みによって都市をとらえるのではなく,既に存在している都市空間で異質な機能が衝突し合いながら多様に展開される活動を捉える,その都市読解の方法は,形態の美学よりも活動の体系としてのプログラムを重視するその建築理論にも直接つながっている。近代建築が追求した純粋な建築形式から離れ,現代都市の複雑さをそのまま建築の内部に取り込もうとするのである。

図2-3⑥ エヂュカトリアム ユトレヒト  レム・コールハウス 1998

初期の作品として,ロッテルダムの「ダンスシアター」(1987)などが知られるが,P.ジョンソンが1989年キュレートしたニューヨーク近代美術館の『脱構築主義者の建築』展に,P.アイゼンマン(1932~),F.O.ゲーリー(1929~),ザハ・ハディド(1949~2016),C.ヒンメルブラウ(1942~)D.リベスキンド(1946~),B.チュミ(1944~)らとともに招待されることによって,コールハウスは,建築における「デコン派」の建築家と目されるようになる。コンストラクション(脱構築)は,ポストモダン,ポスト構造主義の哲学者ジャック・デリダ(1930~2004)の鍵概念である。P.ジョンソンがAT&Tビル(1984)でポストモダン建築を主導した建築家と言われるようになるのはこの展覧会を組織したことが大きい。

コールハウスは,上述のように,形態を弄ぶ建築家ではないが,90年代以降のグローバリゼーションの波に乗ることになった。ザハ・ハディドも含めて,OMAスクールは,世界中の都市開発プロジェクトにインヴァイトされるようになるのである。コールハウスには,その理論を具体化する建築として,閲覧,保存,情報検索,読書といった多様なプログラムの組み合わせを再構成する「シアトル中央図書館」(2004)がある。また,「中国中央電視台CCTV本部ビル」(2012)「ザ・ロッテルダム」(2013)のようなオフィスビルとは思えない作品がある。

スーパーダッチ

21世紀に入って,世界建築の最前線をリードする建築家たちは「スーパーダッチ」と呼ばれるようになる。OMA出身の建築家を中心にオランダ人建築家が世界各地で注目すべき建築を次々と実現していくのである。

MVRDVは,ヴィニー・マース(1959~),ヤコブ・ファン・ライス1964~),ナタリー・デ・フリース(1965~)によってロッテルダムを拠点として1993年に設立されたが,いまや300 人を超えるスタッフを擁し,上海,パリ,ベルリン,ニューヨークに支店を置いている。アムステルダムの 高齢者のための100戸の集合住宅「オクラホマ」(1997),ハノーヴァー万博オランダ館(2000)年で注目を浴びて以降,刺激的な作品を作り続けている。

MVRDVと同世代のベン・ファン・ベルケル(1957~)とカロリン・ボス(1959~)が設立した (1998~)は,アムステルダムを拠点に,オースティン(テキサス),ドバイ,フランクフルト,香港,メルボルン,上海に支社を置き,400人以上の所員を抱える。ベルケルはAAスクール,ボスはロンドン大で美術史を学んでいるが,コールハウスがAAスクール出身であることを思えば,21世紀の世界建築の最前線を形成する発信地はAAスクールであり,ロンドンと言えるかもしれない。「メビウス・ハウス (1998)」— 流動的な空間構成。「エラスムス橋 (ロッテルダム, 1996)」

デルフト工科大学出身のフランシーヌ・ホーベン(1955~)に率いられるMECANOO(1984~)は,デルフトに拠点を置き,オランダ,ヨーロッパを中心に活動するが,ロンドン,ニューヨーク,髙雄にも支社がある。デルフト工科大学は,歴史的にもオランダの建築教育の中心であり続けているが,優れたオランダ人建築家を輩出する拠点である。デルフト工科大学図書館

もうひとり,1950年代生まれのウィール・アレッツ(1955~)は,アイントホーフェン工科大学の出身であるが,理論家として知られ,著作も多い。プロフェッサー・アーキテクトとしてAAスクール(1988~1992)ベルラーヘ研究所所長(1995~2002),ベルリン芸術大学(2005~2012),イリノイ工科大学建築学部長(2012~2017)など 多くの大学で教鞭をとってきた。

