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「戦後建築ジャーナリズムの来し方・行く末」
田尻裕彦インタビュー
近代の呪縛に放て
インタビュアー:布野修司+浅古陽介 記録:佐藤俊宏
第1回2021年4月19日 第2回2021年5月24日
田尻裕彦(たじりひろよし)略歴
1931年 神戸市灘区生まれ
1937年 神戸市長田小学校に入学
1年3学期より台湾基隆(キールン)市双葉小学校に転校
1940年 横浜市栗田谷小学校に転校
1942年 横浜市斎藤分国民学校を卒業
1943年 旧制浅野綜合中学校(現浅野中学校・高等学校)入学
1945年 横浜市から佐賀市へ疎開し母の実家に寄宿。
1946年 旧制龍谷中学校に転校即動員。戸上電機で機関砲の薬莢再生。
陸軍で陣地構築・敵陣切込み演習。
1948年 旧制龍谷中学校5年最後の卒業
1949年 新制龍谷高等学校3年最初の卒業
1949年 新制早稲田大学文学部ロシア文学科入学(中退)
1960年 東雲堂出版,自動車新聞社を経て彰国社入社 月刊『建築文化』編集部に配属:月刊『建築の技術 施工』(1966~2001)創刊編集長(1966~70)月刊『建築文化』(1946~2004)編集長(1971~77,1983~88)
2006年 彰国社退社
2023年6月30日 死去
序 戦後建築ジャーナリズム再考
布野:今回,田尻さんにお話をお伺いしたいと思ったのは,ひとつには『私家版 新 田尻家譜』現代編ノート1という冊子(A)を送っていただいたということがあります。
田尻:『田尻家譜』そのものは,親類のほかには差し上げておりません。布野さんには今度差し上げます。
布野:もうひとつは,今日図録をもってきたんですけど,『編集者 宮内嘉久―建築ジャーナリズムの戦後と,廃墟からの想像力』という展覧会(2021年3月22日~5月1日)が京都工業繊維大学の「美術工芸資料館」で開かれたということがあります。この展覧会には,宮内嘉久さんが2009年に亡くなったあと,奥様の貴美子さんが資料一式を,宮内さんと親しかった編集者の藤原千晴さんを通じて松隈洋さんが館長を務めている「美術工芸資料館」に預けられていたという経緯があります。そして,この資料を素地として,福井駿さんという若い大学院生が三宅拓也助教と共に『編集者宮内嘉久の思想と実践について』(B)という修士論文を書いたという経緯があります。実は,この修論のために,僕は福井さんのインタビューを昨年(2020年)暮れに受けたんです(C)。
田尻さんは知らなかったかもしれませんね,宮内嘉久さんの構想で,結局は僕が潰してしまったということになってしまった『地平線』という幻の雑誌があったんです。福井さんはそのことも知っていてびっくりしたんですが,彼は,宮内さんが残された資料を細かいところまで非常によく目を通してるんです。その宮内VS布野の対立に関しては,僕は当時『建築文化』1978年10月号に掲載した「自立メディア幻想の彼方に」という表題の文章に書いています。
さらに,平良敬一さんは昨年(2020年4月)亡くなりましたが,コロナのせいもあってお別れの会は行われていないということがあります。しかし,編集者宮内嘉久の仕事が振り返られるのに先立って,楠田博子さんという若い編集者(青幻社)が,やはり修士論文(東北大学)で『戦後建築雑誌における編集者・平良敬一の研究— 機能主義を超えるもの” の変遷と実践―』(D)という平良敬一論を書いています。
田尻:宮内さんの展覧会は京都大学でやっていたんですか?
布野:京都工芸繊維大学です。あそこに美術資料館があるんです。配属の教員もいて資料を収集して展覧会もやっている。貴重ですね。
田尻:これが宮内さんの展覧会のパンフレットですね。
布野:送ってきましたか?
田尻:これは見てはいましたが。読んではいませんでした。亡くなった宮内さんのご家族のことも僕はほとんど知らない。
布野:田尻さんはもちろん出席しておられたけど,宮内嘉久さんのお別れの会があった,2010年でしたね。あんまり大勢じゃなかったけど,大谷幸夫先生は車椅子で来ておられましたね。
田尻 そう,あのとき僕は,車椅子の前に跪くような姿勢で大谷さんと話をしました。そして,以前に建築家協会の会館での数人の会合の席で,大谷さんが「宮内は建築界のブラックホールだ。ひたすらエネルギーを吸い取っている」と発言されたことがありましたよね,と言ったらニコッと笑われました。旧制高校時代からの先輩・後輩という遠慮会釈ない間柄での率直なご意見として記憶しておりました。この宮内さんの会から幾ばくも経ずして残念ながら大谷さんも亡くなりましたよね。
布野 あの宮内さんの会の参会者では内藤廣さんと僕が一番若かった。僕は最後にスピーチをさせられて。「最後のメディアをやります」とか言わされちゃった。内藤さんがそのことをブログか何かに書いていたけど,平良さんもいらっしゃった。
田尻:布野さんは,平良さんに言われたんだよね。最後の雑誌をひとりでもやれって。
布野:そうなんです。それは平良敬一建築論集『機能主義を超えるもの』(D)の出版記念会の時ですね。どうすればいいですかね。あの時は,一人ずつ呼ばれたんですよ。皆がガヤガヤやってるときに。それで「お前はとにかく一人でもやれ」って言われたんです。