BIGを設立したデンマークのビャルケ・インゲルス(1974~)もOMA出身である。 デンマーク王立美術院を経てカタルーニャ工科大学で建築を学んだ後,OMAを経て2001年に建築事務所PLOTarchitectsを設立,そして2005年にBGMを設立した。コペンハウス郊外のVM Houses(2008)で注目されて以降,数多くの国際設計コンペで勝利し,2012年に拠点を移した。今や500人以上のスタッフを抱える国際的組織となっている。トヨタ自動車が裾野市(静岡県)の東富士工場を閉鎖した跡地に建設予定の実験都市ウーブン・シティ中の都市設計をBIGが行うことが発表されている(2021)。

「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」(2002)のコンペ(1995)で勝利したFAOは,ファシッド・ムサヴィ(1965~)とアレハンドロ・ザエラ・ポ(1963~)の二人のユニットであったが,ポロもOMA出身であった。1998年にOMAに入所した重松象平(1973~)は,ニューヨーク事務所代表である。

 人口約1760万人の小国であるにも関わらず,世界的に著名な建築家を輩出する基盤となっているのは,国土計画,住宅政策,自治体の都市計画にしっかり建築家が位置付けられてきた歴史があるからである。国土計画―都市計画―社会住宅計画が一体的に進められる体制があるからである。

 第一に,オランダが「低地(ネーデルラント)」であることが大きい。アムステルダムのスキポール空港が海抜以下(-3m)に位置するように,国土の多くは干拓地,低地であり,治水,防災のための国土計画が大前提となる。ライン川,マース川,スヘルデ川の河口に形作られた三角州は建国以来洪水に悩まされてきた。オランダ中央部の治水対策は,ゾイデル海開発でアフシュライトダイクの建設(1933)で一定進んでいたが,1953年に北海沿岸で発生した大洪水で大きな被害を受けた。それを契機として作成されたのがデルタ計画である。ライン川とマース川の河口三角州の治水対策が計画され,1997年に13箇所の治水構造物の建設計画が全て完工している,建築家が,この治水計画を前提として,都市計画,土木計画,ランドスケープ計画を統合的に考えることが求められるのは当然であるが,国土計画について分野を超えたアドヴァイザリー・ボードが国のレヴェルにあることも大きい。

第二に,オランダが社会住宅(ソーシャルハウジング)国家であるということがある。1901年の住宅法によって,公共住宅建設,住宅協会制度などが設けられ,建築家の設計参加が制度化されたことが大きい。アムステルダム・スクールが実にユニークな集合住宅を設計することが出来たのは住宅法の制定による。20世紀前半には,都市住宅の30〜40%が社会住宅となるが,この制度が若い建築家に大量の設計機会を与えるのである。

 第三に,オランダでは公共建築の設計者の多くは設計競技(コンペ)によって決定されるということがある。オランダ建築家団体BNAがその方針を堅持しているのも大きい。若手建築家も公共建築の設計するチャンスを与えることで,時代に流れに即応する新しい建築のあり方を実現する仕組みがある。王立英国建築家協会RIBAをはじめ,世界中の建築家協会が,建築家と言えども事業者である,業務独占は認められないというなかで,建築家の役割を認めてきているのである。

 そして第四に,デルフト工科大学を中心とする教育システムがある。建築,都市,景観…を統合して教育する伝統が維持されていることである。デルフト工科大学は世界最大級の建築学部である。そして,オランダには国家建築顧問制度がある。国家建築の質を監督,建築文化を推進する機能を担っているのである。ヨーロッパでもユニークである。

そして第五に,オランダは,都市国家の伝統を維持し,分散的自治組織が機能していることがある。オランダの都市の人口(2023)は,首都アムステルダム93.5万人,ロッテルダム67.1万人,デン・ハーグ50.6万人,ユトレヒト37.4万人,アイントホーフェン24.7万人である。各都市自治体で,建築家,大学,行政,デベロッパーが一体的に都市計画を推進していく,そういう仕組みが出来上がっているのである。

主要参考文献

堀口捨巳(1924)『現代オランダ建築』岩波書店

J.J.P. OUD(1926)“Holländische Architektur”,Bauhausbücher

Singelenberg, Pieter (1972): H.P. Berlage. Idea and style. The quest for modern architecture, Utrecht, Haentjens Dekker & Gumbert

Kohlenbach (1991): H.P. Berlage: Schriften zur Architektur, Birkhäuser Basel.

Molema, Jan (1996) “The New Movement in the Netherlands 1924-1936”, 010 Publishers.

Hendrik Berlage (1996): Hendrik Petrus Berlage: Thoughts on Style, 1886-1909 (Texts & Documents), The Getty Center For The History Of Art.

Oers, Ron van (2000) ‘Dutch town planning overseas during VOC and WIC rule (1600-1800), Walburg Pers.

Sergio Polano, Giovanni Fanelli, Vincent Van Rossem (2002) : Hendrik Petrus Berlage, Phaidon Press.

宇田直史(2011)『H.P.ベルラーヘの建築理念と意匠的特質に関する研究』学位請求論文(早稲田大学)。

Francis Strauven(1998),“ Aldo van Eyck: The Shape of RelativityAldo van Eyck, “Het Verhaal van een Andere Gedachte” (The Story of Another Idea), with the principle “Aesthetics of Number”, in Forum 7/1959, Amsterdam-Hilversum.

The editorial team for the magazine Forum 7/1959-3/1963 and July/1967 existed of Aldo van Eyck, Herman Hertzberger, Jacob Bakema et al.

Herman Hertzberger(1991), Lessons for Students in Architecture, Rotterdam 1991-No.1, 2000-No.2, 2008-No.3. Definition by Herman Hertzberger: “Structuralism deals with the difference of a structure with a long life-cycle and infills with shorter life-cycles.”

Hans Ibelings(2003),SuperDutch: New Architecture in the Netherlands

W. Curtis, Modern Architecture Since 1900

SLAB – Global Criticism of Architecture & City & Housing

全体企画 青井哲人

建築の世界近代史 —— 世界を建設した力

AFプロダクション=編著

A=青井哲人/F=布野修司

目次案

序 「世界」をつくったのは誰か ── 帝国と国民国家(A) Mサイズ 12pp

         近代世界システム、脱植民地化の4波、大小「世界」の乱反射、統治を伴わない影響・・・

1 まず私たちの視野を広げよう Lサイズ 18pp

    1 日本近代建築史を世界史のなかへ(A)

            ── 改革 restoration・膨張 expansion・爛熟 involusion 

2 世界に押し広げられる「建築の近代」 Lサイズ 18pp✕5=90pp

    1 産業革命と帝国のデザイン ── イギリス(F)

    2 普遍性の帝国 ── フランス(A)

    3 国際性と土着性の近代 ── オランダ(F)

    4 産業政策とロマン主義 ── ドイツ(A)

    5 計画の帝国 ── ロシア/ソヴィエト(A)

    インタールード:ハウジング近代史への展望 遍く/偏る(岡部明子)Sサイズ

3 独立してゆく国々を主語とする新たな物語  Mサイズ 12pp✕9=108pp

    1 地中海的なものとフランスのレガシー ── マグレブ(F)

    2 「アフリカの内側」の著しい多様性 ── サブサハラ(F)

    3 イスラームと近代建築 ── 西アジア(F)

    4 スラブ世界とソヴィエトの影響(A→諸喜田)

    5 英国のレガシーとインド性 ── 南アジア(F)

    6 共通性の高さと複雑なアイデンティティ ── 東アジア(A)

    7 重層性の上の色鮮やかな近代 ── 東南アジア(F)

    8 コモンウェルズの果てで ── オセアニア(F→安藤)

    9 ラテンアメリカの近代建築 ── ラテン・アメリカ(F)

    インタールード:辺境的近代建築の骨と色(伊藤暁・福島加津也)Sサイズ

4 物語の破壊/破壊の物語  Lサイズ 18pp✕4=72pp

    1 文化帝国あるいは道化としてのUSA — 20世紀後半の栄華と凋落(江本弘)

    2 MOMA史観のすきま 南欧・中欧(A)

    3 中国の台頭とかげり(市川紘司)

    4 2025年の世界(A)

あとがき(F+A)

原稿ヴォリューム

Sサイズ 4pp✕850字=3,400字 図版4点(6pp)✕2=12pp

Mサイズ 12pp✕850字=10,000字 図版4点(14pp)✕10=140pp

Lサイズ 18pp✕850字=15,000字 図版6点(21pp)✕10=210pp

全362pp+他20pp 384pp(図版108点)

投稿の編集 “低地・社会住宅・スーパーダッチ” ‹ SLAB — WordPress

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