田尻:平良さんはね,僕は時々お会いするぐらいだったけど・・・会う度にね,一足先に行く身体の故障の話をされるわけですよ。平良さんが今度はこれが悪いと言われるとね,しばらくすると,僕もそうなる (笑)。最初は前立腺ガンでしたが,これは注射と放射線の投与で何年かかかりましたが,今はほぼ消えています。血液検査の数値が0.0002といった低位になってそれが続くと,後は様子見です。完治の判断はありませんが,僕の場合,何年かに一度ついでに血液検査をする程度に収まっています。お次が膀胱ガンでした。これも平良さんの後追いですが,前立腺からの転移ではなくてよかったねというのが医師の言葉でした。先の宮内さんのお別れ会では,平良さんが補聴器を付けたり外したりして難聴にいらついておられましたが,今はそれも当方のいらつきの一つです。2017年でしたね,あの会は・・・・・・。
布野:このインタビューを新しいメディアを考える出発点にしようというつもりがあって,どうすればいいのかを含めて,田尻さんにまず聞きたいと思ったんです。そしたら,絶妙のタイミングで手紙が来た。今日は,田尻さんの仕事をはじめから振り返りたい。
なんといっても,田尻さんは僕に最初に建築評論を書かせた編集者です。白井晟一の「サンタキアラ館」(茨木キリスト教短大)。一緒に見学に行って,和木通さんが写真を撮ってた。「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた量塊,サンタキアラ館をみて」(『建築文化』,197501)というのを悠木一也名で書いた。そしたら,白井晟一さんに気に入られて,5万円もする『白井晟一作品集』(中央公論社)を頂いた。田尻さんと一緒に白井邸の「虚白庵」に伺ったの覚えてますか。
田尻:覚えてますよ。
布野:当時,僕は25,6歳ですよ。海のものとも山のものともわからない大学院生によく書かせたなあ,と思うんですが,当時の建築雑誌は,若い人に書かせる,そういう機能ももってたんですよね。
平良さんと宮内さんを比べると,宮内さんは『廃墟から』という個人誌に行き着くんですよね。編集者じゃなかったのかもしれない。自分で本も書くし。自分が気に入らないと喧嘩する人だった。その一方で,「前川國男大明神」というようなところもあった。前川は自分しか理解できない,前川のことはすべて自分を通せっというようなところがあった。「同時代建築研究」で前川さんに会う時には宮内嘉久さんにセットしてもらったんです。松隈洋さんが,前川さんの最後の展覧会やるときに関係者から嘉久さんを外したら文句を言われて困ったそうです。平良さんはどういう編集者だったと思いますか?
布野:筋が通っていて,それでずーっとやってきた,という意味ですか。
田尻:そうね。
田尻:嘉久さんは,僕はあんまり認めないなー。いろんな建前を言いながら,必ずしもそうじゃないんじゃないか,という感じかな。
布野:『地平線』の時に決裂したのは,僕も違和感があったからなんですね。メディアに関する考え方も,スポンサーのお金が前提でした。恰好付けマンでした。飲み屋でお新香頼んだらイナカモンと言われたことがあります。それと,前川さんを囲い込んでた。
田尻:編集者の仕事として認めがたいところがなくはなかったかな。
布野:何冊か本を書いてきたし,建築評論家だったんだと思います。編集者というより。書き続け,発信し続ける意味を重視し続けた。福井君の修士論文は,宮内さんの生き方に好意的なんです。逆に,楠本博子さんの修士論文は,平良さんは一貫性がない,編集長だった雑誌の『SD』や『住宅建築』にしても扱うテーマは様々だというトーンですね。まあ,歴史的評価というのは後の世代に属すわけですけどね。
田尻 平良さんの場合は, 2誌だけじゃなく,いろんな雑誌を手掛けられましたから「扱うテーマは様々」と感じるところもあったかもしれませんが,根底に揺るぎはなかったことは,最後に平良敬一建築論集として風土社から出版された著書『機能主義を超えるもの』を読めば,その底辺での揺るぎなさがわかるのではと思います。
布野 立松(久昌)[1]さんはどうですか?宮内さんと「建築ジャーナリズム研究所」を立ち上げるし,平良さんの建築思潮研究所の『住宅建築』創刊にも参加するわけですよね。101号から200号まで『住宅建築』を100号編集したんですよね。
田尻:下手するとこっちまで巻き込まれそうなこともあったよ。
布野:立松さんの後,植久哲男さんが100号やるんですよね。津端宏さんがいて(建築思潮研究所代表),田中(須美子)さん,今の編集長の小泉淳子さんはいつからかなあ。小泉さんには,『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』(建築史料研究所,2000年)の編集をしてもらったんです。若い編集者は怒鳴られてたけれど,僕は,立松さんには随分かわいがってもらった記憶だけなんですけどね。本を一冊(『家づくりの極意 居心地のいい住まいの設計術』建築資料研究社,2000年)残してますね。
田尻:立松には,初め胡麻化されるような処がみなさんあったかも知れないね。派手に,いろいろやったりしたからなあ。
布野:小沢昭一的だった。江戸弁で。麻布高校なんですよね。
[1] 立松久昌1931年東京生れ。1955年早稲田大学文学部卒業。彰国社勤務を経て,1964年立松編集事務所設立,『国際建築』『建築年鑑』の編集に携わる。1975年『住宅建築』(建築史料研究社)創刊に参加。1983~1991年編集長。以後同誌顧問。1986年『すまいろん』(住宅総合研究財団)編集委員。立松久昌(2000)『家づくりの極意』建築史料研究社。2003年9月14日逝去。
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